第2話

文字数 3,514文字

 イモキはアクスタ片手に、3歩ほど後ろをついてきていた。ちょこちょこと足を動かして追ってくる様子は、まじでウォンバットのようだった。
 途中で何度かアクスタとの撮影タイムを挟み、1時間半ほどでハーブ園の入り口に着いた。
 そこで俺は異変に気がついた。いや、違う。強引に気づかされたんだ。
「ほら、これ」
 顔全体を覆うようにパンフレットが押し付けられた。
「ナリトの分、取ってきて上げたの。感謝しなさい」
 だから俺を、下の名で呼ぶんじゃない。
 俺は目を見開いた。そこにいたのはイモキではなく、すまし顔の美少女だったのだ。
「やっと気がついたの? 鈍感な男ね」
 イモキとは違ってよく回る舌にはトゲがあった。こちらを見上げる、ぱっちり二重の瞳はきらきらと陽光を反射していた。卵型の顔を縁取るのは、流れるような黒髪のロングだ。
 挑発的な微笑みを浮かべる白皙の美少女が誰か、俺は知っていた。この女子高生は、「トーコ」こと水無川稲子(みなかわとうこ)だ。
 トーコが俺と、会話を交わしていること自体があり得なかった。目の前にいるのは、よく姉貴といっしょに見ていたアニメのキャラで、ナリトの彼女だからだ。
 俺が完全にいかれてなければ、の話だけど。
「ま、まさかイモキじゃないだろうな。超進化したコスプレか?」
「その目は節穴? 美しさが違うでしょ」
「ひどい言いようだな。イモキがかわいそうだ」
 俺は同級生のために腹を立てた。

 目の前の出来事は、もしかして夢じゃないだろうか。
 ――いいや現実だ。細部がはっきりし過ぎている。
 心の声が告げたとおり、周囲の音が、いやにはっきり聞こえていた。風が運んできた草の匂いもする。夢であるはずがなかった。
 俺は目の前にトーコが存在する、納得のいく理由を考えようとした。脳が高速回転して熱を発し、今にもバターのように溶けだしそうだった。
「ワンチャン……いつものが着ぐるみで、今はそれを脱いだ状態だとか」
「ひどいこと言ってるのは、あんたの方じゃない」
 トーコは、アクスタを持っていない方の手をグーにして、俺の胸を突いた。
「女の子に向かって、言っていいことと悪いことがあるでしょ」
 自分の発言は棚に上げて、追い討ちをかけてきやがった。
「だって左手のそれは、イモキの物だろ?」
「あら、何も見てないわけじゃないのね」
 少女は朗らかな声で続けた。
「そう……この部分はまだ、彼女のまま」
 耳にした答えに、背筋が凍るような恐怖を感じた。俺にはその意味が直感的に分かったからだ。
 つまりイモキは「トーコ」という架空(フィクション)の人物に、身体を乗っ取られかけている、ということだ。
「イモキの部分はもう、そこだけしか残ってないってことか」
「あら、見た目ほど鈍感でもないのね」
 俺はアニメでよく聞いた言い回しに怒りを覚えた。
「そんなことはどうでもいい」
「いいんだ?」
 ――抑えろ、安っぽい挑発だ。
 俺は胸の奥で、「しっかりしろ」と自分を励ました。
「とにかく、イモキを返せ」
「いやよ」
 ――気をつけろ。トーコは不機嫌になると、トンデモ現象を引き起こすぞ。
 警告は遅きに失していた。

 トーコの足下から、黒い湯気のようなものが立ち上り始めていた。アニメの中では、彼女のオカルト的な力が発揮される演出だ。実際に目の当たりにすると、本能的な恐怖心を感じずにはいられない。
 そもそもアニメの登場人物が、なぜこちらの世界の存在を知っているんだ。
 ――心当たりがあるんじゃないのか?
「イモキが招いたからだろう」
「は? なに言ってんの」
 トーコの顔の、険しさが和らいだ。
 ――動揺している。
「イモキは、ナリトのアクスタ持って聖地巡礼するようなアニヲタだ。願いが叶うならば、トーコ本人になってみたかったんだろうよ」
「そ、それがどうしたって言うのよ」
「きっとその願いは、そちらへ届くほど強かったんだ。そしてトーコを呼び出してしまったんじゃないのか」
「だからなんだって……」
「イモキを返せ」
 トーコは絶句した。
 ――待て、なんかおかしいぞ。
 またしても、俺の胸が警告を発した。
 ――トーコは意地悪なときもあるけれど、根は悪いやつじゃない。
 そうだな。少なくとも作品の中ではそうだった。
 ――身体を返さない理由が、悪意からとは限らない。
 なるほど。
「正直に言ってくれ。もしかして……出来ないのか」
 トーコは一瞬、目を見開いた。それから急にうつむいた。
 あたりだ。
「出来たら、とっくにやってるわよ」
「本気でナリトのいる世界へ帰りたいと願うとか」
「とっくに……やっているわ。でも、イモキから離れられないの」
 顔を上げたトーコは泣いていた。ほろりとこぼれる涙が俺の胸を打った。
「あの子は、元に戻りたいと思っていないの。理由は分からないけれど、強い力で私を捉えている」
 ――そんなこったろうと、思っていたよ。
 俺はこのとき、心の声の正体に思い至った。
「あんたの言うとおりだったな」
 トーコが小首を傾げる。俺は声を張り上げた。
「俺の中にいるんだろ? ナリト」
 ――当たりだ。
「ナリトが来ているの?」
 トーコの表情が明るくなった。
「どこ? どこにいるの」
「俺の胸の中」
「なんで出てこないのよ!」
「それは……」
 なぜだ?
 ――トーコが本心から帰りたいと思っているか、確かめてからだ。
「出てきて。私を助けなさいよ、ナリト!」
 ――分かった。僕の手を、握れ。
「ナリトの手を握れ、とさ」
 ――黙って入り込んで悪かった、ジナリ。
 俺の胸から、煙よりも薄い陽炎のようなものが抜けていった。それは宙に留まってナリトの形をとり、トーコに向けて手を差し出した。
 ――帰ろう。
 トーコは眩しいものを見るように目を細め、ためらいがちに手を伸ばした。
 ふたりの手が固く握り合う。
「いい? イモキのこと、ちゃんと引き留めるのよ」
 トーコの言葉を聞き返す間も無く、ジナリの姿が虚空に吸い込まれていった。繋いだ手に引かれて、トーコの体も引き込まれていく。指先が蜃気楼のようにぼやけだすと、体が浮いて、かかとが地面から離れた。
「待て、待て待て! イモキの身体は置いていけ」
 イモキの体はトーコと一体化したまま引っ張られていて、今や右腕の肘までが虚空にのめり込んでいた。両足は完全に地面を離れている。
 ――考えろ……大事な……
 ナリトの声が、切れ切れに聞こえた。
「考えろって、何を」
 大事なものって何だ。
「その目は節穴なの?」
 トーコの声が耳を打った瞬間、俺の目がそれを捉えた。そして気がついた。
 左手に握りしめられた、ナリトのアクリルスタンド!
「イモキ、行かせないからな」
 俺はイモキの手をアクスタごと握りしめた。ナリトの髪の毛部分が手のひらに刺さったが、構っていられなかった。
「自分から声かけといて、デートを途中ですっぽかすつもりかよ」
 俺の手の中で、トーコの拳が硬く握られたような気がした。
「ジ、ジナリくん……」
 イモキの黒めがちな目には涙が光り、口元はわなわなと震えていた。
 よく見るとイモキの顔も体も、いつの間にかウォンバット・ライクな小姿に戻っていた。あとは右手を亜空間だか何かから引き抜けば、救出完了だ。
「戻ってきたら、次の聖地巡礼も付き合ってやっから」
「けち!」
 トーコの声が遠ざかっていく。
「何だったら、俺の秘密をひとつ、教えてやってもいい」
「ほんとうに?」
 次の瞬間、イモキはこちらへ向かって飛び降りてきた。俺の首に右腕を回して抱きつき、ぶら下がる感じになった。弾力のある胸が俺の胸板に乗っかる。
 やはり胸、大きいんだな。
「ジ、ジナリくん」
 俺はべつにいやらしいことなんて考えてないぞ。
「ひ、秘密って、何?」
 俺の脳みそは数秒間、停止した。秘密って、何だ。
「教えてくれるって、言ったよね」
 イモキは宙に浮いた足をぱたぱたさせながら聞いてきた。もしかして、地面に足を届かせようとしているのだろうか。
「あれは……」
 口から出まかせ、とは言えない。仕方なく俺は、母と姉以外は誰も知らない秘密を口にした。
「俺はウォンバットが好きなんだ。幼稚園の頃から、特大ぬいぐるみ抱いて寝てる」
 ――すげえカミング・アウトだな。
「変態じゃないの?」
 聞き取れないほど微かに、ナリトとトーコの声がした。ような気がする。
「ぬいぐるみを抱いて寝るの?」
 イモキの呟きが、耳たぶをくすぐる。
「絶対に、誰にも言うなよ」
 秘密を守ってくれないと、かなり困る。
 説得にはちょっと時間がかかったが、ちゃんと口止めをしてから、イモキを地面に降ろした。
「なんか色々あったけど、次、いくぞ」
 声をかけると、イモキはちょこちょこと寄ってきて、俺の左腕に手を置いた。
(了)
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