猫のがんもちゃん
文字数 1,994文字
「笙子 、すまんが一緒に来てくれ」
土曜日の朝、父が言った。
「魔女からお声がかかってね」
町内には魔女がいる。
災害を予知したり、禍 を祓ったり、薬草を煎 じたり。この町が住みやすいのは、魔女のおかげ。だから誰も逆らえない。
私と父は、魔女が住む森林公園に着いた。
少し歩くと、山の斜面に金網扉で閉ざされた防空壕 跡地が見えてくる。父が入口のインターホンを押し「永田です」と声をかけると、「はーい」と返事。
坑道 の奥から、黒いエプロンドレスを着た、小太りおばさん魔女が現れた。
扉の中に招かれ、魔女の後をついて薄暗い坑道を進む。すると急に視界が開け、外界に出たのだ。
「外からは行き止まりに見えるでしょ。実はトンネルになっていて中庭に出られるの」
私と父は驚いて来た道を振り返った。
「子どもが紛れ込まないための細工よ」
それにしても初夏の光に目が眩 む。
魔女の可愛い一軒家の周りに、花やハーブが風に揺れていて、まるでお伽 の世界だ。
「この子、捨て猫なの」
ウッドデッキに置かれた段ボールを覗くと、子猫が一匹じっとしていた。
「里親になってくれないかしら」
私と父は顔を見合わせた。いまだかつて生きものを飼ったことは無い。
「捨て猫は三匹いたの。白猫 “しらたき” と黒猫 “こんぶ” は里親が見つかったんだけど、この子 “がんもどき” が残っちゃって」
確かに “がんもどき” のようなぼやけた色合い、そして不愛想な目。
「こう見えてね義理人情に厚い女の子よ、がんもちゃんは。うちにはもう、しめじ、えのき、しいたけがいるから」
貫禄のある猫が三匹、木陰でまどろんでいた。
定年退職したばかりの父が言った。
「うちで引き取ろうよ、お父さんが面倒みるから」
この時のことはよく覚えている。
これから忙しくなるな、そうだね、小さいな、可愛いよ、残り物には福があるっていうしな。そんな話をしながら、父が段ボールを抱え慎重に歩いていたことを。帰り道で、ツツジが膨らみ始めていたことも。
あれから八年。いろんなことがあった。
私が子宮体がんになったり、父が胃がんになったり。
二人とも早期発見できたけど、父は三年後に再発してしまい、最後は緩和 ケア病棟で静かに息を引き取った。
父の最後の言葉は、
「がんもちゃんはどうしている?」
「元気だよ」
「そうか」
安心した顔で。
私は父の葬儀から戻ると、喪服を脱ぎ捨て、森林公園に自転車を走らせた。
あった筈の魔女の家の入口、気ばかり急いて探し当てることができずにウロウロしてしまった。立ち止まり深呼吸。そのとき不意に魔女が現れ、
「こっちよ」
さすがは魔女、全部お見通しみたいだ。
金網扉の向こう、八年ぶりにくぐるトンネル。視界が開けた先の中庭には、夏の花々が咲き誇っていた。
風が吹き抜けるテラスで、魔女はミントの葉を浮かべたアイスティーを淹 れてくれた。
「がんもちゃんがいなくなったんです、一か月前から。何か知っていますか?」
「がんもちゃんなら、三度ほど来たわよ」
魔女はテーブルの上の大きな水晶玉に手をかざした。
「そのときの会話を再生するわ。水晶玉を覗き込んでみて?」
私は水晶玉に顔を近づけた瞬間、スーッと中に吸い込まれて。
「魔女さん、笙子ちゃんが病気なの、私の命を使って助けてあげて」
「そんなの無理よ」
「お願い、恩返しがしたいの」
「がんもちゃんは言い出したら聞かない子ね。仕方ないわね、少しだけよ、娘さんにあげるのは」
「ありがとう」
「魔女さん、お父さんが病気なの、私の命、お父さんにあげて」
「だから無理よ」
「お願いします、お願いします、このとおり」
「じゃあ、少しだけよ」
「ありがとう」
「魔女さん、お父さんに私の命を」
「お父さんはもう助からないわ。あなたもそんな余力ないでしょ。共倒れになるわよ」
「お父さんのお供ができるなら本望だもの」
「最後まで頑固ながんもちゃん」
「魔女さん、今までありがとう。お父さんと笙子ちゃんに会わせてくれて、本当にありがとう」
「待って! 行かないで、がんもちゃん」
私は思わず声を上げてしまった。
その瞬間、シャボン玉が弾けたように私は私に着地し、目の前のアイスティ-の氷がカランと揺れた。
「あんまり悲しまないで見送ってあげて。お父さんもがんもちゃんも、あなたを心配して旅立てないわ」
そうはいっても。
確かに腑 に落ちることだらけだった。私と父の術後が良かったこと、父の最後が眠るように安らかだったこと。そして確かにあった。がんもちゃんの毛が急に抜け落ち、やつれたことが何回か。
私はアイスティーの氷が全部解けてしまうまで、ぐずぐず泣いて魔女を困らせた。
そして今日は、父とがんもちゃんの三回忌。
私はようやく、めそめそ泣かないで、がんもどきを食べられるようになった。
自分ひとりで生きているつもりでも、誰かがどこかで自分を支えてくれているのかもしれない、そんなことを思いながら。
土曜日の朝、父が言った。
「魔女からお声がかかってね」
町内には魔女がいる。
災害を予知したり、
私と父は、魔女が住む森林公園に着いた。
少し歩くと、山の斜面に金網扉で閉ざされた
扉の中に招かれ、魔女の後をついて薄暗い坑道を進む。すると急に視界が開け、外界に出たのだ。
「外からは行き止まりに見えるでしょ。実はトンネルになっていて中庭に出られるの」
私と父は驚いて来た道を振り返った。
「子どもが紛れ込まないための細工よ」
それにしても初夏の光に目が
魔女の可愛い一軒家の周りに、花やハーブが風に揺れていて、まるでお
「この子、捨て猫なの」
ウッドデッキに置かれた段ボールを覗くと、子猫が一匹じっとしていた。
「里親になってくれないかしら」
私と父は顔を見合わせた。いまだかつて生きものを飼ったことは無い。
「捨て猫は三匹いたの。白猫 “しらたき” と黒猫 “こんぶ” は里親が見つかったんだけど、この子 “がんもどき” が残っちゃって」
確かに “がんもどき” のようなぼやけた色合い、そして不愛想な目。
「こう見えてね義理人情に厚い女の子よ、がんもちゃんは。うちにはもう、しめじ、えのき、しいたけがいるから」
貫禄のある猫が三匹、木陰でまどろんでいた。
定年退職したばかりの父が言った。
「うちで引き取ろうよ、お父さんが面倒みるから」
この時のことはよく覚えている。
これから忙しくなるな、そうだね、小さいな、可愛いよ、残り物には福があるっていうしな。そんな話をしながら、父が段ボールを抱え慎重に歩いていたことを。帰り道で、ツツジが膨らみ始めていたことも。
あれから八年。いろんなことがあった。
私が子宮体がんになったり、父が胃がんになったり。
二人とも早期発見できたけど、父は三年後に再発してしまい、最後は
父の最後の言葉は、
「がんもちゃんはどうしている?」
「元気だよ」
「そうか」
安心した顔で。
私は父の葬儀から戻ると、喪服を脱ぎ捨て、森林公園に自転車を走らせた。
あった筈の魔女の家の入口、気ばかり急いて探し当てることができずにウロウロしてしまった。立ち止まり深呼吸。そのとき不意に魔女が現れ、
「こっちよ」
さすがは魔女、全部お見通しみたいだ。
金網扉の向こう、八年ぶりにくぐるトンネル。視界が開けた先の中庭には、夏の花々が咲き誇っていた。
風が吹き抜けるテラスで、魔女はミントの葉を浮かべたアイスティーを
「がんもちゃんがいなくなったんです、一か月前から。何か知っていますか?」
「がんもちゃんなら、三度ほど来たわよ」
魔女はテーブルの上の大きな水晶玉に手をかざした。
「そのときの会話を再生するわ。水晶玉を覗き込んでみて?」
私は水晶玉に顔を近づけた瞬間、スーッと中に吸い込まれて。
「魔女さん、笙子ちゃんが病気なの、私の命を使って助けてあげて」
「そんなの無理よ」
「お願い、恩返しがしたいの」
「がんもちゃんは言い出したら聞かない子ね。仕方ないわね、少しだけよ、娘さんにあげるのは」
「ありがとう」
「魔女さん、お父さんが病気なの、私の命、お父さんにあげて」
「だから無理よ」
「お願いします、お願いします、このとおり」
「じゃあ、少しだけよ」
「ありがとう」
「魔女さん、お父さんに私の命を」
「お父さんはもう助からないわ。あなたもそんな余力ないでしょ。共倒れになるわよ」
「お父さんのお供ができるなら本望だもの」
「最後まで頑固ながんもちゃん」
「魔女さん、今までありがとう。お父さんと笙子ちゃんに会わせてくれて、本当にありがとう」
「待って! 行かないで、がんもちゃん」
私は思わず声を上げてしまった。
その瞬間、シャボン玉が弾けたように私は私に着地し、目の前のアイスティ-の氷がカランと揺れた。
「あんまり悲しまないで見送ってあげて。お父さんもがんもちゃんも、あなたを心配して旅立てないわ」
そうはいっても。
確かに
私はアイスティーの氷が全部解けてしまうまで、ぐずぐず泣いて魔女を困らせた。
そして今日は、父とがんもちゃんの三回忌。
私はようやく、めそめそ泣かないで、がんもどきを食べられるようになった。
自分ひとりで生きているつもりでも、誰かがどこかで自分を支えてくれているのかもしれない、そんなことを思いながら。