文字数 1,992文字

おれの上司が課金の末にコケたというのは、うちの部のメンバー全員が知っていることだ。
課金といってもゲームではない。子どもへの教育課金だ。上司の息子さんは中学受験で金星を挙げた。校名を聞けば誰もが「うわっ」とリアクションするところに受かった。受かるためには金をかけた。桁が一つ増えるほどかけたという。そして手もかけた。上司は優秀なプロジェクトマネージャーだったので、その手腕を息子さんの学習管理にも発揮した。それで勝った。

ところが、だ。

「どうやら息子さんが学校に行かないらしい」

一年ほどたったころ、上司の奥さんが「家にこもった息子が荒れて手を付けられない」と電話で助けを求めてくるようになった。上司の携帯に掛けても出ないので、職場の電話を鳴らすようになった。当時のことはおれもよく覚えている。入社してまだ日が浅く、電話を良くとっていたから……。
これは当然問題になった。上司は社内のあちこちに謝って回った。もちろんおれたちにも。上司は部の会議で深々と頭を下げた。

「この度は私の未熟さが招いたことで、本当にご迷惑をおかけしております。社会人としても親としても失格の私を、どうか許していただきたい。家が落ち着くまで時間が掛かりそうですが、どうかご理解をいただければ……」

これには皆驚いた。入社したばかりのおれは知らなかったけれど、それまでの上司は「謝らない」人だったから。「間違ったことをしても謝らない」というのとは違う「そもそも謝らなければならない状況を作らない」人だったらしい。
それを経て、上司は今も会社にいる。やめる必要はなかったし、やめさせようという動きもなかった。上司は仕事ができて、職場ではモラハラやパワハラをしない。敢えて言えば、自分や息子の優秀さを匂わせていたのがたまに鼻についたくらいで……つまり会社から見て問題がない人だったのだ。
それにおれは社会人になってから知ったのだけれど、こういう「ファミリー・イシュー」が勤務に影響することは当たり前にある。子どもの急病で早退とか、行方不明になった高齢の親を探さなければならないので今日は急遽休み、とか。
そういうことを抜きにして人は生きていけないのだから。

***

今日、おれは例の上司と一緒に客先に行き、打ち合わせをこなした。酷暑となる予想が出ているが、WEB会議ではなく訪問したいと上司が言ったのだ。炎天下の移動は大変だが、どうかよろしくと。行きたくないとゴネる話ではない。おれは素直について行った。客先を出た後で、上司はおれにコンビニのアイスコーヒーをおごってくれた。そしてこう言った。

「私はこれから少し寄る場所があるから、君は先に社に戻っていいよ」

何でも、上司の息子さんが今通っている高校がこの近くにあるのだという。受験をして入った中学は二年でやめて地元の公立中学に移り、そこから高校を受けたのだと。

「あまり世間には知られていない学校だけれどね。本人は納得して通っている。今は夏休みだけれど、週に何度も部活をやりに行っている。ちょっと様子を見に行きたいんだ」

こんな暑い中で運動部の活動なんてと思うけれどね、本人は行きたがるんだ、と上司は笑った。部員数が団体戦ギリギリだから必要とされている実感があるんだって、と。
おれは思わず「付き合います」と応えていた。「もし良ければ」と。「そのスポドリは、息子さんたちへの差し入れでしょう?」アイスコーヒーと一緒に、上司はスポーツドリンクのペットボトルを大量に買い込んでいた。それを見ぬふりして帰ることはできなかった。「おれ、手伝いますよ。一緒に学校まで運びますよ」
おれと上司はポリ袋に入ったペットボトルを手分けして持ち、息子さんが通う高校に向かった。学校への道は坂道だった。道路わきの樹からミンミンと蝉の鳴き声が降る上り道。おれたちは炎天下の午後をひたすら歩いた。

「こんな暑い日に重いものを持たせてしまって、本当にすまない……」

歩きながら上司は何度もおれにそう謝った。「かつては謝らない人だった」「謝らなければならない状況を作らない人だった」という職場の皆の証言が冗談に思えるほどに、何度も。
(何が人を変えるのだろう?)
上司は課金と管理で息子さんを勝たせて、でもそれが破綻して、息子さんは苦しんで、助けを求める奥さんからも逃げて……それが皆に知られて。でも今、このクソみたいに暑い中、ペットボトルを何本も持って、「あまり知られていない学校の弱小部活」で練習に打ち込む息子さんに会いに行こうとしている……。

おれが手伝うと言ったとき、上司はこう呟いていた。

「そうか、君は私たちの世代よりも息子の世代に近いんだな」

おれはこの言葉の意味が計りきれなくて、「そうかもしれないっすね」と応えた。計りきれないけれど、悪い意味で言ったのではない気がした。

坂道の向こうに、息子さんが通う学校の校門が見えてきた。
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