いまさら美味しいあれこれ

文字数 1,671文字

 教室の中の全員が同じ時間に同じ食器で同じ食べ物を与えられる、給食。羞恥心というものを持ち始めたばかりの私には、食べられないものが多々あった。それが、実はとっても美味しいものだったことに気づいて、今では取り戻すように食べ始めている。

 まず、揚げパン。かぶりつけば必ず黄な粉が口の周りにつく。「おいしい~」と無邪気に食べられるみんなのことを汚いとは思ってはいなかったが、粉たちを制して食する姿をとても勇敢だと思っていた。自分はきっと口の周りを粉まみれにしてあくせくしまうのだと考えると、恐ろしくなって食欲も消え、食べられなかった。余らせたとしても、大人気メニューだったので、必ずもらってくれる同級生がいて助かった。

 次に、いかめし。青森出身の栄養士さんでもいたのか、年に一回の「○○小学校だけの特別メニュー!」だったような気がする。いかの胴体はお箸で切れる柔らかさではないので、ひとくちずつ、口を大きく開けて食べる必要がある。私は大きく口を開けると、目や鼻も大きく開く癖があり、その状態を人に見られるのが恥ずかしいと思って、食べられなかった。そもそものビジュアルも「いか丸ごと感」が強すぎて、先に家で食べたこともなかったので、ちょっと怖かったというのもある。これも一定数のファンがおり、誰かしらに譲っていた。

 そして、すいか。なんなら本当は大好物だ。自宅で食べる時は、実といえるギリギリまでをスプーンですくって食べる。しかし、学校ではスプーンも出ないし、あまり深追いしてしゃぶりつくと、スイカの汁がいっぱいに飛び、口周りにも付いてしまうので、そうならない程度に赤いところさえ残った状態まで食べることで精いっぱいだった。こればかりは、好物をみすみす、もったいない状態で捨て置くことになるので、いつも心苦しかった。

 こうして私は、美味しいものをずっと味わうことなくして小学生生活を終えてしまったのだが、給食こそ、クラスメイトたちと一同に会して食事を楽しむという、初めての「会食」だった。そうであれば初めての場に対する緊張感も当然な気がする。職場の集まりのごとく、会食メンバーは席替えの結果決定されていて、自由意志ではない。そのような油断ならぬ他者を前に、食欲という動物的本能の欲求を満たす、ということに、恥ずかしさや抵抗があったのだろう。だから、かぶりついたり、汁が飛んだり、「食べる!」といった感じの食べ方を強要されるメニューが苦手だった、というわけだ。

 さて、そんな私も歳を重ね、食欲を満たすだけではなく、「会食」は他者との交流手段の一つであると理解するようになり、他人さまとの食事も楽しめるようになった。何時間も居座ってしまうファミレスのように、食事自体というよりみんなといる雰囲気こそが美味しさの要だ、ということもわかるようになり、揚げパン拒否時代から思うと大進歩である。

 一方で、やっぱりひとりご飯こそ、思うままに、食物と向き合って味わい、おなかを満たすことが出来る気がする。動物的本能を満たすほうの食事である。友人の中には一人でご飯を食べられないという子もいるみたいなのだが、私はその逆である。本気食べの時は、自宅で、好きなものを好きなように作り、食べる、が一番だと思っている。

 コロナ禍の今は、会食はしづらく、不自由なことは確実に多いけれど、黄な粉まみれになって楽しむ揚げパンのように、今でこそ、ひっそりと味わえるものもまた、たくさんある。そうとらえるのはいかがだろうか。自分の欲求、大暴走。きれいに食べられない美味しいもの、寝落ちするまで聴くラジオ、仕事後の星空観賞。
 ふと訪れた隔離生活で、これまでの周囲とつながり続けていた世界では、どこか緊張し、抑制されていたらしい自分がいたと気づく。それが社会性であって、悪いことでもないし、みんなでいたら二倍美味しい、楽しい、ということもあったのは確かであるが、今は欲求大暴走時代を楽しむことにしたい。
 いつかこの事態が開けた頃、山里から降りてきた猿のようにならないかが、少し心配であるが。
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