文字数 11,402文字


 夏を体験している。
 期末テストが終わり、環や遥に誘われて遊びに出て。海水浴の帰りには身体から少しだけ潮の香りがしたり、空高く上がる花火を見ながら生暖かい夏の夜風を楽しんだり。
 そういった現実の夏とは異なる、かつての夏の夢を見ていた。
 夢の中でもやっぱり蝉はうるさくて。命が果てるまで全力で泣き続ける。
 やっぱり太陽は眩しくて。けれど不思議と汗が出ないから不思議だなと首を傾げる。
 現実と同じ点も、現実とはかけ離れた点もあって。そこにいるだけなら不可解だけれどどこか気持ちよさも感じられる世界として受け入れられた。
 そんな可能性もあっただろうに。
 この夢は、きっとぼくの記憶だ。夢は記憶の整理だとどこかの医者だか科学者だかが唱えているけれど、少なくともこの夢はそれに当てはまる。
 不快で、不可解で、けれど懐かしさだけは感じる顔がそこにはあった。
 夢の中のぼくの隣には、いなくなったはずの母親がいた。

 見たくない、目が早く覚めればいいのに。
 いくら願っても、夢の中ではぼくは何の力も持たないらしい。
 ぼくはただ、ふわふわ浮いたような視点にいて。幼いぼくが母親の運転する車に乗ってどこかへ向かっている光景を眺めているしかなかった。
 このぼくは、母親に連れられてどこに行こうとしているのだろう。
 ぼくが観測している以上、これはぼくの記憶なのだろう。けれどぼくには該当する思い出がない。少なくとも両親が蒸発してからというもの、こんな記憶を思い出したことはない。
 蝉が主張しているように、眩い太陽が熱くアピールしてくるように。
 彼らがいるのはきっと、いつかの夏なのだろうと類推できた。その推理を補強するのは、幼いぼくがタンクトップを着て、母親が肩の出たワンピースを着ている姿だった。
 そんな彼らをぼくは浮遊霊のように見ている。この記憶に十七歳のぼくが登場することはなく。十七歳のぼくの意識は徐々に薄れ、主人格は幼いぼくに移る。
 これは他人の声が聴こえない少年と、まだ子供を捨てない母親の夏の記録。
 ぼくが忘れてしまった夏の思い出。
 ぼくが忘れて閉まっておいた、とある夏の一ページだ。

 
 がたがた、とたまに車体全体が揺れる衝撃にも、もう驚かなくなってきていた。それほどに車での母親との買い物は日常の一部と化していた。
 後部座席に座って妹の面倒を見ることもあったが、二人だけの買い物の時には助手席に座らせてもらっていた。両親や親戚の誰かが座るイメージのこの席は後部座席からはたいそう特別に見えたので、助手席に座ると少し誇らしい気持ちになれた。
 自慢の席に深々と座りながら、横目で運転席の母親を見る。
 今日はなぜか機嫌が良く、車のスピーカーから流れる音楽に合わせて鼻歌を奏でていた。この歌は誰が歌っているのだろう。ぼくはアーティストというものを全く知らないので答えは出ない。けれど、夏になると母親はいつも車でこの曲をかけている。
 夏の思い出は訊かれれば、プールや宿題と並んで、この曲と答えるだろう。
 その思い出には嬉しいも悲しいもなく。
 ただ純粋に母親との繋がりを確かめるように、ぼくはその歌を思い出すのだ。

 エンジン音が止まる。運転中は全くそのような様子はないが、駐停車となると母親はやたらと緊張するようだった。緊張が解かれ、母親の口から「もう出ていいよ」と声がかかる。少し照れ臭そうに放たれるその言葉が、ぼくは理由もなく好きだった。
 勢いよくドアを開き、目的のおもちゃ売り場に向かってデパートの中を駆け回る。一人で走り回ると母親が「こらっ」と手綱を締めるので、少し進んでは振り返って母親の顔を確認する。進んでは振り返り、進んでは振り返り。「本当に行っていいんだよね?」と確かめるように、少しずつ少しずつ目的地に近づいていくのが楽しかった。
 叱るでもなく、止めるでもなく。母親はただただ付いてきていた。
 おもちゃ売り場が視界に入るとさすがに我慢がきかなくなって、母親の制止も聞くことなく夢のような世界に飛び込んでいった。何回も訪れた店、何時間と眺めた陳列棚のはずだけれど、そのキラキラが薄れるようなことはない。
 店に入れば最初に向かう棚は決まっている。色んな商品に目移りしてしまって買ってもらうものを決めるのにはいつも時間がかかってしまうが、結局いつもこの棚から選んでいるような気がする。ぼくの夢が詰まった棚、ぼくの憧れが並ぶ棚。
 そこにあるのはヒーローのおもちゃや武器、変身ベルト。
 男の子なら誰しもが憧れていておかしくない、朝にやっている特撮ヒーロー。その関連商品にしようか、別のものにしようか迷ったけれど、今日もヒーローのおもちゃを買ってもらった。「同じようなものがあるでしょ」と母親は若干抵抗感を示していたが「それでもいいの」とぼくが言うと諦めて買ってくれた。
 商品をレジに持っていく背中を最後に母親の姿が薄れていく。母親だけでなく、デパートの風景も雑踏も、雑音も。誰の声も、聞こえなくなった。
 
 ヒーロー。強くて優しい彼らにぼくは憧れていた。
 怖い敵にも立ち向かい、負けることもあるけど最後には勝ってくれる。困っている人の頼みを素直に受けないこともあるけれど不器用な形で助けてくれる。
 ぼくにも伸ばされる手がある――三歳下の妹の小さな手。小さくて弱くてすぐに泣く。両親は「お前はあれより泣いていたぞ」なんて言うけれど絶対に嘘だ。ぼくはきっと妹よりずっと強かったに違いない。
 ぼくは妹の笑顔が好きだ。
 まだ小さくて色んなものが怖く映る妹は、よくぼくの手を握ってくる。彼女なりの力強さがぼくにはとてもか弱く感じられて、ぼくが優しく握り返すと妹が笑ってくれた。
 妹の笑顔が、ぼくを兄にしてくれた――ぼくをヒーローにしてくれた。
 夢の中、いつしかぼくは幼い少年時代のぼくそのものになって妹と手を繋ぎ、そしていつの間にか十七歳のぼくに戻っていた。
 この夢が本物の記憶かどうかはぼくに分からない。とうに置いてきたものだから。
 けれど、純粋な夢を抱いていた自分は本当だっただろう。そうであったと信じたい。
「お前は既に堕ちていて、偽物のヒーローにすら成れていない」
 そんな言葉が聴こえた。言い逃れできないほどに、ぼくの声だった。

 
 目が覚めると、ぼくは妹の手の代わりにタオルケットを握りしめていた。そんなものを握りしめてもヒーローにはなれないのに、と夢の中の自分とのギャップに苦笑する。
 ベッド上の時計を確認すると針は四時を指し示している。起きるにはやや早い時間かとも思ったが二度寝する気にもなれず、そのまま起きていることにする。
 体を起こし、上半身を大きく伸ばして身体をほぐす。
 頭は寝起きとは思えないほど冴えていて、夢の内容までばっちりと覚えている。とはいえ夢は夢でありすぐに忘れてしまう確信があったので、思い立ったが吉日、と行動を開始する。
 ベッドから降り、自室内のクローゼットをガサガサと漁る。
 窓の外では夢と変わらず蝉が鳴いている。カーテンが覆い切らない窓の端から爛々と輝く朝日が差し込み、今日も外は暑いんだろうな、と予感させるには十分すぎた。
 クーラーの効いた部屋でにもかかわらず、屋外の熱気に当てられて額に球の汗が浮かび始めた。外出する前にシャワーを浴びよう、と今日の予定を静かに決める。
 頭では別のことを考えつつも、手元は順調に目的の作業を続けているのだが、一向にターゲットとは遭遇しない。本当にあるのかと疑問を抱き始めたタイミングで、部屋のドアが優しく叩かれた。
「兄さん、起きてるんですか?」
「起きてるよ。入りなよ」
 パジャマ姿の咲良が入ってくる。ぼくと違って物音への配慮ができていて、扉の開け閉めで不必要なノイズはならなかった。我らが同居人である叔母さんの睡眠は異常なほどに深く多少の雑音では起きないので、配慮自体が不必要だったことは置いておくとしよう。
「おはよう。もしかして起こしちゃった?」
「いや、たまたま起きてたのでお気になさらず。兄さんはどうしてこんな時間から?」
「夢を見たんだ」
 母さんと買い物に行く夢、と付け足した言葉に咲良が息をのんだのが分かった。
 少なくとも、ぼく達にとっては不穏な存在なのだ。両親というものは。
「昔のことなんて覚えちゃいないんだけどさ、妙にリアリティがあって、ぼくが母さんと車に乗っておもちゃを買いに行ってたんだ。ヒーローのフィギュアだったかな」
「そう言われれば、あの家にはおもちゃがいくつもあったかもしれません」
「咲良はよく覚えているなあ……。ぼくは全然思い出せなくてさ、家の中で見つからないかなーと朝から元気に家探ししてたってわけ」
「あの家のものはほとんど何も持ってきていないと思いますが……」
 さいで。そういえば引っ越しに全然時間がかからなかった記憶がある。ぼくが珍しく熱心に働いた結果だと思っていたがどうやら荷物自体が少なかったらしい。
 となれば、ぼくの労働は無駄足だったらしい。クローゼット内の捜索をやめ、ベッドに背中を預けて、ふぅ、と一息つく。
「まあでも、あの人におもちゃを買ってもらってたのは本当なんだな……」
 好ましくない記憶を奥深くにしまっておくのが余程得意らしい。
「私が覚えているのはおもちゃがあったことだけですけど、アレってそういうものだったんですねえ。兄さんがお母さんと買い物に行ってたなんて、知りませんでした」
「あの人たちにもそういう時代があったってことさ」
「想像できませんねえ」
 両親が蒸発したのも、もう過去の話だ。好きこのんで話したりはしないが、今となってはぼくも咲良もあの頃の話題を笑ってすることくらいはできる。
「収穫ゼロではなかったけど、まあ手に入ったのは昔話のネタ程度か」
「誰に伝わるものでもないっていうのが歯痒いですね……」
「早起きできた分、咲良と多くの時間を過ごせるのが一番大きいと考えるか」
「兄さん……真っ直ぐに言われると、あの、恥ずかしいです……」
 小さい声で文句を言われたが、聞こえないフリをした。
 恥ずかしがる妹を愛でる、それも兄の特権なのだ。
「とりあえずシャワー浴びるよ。一緒に入る?」
「……………………」
 妹の沈黙を全身で受け止めるのも、兄の仕事なのだ。痛い沈黙だとしても。
「十時からは環たちと遊ぶけど……本当に来ないのか?」
「ええ、お友達の邪魔になっても悪いですし」
「気にしないと思うけど……まあ、無理にとは言わないよ」
 環や遥と出会って数か月、ぼくは未だに咲良を紹介できないでいる。タイミングを逃しているような気もするし、咲良に上手く躱されているような気もする。
 学校も違えば、年齢も違う。兄と近いステータスを持っているとはいえ、咲良にとっては知らない大人にも等しい。咲良が怯えて近づこうとしないのも頷ける。
 ぼくの誘いを断ったのが後ろめたかったのか、咲良が仄暗い表情を浮かべている。が、これはよろしくない。咲良にこんな表情をさせるために提案したわけではないのに。
「シャワーの時間を除いても集合時間までだいぶあるし……。夏休みだから朝から学校に行く必要もないし、たまにはのんびり贅沢とした朝食でも食べたいな」
「……フレンチトーストはどうですか?」
「おっけー、甘味たっぷりで作ろう。咲良も、手伝ってくれるか?」
「……はい!」
 ぱぁっと咲良の笑顔が咲いた。
 うん、やっぱり咲良には笑顔が似合う。

 
 八月ともなれば照り付ける夏の太陽もいよいよ本領発揮だ。太陽の切実な勤務姿勢に感心することはあれ歓迎することは、ほとんどない。
 一年前のぼくを振りかえってみれば、冷房の効いた部屋でだらしない姿を見せるぼくが三十一人。一日から三十一日までたっぷりと詰め込まれた夏休みは、無為な生活で無駄に消化され無感情なままに終わった。
 当然というか、咲良と過ごす時間は増えるのでその点でいえば十分価値あるものだったが、ぼくとして普通の休日となんら変わりはなかった。
 海に行くことも、山に行くこともなく。
 見慣れた部屋で特に興味もないテレビを眺めている休日でしかなかった。
 今年も特に予定はなく。去年と同じ生活を送るんだろう。
 そう思って、いたのだけれど。
 不思議なことに今年はスケジュールがぎっしりと埋まっている。一日たりとも空白はなく、遊ぶのが子供の仕事なら過剰労働に当たるんじゃないかと申し立てたい。
 申告を受理してくれるところがないので黙っているが。
 環は初めは照れ臭そうに、慣れてきたら半ば強引にスケジュールを合わせてきて。遥は環が立てた計画に勝手に乗っかる。見慣れた兄妹喧嘩が始まるのだが、ぼくが参加を決めるとすぐに収まるので不思議に思っていたのだが、上手く乗せられていたのだと気づいたのは八月の予定がすべて決まってからだった。
 ぼくにも咲良にも無縁の言葉だったので知らなかったが、追試というのは夏と冬の季語らしい。ただし、使えるのは一部の生徒に限られる。
 アラヤ教の件で試験前に動き過ぎたため一学期の期末テストはいつもほど奮わなかった。心血注いで努力しているわけでもないので構わないが。
 ちなみに遥は案外勉強ができる。金髪でガタイのいい人間がそんな個性を持っていていいのかと思うが、成績は奇跡の中の中。中の下ともいえない絶妙なライン。
 悲しい結果を迎えたのは環だ。試験前に泣きつかれたので助力したが、成果は空しく。夏の季語を使う権利を手に入れ、必死に詰め込んだスケジュールに空白ができた。
 じゃあのんびりするか、という遥の提案で無事に本物の休日を手に入れたわけだが。貴重な休みを愛すべき咲良に捧がない、などという選択はぼくにはなかった。
 環の犠牲によって生まれたミニマムな夏休みに咲良と遊びに出かける計画をいくつか入れ、ぼくの十七歳の夏休みの予定は完成した。
 それはもう、去年とは比べ物にならないほどに忙しく。
 去年と並べるのが烏滸がましいほどに充実していた。
 
 海水浴に行った。
 いわゆる観光名所でもなく、普段は海があるほかには何もないような砂浜が人で埋まっていた。寡聞にして知らなかったが、ぼく達の住む地域では例年の光景らしい。
 まるで特別な何かがそこにあるかのように、大勢の人が集まっていた。
 ぼくのように何もない、と判ずる人間もいれば、海がある、ということに価値を見出すことができる人間もいて。
 何がいいのか分からないな、と呟いた声が環に気づかれて、海に連れてこられたことに文句を言っているのだと、糾弾されるかと思ったのだが。
「友達とくることに意味があるんだよ!」と笑顔で返された。
 その懐の広さと、ぼくにはない価値観を受け入れることに一瞬だけ戸惑った。四月のぼくなら理解できないままだっただろうが、幸か不幸か、今のぼくには少しだけ理解できた。環という光に当てられて、ぼくも少しだけ前に進んでいたらしい。
 海に行って、友達の女子の水着姿が真っ直ぐに見れなくて意識してしまう。
 などというあまりにも純粋な青春の一ページを送れないほどにはぼくは屈折してしまっていて。環の見慣れない水着を見ても、咲良と行く予定のプールのことを考えていた。
 表情には出ていなかったはずなのだが環の水着に悩殺されていないことばかりか、咲良のことにまで考えが飛んでいたことまで遥に指摘された。エスパーかよ、と遥にツッコミを入れるぼくに刺さる紅一点の視線が痛かった。怒りの足刀が遥に飛んだことも含めて、流石に申し訳なかった。
 海の家で焼きそばとかき氷をごちそうすることで機嫌を直すという契約をとりつけることに成功し、ぼく達は夏の海を満喫した。
 浅瀬で水をかけ合い、砂浜で城を作り、ビーチバレーに全力を注ぎ、浮き輪に乗って遊覧している遥を浮き輪ごと転覆させた。
 ナンパに夏の思い出を賭けて生きる人間も海にはいて、環も何回か声を掛けられていた。そのたびにぼくを彼氏として紹介することで回避するものだから、告白を断った身としてはいたたまれなさとむず痒さを感じさせられていた。
 ぼく達男性陣はというと、ぼくは興味がなく、遥は勇気がなかった。実妹から「ナンパしてこい」と命令される兄を生まれて初めて見た。状況を自分に置き換えると身が震えた。ぼくなら泣きながらもやるだろう。
 でも、遥はやらなかった。
「思い出なら十分作れたろ」と照れながら呟いた言葉に心が温かくなった。
 真夏の太陽の下でも温かい、微熱の友情を確認し合った。

 山に登った。
 海水浴の翌日に。
 なぜそんな強行スケジュールなのかといえば意味はなく、発起人であるところの環に計画性がなかっただけの話だ。彼女の体力基準の計画だった、ということも考えられる。
 近場に適度な標高の山があるものだ、と予定を聞いている時には驚いたものだが、自分の体力を過大評価していた可能性を認めざるを得なかった。たとえベストコンディションだったとしても、頂上まで余裕を保ちながら登りきれた自信はない。
 自分の体力のなさをスケジューリングのせいにできれば気も楽だったが、我らのパーティーの紅一点が登頂途中の景色も楽しみつつ、平地と同じように会話してくる様子では、自身の日常での運動不足を嘆くしかない。
 環は楽々と、遥は悠々と、そしてぼくは足がガクガクとさせながら、山を登る。
 三者三様に、登頂途中の楽しみ方はそれぞれだった。
 ぼくのペースに合わせて休憩を挟んだり、情けないことに肩を支えてもらったり。
 苦難を乗り越え――主にぼくだが――辿り着いた山頂には感動があった。
 たとえ何千メートルの有名な山じゃないとしても、普段なら見ることのない、広大な自然が一望できる風景というのは、心の奥底に訴えかけてくるものがあった。
 夏の茹だるような暑さの中だとしても。
 紅葉のように、一瞥して目を見張る美しい景観がなかったとしても。
 登る価値が、ましてや価値に表せない感動がそこにはあったのだ。
 この感動にはきっと友達と一緒に登った、ということも含まれているのだと思う。汗を流し、情けない姿を見せ、支えてもらいながらも共に努力する姿を、友情と呼ぶのだろう。ぼくが言うと冷やかされるような気がするから、二人には黙っておくけど。
 山頂に着いて、急に開けた風景。顔に当たる強い風が心地良くて。
 汗を流して失った水分の代わりに飲む水筒のお茶がとても美味しくて。
 互いに持ち寄った近江家と遠藤家のお弁当をワイワイ言いながら食べていると、ぼくは生きているんだと当たり前のことが実感できた。
 景色と友情を楽しむ、ほんの僅かな隙間を縫って、今までの自分を見つめ直していた。
 ぼくは何を学んで、何を得て、何を咲良に与えられたんだろう。
 巨大な自然に触れ、小さな自分を振り返ると、ぼくの中には咲良しかなかった。
 あるのは何もない、何物でもない、あまりにも矮小な自分。
 虚無にも近いものを真っ直ぐ見つめすぎて、うっかり涙が零れそうになったけれど、きっとこれだって嬉し涙だ。自分になかったものを、咲良に伝えられる喜び。
 これを伝えれば咲良はどんな顔をするだろう。
 あれを教えれば咲良はどんな表情になるのだろう。
 色んな妄想をするだけで、ワクワクが止まらない。
 咲良に言葉と感情以外の愛を与えられるならば、それはなんと素晴らしいことだろう。
 それはきっと、昨日までのぼくにはできないこと。
 ぼくは、生を実感していた。
 新しい自分に生まれ変わるのを、実感していた。
 
 夏祭りに行った。
 祭りの人混みに揉まれることも出店で食べ歩きするのもはじめて。序盤から憔悴しきったぼくの手を引いて、エネルギー全開で駆け回る環の浴衣姿が眩しかった。
 黄色の浴衣が環に似合っていてとても魅力的で。
 また、いとも簡単そうに他人の手をとれる環が少し羨ましかった。
 ぼく達は、運悪く体調不良で参加できなかった遥の分も遊び尽くした。
 夏祭りと同時にこの町一番の花火大会が開かれる。というより花火大会がメインイベントなのだろうか。花火大会に付属する夏祭りなのか、夏祭りを契機とした花火大会なのか。ぼくは答えを持ち合わせていないけれど。
 行きあう人混みの中、ぼく達は空を見上げる。
 大きな音とともに宙に浮かぶ大輪の花。花火もまた、ぼくの夏から欠落して何年経っているのだろう。久々に見るその花の美しさに目を奪われた。
「きれいだね」と、環が言う。
 ぼく達が恋人同士なら恥ずかしい言葉でも返すのがマナーなのだろうが、なにぶんぼくは彼女の気持ちに応えなかった薄情者であり「そうだね」と返すしかなかった。
 花火で照らされる夜闇の中、暗くて見えにくかった環の姿が見えやすくなる。
 今日のために準備したという浴衣もまた一つの華であり、それを纏う彼女の髪型が普段とは違うことにようやく気付いた。
 今更言うのもどこか申し訳ないような気もして口を閉じていたが「何か言いたいことあるんじゃないの」とつつかれては折れるほかなかった。
 しょうもない意地で口は開かず、指で自分の頭部を指し示す。十分に意図は伝わったようだ、笑みを浮かべてはいる。だが、それでは満足できなかったのか「で?」と更に言葉を求められる。
「……似合ってるよ」と目を逸らしながら発した言葉にはなんとか満足してもらえたらしい。ぼくを導く細い腕が、ご機嫌に上下に揺れる。
 冷静に。あくまで冷静に遥を恨む。
 遥がいれば、環の魅力をこれほど真っ向から受け止めることはなかっただろう。こんなにも、環に翻弄され、見蕩れるようなことはなかっただろう。
 もしも、もしも環の告白に良い返事をしていたら、と妄想してしまう。
 あの時点では決してありえないし、今でも断るだろうと断言できる。
 だからこれは、誰かの話。ぼくではない、どこかの誰かの話だ。
 もし君が彼女に好かれるようなことがあれば、間違いなく良い返事を返そう。
 そしたら君はきっと幸せになれる。環は君を幸せにしようとしてくれるし、君もそれに応えたくなるはずだ。目の前にある幸せを、掴めばいい。
 真っ直ぐな好意はそれだけで相当なエネルギーだ。
 重いときもあるだろう。受け止めきれないときもあるだろう。
 だけど絶対に世界が変わる。状況は変化し、決断を余儀なくされる。
 差し出された手をとれば、君の世界は変わる。良い方向にも、悪い方向にも。
 少なくともぼく達は、自分自身を捧げる。ありったけの献身と愛を約束する。もしも君が望むのなら、世界だって敵に回してみせるだろう。
 だから、もしもの話。ぼくと環が互いを好きあっていたのなら。
 世界全てを壊していたかもしれない。或いは誰とも関わらず二人だけの世界に閉じこもっていたかもしれない。
 とどのつまり、ぼくと環は似た者同士なのだ。
 ぼくと教主とはまったく別のベクトルで。
 ぼく達は相手のために世界を壊し、常識を砕き、自分を折る。
 だからぼく達は重なり合うべきではない。自分のため、世界のため、そしてなにより自分が愛する相手のために。今のままの世界を続けていくべきだ。「きれいだね」に「そうだね」としか返さないような距離感で。
 現実に返れば、思い悩んだぼくの顔をみて環が首を傾げていた。ここで環に甘えればそれだけで世界は変わるだろう。けれどぼくは「大丈夫だよ」と虚勢を張る。
 自分勝手な、自分本位な自己防衛。
 良かった、と笑う環に切なさを見出す。叶わない恋心、未来の可能性に縋る女の子。
 きっとぼくも、傍からみれば随分と儚げにみえるのだろう。
 闇夜に散る大輪よりも、きっと。

 世界は動く。夏は続く。ぼくの人間性に関わりなく。
 何かに急かされているかのように、何かに焦っているかのように。夏という魔物に魅了されたぼく達は動き続け、遊び続けた。

 自分達だけで花火もした。
 今度は遥もきて、それだけで雰囲気が明るくなった。
 打ち上げ花火も良いが、線香花火も悪くない。

 環のバイト先に、遥と押し掛けた。
 ハンバーガーチェーン店の緑の制服が似合っていて可愛かったのだが、ひどく不機嫌そうな表情だったのだけが残念だ。
 ぼくの横で笑っている実兄は、対照的に最高に楽しそうだった。

 宿題に追われた。
 駆け込み寺のごとく遠藤家に集まり、協力プレーで時間短縮を図った。
 環だけは学年の違いで内容が違うので、ぼくと遥で助けながら進めた。悲しいことに一番時間がかかったが、教え方のせいだと信じたい。
 人生において夏休みの宿題で焦るなんて経験がなかったので貴重な経験ではあったが、スリリング過ぎて心臓に悪いのでもう二度とやりたくない。
 でもまあ、これも夏の醍醐味といえばそうなのだろう。
 
 家族と過ごす時間も、友達と過ごす時間も確保して、充実した日々を過ごす。
 人生で最も満ち足りた夏休みだった、と断言できる。
 教主との接触も夏休み前に会った以降は一度もなかった。積極的に関わっていかなければならない理由も別段見当たらないので、一度だけのイレギュラーとしてカウントすべきだろうか。
 かくして、ぼくの人生で最も満ち足りて、最も慌ただしかった夏休みは終わった。
 日は変わって、九月一日。
 カーテンを開ければ、昨日までと同じように太陽が意気揚々と熱気を放っていて。夏休みは終わっても、もうしばらくは残暑を感じていなければならないようだ。
 衣替えまでにはマシになってくれよ、と願いつつ朝食の準備をする。まず先に叔母さんの分を用意する。起きてから出勤までの時間が、叔母さんの動きは一番速い。
 珍しく咲良が起きてこないが、たまにはゆっくりするのもいいだろう。朝のニュースでも眺めながらのんびり待って、一緒に遅刻するのも幸せだから。
 ニュースを見ながら、自分の朝食も済ませた。ニュース番組からワイドショーに内容が移り変わるくらいになると自分の出席は半ば諦めたが、咲良が心配になる。
「咲良、起きてる? もしかして体調悪いのか? もししんどいなら言ってよ、ぼくいくらでも学校休むし、そばにいるよ」
 返事はない。布が擦れる音や、人の足音は聴こえるから寝ているわけではない。
「咲良、どうしたの? ……部屋、入るよ?」
 返事はない。押して開けようとするも、扉は僅かに隙間を覗かせただけだった。扉の向こうの、何かが邪魔をしている抵抗感――それは明確な、拒絶だった。
「……………………咲良?」
 返事は、なかった。
 聞き慣れた声での返事はなく、咲良の心の声は当然聴こえない。
 外側から開けないような状況を作ったことからみて、咲良の意思は明白だ。
 けれど、ぼくは希望を捨てきれなくて、一日中咲良の部屋の前にいた。
 始業式から休んだことで、環や遥から連絡があったが、応対する余裕はない。
 結局、ぼくが自室に戻るまで咲良に動きはなく。叔母さんが帰ってきて、咲良と二言三言会話を交わして、ぼくがその場にいないことを確認してから僅かに行動した。
 認めたくないけれど、信じたくないけれど、事実はこうだ。
 九月一日、ぼくの妹は部屋から出てこなくなった――理由は、どうやらぼくにあるらしい。
 ベッドに仰向けになり、天井を見つめながら考える。
 ぼくは咲良に、何をしてやれるのだろうか。
 十七年間、咲良のことを考え続けてきた。けれど、咲良に拒絶された時のことは考えていなかった。ぼくが何かしてもマイナスにしかならないのではないか。
 いっそ、ぼくが消えた方が、咲良のためになるのではないか。
 咲良がいないのなら、ぼくなんて生きていても、なにも、ない。
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