あけずの櫃

文字数 19,596文字

第一章 (聖痕)

孝司が、紀子と出会ったのは、中学2年の夏休みの事だった。

その日は、記録的な猛暑でとにかく信じられないほど暑い日だった。孝司は悪友の慎二と茨木市の公営のプールに行く約束をしていた。大阪府茨木市、東野孝司はここで生まれ育った。正確には茨木は茨木でもほとんど亀岡市に近い下音羽と言う山奥の村で阪急の茨木駅からバスで優に一時間はかかった。関東の人には馴染みがないかもしれないが、茨木は「いばらき」と読み「いばらぎ」と読むといっぺんでよそものである事がばれてしまうのだ。

孝司が慎二と待ち合わせをしていたのは、JR茨木駅の郵便ポストの前だった。几帳面でまじめな性格の孝司は待ち合わせの時間に遅れそうだったので、バスが、信号で止まるたびにいらいらしていた。結局、待ち合わせの場所に着いた時にはすでに約束の時間を15分程オーバーしていた。しかしそこには慎二の姿はなかった。

「あれ?なんや慎二の奴まだ来てないんか・・なんじゃあわてて損したわ」孝司は思わず郵便ポストをけ飛ばした。その時、後ろから大きな声がした。

「こらっ!だめじゃないかそんな事をしては、逮捕するぞ!」一瞬、孝司はドキっとしたが、それが、悪友の慎二だったという事はすぐにわかった。

「あほ!脅かすな、なに東京弁話しとんねん!びっくりするわ!」孝司は顔を真っ赤にして怒った。そんな孝司の額には玉のような汗が光っていた。
「あほは、おまえじゃ」慎二は簡単にひっかった孝司を見て大笑いをして後ずさりすると郵便ポストにぶつかってそのままひっくり返ってしまった。「大丈夫か?ほんま驚くわ」孝司はあきれながら慎二の手を引っ張って起こしてやった。

二人は顔を見合わせ大笑いした。

箕輪慎二、慎二の母親と孝司の母親は高校の同級生だったので、二人は小さい頃からよく一緒に遊んでいた。しかし慎二の家は阪急茨木駅から5分位のところにあって孝司とは家が離れていたので小学校は別々の小学校で、中学で初めて同じ学校になったのだった。

二人が行こうとしている、茨木の公営プールは今年の春に出来上がったばかりで、今日がプール開きの日だった。二人が市民プールに着いた時には、もう老若男女でごった返していた。
「孝司!どうする?やめとくか?えらい人やで・・・」
「ここまで来てやめられるか1時間かけて来てんねんど」
「しゃないな、ほな待ちまひょか・・・」慎二の爺むさい
言い方に孝司はこう続けた。

「慎二さぁ、おまえの格好?何でそんなに爺むさいんじゃ?」慎二は、むっとしてこう言い放った。
「あほか、夏はこれが一番ええ格好なんじゃ!」
そう言う、慎二の格好はランニングシャツに麦わら帽子、学校の紺の半ズボンにゴムぞうりと言う格好だった。
それに対して孝司は、当時はやっていたバミューダパンツにVANのTシャッツ、そして阪急ブレーブスの野球帽、白いスニーカーと言う精一杯のおしゃれをしてきたのだった。「まぁ俺のおしゃれの引き立て役をやってくれたまえ」孝司は腰に両手を添えて大げさに笑った。
「まぁ勝手にほざいとれ!」慎二は、精一杯強がってそう言うのだった。

30分程炎天下の下、待っただろうか、二人は、やっとプールに入る事が出来た。新しく出来たこの公営プールには大きなプールが二つと子供用の小さなプールが三つあった。当時としては最新の設備を誇っていた。
「おい、あそこにおるのは田中ちゃうか?」慎二が指さす方向を孝司は見た。紛れもない隣のクラスの田中肇だった。田中肇は千利休の子孫と言う噂があったがその真偽は定かではなかった。すると田中肇もこちらに気がついた様でこちらに向かって来た。
「こっちにきよんど」慎二と孝司は顔を見合わせた。二人は田中肇が苦手だったからだ。
「君たちも来てたんや」田中肇は無表情にそう言うと、にやっと笑った。孝司は田中肇とはこれまで話をしたこともなかったが、田中肇は思いもよらない事を言うのだった。
「東野君だよね?前から君に伝えたいことがあったんやけど・・・」そう言うと田中肇はなぜかちょっと考え込むような仕草を見せた。「なんやねん早よ言えよ」慎二が田中肇をせかした。田中肇はこう言うのだった。「東野君は隠れキリシタンなんでしょ?」

沈黙の時間が流れた・・・

孝司は何の事か全く分からなかった。「キリシタンって何やそれ?」孝司は初め聞く言葉だった。「えっ、あ・・ごめん・・」そう言うと田中肇は、ばつの悪そうな顔をして、そのまま子供プールの方へ向かっていった。「なんや あいつ訳わからんやっちゃな・・ほんま」慎二は、はき捨てる様にそう言った。孝司はキリシタンと言う言葉は初めて聞く言葉だった。「キリシタンってなんの事や?」孝司は、さっぱり意味が分からなかった。「そういえば、おばあちゃんが昔言うてたけど、この辺には昔キリスト教を信仰する人らが住んどったそうや、そのこととちゃうか?」

慎二がそう言ったその時、孝司の隣にいつの間にか小学校3年生くらいの女の子が現れて孝司にこう告げた。「キリシタンの印やで・・・そのわき腹のアザ・・・」

「えっ何?」

「それは、聖なるしるし・・聖痕や・・・」

それが紀子との最初の出会いだった。








第二章 あけずの櫃

「慎二! 見たか今、俺の隣に小学校3年生位の女の子がおったやろ?」
「えっ?誰もおらんぞ、何寝ぼけとんねん・・・」
「いたやん、ここにランドセル背負って・・」
孝司は自分でそう言って、はっとした。なぜ、プールにランドセル背負ってくる子がいるのか?孝司は幻を見たのか? 孝司は背筋がぞっとした。幽霊を見たのか? 
紀子は幽霊でも幻でもなかった。この事件以降、紀子は、孝司の前に頻繁に現れる様になったのだ。

次に紀子が現れたのは、孝司のお爺さんのお通夜の晩だった。

孝司のお爺さんは、下音羽の村長を長年つとめた事もあって通夜には村じゅうの人が来たのではないかと思うほどだった。孝司は通夜と言うものも初めてだったし、死んだ人を見るのも初めてだった。棺桶の窓から覗くお爺さんの鼻には白い詰め物がしてあり、お爺さんの顔をこんなに間近で見るのも初めてだった。お爺さんの眉毛は、今までに、見た事がないほど長かった。孝司は、お爺さんの眉毛と白い詰め物が気になってしょうがなかった。
その時に孝司は自分のズボンを誰かに引っ張られている気がした。振り向くとそこに紀子がいた。

「しー!・・・うちの姿はお兄ちゃんにしか見えへんの・・・」

「自分・・誰や?幽霊か?」孝司の隣にいた親戚のおばさんが
自分の事を言われたのかと思いにらんでいた。

「すみません・・・」孝司は頭をかきながら紀子の手を引っ張って人のいないところまでつれていった。

「幽霊やないみたいやなぁ・・今、手握れたから・・自分、名前はなんて言うんや?どこから来たんや?」

「紀子・・・うちの名前は紀子・・お兄ちゃんに大事な話を伝えたくてここに来たんや」紀子の格好はよく見ると近所の小学生の格好とはかなり違っていた。ぴったりとしたタイツの様なズボンを孝司はこれまで見たこともなかったし何よりも小学生が時計をしている姿なんて見たこともなかった。しかもその時計も見たことも無いような奇妙な形をしていた。

「お兄ちゃん、ついてきて」そういうと紀子は屋根裏部屋まで孝司を連れていった。お爺さんの家は孝司の父親が言うには明治の初期に建てられた家で、100年は経っているのではないかと思われた。
「紀子ちゃん、何でこんなところに来るんや?何があんねん?」屋根裏部屋は、小さな裸電球が一つだけで、どこに何があるのか皆目検討がつかなかった。小さな窓が2つあり、そこから月の明かりが差し込んでいた。
「お兄ちゃん・・・あれ見て」紀子ちゃんが指さしたのは屋根裏部屋を支える大黒柱だった。孝司は小さな裸電球を大黒柱の方に手で向けるとそこには何か箱の様なものが縛り付けられていた。
「なんや?あれ?・・えらいふるい箱やなぁ」そういうと孝司は大黒柱の裏側に隠す様にいわえられていた小さな箱を取り外し手でほこりを払いのけた。そして裸電球の下に孝司と紀子は座ってその箱をおそるおそる開けてみた。
「なんやこれは?」そこには古い人形と丸まった古い絵、そして木で出来た十字架が入っていた。その十字架は長い年月で真っ黒になっていた。孝司は十字架と古い人形(それはマリア像だったのだが・・)を取り出すと、次に丸まった絵を広げた。「あっ、これはフランシスコザビエルの有名な絵? 学校で習ろたやつや!」それは、中学の社会で習ったばかりのキリスト教伝来の箇所で出てきた宣教師フランシスコザビエルの絵だった。「あれ?よう見たらザビエルの向いている方向がちゃうがな!」その絵はザビエルが右の方向を向いていた。確か社会の教科書の絵は左を向いていた。「お兄ちゃん、よう気がついたなぁ、ほんまはあの絵は2枚一組になってたんや、最初の絵もここ下音羽で見つかってるで・・」
「お兄ちゃん、その十字架をこの絵の様に持って」
「えっ・・・こうか?」その時だった孝司の目の前の景色がめまぐるしく変わり一瞬、孝司は気を失いそうになった。

「ここは、どこや?俺は生きてるんか?」

「大丈夫や・・お兄ちゃんは、江戸時代にタイムスリップしたんや・・ここではお兄ちゃんは、東野新七朗・・・お兄ちゃんの6代前のお爺さんやで・・・」

「何やさっぱり分からんけど、そや、わしは新七朗じゃ・・・何?・・・俺は何を言うてんねん?」
孝司は自分であって自分で無いような不思議な感覚に陥っていた。

確かに自分が新七朗に違いないとだんだんと新七朗になっていく自分がそこにあった。




















第三章 高山右近

「新七朗、隼人、よく聞くのじゃ。我ら高山隊はクルスの旗の下、信長様を裏切った明智光秀の討伐を秀吉様から仰せ付かった。」
時は、天正10年6月、まさに歴史が大きく変わろうとしていた。室町幕府を事実上滅亡させ、畿内を中心に強力な中央集権を確立し天下統一も目前であった織田信長が本能寺で家臣の明智光秀に反旗を許し本能寺で自害したのだった。「殿、新七朗は、ついこの間、元服したばかり・・戦はまだ時期早尚かと・・」加賀山 隼人 洗礼名はディエゴ 彼は、1566年摂津国高槻に生まれ10歳の時にルイス・フロイス神父から洗礼を受けていた。隼人この時17歳、初めての戦だった。
「新七朗は伊賀の出、幼き時より我らには信じられない修行をこなしてきておる。むしろわしは隼人が心配な位じゃ」孝司はまだ、新七朗にはなり切れておらず、この殿と呼ばれる人の話が理解できずにいた。きょとんとしている孝司・・・新七朗に紀子がこうささやいた。
「お兄ちゃんは、東野新七朗って名前で高山右近と言う大名に仕えている家臣や・・ほんで伊賀の忍者やで・・・」
「に・・にんじゃ??俺が・・忍者?」
「新七朗は、何をぶつぶついっておるのじゃ、とにかく
明日、我らは山崎に兵を進める!判ったか?」
「はっ承知いたしました。」新七朗と隼人は大きな声で気合いを入れるのだった。
「兄じゃは、戦は怖くないのですか?」新七朗は隼人にそう聞くのだった。「新七朗、戦が怖くない人間などいるものか!只、我らには、デウス様がいつも一緒にいてくださることを忘れてはいけないぞ」
「は!」新七朗は十字を切って空をあおいだ。
あれ? 孝司は新七朗のこの仕草の意味が分からなかった。「紀子ちゃん、新七朗のこの仕草は何を意味してるんや?」「それはキリシタンが行う仕草なんや、新七朗はキリシタンなんや・・・お殿様も隼人さんもみんなキリシタンやで・・・」「キリシタンが戦をしてええんか?」孝司の声は恐怖でふるえていた。それは当たり前の事で、孝司の生きていた時代では、戦争なんて遠い世界の出来事だったからだ。「紀子ちゃん、はよ俺を元の時代に戻してえや・・・俺はまだ死にとうない!」「お兄ちゃんは死なへん、大丈夫、全部、神様の計画や・・大丈夫や!」紀子の目は真剣だった。その気迫に孝司は何も言えなくなった。
「わかったわ・・・その言葉信じるしかないな・・・紀子ちゃん、お殿様の事をもっと教えてくれへん?」「せやな、お殿様もそうやけど、この時代の事をもっと知っておかなあかんな・・・」そう言うと紀子は腕まくりをした。
「お殿様の名前は高山右近・・戦国時代のキリシタン大名の代表選手や!この人の影響からキリシタンになった大名は多いんや、例えば、牧村政治、蒲生氏郷、黒田孝高、お兄ちゃんも歴史で習ったやろ?」正直、孝司は皆初耳の名前ばっかりであったが、すごい人なんやろなぁと言う事は何となく判った。
「ほんで重要なのは、この戦国時代の話や・・・この時代は日本の混乱の時代・・・天下統一を巡って戦が日常茶飯事の時代や、織田信長の3日天下ってお兄ちゃんでも、さすがに聞いてると思うけど、その信長を家臣の明智光秀が暗殺したんや、これから始まる戦は明智光秀への復讐の戦や」
「復讐の戦・・・」孝司いや新七朗は戸惑いを隠せなかった、新七朗の初陣は明日に迫っていた。


第四章 大罪

その日は雨だった。天王山の山裾を横切って高山右近のクルス隊そして中川清秀の中川隊と明智秀光側についた伊勢貞興の軍勢との衝突で戦いは始まった。
「新七朗、後ろじゃ!」隼人の声に新七朗は振り返ったその時、二人の敵兵が同時に刀を振りおろしてきた。とっさに新七朗は二人の間を転げぬけ一撃のもと二人の首もとを切りつけた。二人は即死だった。「さすが伊賀者」隼人はその鮮やかな身のこなしにただただ感心するばかりだった。雨も本格的に振り出し気が付くと周りは敵や味方の死体の山だった。30分位の戦いだっただろうか?新七朗にはそれが、何時間にも感じられた。敵も一旦は退却した様子で隼人と新七朗は大きな木の下で小休止していた。
「兄じゃ、わしは何人、人を殺してしまったのか?数えられないほどの人を殺してしまった。間違いなく地獄行きだ!」「新七朗、それはわしも同じ事、二人で地獄に行こう。地獄でデウス様のご慈悲があれば良いのだが、それもかなわぬ事であろう。もし、この戦いで生き延びる事ができれば中津の教会で懺悔をしよう」
その時、二人の目の前に騎馬武者が現れ、こう叫んだ。
「伊勢貞興の第二派の軍勢がすぐそこまで来ている!皆の者は、すぐにこのまま前進し羽柴軍と合流するべし!」
「おい、聞いたか?親方様がお戻りになったそうじゃ」隼人の声は興奮で声が震えていた。「おぉデウス様は我らを見捨ててはいなかった。アーメンじゃ!」新七朗は天を仰ぎ十字を切った。高山右近のクルス隊はこの戦いですでに大きな痛手を追っていた。何人の命が失われたのだろうか・・隼人と新七朗の周りにいた数十人の姿はもうそこには無かった。二人も雨の中での初陣で体力は限界をとうに越えていた。二人の体からは湯気が立ち上り、いかに二人が体力を消耗しているかが判った。新七朗は泥にまみれたクルスの旗を手に持ち羽柴軍と合流するために最後の力を振り絞るのだった。
羽柴軍が備中高松城の陣を引き払ってここ天王山までこんなに早く戻って来れるとは明智軍も思っていなかったのだろう。この「中国大返し」がクルス隊を救ったのだ。
この「中国大返し」は天下分け目の戦いの肝になる事件として今日まで語り継がれている。

隼人と新七朗は羽柴軍に合流するため天王山の山裾を高槻方面に足を進めていた。雨はすでにやんではいたが、足下はぬかるんでおり、あたりも暗くなって来ていた。
その時だった。草陰に潜んでいた敵兵がいきなり隼人の背後から切りつけてきた。新七朗はその気配にいち早く気づき振り向きざまにその敵兵を一刀両断に切りつけた。月の明かりで倒れたその敵兵の顔を見て新七朗は息を飲んだ。
「こやつ・・おなごか?」その敵兵は女だった・・
実際のところ戦国の時代では、女性が戦に出ることも珍しい事では無かったのだが、二人は初めての戦・・新七朗はそのまだ幼さが残る女の顔を見て罪の意識がますます重く感じられた。「わしは何をしてるんじゃ」新七朗は天を仰いだ。「デウス様・・・私を許してください・・・」
新七朗・・いや孝司の意識はそこで無くなった。




第五章 中津教会

深い深い闇の向こうに光が見えてきた、次の瞬間、孝司、いや新七郎は教会で祈っていた。長い長い祈りだった。隣には加賀山隼人が同じく祈っていた。二人の祈りが終わった頃、なにやら後ろがざわついていた。何かと思い二人が振り向くと、そこには何人かの侍女に付き添われた美しい女性が修道士と話をしていた。
「おい、新七郎!あの方は細川忠興様の奥方、細川玉様だ!なんとお美しい方なんだ」 確かに細川玉の美しさは飛び抜けていた。
 しかし、時代は玉には厳しく信長に謀反を働いた明智光秀の娘、逆賊の娘として
玉は厳しく監視されていたのだった。そんな玉であったが細川忠興が九州討伐に出かけた隙を見て教会に洗礼を受けに来たのだった。
 その日はちょうど復活祭の日であり、復活祭礼拝が行われ様としていた。
そして、なんと言うことか、細川玉とその侍女たちは新七郎、隼人の隣に席を取ったのだった。隼人の隣には2人の侍女が座りその向こうに細川玉、そしてまた侍女が座った。その時、新七郎は玉の向こう側に座った侍女と目があった。その侍女は軽く会釈をした様に新七郎の目には写った。
 そして神父の説教が始まった。説教が始まっても新七郎はその侍女の事が気になって神父の説教は耳に入ってこなかった。その侍女の名前は清原 きこ そう、あの
細川 玉をキリスト教に導いた清原 いとの妹だった。清原いとは、高山右近と非常に近しい清原枝賢の娘だった。

説教が終った。新七郎は心ここにあらずだった。次の瞬間、気がつくと、加賀山隼人が、隣の細川玉の侍女と話を始めるているではないか、新七郎はあっけに取られた。そう、この侍女こそ清原いとその人だった。
「新七郎、この方は、清原いとさん、細川様の侍女頭をされておられる。拙者とは子供の頃からの知り合いなんじゃ、拙者もこの教会でお会いできるとは夢にも思わんかったが・・・」 「いとさん、こやつは、わしの弟分、東野新七郎 じゃ」 新七郎は、がらにもなくドキドキしていた。天王山の戦で多くの血を流したのが新七郎には遠い過去の事の様に思えた。「新七郎さん、初めまして私たちは今日、奥方様の受洗を修道士様にお願いしに来たのです。でも受洗には準備が必要との事、残念ながら今日は受けることが出来なかったのです。奥方様は、今度いつ教会に来れるか分からないというのに・・・」 「そうですか・・・一日も早く受洗できますように拙者もお祈りしています。」
 事実、玉が教会に来れたのはこの日が最初で最期だった。ちょうど、この年の7月24日に秀吉は、あのバテレン追放令を発布したのだった。バテレンとは、ポルトガル語で神父のことを指す言葉だ。

 秀吉はそれまでは、信長の政策を受け継ぎキリスト教には寛大であったが、九州征伐の途中で宣教師やキリシタン大名によって仏教徒が迫害を受けたり、多数の神社や寺が焼かれていること、また日本人がポルトガル商人によって奴隷として海外に売られていることを知り九州征伐後、博多にて当時の布教責任者であるガスパール・コエリョを召喚しバテレン追放令を発布し宣教師の国外退去とキリスト教宣教の制限を表明したのだった。

細川玉は自らの身分を明かすことができなかった為、受洗できずにその日は教会を後にしなければいけなかった。
 そして新七郎と隼人は教会の前で細川玉の一行を見送る群衆の中にいた。修道士は玉の事を知らなかったが、多くの民衆は、細川玉の事をよく知っていたからだった。その時、紀子が現れ新七郎いや孝司に囁いた、「お兄ちゃん、その本をきこさんに手渡してあげて」それは、高山右近から貰い受けたコンテムツス・ムンジだった。「えっ、俺は全然、面識あらへんのに・・」「かまへん、きこさんもお兄ちゃんとお話ししたいんや」そういうと紀子の姿は次の瞬間、消えていた。
孝司(新七郎)は勇気を振り絞り清原きこの前に躍り出た。「これは、わしの親方様からもろうたキリシタンの本や、受け取って」清原きこは、この突然の事に驚く様子もなく
うんと頷いてただ一言こう言った。「ありがとう新七郎さん」 
新七郎は、顔が真っ赤になるのが自分でもわかった。そして走り去るように群衆の中に戻ったのだ。
 用意されていた駕篭に乗り込んだ細川玉たちを見送った後に、隼人と新七郎は、播磨の国の帰路に着いた。この時、高山右近は、秀吉から播磨明石群に領地を6万石与えられて船上城を居城としていた。しかし右近も玉と同じく、秀吉のバテレン追放令の発布の後、悲運の人生を強いられる事になるのだった。
「新七郎、教会に足を運ぶことも今後は厳しくなるぞ、羽柴の親方の動きがどうも拙者は気になるのじゃ、羽柴の親方は、今の所はイエズス会との関係を表面的には重んじているようじゃが、その実は、火薬の供給源としか見ていないのじゃ、そして昨今は、キリシタンの結束力を恐れ始めているのは間違いないと思うてる」「兄者、羽柴の親方は、右近様も追いやろうとしているのではないですか?どうも私にはそう思えてならんのです。」「そう、新七郎その通りだ、それはそうとして、なぜ清原きこ様は新七郎の名を知っておったんじゃ・・」 確かに清原きこ様と新七郎は教会では一言も話しはしていなかった。「そういえば、いとさんが、お前の持っていた、その本の事をわしに聞いていたな、コンテムツス・ムンジを持っている人間なんぞ、見たことないからなぁ、よっぽど気になったんじゃろ、細川玉様も気にされていた様子じゃったぞ」 事実コンテムツス・ムンジが一般に知られる様になるのは、それから数年後であった。細川玉が洗礼を受けた後に片時も離さなかったという話はあまりにも有名な話であって細川玉がコンテムツス・ムンジを知るきっかけとなったのが、新七郎が清原きこに手渡した、このコンテムツス・ムンジだったと言う事実を知る人はほとんどいなかった。









第六章 クルス山

「東野君! 起きなさい!」
孝司の頭の中でその声がグルグル回っていた。孝司は今、自分がどこにいるのかわからなかったのだ・・・ 「あっ吉田先生・・・おはようございます。」
「何寝ぼけてんの?」 孝司はやっと今自分が、中学の教室にいる事、吉田先生の歴史の時間だった事が理解できた。「後で職員室きいや、ほんまにもう、しゃーないなぁ」吉田先生は教科書で孝司の頭を軽くこづいて授業を続けた。
「なんや、夢やったんか・・妙にリアルな夢やったな・・・」孝司はふと窓の外を見ると、
そこには紀子ちゃんが手を振っていた。「えっ??ここ2階ちゃうの?」紀子ちゃんは確かにそこにいた。そして窓から入ってくると孝司の隣の空いた席に座った。「紀子ちゃんまずいよ、今授業中!」 「大丈夫やうちの姿はお兄ちゃんしか見えへんから、それより授業が終わったら校門の前で待ってて、お兄ちゃんに見せたいものがあるんや」「わかった。わかった。」 「東野君、何がわかったん?!もういい加減にしてや!」吉田先生は美人で有名だったが、気性の激しいところもあり、瞬間湯沸かし器のあだ名がついていた。孝司はこれ以上、吉田先生の感情を逆なでしないように小さくなった。

そして職員室で孝司は吉田先生の席の前にたたされていた。窓からは紀子ちゃんが
ニコニコ笑ってそれを見ていた。
「あのね、お母さんから東野君の家での生活の事も聞いてるけど、なんかずっと寝てるそうやね?どっか体でも悪いんか?」 吉田先生は歴史の教科書を団扇代わりにして煽いでいた。 「いえ、体はどこも悪くないと思てます・・・せやけど一回寝るとなかなか起きられへん体質の様で・・・」孝司は頭をかきながらそう答えるのだった。
「まぁ、ええわ・・とにかく学校で寝るのはやめてや」 孝司はやっと先生から解放され職員室を出た。するとそこに紀子ちゃんが待っていた。
「お兄ちゃんが、あんまり遅いから迎えにきたわ!ほな行こか?」「えっどこいくん?」「クルス山や!キリシタンの村がある山や」 孝司は訳がわからなかった。
「まぁしゃないな・・・」と、孝司はとりあえずはつきあうしかないかという感じで紀子ちゃんについていった。校門を出て国道を少し北上したところにバス停があった。
そして二人は忍頂寺行きのバスに乗りクルス山に向かった。バスは1時間に1本しか出ていなかったが、二人は待つ事もなくすぐに乗る事ができた。
孝司はクルス山に行くのは初めてだった。
ほんの10分もすると田園風景が広がり、のどかな景色に様変わりした。青い空とどこまでも続く緑の森のコントラストはまるで今までと全く違う世界に迷い込んだ様な錯覚を起こさせた。「ほんまのんびりするなぁ」紀子ちゃんは窓の外の風景を見ながらホッとため息をついた。そんな幼い紀子ちゃんを見て孝司も心が和んだ。「あれがクルス山やで」紀子ちゃんが指差す方向にその山はあった。クルス山・・・どこかで聞いた響き・・・孝司はクルスという言葉を何度も自分の心の中でリピートさせた。

クルス山の麓のバス停で二人はおりてクルス山を登った。紀子ちゃんは孝司の前をどんどん先に登っていき孝司は後を追うのが精一杯だった。 「こっちや!こっち!お兄ちゃん!遅すぎ!」「紀子ちゃん何、そんなに急ぐんや?待ってえな・・・」孝司は汗だくだった。 孝司は紀子ちゃんの姿を見失ったが、道は一本しかないので「まぁええか」とタオルで汗を拭いながら自分のペースで山道を登った。しばらくすると紀子ちゃんが何かの前で座り込んでいた。それは祠(ほこら)の様なものだった。
「お兄ちゃん、これやこれ マリア様の祠やで・・・」そういうと紀子ちゃんは、
そのマリア像らしき像の(実際には、お地蔵さんの様にしか見えなかったが・・・)の裏側に手を伸ばし何かを探しているようだった。しばらくゴソゴソして次の瞬間、紀子ちゃんはにこっと笑ってこう言った「これを見てもらいたかったんや!」紀子ちゃんの手には真っ黒になった竹筒が握られていた。「なんやそれ?」孝司はその竹筒が入れ物の様になっている事に気が付いた。そして上側の竹筒を回しながら力を込めて上側の竹筒を引っ張ると「ポン」という良い音がしてその竹筒は二つに分離した。中にはとても古い巻物の様な物が入っていた。孝司はそれを広げて読もうとした。
「えーっと、千利休・・・徳川家康・・・キリシタン・・・あかんほとんど読めんな・・・」
「うちが読んだるわ」紀子ちゃんは、ふむふむと一読すると、その内容を説明し始めた。
「これにはな、こう書いてあるんや、あの豊臣秀吉がなんで備中の国、今の岡山県から奇跡的な早さで山城山崎まで戻って来れたのか?ってことや・・・お兄ちゃんなんでやと思う?」 孝司は検討もつかなかった。「わからんなぁ・・初めから知ってたとかそういう事か?」 「そうや、感ええな・・そういう事やねん。豊臣秀吉は初めから明智光秀が織田信長を暗殺する事を知ってたんや・・・と言うかそう言う風に仕向けたと言うてもええんちゃうかな・・・」 「罠にはまったんか?・・・」「そうや。イエズス会の罠にはまったんや!」 「イエズス会?なんやそれは?」「ローマ教皇の精鋭部隊や!フランシスコ・ザビエルもイエズス会やで・・・戦国時代では、どこの武将も最新鋭の武器が欲しかった訳や・・・その武器を供給していたのもイエズス会って言う訳や・・・織田信長は、そんなイエズス会と表面上はうまくつきあってはいたけど、入信はしてへんやろ、それは信長は仏教勢力の対抗手段や南蛮貿易の手段としかキリスト教を考えておらんかったんや、イエズス会は織田信長のそんな魂胆がわかって来ると、織田信長が将来的に自分たちを脅かす存在になるんとちゃうかと思てきたんや」
「そこで明智光秀をそそのかして暗殺を計画したという訳や」
「千利休はどういう関係なんや?」孝司が紀子ちゃんにそう聞いた時、「それは僕が教えたる」孝司は声のする方を振り返ると、いつのまにかそこに田中肇が立っていた。そうあの千利休の子孫と噂されていた“いけすかない”奴だった。 「自分、この子が見えるんか?」と孝司は驚きが隠せなかった。なんせこれまで紀子ちゃんは自分にしか見えない存在だと信じていたからだ。
「あぁ紀子ちゃんとは顔なじみやで、むしろ東野君より古い知り合いやで」
「そうなん?」孝司はびっくりした。

「そう肇お兄ちゃんとは古い知り合いやねん」紀子ちゃんはニコニコ笑っていた。
「肇お兄ちゃん・・・・なんやそれ?」孝司は少し機嫌が悪くなった。

「それで千利休の関係ってなんなん?」
「高いで・・・この話は・・」田中肇はもったいぶってそういうのだった。「もうええわ、はよ言えよ・・」相変わらず田中肇は人をいらつかせる奴だった。
「言いますよ、よう聞いとってや・・・」


「信長を暗殺したのは、実は明智光秀とちゃうんです。あのイエズス会なんです。東野君はイエズス会って知ってる?」田中肇は相変わらずだった。「知ってるわ、さっき自分が説明しとったやんけ・・」孝司は意外と田中肇はボケキャラなのかとむかつきながらも笑いそうになった。「せやったな、それは失礼・・で、イエズス会は信長が天皇をも超えた存在、すなわち神となろうとした事に対して許す事ができなかったんや。ほんで千利休はイエズス会と深いつながりを持っとって、信長を本能寺に誘い出すのに一役買ってるんや。」田中肇は得意げに話を進めた。

「これは常識やけど、当時の武将のうちでは茶の湯が一番のステータスになってたんや。信長も茶の湯に熱心で茶器にも相当に熱心やったんや、俗にいう名物狩りという奴やね。そんな信長の収集癖に付け入り、本能寺で信長がのどから手が出るほど欲しがっていた茶器を披露するような働きかけをしていたのが千利休、僕の遠い遠いおじいさんやったという訳ですわ」
「なんでそんな事、自分がしっとんねん?」孝司はもうええ加減にしてやと言う感じだった。「わかりました。それでは東野君も一緒に行きましょか?」「えっどこにや?」

次の瞬間、孝司の目の前の景色が小さな一点に吸い込まれていった。































第七章  野点(のだて)

次の瞬間、孝司は息を飲んだ。なぜなら歴史の教科書で見た、あの千利休が目の前にいたからだ。その隣には高山右近、細川忠興、古田織部、牧村兵部、何故かそこにいた人物の名前がすらすらと出てきた。

時代は1586年、新七郎が清原きこと出会う1年前だ。

「新七郎!大丈夫か?」 それは加賀山隼人だった。その隣には田中肇が座っていた。「あぁ大丈夫じゃ」孝司、いや新七郎はうろたえながらも体裁を取り繕った。
「新七郎、こちらは千道安氏、利休先生のご子息だ・・」 新七郎は、田中肇がそのまま大人になった様な、この道安という人物が千利休の子供と言われてもピンとこなかった。「せ・・拙者は東野新七郎と申します。以後、よろしくお願い申し上げます。」新七郎がかしこまってそういうと、道安は新七郎の耳元でこうささやいた。「俺や俺・・・田中肇や・・・ほんまアホやな、東野孝司ちゃん」 「えぇ・・・田中肇?」
孝司、いや新七郎の頭の中で田中肇と千道安の名前がグルグル回っていた。
「大丈夫?お兄ちゃん」紀子だった。その紀子の声に新七郎は、我に返った。
「紀子ちゃん、説明して、田中肇は何者なんや?」 
「田中のお兄ちゃんは、私と同じく時間軸を超える能力があるんや、この時代では千道安って千利休の長男を名乗ってる。田中のお兄ちゃんは、孝司お兄ちゃんに千利休の手足となってある仕事をしてもらいたいと思ってるんや」
「なんや、その仕事って?」
「それはわしが説明しよう」千道安、田中肇だった。
「なんや、ややこしい奴やな、今、野点の最中やから大丈夫なんか?」
「大丈夫や、今は時間が止まってる。見てみ・・みんな固まってるやろ」
確かに千利休をはじめ野点に集まった全員の時間が止まっていた。
「ほ・ほんまや」新七郎はその異様な風景にあっけにとられていた。
千道安の説明が始まった。

「まず、この野点、集まってるのは皆、キリシタンや」
「えぇ!千利休もキリシタンなんか!」新七郎は驚きで声をあげた。
「せや、みんなそうやで・・・ほんでこの茶の湯や・・これはキリシタンの礼拝なんや
、なんやかんや言うても羽柴の親父はキリシタンの事はよう思てないんや!いつかはキリシタンを追放するんとちゃうかと思てる」
「せやで、事実、豊臣秀吉は来年にバテレン追放令を出すんや」それは紀子だった。
紀子は続けた。「この一つの茶碗の同じ飲み口から同じ茶を飲むと言う“濃茶”の作法はキリシタンの“聖体拝領の儀式”と同じやねん。ほんで、茶入れを拭く際の作法も聖杯を拭く仕草と同じなんやで・・」
「茶室の躙り口が2尺しかなく狭いのも聖書の“狭き門から入れ”を表してるんや」千道安/田中肇が続けた。
次の瞬間、止まっていた風景が動き出した。
「新七郎殿、貴殿にお願いしたい事がある。この書状を家康殿に渡して頂きたい。」千道安となった田中肇がかしこまって言った。
続いて高山右近「新七郎、おぬしの忍びの力が今、ここにいる我々キリシタンの同胞に必要なのじゃ」千利休が続けた。「羽柴殿は、今にもキリシタンを追放しようとしている、我らはイエズス会の命を受けて家康殿と同盟を結ぶ事にしたのじゃ、新七郎殿には、家康殿にこの書状を届け家康殿の了解をもらって来てもらいたいのじゃ」
新七郎は、その命の重さに押しつぶされそうになったが、同時に皆の期待に答えたいという気持ちがメラメラと湧いてくるのだった。
「承知いたしました。」新七郎は大きく答えた。
「よくぞ申した。」高山右近が手を叩いた。細川忠興、古田織部、牧村兵部も皆、
手をたたき新七郎を讃えた。

1586年、徳川家康は、その居城を浜松城より駿府城に移していた。そう駿河の国、今の静岡県にあたる。

勢いでそうは言ったものの、不安になった新七郎(孝司)は紀子に駿河の国までの距離を尋ねるのだった。 
「紀子ちゃん、駿河の国までここからどの位で行けるんや?」
「せやな、この時代の人は一日平気で40キロ歩いたそうや、そのペースで行くと、2週間で駿河の国まで行ける計算になるね・・・」
「2週間?なんやそれ」新七郎(孝司)は気が遠くなりそうだった。
そして高山右近「新七郎、この書状を1週間以内で家康殿に手渡すのじゃ、我らには時間がないのじゃ」
「え・・・」高山右近の言葉に新七郎は。逃げ出したい気分になった。
「お・・・親方様・・・」新七郎は泣きそうだった。

「新七郎、大丈夫じゃ安心せい、拙者も共に参るつもりじゃ」加賀山隼人のその力強い言葉に新七郎は励まされた。

「隼人、新七郎に一句贈ろう。」
細川忠興だった。一同は細川忠興の俳句に耳を傾けた。

「クルス山、越えて集わん主のみもと」 

細川忠興、そう明智光秀の三女である細川玉の夫、これからの新七郎(孝司)の人生にも大きく影響を与える人物だった。

そして紀子にも・・・














第八章  徳川家康

新七郎と加賀山隼人は、超人的は早さで徳川家康の居城である駿府城に向かっていた。駿府城まではもうすぐだった。走りながら孝司は紀子に前から疑問に思っていた事を聞いてみた。紀子はいつも孝司のそばにいたからだ・・・
「紀子ちゃん、家康は、小牧・長久手の戦いで秀吉軍に勝ったのに、なんで秀吉に臣従しなあかんかったんや?前から不思議やったんや・・・」
「あのね・・・小牧・長久手の戦いで、家康は確かに羽柴軍に勝ったんやけど、それは長い長い戦いのほんの一つの戦いでしかなかったんや・・織田信雄・徳川家康軍は全体的には負け戦で豊臣秀吉と講和を結ぶしか選ぶ道はなかったんや・・・せやから家康は自分の領地を取られた上に、秀吉に臣従しなんとあかんかったんや、家康としては当然、面白くはないわなぁ・・千利休、イエズス会はそこに目をつけたんや・・・」
「えっそれはどういう事なん?」
「この時代の鍵はイエズス会が握ってたという事や、イエズス会は、それ以前にあった、修道会クリューニー会やフランシスコ会とは違って「より大いなる善」の為には何でもやる様な考えがあって、火薬の原料となる硝石を貿易の目玉として各地の大名と取引してたんや、各地の大名は硝石欲しさに自分の民をキリシタンにしてたんや、この時代のキリシタンの人口は10万人なんやで・・・」
「何をぶつぶつ言っておるんじゃ?新七郎?」隼人には紀子の姿は見えないので新七郎が独り言を言っているように見えたのだった。「いや、独り言じゃ・・・隼人兄、駿府城までは後、どの位の距離なんじゃろか?」「そうじゃな、ここからは、まだまだ距離はあるな・・・とりあえず今日は温泉にでも入って作戦を練ろう。」隼人と新七郎は焼津で有名な黒潮温泉に宿を取ることにした。 
黒潮温泉の旅館の露天風呂で二人は旅の疲れを癒していた。雲一つない夜空に満月が美しい夜だった。「隼人兄は、イエズス会の事はどう思ってる?」新七郎は、心の奥底では、イエズス会がキリスト教を広める為に各地の大名を利用する様な動きをしている事に疑問を持っていた。「そうじゃな、確かにイエズス会の考え方は、過激な面があるのは確かじゃな・・・今回の家康様の件もこれからは家康様に天下を治めさせるのがイエズス会に取って得策だと睨んでの話なのじゃろ」
「隼人兄、家康様は秀吉様に一矢を報えるのであれば間違いなくこの話に乗ってくるでしょう、しかし親方様・・・右近様は本当に家康様に寝返るつもりなのじゃろか?親方様も拙者と同じくイエズス会の過激さには疑問をもっておられるように見受けられるのじゃが・・。どうなんじゃろか?」 「新七郎、欧州ではイエズス会に対して反旗を翻す輩がおるそうじゃ、彼らはプロテスタントという呼び名で呼ばれていると言う噂を聞いた事があるぞ、どうも右近様もその考えに気持ちを合わせる部分もある様な話をされておられるのをわしは聞いた事があるのじゃ」「プロテスタント 奇妙な名前の輩じゃの・・・とにかく今は家康様に書状を渡す事だけを考るとしよう」ふたりは遅くまで露天風呂で将来の日本の国のあるべき姿について語り合った。焼津の夜はこうして過ぎていった。

そして翌日には、二人は駿府城についに着いた。これは、一日40キロ以上走った計算になる。
「隼人兄、なんとすばらしい城なんじゃ、わしゃ度肝を抜かれたわい」新七郎は初めて見る駿府城のすばらしさにただ、ただ驚くばかりだった。隼人も初めて見る駿府城に興奮していた。二人は会見の間に通され家康と接見した。接見の間には既に家康の側近が座していた。二人はその人物に深々とお辞儀をした。その人物の名は、本田忠勝だった。あの小牧・長久手の戦いで苦境に立たされていた家康軍をわずか500人の軍勢で16万の兵を誇る羽柴軍の間に立ちはだかり羽柴軍の進撃を阻止した徳川四天皇の一人として知られた人物だった。「あの本田忠勝・・・・」二人は緊張で息ができない位だった。「加賀山隼人、東野新七郎 おぬしらの書状は確かに受け取った。家康様には、この本田忠勝が間違いなく届けようぞ、今日は、この駿府城でゆっくり休んでくれ」隼人と新七郎は、家康に接見できるかと思っていたので、少し残念な気持ちもあったが、反面ホッとしたところもあった。二人は、長旅の疲れ緊張から解放され全身から力が抜けるような疲労感に襲われたのだった、「新七郎、疲れたじゃろ、わしも本当に疲れた・・・今夜は酒でも飲んでゆっくり休もう。」その夜、二人は大いに飲み、食いをし、大広間で大の字になってそのまま寝てしまったのだった。


















第九章  暗殺計画

隼人と新七郎はもちろん、書状の中身など知る由もなかった。実は、その中身はイエズス会の手先だった千利休の秀吉暗殺計画を記したものだった。そして秀吉暗殺が成功した暁にはキリスト教を国教にする事を家康に約束させる事が目的だった。
家康に天下を治めさせる代償として・・・

黄金の茶室にて

「秀吉殿、この茶碗いかがでございますか?楽長次郎に作らせましたこの茶碗は轆轤を使わず、手捻りで作らせたものでございます。一見、いびつに見えるかもしれませんが、持った時の手触りが何とも言えないものがございます。この黒と言う色もすべての色を包含している色で禅宗の侘び寂びを余すところなく表しているのです。一つの宇宙を表現しているとも言えるのです。」「利休よ、わしは豪華絢爛な茶碗を好いとる、黄金の茶碗でも良いと思うとるんじゃ、なぜに黒い茶碗なのか?わしには判らん。」「まぁ、そう言わずにまぁ一服・・・」 利休は、これまでも少しずつ、少しずつ、茶に毒を入れ徐々に秀吉を死まで追いつめる作戦だった。秀吉は、日に日に悪くなる体調の原因がどうもこの茶にあるのではないかと疑い始めていたのであった。「利休、おぬしは何を企んでおる・・・この黄金の茶室にその黒い茶碗が似合うとでもおもっておるのか?わしが忌み嫌うとると知っててわざと黒い茶碗を出しているのじゃろ、わしを小馬鹿にしとるのか!」 「秀吉殿、それは全くの誤解です。この黄金の茶室も私の作品、黒い茶碗もこの黄金の茶室にあってこそ、さらにその存在を際立たせるのです。」「もう、良いわしはもう寝る、お前も帰れ」秀吉はそう言い放つと黄金の茶室を後にした。秀吉に対しては、これまでも数々の暗殺計画が企てられ、その都度、秀吉は家臣に助けられ難を逃れていた。秀吉はこの時、疑心暗鬼になっていたのだった。千利休は、茶の湯の師匠であり、多くの武将から慕われていた、秀吉は、その事にも懸念を持っており自分を脅かす存在にいずれなるとのではないかと恐れていたのだ。そして、天正19年(1591年)、利休は突然秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられたのだった。前田利家や、利休七哲のうち古田織部、細川忠興ら大名である弟子たちが奔走したが助命は適わず、京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられた。享年70。切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図る恐れがあるから、秀吉の命令を受けた上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んだと伝えられている。死後、利休の首は一条戻橋で梟首され、首は賜死の一因ともされる大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされたという。
利休が死の前日に作ったとされる遺偈(ゆいげ)が残っている
人生七十 力囲希咄 (じんせいしちじゅう りきいきとつ)
吾這寶剣 祖佛共殺 (わがこのほうけん そぶつともにころす)
提ル我得具足の一ッ太刀 (ひっさぐルわがえぐそくのひとツたち)
今此時ぞ天に抛 (いまこのときぞてんになげうつ)
こうして千利休の秀吉暗殺計画は失敗に終わった。
時は移り、現代に・・・
「孝司、ほんま久しぶりやな」孝司は慎二と中津の駅前で待ち合わせをしていた。「慎二、その教会ってどこらへんにあるんや?」「ここから5分くらいのとこらしいで・・・」
「なんていう教会やったっけ?」「なんとかバステスト?って言ってた様な?バスがテストを受けるんかいな?」「バプテストや・・・」気がつくと隣に紀子がいた。「紀子ちゃんも久しぶりやなぁ」紀子と会うのは、駿府城に向かう途中に会ったのが最後だった。
孝司は、なぜか嬉しかった。「何にやけてんねん?」紀子に気持ちを見透かされている様な気がして孝司の頬は赤くなっていた。なんとかそれは紀子にはバレなかったのだが、今日は、慎二のお兄さんが通っている中津教会のバザーに孝司は慎二に誘われたのだった。教会につくと既にバザーは始まっていた。「孝司くん、よう来たね・・」慎二のお人さんは慎二とは似ても似つかないほど真面目な好青年っていう感じだった。バザーは、教会のメンバーが色々な物を持ち寄って安く販売をし、その収益はミャンマーにある孤児院に寄付するというのが目的だった。教会の中には、そのミャンマーの孤児院の写真や孤児院の子供達からの手紙や絵が飾ってあった。
孝司と慎二がそれらの写真を見ていると綺麗なお姉さんが声をかけてきた。「これは、ピース オブ ハウス 平和の家なんよ、ここにいる子供たちはみんな、イエス様を中心に一つにまとまっているんよ」 「イエス様ってデウス様の事?」孝司にとってイエス様という名前は初めて聞く名前だった。
「デウスって?」お姉さんは目が点になっていた。「デウスというのは、ラテン語で神を表す言葉ですね・・・」 それは中津教会の牧師の川田牧師だった。知らない間に孝司の後ろにいて話をどうも聞いていたらしかった。川田牧師はこう続けた。
「昔、フランシスコザビエルは、ザビエルの通訳者として有名なヤジローに相談し、神様の事をなんと呼ぶべきかを考え抜いた結果、大日如来から大日と呼んでいたそうですよ、なので仏教の一つと思われていたようで、日本のお坊さんからも歓迎されていたらしいのです。しかし、誤ちに気がついたザビエルは、大日ではなくデウス様を信じなさいという事を急に言い始めたので、皆が驚いたそうです。」
「ところで、君はどうしてデウス様という言葉を知っていたのかな?」
孝司は、返答に困りとっさに嘘をついてしまった。「中学校の授業で先生がそう言ってました・・・」「へぇそうなんですか?」川田牧師もそれは意外という感じだった。
「みなさん、バザーの後に礼拝がありますので是非参加してくださいね。」そう言うと川田牧師は2階の礼拝堂の方に向かっていった。「それじゃ、僕らも礼拝堂に行きますか?」慎二のお兄さんの誘導で孝司たちも礼拝堂に向かった。
礼拝堂に続く階段は、ギシギシと音を立て今にも崩れ落ちそうな感じがした。
「大丈夫かいな?」慎二がつぶやいた。孝司も内心不安になった。階段を登りきり、これまた古いドアを開けると、意外や意外、礼拝堂は真新しい感じで、100人くらいは人が入れそうな立派な礼拝堂だった。 「あれ?」慎二が誰かに気がついた。 そこに田中肇がいた。田中肇も二人に気がついたようでこっちを向いて手招きをしていた。「おい、どないする?」慎二はもろに嫌そうな感じでそう孝司に言った。孝司も気乗りはもちろんしなかったが「しょうないなぁ」としか言えなかった。 二人は田中肇の隣にイヤイヤ座った。「なんでお前がここにおんねん?」慎二はストレートに田中肇に聞くのだった。「なんでって?僕はここの信徒やからねぇ、のりちゃんもおるんやね?」 「そうや、うちは孝司お兄ちゃんといつも一緒やからな」紀子は孝司の腕にしがみつく格好をした。孝司はまたまた顔が真っ赤になった。小学生に腕組みされて顔が赤くなるのも変だったが・・
慎二だけには紀子の姿は見えていなかったので慎二は怪訝な顔をしていた。
「孝司、のりちゃんってなんや・・・こいつアホちゃうか?」孝司はまぁまぁと慎二をなだめた。そうこうしているうちに礼拝が始まった。礼拝はオルガンの厳かな賛美歌で始まり、10人くらいの聖歌隊が入場して始まった。賛美歌を皆で数曲歌って、川田牧師の宣教が始まった。宣教が始まると田中肇が孝司にこう耳打ちをして来た。
「新七郎、おぬしにお願いがある、わしの親父を殺した、あの秀吉に復讐する。その計画に参画して欲しいのじゃ・・」 それは秀吉の暗殺の計画だった。
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