第1話

文字数 1,560文字

 風が心地よい初夏のある土曜日のことだった。俺は同級生の「イモキ」こと五百旗絢花(いもきあやか)と出会った。ハーブ園の丘へ続く道が始まる駅前広場だ。
「ジ、ジナリ……くん」
 イモキはいかにもアニメヲタクらしく、セリフを思いっきり吃らせた。
 ところで俺の本名は織地鳴人(おりじなりと)だから、同じクラスの一度も会話をしたことのない女子ならば苗字に「くん」づけで、「織地(おりじ)くん」みたいな感じで呼んでくるのがふつうだと思う。
 まあ、クラスの男子や先生までが俺のことを「ジナリ」と呼ぶから、驚いたイモキがそう口走るのも、仕方ないことかも知れない。
 どっちでもいいか。
「よおっす。こんなところで何してんだ?」
 俺は右手を顔の横まで上げて、手のひらを見せた。
「えっ? まさか本当にナリトくん……」
「イモキ、当たり前のこと言うなよ」
 家族以外に下の名前で呼ばれたことなんてないので、俺はちょいと動揺していた。女子を呼ぶのに「さん」づけを忘れたのは、それが原因だ。
「正真正銘の織地鳴人(おりじなりと)だけど?」
「ナ……、ジ、ジナリくん」
 残念ながらとびきりの美少女とは呼べないルックスの女子高生は、両手で持ったアクリルスタンドを胸元に引き寄せた。
「お願いがある……んだけど」
 うつむき気味にごにょごにょと話しをする様子はなんだか小動物っぽかった。
 ところで……、俺に何の用だ?
「い、いっしょに聖地巡礼してくれない……かな」
 いきなり、デートの誘いだった。

 イモキは背が俺の胸までしかないほど小柄だ。けっして肥満ではないけれど、ふっくらやわらか体型だから年齢よりも幼く見えた。
 ファニーフェイスで、ショートヘアーに縁取られた丸顔はぬいぐるみっぽかった。いわゆるガーリーな「カワイイ」とは違う、小動物的なかわいらしさだ。
 俺はこのとき、彼女が珍獣ウォンバットに似ている、と気がついた。
「いっしょに聖地巡礼とか言って、アクスタの彼氏とデート中じゃないのか?」
 問い返すと、イモキは一瞬で顔を赤らめた。声に出して、「はっ」と息を呑みながら、アクスタを胸の谷間に押し込む。あわてて隠したところを見れば、どうやら思いっきり図星のようだ。
 それよりもイモキ、胸、大きかったんだな。
「隠すなよ。俺の姉貴、自他ともに認める腐女子だから、べつに引かねえし」
 イモキは耳まで真っ赤にして、胸に挟んだそれをちっちゃくて丸っこい手で懸命に隠そうとした。それでも指の間から、特徴的な茶髪がチラリと見えた。
 ああ、あいつか。
「もしかして、さっき口にした『ナリト』って、アニメの主人公のことか?」
「ぎくうっ!」
 おいおい。こいつも姉貴と同じ、筋金入りのヲタクだな。
「そ、そんな……なぜ、分かったの」
 イモキはあっけなく事実を認めて、胸の谷間に挟んだものを取り出した。それはやはり、ひと昔前に人気があったアニメの主人公・神成(かんなり)とうま、劇中では「ナリト」と呼ばれるキャラのアクスタだった。

 アニメのあらすじをざっと紹介すると、主人公のナリトはひょんなことで出会ったミステリアスでツンデレなストレート・ロングの美少女同級生に振り回され、奇想天外・奇妙奇天烈な学園生活を送ることになる、という話だ。
 あえて指摘しないけど、その服がヒロインのコスプレってことも気づいているぞ。
「聖地巡礼デートなら、推しとふたりっきりの方がいいだろ。じゃあな」
 俺は右手をひらひらさせ、広場から立ち去ろうと足を動かしたが、体が前に進まない。
 イモキが俺のシャツの袖口を掴んでいたからだ。
「もしかして、俺についてきて欲しいのか?」
 イモキはこくりとうなずいた。
 胸の奥から、男の声が聞こえてきた。
 ――(コク)られたわけでもないし、手をつなぐわけでもないんだ。ちょっと散歩するくらい、いいじゃないか。
 俺は声に従うことにした。もちろん、どうせ暇だったからだ。
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