別離と 2
文字数 1,828文字
「いいのかよ」
そう言ったのは煙草を咥えかけた黒だった。
足元を埋める華々。
森に道など見当たらないが、足を止めるまで黒には道が見えているような足取りだった。
白は声に、華弁を撫でていた指先から顔から上げた。
「お前はこうしたかったんじゃないのか?」
得意げに、お見通しだとと言うように、白は悠然と笑みを少し傾けた。
向けられた黒の表情はつまらない以外に何を思っているか予想できなかったが、
「お前はこうしたくなかったのじゃないのか」
咥えた煙草は咥えられた皮肉げな笑みに傾いた。
まあな。白は顔を不満に彩った。
「俺には正しいとは思えない。人の中で育たなかった奴を知ってるからな」
黒は煙草に火をつけるのを忘れたように、咥えたまま、つまらなさそうな顔のまま。
「おれも知るぞ。ひとの中にいるひとと違う奴を」
白は誰しも美しいと見上げる彫像のような口元に苦笑を浮かべた。
「自分で選んだなら、自分で選ばないよりはまし かも知れないと思ってな」
ふん、と鼻を鳴らしたのは黒だった。話はもうないとばかりに再び歩き出す背に白は口元だけで笑う。
いつか子は母の元を去る時が来るかもしれない。来ないかもしれない。このままこの森という閉じられた守られた世界で生きるのも、外の世界の過酷に挑むのも、他者がどうこう言うことでもない。誰しも誰かの生を歩くことを変われはしない。当の本人にしか歩めない。できるのは道を示すことだけだ。叶うなら多くの途の内から、望んだものを選べるように――
昔むかし、遠い昔。神様がひとの前から姿を消してしまった頃。
呪われた森がありました。
ひとが立ち入れぬ深い場所、静かに暮らす母子がいました。
森の中を響く、誰しも聞き惚れる美しき声。ただし――
振り返った黒の顔は疲労と辟易の色に沈んでいる。
「何故、お前は、そう、下手なんだ?」
そう言われては、白は思い切り顔を歪めた。
「――一つくらい欠点がねぇと、人らしくないだろ」
悔し紛れの皮肉としては面白くない――だが黒は笑ったらしかった。
「彫刻野郎」
嘲笑う口のかたちであったけれど。
「人狼に言われたかないね」
白で揺れていた華を一本引き抜いた。何の意味のない行為に、子供じみているなと自分で思う。指先で回しながら、黒が子供に差し込まれたまま忘れているらしいその耳元の華を眺める。教えない。
「さて、魔王の住む森とやらを後にしてどこに行く?」
「さあな。どこでもいい」
そうさなぁ、白は持ったままだった地図に目を落とす。
「近くに温泉があるようだから、行ってみようぜ」
「賭けはおれの勝ちだぞ」
「そうだな。確かに魔王はいたか。どうせ歩くんだ。街までは譲ってやるよ」
「それは譲ったと言うのか」
「さあてね。誰かさんが他人の剣を折るからな。代わりを調達したくもある」
白は華を地図に挟み込んだ。
微睡みを貪らんと顎を広げては、寝心地のよい場所を、狭い空間に探して獣が蠢く黒の頭巾を眺めながら、
「俺が下手だって言うなら、お前が歌えよ」
白は答えを知る提案をしてみる。
「嫌だね」
予想通りの即答に白は声を上げずに笑いを零す。
「ひとのこと言えた口だって言うなら、聞かせてみろよ。久々に」
「おれは嫌だと言ったぞ」
視線は向けられていないが気配を読み取れないはずがない。白は大仰にやれやれと肩を竦めた。
うんざりした横目が肩越しに返る。
「嫌だと言ったろうが」
「いいじゃねぇか、俺しかいないんだし」
それ以上、黒は答えなかった。顔を背けて歩き出す。聞こえたのは舌打ちだけだった。
「なんだ、音痴に負けるのが嫌なのか」
白がそう笑いかけても黒は答えない。これは臍を曲げたな。白はちらと目を開けてよこした獣の子に苦笑した。
獣の耳が跳ね上がる。
風に攫われ舞い上がる華弁を見上げる。どうぞ行く先に幸福が待ちますように。そう思うのは己の感傷に過ぎないと思えど、そう言われたような気がする空。
昔むかしに、ひとびとが恐れて呪ったその森は、ただの美しい場所。
そこに住むのはただの母子。
いつかそのお話が産まれた時は本当であったでしょう。
いつのまにか伝えたいことのいくつかは抜け落ちてしまって、
忘れ去られて誰も気づかないままになくなってしまうのです。
まるでおとぎばなしに出てくる勇者は言いました。
手を差し伸べて、さあ、一緒に帰ろう、と。
まるでおとぎばなしに出てくる魔王は言いました。
ただ、好きにしろ、と。
だからわたしが決めるのです。
そう言ったのは煙草を咥えかけた黒だった。
足元を埋める華々。
森に道など見当たらないが、足を止めるまで黒には道が見えているような足取りだった。
白は声に、華弁を撫でていた指先から顔から上げた。
「お前はこうしたかったんじゃないのか?」
得意げに、お見通しだとと言うように、白は悠然と笑みを少し傾けた。
向けられた黒の表情はつまらない以外に何を思っているか予想できなかったが、
「お前はこうしたくなかったのじゃないのか」
咥えた煙草は咥えられた皮肉げな笑みに傾いた。
まあな。白は顔を不満に彩った。
「俺には正しいとは思えない。人の中で育たなかった奴を知ってるからな」
黒は煙草に火をつけるのを忘れたように、咥えたまま、つまらなさそうな顔のまま。
「おれも知るぞ。ひとの中にいるひとと違う奴を」
白は誰しも美しいと見上げる彫像のような口元に苦笑を浮かべた。
「自分で選んだなら、自分で選ばないよりは
ふん、と鼻を鳴らしたのは黒だった。話はもうないとばかりに再び歩き出す背に白は口元だけで笑う。
いつか子は母の元を去る時が来るかもしれない。来ないかもしれない。このままこの森という閉じられた守られた世界で生きるのも、外の世界の過酷に挑むのも、他者がどうこう言うことでもない。誰しも誰かの生を歩くことを変われはしない。当の本人にしか歩めない。できるのは道を示すことだけだ。叶うなら多くの途の内から、望んだものを選べるように――
昔むかし、遠い昔。神様がひとの前から姿を消してしまった頃。
呪われた森がありました。
ひとが立ち入れぬ深い場所、静かに暮らす母子がいました。
森の中を響く、誰しも聞き惚れる美しき声。ただし――
振り返った黒の顔は疲労と辟易の色に沈んでいる。
「何故、お前は、そう、下手なんだ?」
そう言われては、白は思い切り顔を歪めた。
「――一つくらい欠点がねぇと、人らしくないだろ」
悔し紛れの皮肉としては面白くない――だが黒は笑ったらしかった。
「彫刻野郎」
嘲笑う口のかたちであったけれど。
「人狼に言われたかないね」
白で揺れていた華を一本引き抜いた。何の意味のない行為に、子供じみているなと自分で思う。指先で回しながら、黒が子供に差し込まれたまま忘れているらしいその耳元の華を眺める。教えない。
「さて、魔王の住む森とやらを後にしてどこに行く?」
「さあな。どこでもいい」
そうさなぁ、白は持ったままだった地図に目を落とす。
「近くに温泉があるようだから、行ってみようぜ」
「賭けはおれの勝ちだぞ」
「そうだな。確かに魔王はいたか。どうせ歩くんだ。街までは譲ってやるよ」
「それは譲ったと言うのか」
「さあてね。誰かさんが他人の剣を折るからな。代わりを調達したくもある」
白は華を地図に挟み込んだ。
微睡みを貪らんと顎を広げては、寝心地のよい場所を、狭い空間に探して獣が蠢く黒の頭巾を眺めながら、
「俺が下手だって言うなら、お前が歌えよ」
白は答えを知る提案をしてみる。
「嫌だね」
予想通りの即答に白は声を上げずに笑いを零す。
「ひとのこと言えた口だって言うなら、聞かせてみろよ。久々に」
「おれは嫌だと言ったぞ」
視線は向けられていないが気配を読み取れないはずがない。白は大仰にやれやれと肩を竦めた。
うんざりした横目が肩越しに返る。
「嫌だと言ったろうが」
「いいじゃねぇか、俺しかいないんだし」
それ以上、黒は答えなかった。顔を背けて歩き出す。聞こえたのは舌打ちだけだった。
「なんだ、音痴に負けるのが嫌なのか」
白がそう笑いかけても黒は答えない。これは臍を曲げたな。白はちらと目を開けてよこした獣の子に苦笑した。
獣の耳が跳ね上がる。
風に攫われ舞い上がる華弁を見上げる。どうぞ行く先に幸福が待ちますように。そう思うのは己の感傷に過ぎないと思えど、そう言われたような気がする空。
昔むかしに、ひとびとが恐れて呪ったその森は、ただの美しい場所。
そこに住むのはただの母子。
いつかそのお話が産まれた時は本当であったでしょう。
いつのまにか伝えたいことのいくつかは抜け落ちてしまって、
忘れ去られて誰も気づかないままになくなってしまうのです。
まるでおとぎばなしに出てくる勇者は言いました。
手を差し伸べて、さあ、一緒に帰ろう、と。
まるでおとぎばなしに出てくる魔王は言いました。
ただ、好きにしろ、と。
だからわたしが決めるのです。