第1話 誘い
文字数 3,125文字
「先生、花を見に行きませんか」
夕暮れ時、いつものごとくふらりと訪ねてきた陵 が、縁側から私を誘った。
私は座敷で足を投げ出した格好でだらしなく座り、ぼんやりと庭を眺めていたところだ。視界を遮るように現れた男を見あげて、ぶっきらぼうにいう。
「花? 花ならそこにある」
庭のほうへ顎をしゃくってみせると、陵は素直にそちらを見る。庭では、赤い椿がいまを盛りと咲き誇っている。花ひらいたまま地に落ちたいくつもの赤い塊が木の周りを囲み、彩る。
陵は私へと視線を戻すと、涼やかな顔で微笑した。
「たしかに、椿も風情がありますが」
わかっているでしょう、とでもいうようにその目が語りかける。じろりと睨む私に笑みを浮かべたまま彼は続けた。
「明日は春の嵐になるようです。満開の花も散ってしまうでしょう。今年の花は今日が見納めです」
見納め、という言葉にぴくりと反応した私を陵が見逃すはずがない。舌打ちしたい気分だった。いまの私は不機嫌をあらわに、ひどく人相の悪い顔つきになっていることだろう。おまけに無精ひげも伸び放題で、とても人前に出られるようななりではない。よくこんな男を花見に誘う気になるものだと、呆れ半分に胡乱 な目を向けると。
陵は、変わらずに涼やかな顔をして私を見ていた。
結局、私は重い腰をあげてひさかたぶりに外へ出た。
ぼさぼさの髪に無精ひげ。知人にでも会おうものなら体裁 が悪いことこのうえないが、いまさら取り繕うほどの矜持 もない。
それに、陵へのあてつけもあった。
端整な容姿をした、見るからに良家の子息といったこの男が、私のような怪しげな風体 の者と連れ立って歩いていれば、いやでも人目をひく。奇異な目を向けられてうんざりすればいい。私なんかに関わるべきではなかったと思い知ればいい。
そう思いつつも、おそらくそんな程度ではこの男は懲りることはない、という確信めいたものもあり、複雑な思いに私はますます眉間の皺を深くした。
陵は無言で私の隣を歩く。
どこへ行くともいわないが、向かう先は見当がつく。
私の家から程近いところに山があり、このあたりの人間ならだれもが一度は歩いたことがあるであろう遊歩道が設けられている。その道沿いに桜の木が植えられており、この時期には一斉に花を咲かせてにわかに賑やかになる。日が暮れると夜桜見物のために提灯がともされ、満開の花の下で大勢の酔客がかしましく騒ぐ。そこへ行くつもりなのだろうと予想したとおり、目の前には山が迫り、遊歩道の入口が見えてきた。
山といっても、道は緩やかな勾配で上へと向かうため、山歩きのような準備をせずとも、気が向いたときにそのままふらりと歩けるような気楽なものだ。
私は部屋着の上に薄い外套 をひっかけただけの軽装で、足許もくたびれて底の擦りきれた靴。隣を歩く陵に至っては、会社帰りの背広に仕立てのいい外套を重ね、足の先まで手入れの行き届いた、山歩きにはまるで向かない格好だ。その格好で、すっと背筋を伸ばして坂道をのぼりはじめる。私とさほど背丈は違わないはずだが、猫背で姿勢の悪い私は、彼と並ぶと少し見あげる形になる。
春分を過ぎてずいぶん日が長くなってきたとはいえ、太陽が西に沈むとあたりは急速に暗くなる。提灯のあかりで足許に不安はないが、私の足取りは少しずつ重くなっていく。隣に並んでいた陵から遅れて、彼の背中を見ながらあとを追うようになる。
陵が足を止めて振り返る。
「先生、大丈夫ですか」
ほんの数分、坂道を歩いただけなのに、私はすでに息があがっていた。情けないが、日ごろからろくに出歩かないのだから体力は衰えていくいっぽうだ。
私は今年で三十になる。
世のなかではこれから働き盛りといったところだろうが、私はもうすっかり余生を送るような気分で残りの人生を生きているだけだ。
「大丈夫だ」
呻くようにつぶやいて顔をあげる。まもなく夜に包まれる濃紺の空には、ひときわあかるく輝く宵の明星 が見えた。
立ち止まった陵の横をすり抜けて私は先へと進む。後ろから彼がついてくる気配がした。道沿いに、ちらほらと桜の木が見えてきた。提灯のあかりに花が白く浮かびあがる。
苦しくなって目を背けた。
ひたひたと迫りくる気配から逃げるように足を動かす。
桜の花は嫌いだ。見たくない。
そう思うのに、この時期になると私は落ち着かなくなる。家のなかにいても、いままさに桜が咲いているのだと思うと心乱されて、平常心ではいられなくなる。
嫌いだといいながらも、私は桜から逃れることができない。
桜に呪縛されたように。
花を見るためにきたというのに、うつむいて、目を背けながらもくもくと歩き続ける私はさぞかし滑稽 だろう。
視線を感じる。背後からじっと見つめられているのがわかる。私は肩で息をしながら足早に前へと進む。山に差しかかるまでは肌寒いくらいの気温だったのに、シャツの下はじわじわと汗ばんできた。
後方からぱたぱたと軽やかな足音とともに甲高い子どもの声が聞こえてきた。
「おかーさん、みて、桜、きれい」
「ほんと、きれいね」
子どもはきゃっきゃとはしゃぎながら私の横を駆け抜けていく。あとからついてきた母親らしき女性が、私と陵の傍 らを追い越しながらすまなそうにいった。
「うるさくてすみません。いい夜ですね」
突然のことに私は硬直した。かなりの人間不信に陥っている私は、陵以外の人間と口をきくことが難しい。
急に立ち止まり押し黙る私に女性が怪訝な顔をするより先に、陵がそつなく返事をした。
「いいえ、はしゃぎたくなる気持ちはわかります」
「おかーさん! 早く」
女性はまだ話したそうなそぶりを見せたが、子どもからせがまれて仕方なくといったようすで頭を下げて去っていった。
「さあ、先生、ぼくたちも行きましょう」
陵が傍らに立つ。
「いい加減、先生はやめろ」
「先生は先生ですから」
「私は先生なんかじゃない」
「では、名前でお呼びしても?」
「――――、」
陵は、いつもの柔らかな笑みを浮かべて私を見つめる。濁りのない透明な眼差し。
その目が、私は苦手だ。
勾配が少しきつくなり、だいぶ高いところまできたことがわかる。満開の花の向こうには一面の夜景が広がる。あのあかりのひとつひとつそれぞれに家庭があり、そこでだれかが生きているのだと思うと、頼もしいような、よるべないような矛盾した心持ちになる。
「先生」
陵の手が私の背中に触れた。私はびくっと身を退くと、ほとんど走るような足取りでさらに上へと向かう。
途中、ひらけた場所がいくつかあり、そこは公園になっていて遊具や東屋 などが設けられている。広場を囲むように桜の木が並び、そこかしこで宴会が開かれていた。
酔っ払いの大声を聞きながら公園を通り過ぎる。私はもう息もあがって汗だくで、まるで全力疾走でもしているかのようなありさまだった。喧騒が遠ざかり、ひとけのない遊歩道の端をなかば意地になってのぼっていく私の手を、陵が掴んで引き留めた。振り払おうとしたが陵は手を離さない。
「……っ、なん、だ」
みっともなくはあはあと息をする私の顔を、きっちりとアイロンがかけられたハンカチで拭いながら陵はいう。
「風邪を引いてしまいます」
かまわない、といい返そうとしたが、真摯な眼差しを見たとたん、その言葉を呑み込んでしまう。
そんな目で私を見るな。
私は、陵のその目が、苦手だ。
不本意ながらもおとなしくなった私の汗を、陵は丁寧に拭う。そんな手つきで私に触れるのはこの男がはじめてだ。
陵はどうかしている。
彼は、私を好きだという。
それも親愛の情などではなく、異性を愛するような気持ちで私を好きなのだという。
夕暮れ時、いつものごとくふらりと訪ねてきた
私は座敷で足を投げ出した格好でだらしなく座り、ぼんやりと庭を眺めていたところだ。視界を遮るように現れた男を見あげて、ぶっきらぼうにいう。
「花? 花ならそこにある」
庭のほうへ顎をしゃくってみせると、陵は素直にそちらを見る。庭では、赤い椿がいまを盛りと咲き誇っている。花ひらいたまま地に落ちたいくつもの赤い塊が木の周りを囲み、彩る。
陵は私へと視線を戻すと、涼やかな顔で微笑した。
「たしかに、椿も風情がありますが」
わかっているでしょう、とでもいうようにその目が語りかける。じろりと睨む私に笑みを浮かべたまま彼は続けた。
「明日は春の嵐になるようです。満開の花も散ってしまうでしょう。今年の花は今日が見納めです」
見納め、という言葉にぴくりと反応した私を陵が見逃すはずがない。舌打ちしたい気分だった。いまの私は不機嫌をあらわに、ひどく人相の悪い顔つきになっていることだろう。おまけに無精ひげも伸び放題で、とても人前に出られるようななりではない。よくこんな男を花見に誘う気になるものだと、呆れ半分に
陵は、変わらずに涼やかな顔をして私を見ていた。
結局、私は重い腰をあげてひさかたぶりに外へ出た。
ぼさぼさの髪に無精ひげ。知人にでも会おうものなら
それに、陵へのあてつけもあった。
端整な容姿をした、見るからに良家の子息といったこの男が、私のような怪しげな
そう思いつつも、おそらくそんな程度ではこの男は懲りることはない、という確信めいたものもあり、複雑な思いに私はますます眉間の皺を深くした。
陵は無言で私の隣を歩く。
どこへ行くともいわないが、向かう先は見当がつく。
私の家から程近いところに山があり、このあたりの人間ならだれもが一度は歩いたことがあるであろう遊歩道が設けられている。その道沿いに桜の木が植えられており、この時期には一斉に花を咲かせてにわかに賑やかになる。日が暮れると夜桜見物のために提灯がともされ、満開の花の下で大勢の酔客がかしましく騒ぐ。そこへ行くつもりなのだろうと予想したとおり、目の前には山が迫り、遊歩道の入口が見えてきた。
山といっても、道は緩やかな勾配で上へと向かうため、山歩きのような準備をせずとも、気が向いたときにそのままふらりと歩けるような気楽なものだ。
私は部屋着の上に薄い
春分を過ぎてずいぶん日が長くなってきたとはいえ、太陽が西に沈むとあたりは急速に暗くなる。提灯のあかりで足許に不安はないが、私の足取りは少しずつ重くなっていく。隣に並んでいた陵から遅れて、彼の背中を見ながらあとを追うようになる。
陵が足を止めて振り返る。
「先生、大丈夫ですか」
ほんの数分、坂道を歩いただけなのに、私はすでに息があがっていた。情けないが、日ごろからろくに出歩かないのだから体力は衰えていくいっぽうだ。
私は今年で三十になる。
世のなかではこれから働き盛りといったところだろうが、私はもうすっかり余生を送るような気分で残りの人生を生きているだけだ。
「大丈夫だ」
呻くようにつぶやいて顔をあげる。まもなく夜に包まれる濃紺の空には、ひときわあかるく輝く宵の
立ち止まった陵の横をすり抜けて私は先へと進む。後ろから彼がついてくる気配がした。道沿いに、ちらほらと桜の木が見えてきた。提灯のあかりに花が白く浮かびあがる。
苦しくなって目を背けた。
ひたひたと迫りくる気配から逃げるように足を動かす。
桜の花は嫌いだ。見たくない。
そう思うのに、この時期になると私は落ち着かなくなる。家のなかにいても、いままさに桜が咲いているのだと思うと心乱されて、平常心ではいられなくなる。
嫌いだといいながらも、私は桜から逃れることができない。
桜に呪縛されたように。
花を見るためにきたというのに、うつむいて、目を背けながらもくもくと歩き続ける私はさぞかし
視線を感じる。背後からじっと見つめられているのがわかる。私は肩で息をしながら足早に前へと進む。山に差しかかるまでは肌寒いくらいの気温だったのに、シャツの下はじわじわと汗ばんできた。
後方からぱたぱたと軽やかな足音とともに甲高い子どもの声が聞こえてきた。
「おかーさん、みて、桜、きれい」
「ほんと、きれいね」
子どもはきゃっきゃとはしゃぎながら私の横を駆け抜けていく。あとからついてきた母親らしき女性が、私と陵の
「うるさくてすみません。いい夜ですね」
突然のことに私は硬直した。かなりの人間不信に陥っている私は、陵以外の人間と口をきくことが難しい。
急に立ち止まり押し黙る私に女性が怪訝な顔をするより先に、陵がそつなく返事をした。
「いいえ、はしゃぎたくなる気持ちはわかります」
「おかーさん! 早く」
女性はまだ話したそうなそぶりを見せたが、子どもからせがまれて仕方なくといったようすで頭を下げて去っていった。
「さあ、先生、ぼくたちも行きましょう」
陵が傍らに立つ。
「いい加減、先生はやめろ」
「先生は先生ですから」
「私は先生なんかじゃない」
「では、名前でお呼びしても?」
「――――、」
陵は、いつもの柔らかな笑みを浮かべて私を見つめる。濁りのない透明な眼差し。
その目が、私は苦手だ。
勾配が少しきつくなり、だいぶ高いところまできたことがわかる。満開の花の向こうには一面の夜景が広がる。あのあかりのひとつひとつそれぞれに家庭があり、そこでだれかが生きているのだと思うと、頼もしいような、よるべないような矛盾した心持ちになる。
「先生」
陵の手が私の背中に触れた。私はびくっと身を退くと、ほとんど走るような足取りでさらに上へと向かう。
途中、ひらけた場所がいくつかあり、そこは公園になっていて遊具や
酔っ払いの大声を聞きながら公園を通り過ぎる。私はもう息もあがって汗だくで、まるで全力疾走でもしているかのようなありさまだった。喧騒が遠ざかり、ひとけのない遊歩道の端をなかば意地になってのぼっていく私の手を、陵が掴んで引き留めた。振り払おうとしたが陵は手を離さない。
「……っ、なん、だ」
みっともなくはあはあと息をする私の顔を、きっちりとアイロンがかけられたハンカチで拭いながら陵はいう。
「風邪を引いてしまいます」
かまわない、といい返そうとしたが、真摯な眼差しを見たとたん、その言葉を呑み込んでしまう。
そんな目で私を見るな。
私は、陵のその目が、苦手だ。
不本意ながらもおとなしくなった私の汗を、陵は丁寧に拭う。そんな手つきで私に触れるのはこの男がはじめてだ。
陵はどうかしている。
彼は、私を好きだという。
それも親愛の情などではなく、異性を愛するような気持ちで私を好きなのだという。
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