二十七 八重の葬儀

文字数 2,528文字

 弥生(三月)十日。晴れの明け六ツ半(午前七時)。
 二十一歳の八重は、奥座敷の褥に身を横たえて打ち覆いをかけられていた。
 八重の横に座っている菊之助は、八重が死んだのはわかるが理解できなかった。意識も記憶も全てが霧がかかったように真っ白で、何が起こり、どうしていいか、まったく見当もつかなかった。

 主菊之助の大切な妻の八重が亡くなった。八重の死を受け入れるまで、菊之助の意識と心は悲しみの大波に襲われる・・・。すぐには悲しみは消えやしない・・・・。時をかけるしかない・・・。大番頭の直吉も、番頭の平助も、放心しきった主の菊之助をそのままにしておいた。

 暮れ六ツ(午後六時)過ぎ。
 麻の父、大工の八吉が、身の丈がある八重の身体に合わせた棺桶を加賀屋に届けた。あまりに手際が良かったが、誰もその事に疑問を持たなかった。
 日が落ちると、近隣の者たちがお悔やみを述べに加賀屋を訪れた。客の相手は大番頭の直吉と番頭の平助が行なった。加代たち下女は、優しかった女将の八重が亡くなったのを悲しんでいる暇もなく、お悔やみを述べる客たちに茶菓を出すので忙しかった。菊之助にお悔やみを述べる客や念仏や般若経を唱える客に対して、菊之助は褥に身を横たえた八重の横に座って放心したままだった。

 翌日。弥生(三月)十一日。快晴の昼四ツ半(午前十一時)。
 葬儀が始った。
 菩提寺の丈庵住職が八重の枕元で読経し、その横に菊之助は座っていた。菊之助の頭の中は真っ白で、見るもの、聞くもの、全てが菊之助の意識と心をすり抜けていった。

 一時ほどで葬儀が終わった。
 八重は棺桶に納められ、菊之助は大番頭の直吉に導かれるままに棺桶に蓋をして蓋に釘を打った。この時になって菊之助の目から大粒の涙が八重を納めた棺桶の蓋にこぼれた。涙は止めどなく流れて菊之助は嗚咽した。
 菩提寺の丈庵も、大番頭の直吉も、番頭の平助も加代も、奉公人も、誰一人として菊之助を慰めなかった。
『泣くだけ泣けばいい。泣けば、最愛の妻を亡くした悲しみが涙とともに流れ去って、菊之助の心が癒やされる・・・』
 そう思って皆が、棺桶の蓋に突っ伏して泣き崩れる菊之助を優しく見守った。丈庵住職は棺桶と菊之助の横で静かに読経した。
 その後、棺桶は大八車に乗せられ、葬列は湯島の円満寺へ向かった。


 翌日未明。弥生(三月)十二日。夜九ツ半(午前一時)。
 星明かりの下で、木村玄太郎と八吉は鋤と鍬を使って、墳墓の盛りあがった土を取り除いた。さらに掘ると、杉の板が現われた。棺桶の蓋だ。
 玄太郎と八吉は棺桶の周りの土を除け、釘付けされた蓋を外した。中に、八重に扮した佐恵が膝を抱えるようにして座っている。佐恵を外へ出して、代わりに土嚢を積めて蓋を釘付けし、土をかけて元の盛りあがった墳墓にした。
 多恵之介に扮した八重と麻は佐恵を抱きかかえて薬を飲ませ、皆で佐恵を大八車に乗せて体を横にして筵を掛け、円福寺へ運んだ。

「さ、こちらに・・・」
 丈庵住職の指示で、庫裡の横の奥まった座敷の褥に佐恵を寝かせた。
 丈庵は湯の入った手桶を持ってきた。
「薬を飲ませましたか」
「はい。飲ませました」
 八重と麻は佐恵の身体を起こした。
「では湯で手足を暖めましょう。身体をさすってください」
 佐恵を座らせて足と手を湯に浸けて暖め身体をさすった。


 四半時もすると、佐恵の手と腕と足と脚に血の気がさして身体が動きはじめた。佐恵が呼吸をはじめた。生き返った。
 八重と麻は、佐恵を褥に座らせて島田髷を総髪茶筅に結い直した。

「これからが正念場です。
 佐恵はひと月余りここで養生し、その後、ここから事を成すように動いてください。
 丈庵殿。打ち合わせ通りにお願いいたします」
 八重は麻と木村玄太郎と八吉とともに畳に手をついて、丈庵住職に深々と御辞儀した。
「わかりました。打ち合わせどおり、拙僧が佐恵さんと八重さんを預かりますゆえ、御安心ください」
 丈庵住職は、八重と佐恵と麻、玄太郎と八吉にそう言った。
「他人に二人の身元を知られませぬか」
 麻と八吉は八重と佐恵の身を案じている。ここ円満寺にいる佐恵と八重の存在が他所に知れて加賀屋菊之助の耳に入れば、これまで練った謀が全て水の泡である。

「二人は若衆姿だ。佐恵は、まだ、お歯黒をしておらぬ。心配には及ばぬだろう」
 玄太郎は落ち着いている。
「加賀屋の者が墓参りに来るでしょうから、二人を見かけても、拙僧の遠縁の木村多恵之介だと話しておきましょう」
 と言う丈庵住職の言葉を補足するように、玄太郎が言った。
「佐恵が多恵に扮して口入れ屋の山王屋へ奉公するまでは、くれぐれも、二人揃って同じ場所に居てはならぬ。二人で動きまわるのも避けるのだ。加賀屋の内情は、私がお麻さんから聞いて知らせる」
「あいわかりました」
 佐恵が囁くようにそう答えた。まだ眠り薬が効いている。身体が目覚めていない。

 八重が言った。 
「では、義伯父上の八吉さんは、加賀屋の修繕を請け負っている頭領さんですから、お麻さんが加賀屋の仕立の仕事をできるよう、加賀屋に口を利いてください。
 そして、大工現場に斡旋された人足から、千住大橋南詰めの山王屋の様子と、与三郎に関係する北町奉行所の動きを、合わせて探ってください」
「まかせてくれ」と八吉。
「お麻さんは加賀屋の仕立物をなさって、店の内情を探ってください」
「わかったよ。まかせとくれ」
 皆がそれぞれの役割を納得した。

 これで丈庵住職も町医者竹原松月も謀の仲間だ。しかし、なぜ、丈庵住職はこの謀に荷担したのだろう。今回の謀を話した折、丈庵住職は、
『町医者竹原松月は北町奉行所の検視医、お役目の筋は他言無用と心得ています。
 今回の謀も、悪人を捕らえる、いわば、お役目の一つと考えて、全てを話して納得してもらうのが良いでしょう』
 と言って町医者竹原松月を納得させた、と話した。本当に町医者竹原松月が此度の謀を北町奉行所へ告げ口しないだろうか・・・。
 八重の心に不安が募った。

 その後。
 麻と八吉の探りで、加賀屋と口入れ屋の山王屋と、北町奉行所の動きに、これといった異変は無かった。麻は、父八吉の口利きで、加賀屋の呉服を仕立てるようになった。
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