弁当箱
文字数 1,983文字
小学5年の夏に転校をした。
引っ込み思案だった僕は、ずっと一人ぼっちだった。日曜日には校庭の隅で、よく壁打ちをして遊んだ。コンクリートの壁に軟球をぶつけて、跳ね返ってきたところをグローブでキャッチするのである。
壁打ちを続けていると、背後から声をかけられた。
「お兄ちゃん、うまいなぁ。すごいなぁ」
振り返ると、男の子が立っていた。背丈が僕の肩ぐらいしかない。二年生か三年生だろう。満面の笑顔を浮かべていた。
「キャッチボールをしようか?」
そう言ってみると、仔犬のようにすっ飛んできた。
男の子にグローブを貸してやり、ゆっくり下からボールを投げてやった。なかなかキャッチできなかったけど、グローブの中にうまくおさまると飛び上がって喜んでいた。
僕も久しぶりに笑った。男の子と遊べて本当に楽しかったのだ。気がつくと、陽が傾いて空が茜色に染まりかけていた。
「ねぇ、そろそろ終わりにしようか?」
「やだ。お兄ちゃん、もっと遊ぼうよ」
男の子の投げたボールが大きくそれて、見当違いの方向に転がっていった。僕は慌てて追いかけた。ボールはコロコロと勢いよく転がっていく。男の子が投げたにしては、信じられない速さだった。
たちまち、校庭の反対側にある雑木林にまぎれこんでしまった。長年放置されているせいか、木々の枝の伸び方は無秩序で、青々とした雑草が生い茂っている。
中に入ってみると、薄暗くてひんやりしていた。湿気を含んだ空気が肌にまとわりつく。
しばらくして、木の根元に光るものを見つけた。ボールが夕陽を受けて光っていると思ったのだが、そうではなかった。
光っていたのは、アルマイト製の弁当箱だった。
なぜか、地べたに放置されている。どうして、こんなところに弁当箱があるのだろう。
何気なく蓋を開けたら、ひどい臭いとともに、気味の悪いものが眼に飛び込んできた。
ビニール袋にびっしりと詰め込まれた、血まみれの生肉だった。肉に混じって、セミやミミズの死骸,小鳥の足らしきものも入っていた。
悪夢のような色と臭いだった。間違いなく腐っていたはずだ。毒々しい赤とむせかえるような悪臭は、今でもしっかり覚えている。
僕は慌てて、弁当箱に蓋をした。最悪な気分だ。水飲み場に行って、両手と顔を洗った。悪臭がこびりついたような気がしたからだ。
暗くなりかけた校庭に、男の子の姿はなかった。きっと待ちくたびれて帰ってしまったのだろう。
嫌なものを見てしまったが、時が経てば記憶は薄れて、やがて忘れてしまうはずだった。だが、大人になった僕の脳裏には、生肉の赤黒さと臭いが焼き付いている。その訳を話してみよう。
当時、バラバラ殺人が世間をにぎわせていた。人間を殺害してバラバラにする。そんな不道徳で悪魔的な行為が、僕の中で、あの弁当箱と重なった。
あの生肉は牛や豚ではなく、もっと忌まわしい肉ではなかったのか? バラバラ殺人が新聞やテレビで報じられる度、僕の想いは強まった。それは今、確信に近くなっている。
時計の針を小学5年の夏に戻そう。翌日、おそるおそる雑木林に行ってみたが、あの弁当箱は見つからなかった。誰かが持ち去ったのだろうか?
もう一つ、不思議なことがあった。例の男の子についてである。低学年のクラスを見て回ったのだが、どこにも見当たらないのだ。あの男の子には二度と会うことができなかった。よその小学校の子かもしれないし、親戚の家を訪ねてきた遠くの子なのかもしれないが。
僕の中では一つの物語ができあがっている。
あの男の子は何者かに殺されて、無残にもバラバラにされた。その肉の一部はビニール袋にパックされ、弁当箱に詰め込まれた。男の子は誰かに見つけてほしかったのだろう。たまたま近くに居合わせた僕が発見者に選ばれた、というわけだ。
我ながら穴だらけの推理かもしれない。夢でも見たのではないか、と思われたことだろう。実際その通りなのだ。
今でも時折り、男の子は夢の中に出てくる。僕と楽しそうにキャッチボールをして、仔犬のようにはしゃぎまわるのだ。
でも、気が付くと、男の子は血まみれの姿になっている。あちらこちらから、血がポタポタと滴っており、右腕が肩からボロリと落ちた。左腕は肘のあたりから。
男の子は小首を傾げたまま、首から上がズルリとずれて、ゴロンと転がり落ちた。なのに、表情は笑顔のままなのだ。
「ありがとう、お兄ちゃん」
生首が屈託なく笑っている。まさに、悪夢である。こんなことは跡形もなく、すべて忘れてしまいたい。でも、そう思えば思うほど、脳裏に焼き付いてしまうのだ。
あの赤黒い色と鼻をつく臭いは、きっと死ぬまで忘れられない。
了
引っ込み思案だった僕は、ずっと一人ぼっちだった。日曜日には校庭の隅で、よく壁打ちをして遊んだ。コンクリートの壁に軟球をぶつけて、跳ね返ってきたところをグローブでキャッチするのである。
壁打ちを続けていると、背後から声をかけられた。
「お兄ちゃん、うまいなぁ。すごいなぁ」
振り返ると、男の子が立っていた。背丈が僕の肩ぐらいしかない。二年生か三年生だろう。満面の笑顔を浮かべていた。
「キャッチボールをしようか?」
そう言ってみると、仔犬のようにすっ飛んできた。
男の子にグローブを貸してやり、ゆっくり下からボールを投げてやった。なかなかキャッチできなかったけど、グローブの中にうまくおさまると飛び上がって喜んでいた。
僕も久しぶりに笑った。男の子と遊べて本当に楽しかったのだ。気がつくと、陽が傾いて空が茜色に染まりかけていた。
「ねぇ、そろそろ終わりにしようか?」
「やだ。お兄ちゃん、もっと遊ぼうよ」
男の子の投げたボールが大きくそれて、見当違いの方向に転がっていった。僕は慌てて追いかけた。ボールはコロコロと勢いよく転がっていく。男の子が投げたにしては、信じられない速さだった。
たちまち、校庭の反対側にある雑木林にまぎれこんでしまった。長年放置されているせいか、木々の枝の伸び方は無秩序で、青々とした雑草が生い茂っている。
中に入ってみると、薄暗くてひんやりしていた。湿気を含んだ空気が肌にまとわりつく。
しばらくして、木の根元に光るものを見つけた。ボールが夕陽を受けて光っていると思ったのだが、そうではなかった。
光っていたのは、アルマイト製の弁当箱だった。
なぜか、地べたに放置されている。どうして、こんなところに弁当箱があるのだろう。
何気なく蓋を開けたら、ひどい臭いとともに、気味の悪いものが眼に飛び込んできた。
ビニール袋にびっしりと詰め込まれた、血まみれの生肉だった。肉に混じって、セミやミミズの死骸,小鳥の足らしきものも入っていた。
悪夢のような色と臭いだった。間違いなく腐っていたはずだ。毒々しい赤とむせかえるような悪臭は、今でもしっかり覚えている。
僕は慌てて、弁当箱に蓋をした。最悪な気分だ。水飲み場に行って、両手と顔を洗った。悪臭がこびりついたような気がしたからだ。
暗くなりかけた校庭に、男の子の姿はなかった。きっと待ちくたびれて帰ってしまったのだろう。
嫌なものを見てしまったが、時が経てば記憶は薄れて、やがて忘れてしまうはずだった。だが、大人になった僕の脳裏には、生肉の赤黒さと臭いが焼き付いている。その訳を話してみよう。
当時、バラバラ殺人が世間をにぎわせていた。人間を殺害してバラバラにする。そんな不道徳で悪魔的な行為が、僕の中で、あの弁当箱と重なった。
あの生肉は牛や豚ではなく、もっと忌まわしい肉ではなかったのか? バラバラ殺人が新聞やテレビで報じられる度、僕の想いは強まった。それは今、確信に近くなっている。
時計の針を小学5年の夏に戻そう。翌日、おそるおそる雑木林に行ってみたが、あの弁当箱は見つからなかった。誰かが持ち去ったのだろうか?
もう一つ、不思議なことがあった。例の男の子についてである。低学年のクラスを見て回ったのだが、どこにも見当たらないのだ。あの男の子には二度と会うことができなかった。よその小学校の子かもしれないし、親戚の家を訪ねてきた遠くの子なのかもしれないが。
僕の中では一つの物語ができあがっている。
あの男の子は何者かに殺されて、無残にもバラバラにされた。その肉の一部はビニール袋にパックされ、弁当箱に詰め込まれた。男の子は誰かに見つけてほしかったのだろう。たまたま近くに居合わせた僕が発見者に選ばれた、というわけだ。
我ながら穴だらけの推理かもしれない。夢でも見たのではないか、と思われたことだろう。実際その通りなのだ。
今でも時折り、男の子は夢の中に出てくる。僕と楽しそうにキャッチボールをして、仔犬のようにはしゃぎまわるのだ。
でも、気が付くと、男の子は血まみれの姿になっている。あちらこちらから、血がポタポタと滴っており、右腕が肩からボロリと落ちた。左腕は肘のあたりから。
男の子は小首を傾げたまま、首から上がズルリとずれて、ゴロンと転がり落ちた。なのに、表情は笑顔のままなのだ。
「ありがとう、お兄ちゃん」
生首が屈託なく笑っている。まさに、悪夢である。こんなことは跡形もなく、すべて忘れてしまいたい。でも、そう思えば思うほど、脳裏に焼き付いてしまうのだ。
あの赤黒い色と鼻をつく臭いは、きっと死ぬまで忘れられない。
了