ぼける

文字数 1,997文字

 五十五で役職定年となった。手当は全てカット。基本給も毎年一定の割合で減らされていく。人生百年時代、定年は六十五。延長雇用で七十まで働ける、なんて会社は言うけど、六十で新入社員並みの給料になる。六十五だとバイト以下。早く辞めろってこと。そんな頃に母から電話があった、癌になったと。そして最初の手術で母が入院した時、父に認知症の症状が出た。一人で家にいる孤独に耐えられなかった様子。それを聞いて私は会社を辞めた。そして実家に戻った。

 我慢と忍耐の日々。まだたった二か月だけど、この父の相手はもう限界、と思い始めてる。母はいない。私が戻った途端、安心したかのようにあっけなく逝ってしまった。お父さんをよろしくね、私が聞いた最後の母の言葉。
 母の葬儀の日に父の認知症は一気に悪化した。
「母さんはどこだ」
と、火葬場で母の骨を拾いながらそう言う父。私の涙が止まった。
 食べたばかりの食事を覚えていない、なんて話を聞いたけど、それはほんとのことだったと知る。通院している病院から連れ帰った玄関から上がって来ない父。
「どうしたの?」
と聞くと、
「病院行くんだろ、早くしろ」
と返ってくる。何かにつけ何度も同じことをしようとしたり聞いてきたりする。根気よく説明すると納得するけれど、次の瞬間忘れてる。なので同じ会話を繰り返す。
「行ったでしょ」
「やったでしょ」
「食べたでしょ」
「明日でしょ」
「だから、さっきそう言ったでしょ!」
そのうち声が大きくなってしまう。
 辛いのは、父が家中うろついて母を探している姿を見た時。死んだことは何度も言って聞かせ、父も何度も頷いている。でも探し回る。言って聞かすのが面倒になって、居間に置かれた小さな祭壇の上の遺影を指してこう言う。
「お母さん、そこにいるでしょ」
父は祭壇の前に座り遺影を見つめる。分かってるのかな? と思うけれど、それでしばらくおとなしくしててくれる。

 車で十五分ほどの所にあるお寺にうちのお墓がある。今日、納骨した。父が涙を流していた。分かってるのかな。私ももらい泣き。帰宅後、祭壇がなくなったので居間の長押の上に母の遺影を掲げた。
 夕食の支度をしていたら、
「母さん、母さんどこだ」
と、父が探している。
「そこにいるでしょ」
と、居間の天井近くを指す。すると父は遺影を見上げる。でもすぐにぶつぶつ言いながら居間を出て行ってしまう。見上げる位置ではダメかな。
 先にお風呂に入れようと父を探すけどいない。ベッドに脱いだ部屋着がある。まさか外に出た? 父のスマホは居間で鳴った。火の始末だけして探しに出る。玄関の鍵は開けたまま。
 財布は部屋にあった、だから徒歩圏内。スーパー、コンビニ、かかりつけの医院、公園、等々、ここ数日父と出歩いたところを探す。けれど姿はなし。すっかり暗くなって家に戻るけど父は帰っていない。もう一度家中を探す、押入の中まで。
 九時を過ぎて心配が限界値。警察、と浮かんで、110番は大げさ、最寄りの交番の電話番号を探して掛けた。父の特徴や服装を聞かれたけど、何を着て出たか分かんない。恥ずかしい。
 イライラと一時間以上過ごしてから、母を探していたと思い出す。母が行きそうなところに行ったのかも。家を飛び出した。飛び出したけど、さっきと同じようなところを周っただけ。もう思い付く限りの所を探すしかない。
 昔母がパートをしていた工場へ。母がよく行っていた友人の家へ。母のお気に入りだった喫茶店、蕎麦屋、ケーキ屋。私の通った幼稚園、小、中学校。ああ、もう行くところがない。
 足は痛いしもう限界。家に帰ってるかも、と、帰る口実を思いついたけど、同時にもう一か所思いついた。よし、とりあえずそこまでは行こう。
 お寺に続く坂を見上げて溜息。それでも足を前に運ぶ。濃い藍色の空を見上げながら墓地への階段を登りきると、東の山の縁が金色に輝いていた。キレイ、と思った視界の中に父がいた。うちの墓の前で丸くなって寝ている。寝てる? まさか、と駆け寄る。寝息を立てていた。なぜだか涙が。
 滲む墓石を見て思う、ここに母がいることは認識しているんだと。そして、こんなにも母の傍に、妻の傍にいたいんだと。
「お父さん」
優しい声が出た。
「起きて、お父さん」
体を揺すると目を開けた。
「うん? どうした?」
そう言いながら体を起こす父。どうした、って……。
「帰るよ」
「おお」
立ち上がった父の体をはたいて砂を掃う。もう周りは明るくなっていた。
 何事もなかったように私の後をついて歩く父。階段に差し掛かると、
「博子、足元気を付けろよ」
と、後ろから声がする。驚きと同時におかしくなる。それで緊張が解けたみたい、お腹が鳴った。
「はいはい、早く帰って朝ごはんにしよ」
ほんとにお腹すいた。
「朝飯? 晩飯食ったか?」
すごい、これはまともな質問だ。
「食べたでしょ」
私がボケた。

 ちなみに、博子は母の名前。



終り
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