第2章 アンティゴネとヘーゲル

文字数 3,933文字

第2章 アンティゴネとヘーゲル
 『アンティゴネ(Ἀντιγόνη)』は古代ギリシア三大悲劇詩人の一人ソポクレスが紀元前442年頃に書いた作品である。オイディプスの娘でテーバイの王女であるアンティゴネをー題材としている。なお、1973年に日本で少年時代を送った人には、特撮ヒーロー物『ジャンボーグA』の敵役「アンチゴーネ」としてこの名前がしばしば記憶されている。

 『アンティゴネ』は、兄への弔意という肉親の情や神の法に基づく人間を埋葬する倫理的行為と国家による法の適用などの対立を扱っている。ヘーゲルはこの悲劇論を『精神現象学』において展開している。これは非常に有名で、賛否いずれであっても、研究の際に踏まえておかなければならない論考である。さらに、ヘーゲルは、『精神現象学』の他に、『美学』の「詩」や『法の哲学』の「家族」においてもアンティゴネを論じている。そのようなアンティゴネの見立てはヘーゲルがクリスチアーネを深く愛していたことを物語る。

 『アンティゴネ』のあらすじとヘーゲルの考察を見てみよう。

 先王オイディプスの死後、アンティゴネとイスメネの姉妹はテーバイへ戻る。しかし、アンティゴネの兄たちが王位をめぐり争っている。その挙げ句、アルゴス人の援助を受けてテーバイを攻撃するポリュネイケスと王エテオクレスが刺し違える。それにより、クレオンがテーバイの統治者となる。

 クレオンは国家に対する反逆者であるポリュネイケスの埋葬や葬礼を禁止、見張りを立ててその遺骸を監視させる。アンティゴネはそれに反発、埋葬を密かに試みるが、見張りに捕らえられてクレオンの前に引き立てられる。国法の厳正さを主張するクレオンに対し、アンティゴネは人間の自然に基づく法を根拠に反論する。優柔不断な妹イスメネやアンティゴネの許嫁ハイモンが弁護するものの、クレオンは1日分の食料を持たせてアンティゴネを地下に幽閉することを決定する。

 その後、クレオンはテイレシアースの占いと長老たちの進言を受けてアンティゴネへの処分を撤回、ポリュネイケスの遺体の埋葬を決める。けれども、それはアンティゴネがすでに首を吊った後である。そのことをを知り、父を恨んだハイモンも剣に伏して自殺してしまう。さらに、ハイモンの死に絶望した妻までも自害し、クレオンが自らの運命を嘆く場面で劇は終わる。

 ヘーゲルは『精神現象学(Phänomenologie des Geistes)』(1807)の「人倫(Sittlichkeit)」の章で、アンティゴネを人間意識の客観的段階の一つである人倫の象徴と分析している。 ヘーゲルの立場は、現代流に言うと、コミュニタリアンである。けれども、それは共同体が個人に先立つという前近代的な発想ではなく、近代を踏まえている。自由で平等、自立した個人が集まって社会を形成するというのが近代の発想である。一方、ヘーゲルはこうした個人主義ではなく、共同体主義を主張する。啓蒙主義・共和主義・功利主義が近代を理論的に基礎づける本流とすれば、ヘーゲルはその批判であり、傍流の思想である。しかし、彼はあくまで個人から出発し、労働や教養の蓄積を通じて認識の広がりを獲得して共同体の意義を見出すと『精神現象学』において説く。ニクラス・ルーマンの社会システム論はヘーゲルのある種の焼き直しである。このように、ヘーゲルは近代の修正としての現代を先取りするアイデアを提示している。

 ヘーゲルは、そうした意識の発展を始め、弁証法を通じた段階論として自らの理論を展開する。前段階が前提となって弁証法によって次の段階に止揚される。花が咲けばつぼみは消え、実がなればそれも失せる。こうした段階論はヘーゲル固有と言うよりも、近代の認識の特徴の一つである。学校教育のカリキュラムがこうれいだろう。中学の学習は小学のそれの習得に立脚しているのであり、それを無視して到達は難しい。ヘーゲルはコミュニタリアンであるけれども、彼の理論は共同体が個人や家族の段階を前提にしているのであり、それに先立つものではない。そのため、個人や家族をないがしろにして国法の遵守を要求するクレオンの主張などヘーゲルには認められない。

 しかし、それは発展せず低い段階にとどまることの是認ではない。ヘーゲルは社会契約説やフランス革命の経験を踏まえた理論家である。法と秩序の維持は生命や財産といった個人の権利を守るために必要であるが、既存の体制の保持が目的であってはならない。法や規則は社会契約に基づいているのであって、固定的なものでも権威によって押しつけられるものでもない。自分たちのために変更可能なもので、正しさは社会契約的合意に従って行為することである。それを踏まえるならば、さらに上位の包括的で普遍的な法が想定できる。自然法が好例である。正しい行為はこの普遍的法、すなわち「人倫」の原理に則ったものだ。何が正しいかを判断する人倫的原理に則るならば、国法を超えて行為することができる。この過程に基づき、普遍的原理によって個人や家族の規範も捉え直され、始まりと終わりは目的の下に一致する。クレオンの国法への固執が他の段階との有機的関係を欠いているのに対し、アンティゴネの行為はこの目的論的円環の中にある。

 これはアメリカの心理学者ローレンス・コールバーグ(Lawrence Kohlberg)が提唱した道徳性発達理論から捉えると、理解しやすい。彼は、スイスの心理学者ジャン・ピアジェ(Jean Piaget)の発達段階論を参考に、人間の道徳的判断断が3つのレベルと6つの段階を持つと主張している。彼の「モラル・ジレンマ(Moral Dilemma)」は現代の道徳教育に多大な影響を与えている。ヘーゲルの段階論の先駆性は、意識していようといまいと、広範囲の後の思想に及ぶ。

 ヘーゲルにとってアンティゴネはこの人倫を体現する。現代では神や自然法を持ち出す理論家はあまりいないが、「良心」や「人権」、「人道」、「正義」など国法を超えた普遍的原理を主張する者は少なくない。その意味でもヘーゲルのアンティゴネをめぐる議論は依然として意義深い。

 意識をもたぬ欲望〔『アンティゴネ』の鳥獣たちの〕や抽象的な存在者が、死者を汚すこの行為を、家族は死者からとりのけてやり、その代わりに自分の行為〔埋葬〕を置いて、血のつながる死者を大地の懐に入れてやり、原本的な不滅の個人態にかえしてやる。こうして家族は、死者を一共同体の仲間にしてやる。つまりこの共同体は、死者に対し自由となり、死者を破壊しようとする個々の素材の諸々の力や、一層低い生物たちに、むしろ打ち克ち、これらを拘束するのである。
(『精神現象学』)

 妹アンティゴネの兄ポリュネイケスへの愛は国法を上回る至高のものである。人間の自然に基づくこの愛の姿をヘーゲルはクリスチアーネに見ている。クリスチアーネも自信をアンティゴネに重ねて兄を理解し、愛していく。これだけ優れた『アンティゴネ』論を書いたヘーゲルが妹のクリスチアーネをこの悲劇の主人公に見立てたことは後世にとって興味をそそる話題である。だから、クリスチアーネに関する研究や評伝も公表されている。カール・シュム(Karl Schumm)の『クリスチアーネ・ヘーゲル(Christiane Hegel. Die Schwester des Philosophen. In: Schwäbische Heimat)』(1953)やホルスト・ブランドシュテッター(Horst Brandstätter)の『クリスチアーネ・ルイーゼ・ヘーゲル(Christiane Luise Hegel – Krankengeschichte einer Sympathisantin)』(1978)、ヘルムート・G・ハーシス(Hellmut G. Haasis)の『アンティゴネとクリスチアーネの間(Zwischen Antigone und Christiane. Die Rolle der Schwester in Hegels Biographie und Philosophie und in Derridas „Glas“)』(1984)と『クリスチアーネ・ヘーゲル(Christiane Hegel)』(1997)、ハンス=クリスチアン・ルーカスHans-Christian Lucasの『日陰の姉妹 (Die Schwester im Schatten. Bemerkungen zu Hegels Schwester Christiane)』(1988)と『兄の陰で(Im Schatten des großen Bruders)』(1988)、アレクサンドラ・ビュルケルト(Alexandra Birkert)の『ヘーゲルの妹(Hegels Schwester. Auf den Spuren einer ungewöhnlichen Frau um 1800)』(2008)などがある。主だったものだけであるが、全般的にクリスチアーネに同情的な内容である。

 このアンティゴネの見立てはクリスチアーネにとっても兄の存在がいかに大きかったかを物語るものでもある。とは言え、ヘーゲルと比べれば、クリスチアーネンをめぐる情報は圧倒的に少ない。ヘーゲル生涯や思想がいかにクリスチアーネに影響を及ぼしたかを推測するほかない。その人生がどうだったのかは、クリスチアーネについて語ろうとする者の妄想と思えるまでの想像の中にしかない。しかし、研究よりその方がふさわしい。

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