第3話

文字数 3,995文字

だけど、高校に入った初日に、五十点以下は赤点だと聞かされちゃ、こりゃあ卒業するのは無理だと思ったね。なにしろ僕は筋金入りの落ちこぼれなわけだからさ。

それでも、はじめのうちは余裕だった。例えば、国語や英語の授業で教師から教科書を読んでみろと言われない限り、大丈夫だった。ところが、読まされた日にはもう最悪。身の置き所がなくて、まわりの奴らに教えてもらいながら読んだ。そんなふうにひんやりとさせられた瞬間を除けば、とりあえずは大丈夫だった。

けれども、中間テストが終わったあたりから、なんとなく雲行きが怪しくなり、期末テストというハリケーンが襲来した後には、自分の机が補習のクラスまで飛ばされていることに気づいた。ハリケーンが去ったあとはひどいありさまだった。バカばっかりが集まる避難所で、てっきり勉強するのかと思いきや、そのバカたちがずぶ濡れになって騒いでいたので、僕も一緒になって騒ぎ、ガムをくちゃくちゃ噛みながら、卑猥な冗談を言って笑い合っていた。

そんなことだから、追試なんかやったところで0点だよ、きっと。そう観念していた。けど、やってみると、これがまたバカでも点数がとれるくらい簡単なテストだったから、すっかり上機嫌。つまり、言うなれば追試の前日に先生がくぐもった声で、それとなく出るところを教えてくれた。「なるほど、じゃあ、そこがテストに出るんですね?」と聞くと、「それはまあ……そうかもしれんな」と答えた。おかげで、信じられないかもしれないけど、3年間補習と追試を繰り返しながら、おまけに授業中はほとんど眠っていたので、英単語一つ覚えることなく卒業してしまったというわけなんだ。

そして応募した全米六大学留学プログラムから資料が送られて来た時には、「絶対、カリフォルニアね! 俺、カリフォルニアじゃなきゃ行かねぇからな!」と、ミズーリ州、コロラド州、オハイオ州、マサチューセッツ州にある五つの大学には目もくれず、カリフォルニアの大学に狙いを定めては、銃を撃つマネをして、銃口に息を吹きかけていた。

でも、これ本当に行くことになったらマズイよね。だって銃に弾が入ってないんだから。

全米六大学留学プログラムには、提出しなければならない書類がいくつかあった。まず、卒業した高校の成績証明書と推薦状(どちらも英文)が必要だった。

そのため、母親が高校に頼みに行き、先生が書類を作成して送ってくれた。こんな具合に話はどんどん進んでいった。僕は飯田橋の逓信病院に健康診断を受けに行ったんだけど、そのとき英文の診断書の「Signature」と書かれている箇所にローマ字で自分の名前がうまく書けなかったのを覚えている。

医者「はい、じゃあここにローマ字で自分の名前をサインして」

言われて、呼吸が止まりそうになった。健康診断を受けに来て死にそうになったわけだ。まさかローマ字がわかりません、なんてみっともなくて言えなくて、それで腹をおさえてかがみこみ、トイレに行きたくなったふりをして、慌てて待合室で待っていた母親のところまで走って聞きにいった。そしたらさ、母親が、あなたローマ字もわからないの?となって、呆れて少し怒った。で、ぐだぐだ言われながら教えてもらった。

Hideyuki Ohno

何事もなかったようにトイレから戻って来たふりをして診察室に入って行き、自分の名前を書いた。

「サインですね」

「はい、お願いします」

Signature  Hide……u…

あれ。えっと……、お腹を押さえながら、「すみません、もう一回ちょっとトイレに行ってきます」と言い、また母親のところに戻った。そしたら、母親が怒りを爆発させた。

「アンタ!ふざけないでよね!何しに高校行ってたの!」

もう無理だってば、自分の名前もローマ字で書けない奴が、どうしてアメリカの大学に行けるわけ? ねえ、マジで。

そんでもって、次に高校在学中に頑張ったことややり遂げたことを英作文で書いて提出しなさいという課題が出された。でも、インターネットがない時代に自分でそれを書くのは至難の業だった。とはいえ、英語の辞書やなんかに例文が書いてあるから、うまく組み合わせれば、それなりのものは書けるかもね。でも、そのときには、気づかなかった。

そして思い出したのは、高校二年の夏に、家に教材を売りつける電話営業がかかってきて、騙されてそれを買ってしまったことだった。その教材の中には、わからないことがあれば電話で質問できる「おたすけカード」というものが四枚入っていた。

「私はテニスを一生懸命に頑張りました。これを英語にすると……」

『アイ プレイド テニス ベリーハードです』

高校時代テニス同好会に入って、高価なラケットは買ったけど、一度も使ったことはなかった。

「アイ プレイド テニス ベリーハードですね。じゃあ、しかし、テニスが上手になりませんでしたは?」

『バット アイ ワズント グッド テニス』

「バット アイ ワズント グッド テニスか。なるほど。じゃあ、それでも3年間私は無我夢中で、ラケットがぼろぼろになるまでテニスをやり続けましたは?」

僕が電話で聞いて、隣で母親がそれを書きとめていた。

しかし、このカードは期限切れだったし、一門一答というルールで4問しか受け付けられないと言われた。それでも、どうにかこうにか頼み込んで、電話の相手に最後まで付き合ってもらい、なんとか仕上げることができたのだ。

あとは作文を提出(日本語)。あらかじめテーマも決められていた。

『より良い世界とは』

もちろん、自分で書いた。

そして全ての提出書類を全米六大学留学プログラムを主催している会社――クロスロードに郵送すると、一ヶ月ほどで、郵便受けに切符が届いた。

【大野英之様。カリフォルニア州の大学に決定いたしました】

これまでに体験したことがないような恐怖に包まれた。

それに、まだカリフォルニアの大学に合格したわけでもないのに、うちの親は記念のテレホンカードまで作って近所の人たちに配って歩いてまわっていたので、口から心臓が飛び出しそうになった。

お前ら、頼むからやめてくれって思って血の気が引いてガタガタふるえてきた。

もう行かざるを得ない状況に追い込まれていた。だいいち、万が一くじけて日本の土を踏んだ日にはいい笑いものだろ。初めて行くカリフォルニアが、新婚旅行ではなく、新聞にどでかく載っていた全米六大学留学プログラムだと思うと唖然とした。しかも、これに参加してくる連中は、みんな優秀な奴ばかりなんだろ。

そうするうちに、年が明け、時間は刻々と過ぎていき、全米六大学留学プログラムを主催している会社――クロスロードから送られて来た手紙に目を通しては憂鬱になっていた。

1991年度全米六大学留学プログラムについて。1泊2日のレクリエーションの日程と場所が下記の通り決定致しましたのでご確認ください。なお、何か質問などございましたらお気軽にご連絡ください。

日時:4月20日(土曜) 午後12時半
場所:JR新横浜駅 ニューホテルグランド20階
13時から16時半までテストを行いますので、あらかじめ昼食を食べてお越しください。18時から20時まで、各大学に別れて食事会を行います。

4月21日(日曜) 10時から11時半まで全米六大学合同入学式を行います。13時から15時まで、各大学ごとにわかれて説明会を行います。保護者の方は入学式ともども参加してくださるよう、お願い致します。

アパートを五月いっぱいで退去することを大家に言わなければならない。そう思いながら真夜中に冷たい床に置いた小さなブラウン管テレビを見ていると、アイルトン・セナが開幕から2連勝し、母国ブラジルグランプリで初優勝を果たした。セナの泣き声がヘルメットに装着された無線マイクを通じて、地鳴りのように聞こえてきた。

もう逃れようのない何かに引っ張られているような気がしていた。

やがて、レクリエーションの日が近づくと、全米六大学留学プログラムを主催しているクロスロードから、スーツを一着用意するようにとの通達があったらしい。

「めんどくせーなあ、スーツなんて必要ないだろう!」と僕が強めの口調で言うと、母がこう返した。「アメリカではパーティーがあるそうだから、ドレッシーなスーツを一着持っていかないとダメらしいわ」つまり、そういうことだ。

それで、新宿の丸井まで車を走らせ、スーツ一着と紺のブレザー、ネクタイを買ったのを覚えている。

その間に辺りは暗くなり始め、帰り道は渋滞していて、踏切の赤いランプや車のテールランプが不安をあおるように僕を照らしていた。

僕は「俺、やっぱり行くのやめる」と助手席に座っていた母に向かって言うと、母は「卒業できなくてもいいから、行ってきなさい」と言った。

卒業どころか、入学もできねーだろーが! 行く意味ねーよ。そう思った。だって失敗するのは目に見えていた。どこからか聞こえてくる「とおりゃんせ、とおりゃんせ」の鈍く割れた嫌な信号音が、僕の不安をさらにあおってくる。それを追い払うように、母は僕に向かって話し続けた。

「若い時でないと、海外で暮らせないのよ。お母さんみたいに年を取ると、外国で暮らそうと思っても、難しくなってきちゃうの。それに、向こうでできたお友達っていうのは、きっと一生付き合えるお友達になると思うから、行ってらっしゃい」

気掛かりな夕焼け空をバックに信号は青に変わり、目の前のブレーキランプが次々と消え、僕はその先どうなるかなんて考えもせずそれ以上言うこともなくて無言で車を走らせた。母のその言葉に後押しされるように、この全米六大学留学プログラムをただ一点、一生の友達を見つけに行くということにシフトさせ、向こうの渋滞していた交差点の手前で目一杯左にハンドルを切って、抜け道に入って行った。








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