4-3(了)

文字数 1,592文字

翌朝、私は目を覚ましました。
口を塞がれた感触が、まだ生々しく残っています。
障子を見ると、穴はひとつしか空いていませんでした。

夢だったのでしょうか。

夢なら、そのほうがいいのです。

ふらふらと洗面所へ赴き、顔を洗おうとして、私は悲鳴を上げそうになりました。
口元に、べったりと血が付着していたのです。
血痕は、心なしか、手のひらの形をしているように見えました。
間違いありません。
障子の目は夢だったのかもしれませんが、寝込みを襲われ、口を塞がれたのは事実なのです。
恐らくは、長男に。
私は、背筋を震わせながら、着衣の乱れを確認しました。
脱がされた形跡こそなかったものの、こんな家に一刻だっていられるはずがありません。
時計を見ると、午前六時でした。
私は、口元の血液を拭い取ると、慌てて身支度を整え、挨拶もせず玄関へと向かいました。
そこには、
「──……ぐごー……」
いぎたなく眠る若い男の姿がありました。

誰でしょう。

泥棒ならば、玄関で熟睡はしないはずです。

靴を履くことができずにうろたえていると、
「あれ、お姉さん。朝早いんですね」
背後からの声に、びくりと背筋が跳ねました。
次男くんでした。
「あ、クソ兄貴! おーい、兄貴! 起きろ!」
次男くんが、若い男を揺り起こしました。

兄貴。

次男くんは、たしかにそう言いました。

「すいません、お見苦しいところを見せてしまって」
「んが」
「ほら、兄貴! 自己紹介くらいしろよ!」
「んえーい、可愛いお姉ちゃん。ごめんねえ、飲み過ぎちった」
「ったく、父さんの一周忌のときくらい、大人しくしとけよ!」
「すまん、すまん」
思考が停止しました。

長男は、引きこもりではなかったのでしょうか。

「引きこもり、ですか?」
次男くんが小首をかしげました。

「見ての通り、引きこもりの逆ですよ。

 大学生になってから、ろくに家にも帰ってこないんです」

では、あれは誰なのでしょう。

私は、長男の手に視線を移しました。

怪我はありません。

次男くんの手を確認しました。

怪我はありません。

念のため、自分の手を検めました。

怪我はありません。

障子の目は、夢だったのでしょう。
ですが、血痕は間違いなく付着していたのです。
誰かの手に噛みついたことも、誰かに口を塞がれたことも、現実にあった出来事です。
そのはずなのです。
「──あらー、みんな早いねえ」
騒ぎを聞きつけたのか、おばさんが自室から姿を現しました。
私は、息を呑みました。
その、手。
おばさんの右手に、真新しい包帯が巻かれていたのです。
昨日はなかったはずの、包帯が。
私は、恐る恐る口を開きました。
その、右手は──
言いかけたところで、
「うふ」
おばさんの口から笑みがこぼれました。
そして、

ぎし、


ぎし、


ぎし。

頭上から、足音が聞こえました。
私は混乱しました。
この家は、三人家族です。
そのはずです。
ならば、この足音の主は、いったい誰だと言うのでしょう。

ぎし、


ぎし、


ぎし。

ぎし、ぎし、ぎし、ぎし。
きし、きし、きし、きし。
聞き覚えのある、音。
何かが階段を下りてくる。
「──うふ、うひひ」
おばさんの、下卑た笑い声が耳につきました。
きし、きし、きし、きし。
近づいてくる。
近づいてくる。
笑い声。
近づいてくる。
駄目だ。
見るな。
聞くな。
私は、長男と次男くんへと視線を向けました。
ふたりは、無表情で私を見ていました。
糸の切れた人形のように、ただただ私を見つめていました。
「くひ、うひゃひゃ、ひひひひ」
おばさんが、笑う。
嗤う。
ぺた、ぺた、ぺた、ぺた。
足音が変わる。
階段を下りきった何かが、こちらへと近づいてくる。
いるはずのない、四人目の家族が。
ぺた、ぺた、ぺた、ぺた。
嗚呼。
もう、耐えられない。
私は、長男の体を飛び越え、裸足で外へと駆け出しました。
振り返ることなく一目散に走り、駅へと辿り着くころには、足の裏が血豆だらけになっていました。

二度とあの家には近寄るまい。

私は、そう決意するのでした。

〈了〉
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登場人物紹介

「私」

オカルト好きなだけの、ごく普通の女子大生

ヒナタ

少々天然の入った「私」の幼馴染

アヤセ

「私」の大学の友人で、現実主義者

キサラギ

「私」の大学の友人で、自称霊感持ち

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