『 感電 』第一部 十字痣の行方

文字数 79,547文字

プロローグ
 紀元前五世紀、北東インド。私たち五人はロバに引かせた荷車で、世界の十六の部族間を巡っていました。積み荷は食糧飲水薬草。目的は飢えた奴隷病んだ子供を救うため。その女奴隷は満月の晩、バラモン教司祭屋敷そばの砂丘に裸で倒れていました。

 私たちは荷車で女を連れ帰りました。正気に戻った女は、漆黒の黒髪に緑色の瞳が麗しい、姿形も佳い性奴隷でした。ただ陰部に十字の痣がありました。それで砂丘に捨てられた理由が判りました。十字は「太陽・火・風」の力を削ぐものとバラモンの司祭が忌嫌う形です。仲間のリーダー、ゴータは仲間うちに彼女を加えました。それがAmbapali/アンバパーリー。十字痣の性奴隷。彼女とゴータは前世からの因縁で結ばれていると仲間四人は感じました。支配宗教バラモンに異を唱えるゴータも、「十字痣の女」は因縁の相手と思ったことでしょう。その後彼女は社会の底辺にあって蔑視され、虐待される女たちを数多く救いました。ゴータもそんなアンバパーリーを大層愛(いと)おしみました。
 新月が三十三回訪れデイゴが炎のような花弁をつけた時、忌まわしい出来事が起きました。ある部族が盗賊に襲われ執政官が殺されました。盗賊は街に入りたくば、貢物を差し出せと居直っています。街には飢えたヒト病に罹ったヒトが沢山います。一時も早く食糧飲水薬草を積んだ荷車を届けたい。と云っても我々には何もありません。二日目の朝私たちは、自ら盗賊に身を委ねるアンバパーリーを目撃しました。翡翠の瞳の輝きを今でも忘れられません。盗賊はその後他の部族によって殺されました。ゴータは懸命に彼女を探しましたが見つかりません。
 ゴータは彼女と最初に出会った砂丘に、樹の柱を立て十字と自らの名を刻みました。(仏教卍のはじまりと云われる) いつまでも帰りを待つと願いを込めて。私は髪を飾ったシャラの花を柱の下に手向けました。

                                記・Uppalavanna

 それから五百年後、さらに西方エルサレムの地、性奴隷マリヤ・マグダレナ(マグダラのマリア)は、十字痣がある左腕で食糧飲水薬草を載せた荷車を、砂塵吹きすさぶなか懸命に押します。荷車を引くのはナザレのイエスと十字架の仲間たち。物語は新たに記されて行きます。そして現代のお話しが紡がれます。

第一章
 白龍山一乗寺は西武鉄道新宿線沿いの東京と埼玉の県境にある。最近話題の映画「翔んで埼玉」の舞台のサイタマとは明らかに方角が違う。住民はここは埼玉とは思っていない。県境の多摩湖を越えて新青梅街道まで下れば、新宿・渋谷までマイカーで四十分で行ける。県庁所在地のさいたま市よりはよほど東京に近く、東北本線や西京線沿いの埼玉とは別物と決め込んでいる。そんな都会の香りを残しながらも周囲はジブリ作品で名高い「トトロの森」に囲まれ、狭山湖、多摩湖にも近く、武蔵野の自然に親しめる至上の場所と、住人は嘯(うそぶ)く。住めば都ということ。
 ○宗の寺院で、宗祖の弟子八老僧のひとりの創建ということで別格本山と寺格は高い。四百五十年を過ごした境内には七堂伽藍が備えられ、敷地はおよそ一千坪。落葉樹の森に囲まれ、清く澄んだ湧き水が枯山水を巡り狭山湖へと灌ぐ。境内のあちこちの萩が、秋風に誘われピンクの可憐な花をつける。俗に「萩の寺」と人々は呼ぶ。

 寺の運営は、一千を超える檀家のお布施で賄われる。布施とは何らかの仏教儀式(葬祭法要式)に対する対価のこと。一乗寺では毎日なんらかの儀式がある。葬式が二重三重になることも日常茶飯事。
 寺で行われる儀式には大きく三種類がある。ひとつは葬儀式。これには死んだ当日の枕経から、通夜、本葬、告別式に行われる読経と説教。もうひとつは、初七日、四十九日忌、百日忌、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、二十七回忌、三十三回忌までの忌日供養法要。あとひとつはお彼岸、花まつり(釈尊降誕会)、お施餓鬼(施食)、お盆、成仏会などの年中行事と得度式、授戒会などの特殊行事と言われるもの。
 さてさてごく一般的な寺での葬祭法養儀式を並べたが、千を超える家庭の各式を一手に引き受けるとなると、トップスター並みのスケジュールに悩まされことになる。一乗寺では需要に応えるため近隣の寺院の子弟で、跡を継げない次男坊以下を十人近くを雇用している。むろん社会保険完備。宗教法人は会社法人と変わらない。社長が住職で奥様や子供は役員、檀家総代は監査役(あるいは会長)、僧侶は会社員、一般の檀信徒は顧客。
 忙しいのだから当然見入りもよい。宗教法人の活動は原則非課税。そして万事に亘って定価が無い。一乗寺での戒名の額は三百万円が相場。戒名とはあの世での名前。この名前がなければ三途の川が渡れない。本当かどうかは死者は語らずで分からない。
 次に高価格は葬儀の時の枕経から納骨までの一連の葬儀法要式で二百万から三百万円かかる。そのほか一周忌などの忌日法要は、おおよそ二十万から三十万円。檀家の自宅まで訪問した場合には人数により、お足代などがさらに加わる。
 では出費の方は? 一乗寺における最大なものは、宗門への上納金。ざっと毎年一億円。上納金とはまるでヤクザ世界のよう。けれどこの金額を支払うことは、一乗寺を確固とした地位に押し上げる。宗門のトップは法主といわれる。法主は本山の歴代正副執事長(事務方のトップ)から選ばれる。一乗寺の第二十六代住職白神英海は現在福執事長である。年齢は六十五。下手を打たなければあと数年で法主になれる地位まで辿り着いた。
 一乗寺の二十六代住職になってからは必至だった。格式ある寺は無残にも傾きかけていた。先代は父だが、経営には向かない人だった。だから「〇市の良寛さん」を演じた。もちろん檀家受けは良い。でも寺は沈没寸前。地銀に借金までこさえた。寺が生活費の借金など聞いたことがない。
 そんな訳で経営を立て直すことが求められた。持ち前の経営手腕を大いに発揮。没落した一乗寺を中興させた。時代を敏感に読み解く眼力を持ち「檀家制度」は長続きはしないと展望した。
 江戸時代の「寺請制度」が発展して、葬祭供養を寺が独占的に行うと定めたものが「檀家制度」。現在この制度を享受出来るのは、七十歳以上の現役檀家のご老人たちだけ。六十代以下の国民には疎遠な制度となり果てている。
 おおよそ寺院とは葬祭供養儀式で法外な布施(現ナマ)をとる場所。それでも墓が無くては困るので無理やり参加させられている宗教施設、てなところだろう。人口の二三割の岩盤仏教信者は居てもも、あとの七、八割は初詣と七五三・合格祈願・地鎮式は神社へ、葬祭は寺院へとなんとなく昔からの慣習で脚を運んでいるに過ぎない。この大多数を英海はあえて宗教難民といわせて頂いている。
 人間は必ず死ぬ。でも死んだらどうして寺の世話になるのか?お墓に眠るのか?よく分からない。でもウチには先祖代々の墓が親父の郷里にある。けれど今では寺とは疎遠だし、自分が死んでもそんな遠くに埋葬されては困る。まさに本音。(だからここ数年散骨だとか樹木葬だとかなんちゃら葬が全盛。葬祭業者もあの手この手で迷える子羊たちを誘い込むわけ)
 英海は当時いち早く地元の墓石業者と結託し「永代供養墓地」を造った。全国でも前例がなかった。信仰・宗旨不問。誰でも自由に入れる墓地の提供。通常寺院墓地はその寺の檀家で無いと手に入らない。お金持ちが一朝墓をと考えてもムダ。総代をはじめ他の檀家が許さない。
 英海のもくろみはあたった。都心から近いということもあって当初予定の二千基はあっという間に売り切れ、増築を重ねて今では第六期拡張中。一基百万円から百五十万円という値頃感も拍車をかけた。土地はいくらでも安価に手に入った。裏山が檀家の持ち物で坪千円で購入した。しかも墓地の管理は、墓石業者の管轄で寺院には負担がない。読経や法要は依頼されれば執行する。これは副収入。英海は一代でひと財産を築くことに。

 永代永代供養堂を出て、鐘楼を廻って本堂で一礼し、庫裡に向かう。庫裡とは日常生活の場自宅のこと。百年を経て昨年新築した。この費用の八割は檀家持ち。一口十万円で勧請・勧募(布施・寄付)を募る。一年ほどで八千万円は集まった。
 自家の格付け死後の院号(戒名の上に付く三文字のこと)欲しさに檀家は金を惜しまない。金額順に本堂横の掲示板に結果発表される。成績(布施)の上位者は鼻高々。武蔵野の面影が色濃く残る田舎町だった○市は、今では東京のベッドタウン。檀家の中には代々の土地を分譲地に替え、マンション経営する者も多い。会えば不景気を口にする檀家衆の財布は札束で厚い。新築の庫裡は二階建て建坪でおよそ百、部屋数は十二。住職の書斎もある。
 重厚なケヤキ造り黒漆塗の表門を開けたところで背後から寺務経理の菊池裕子に声を掛けられた。
 「たったいま〇市の助役さんから電話ありました。話は通ったと伝えてくれれば分かるとおっしゃってました」
 電話の助役とは○市副市長のこと。政治のトップが市長ならば行政のトップは市長が選ぶ助役。英海は○市の市政においてもフィクサー的な立場にあった。寺院の大方の収入は非課税で納税の義務は無い。けれど英海は「一乗寺財団」を通じて、市の財政の後押しをしている。英海はこの所業を財施(布施のひとつ)と捉えている。具体的には市立学校や病院の設備拡充費、市が運営する祭りなど行事の費用負担と多岐にわたる。市の担当者が必要に応じて、そのつど財団にお伺いにやって来る。総額は年数億に上る。
 英海は後期高齢者向けの介護老人ホームの運営に本腰を入れている。事業の成功は次期○宗法主の座を確実にし、就任後の財政基盤を潤沢にするはず。檀家数は減るばかりで、千年続く○宗でも宗門の存続は危うい。英海は全国老人ホーム経営に活路を見いだしていた。
 まずは地元でロールモデルを作る。市政に影響力のある元市長から話しを進める。財団と市役所のコラボの形をとる。市役所にとっても高齢者施設建設は急務。市役所は土地を、財団は建設を担当する。〇市役所の老人介護課、施設開発課の責任者が用地を確保する。提案された場所は市役所のそばの古い公民館。元小学校の跡地で敷地は充分。後は市議会の議決を待っていた。
「とうとうここまで来たか」
 英海は独りごちた。

第二章
 白神知正は一乗寺の跡取りである。今は副住(副住職)の立場にある。ただ人が彼を呼ぶときは大概「若」である。末っ子ということもあり家族もそう呼ぶ。三十路近くで「若」にはくすぐったい気持ちもあるけどもはや慣れ。学校ではトモマサ君と呼ばれた。でも戸籍の上ではチショウと言う。俗世と離れた出家の身との意味合いで古くから名前は音読みと決められている。チショウと呼ばれることを彼は気に入っている。頭が良くなったような気がする。チショウと呼ばれるとキャバクラ嬢が「え、チショウ? なになに、それあなたのこと? 」と怪訝な顔をするのを彼は知っている。なんだか自尊心をくすぐられ自分が特別な存在だと思える。知正は今でも超能力、魔術、霊力、霊感など摩訶不思議な力に憧れるている。子供の頃は「聖闘士星矢」、高校の頃からは「エックスメン」の虜になった。
 宗門の学校法人で大学まで卒業してすぐに自分の寺に入った。仕事は寺の雑務。掃除をするとなるとそれだけで三日はかかる。何しろ境内が広いし箱物が多すぎる。七堂伽藍とは聞こえがいいが維持していくのは並大抵ではない。そんな不平をいうたび父親に叱られた。「お前はまだ見習い。世間の眼もある。我慢せよ」実の父だが僧侶になると違う。父は同行の師となる。「同行」とは釈迦も宗祖も父も子も同じ人間として悟りへの道を歩むとの意で仏教では重いワード。よく僧侶たちは解決出来ない事柄に出会うと「ご精進、ご精進」という。これもキーワード。
 まぁ自分が頑張らなくても清掃業者が控えていた。父親の言い方はフリをすれば良いということ。「施餓鬼」(宗派によっては施食)に奉納される何千本もの卒塔婆の書写もコリャ無理だと思ったら専門の業者が居た。彼らは「自動塔婆書き器」なる機械を持ち込んだ。万事そんな風だった。ただ例外はある。自分も参加する法要だけは緊張し冷や汗をかいた。一乗寺には年間五つの大きな行事があった。花祭り(釈尊降誕会)、施餓鬼大法要、盆法要、宗祖降誕祭、涅槃会(釈尊涅槃会)である。これらの儀式には結縁の寺院の僧侶、近隣寺院の僧侶、時々宗門から大宗師の老僧も来る。むろん本堂での開催で背後には檀家総代をはじめ主だった檀家全員集合だ。その場で僧侶全員が一斉に読経をはじめる。いわゆる声明(しょうみょう)というやつ。節がついている経のこと。浪花節のようなもの。最初のうちは合わせられなくて困った。ひとりぐらい音痴がいてもと思うが結構目立つ。格好がつかないとはこのことだ。しばらくしてコツをつかんだ。目立たなくすればよい。姿勢を正し気力は充実させるけれどなるべく小さな声で皆に合わせればよい。これを習得してヨッシャッ! 一年も経つと寺院での生活にスッカリ慣れ今度は夜遊びを覚えた。寺の裏門から車で乗り出し、そのまま関越、首都高で銀座、六本木に行く。この方法は父親から学んだ。子供の頃から父・住職が夜こっそりとベンツで裏門から出て行くのを知っていた。そのたびに母親とひと悶着あった。女が居るという。真偽のほどは不明。別にどうでもよい。
 知正は落ち着いたクラブがお気に入り。最近のスタイルはヴィトンとシュプリームのコラボジーンズにジャケット。坊主頭には大きなブランドロゴマーク入りの野球坊。坊主頭は別名スキンヘッド。悪くは無い。一分二分で無精ヒゲでもあればもはやストリートスタイル。ジャニーズ・山下智久似で端正な顔立ちの自分には正直似合うと思う。
 今夜も六本木のクラブ「ジュジュ」の似非ゴシック調のドアを押した。

 「はい、いらっしゃいませ」ママの一声で、二三人があつまる。黒服は愛想よく頭を垂れる。
 「あ、これシュプリームの新作? 」
 最近のお気に入りユアが訊いてきた。もちろん源氏名だ。本名は磯島香織と同伴の時に名乗った。本当かどうかは分からない。華奢な桐谷美玲似の子だ。
 「そういえば、この前、花村さんが見えたわよ」
 とママ。花村龍円は近隣の同じ宗門の寺院の住職で知正より二つ年上の先輩僧侶となる。知正は露骨に嫌な顔をした。
「それで、飲み代は払ったの? 」
「いいえ、もらってません。知正さんにつけておいてくれって」とママ。
 またか、知正はうんざりした。カモにされているのだ。一乗寺での立場は知正が副住職で龍円は一従業員にしか過ぎない。副社長と平社員との関係。弱みを握られているのだ。知正と龍円は同じ時期に宗門の道場で修行をしている。僧侶として自信がなく不安だった知正は顔見知りでしかも二度目の修行となる龍円を何かと頼った。龍円曰く、オレガ居なかったらお前は満行(修行の全過程を無事に終えること)できず檀家にも恥をかいた。親父の跡を継げるのもオレのお蔭だ。確かにそうかもしれない。けれどその借りは娑婆に出てから金で充分返したはず。キリがなかった。修行が終わって四年目になるのにいまだに借りは続いていた。頭にきた知正は真顔で抗議したことがあった。龍円は軽く受け流し、じゃお父さんにチクレば、と返された。もう何も言えなかった。

第三章
 午前中の〇市立病院はてんてこ舞いだ。この三次救急指定の中核病院には近隣の市町村からも来院する。午前には間に合わず午後二時近くに会計を終える患者も当たり前にいる。患者は長いすに座ってジッと順番を待っている。我慢比べの形相。三次救急とは重症から危篤患者を扱う病院のこと。だが患者はそんなことに躊躇はしない。公共の大きな病院だから安心という理由だけで余計な交通費をかけてやって来る。重篤でないならば一次二次の病院で済ませてもらいたい。それが本音。
 米津幸は今日もお昼を大幅に越して二時過ぎに昼食を摂った。
「師長、三〇二号室の笹岡さん、腹叢神経ブロックの件、裕恵と晴海の担当でいいですよね? 」幸はサンドウィッチを片手に頷いた。
「はい、お願いします。配置図スッカリ上手になったわ」
 部下を褒めることも忘れない。何でも長がつけばただ仕事が出来るだけではすまない。部下を上手く使いこなす術を問われる。ややこしいことになったと二年目の看護師長は眉を潜める。看護師時代は気楽だった。ひたすら患者に寄り添い病からの苦痛緩和に努める。そんな毎日が愉しくもあった。ただキャリアを積めば積むほど相手をする患者は難しくなって行く。最後に難病、終末期患者に行き着く。大抵の病人は回復後の人生を思い浮かべて苦しい治療にも耐えうる。でも先がない患者はどうすればよい。もちろん告知しないこともひとつの方法。けどそれも時間の問題。いずれは気づく。「腹叢神経ブロックの患者」とは進行性膵臓癌ステージ4b。もはや対処の術がない。神経ブロックで苦痛を緩和する。もっと悪いのは患者の年齢だ。幸より十歳も若い四十代。告知はしていない。もちろん奥さんには話したが決心が着かないらしい。就学前の男女の子供がいた。病室は毎日遊技場に変る。
 幸は専門学校時代に同い年の大学生と付き合った。お互い性の対象で激しいセックスに燃えた。結果子供が出来た。年若い男女の繁殖力には舌をまく。おきまりの言い争いの結果男児だけが残った。母には酷いことを言われた。ふしだらな淫売婦。母は夫を早くに亡くし女手ひとつで幸を育てあげた。今度は男児の世話かとその時憶測したに違いない。彼女の読みは大方あたっていた。幸は優秀な看護師ではあったが佳き母親とは言い難い。育児は母任せ。それから二十数年あまり母は脳梗塞でアッという間に亡くなるまで懸命に男児を育てた。女児とは違うやりがいを見つけていたに違いない。幸福そうだった。
「ターミナル病棟に空きはある? 」
 幸は病床を担当する看護士に尋ねた。そうだ、明日に膵臓癌患者の奥さんにターミナル病棟の説明をしよう。そう幸は思った。幸は三十過ぎにフェローシップを兼ねてアメリカ・シカゴの公立病院に一年間留学した。永年勤続のご褒美のようなもの。十年以上続いたテレビドラマ「緊急救命室ER」の舞台の都市。ERでの医師、看護師、患者たちが織り成す人間模様。休みの日によく連続観した。奇しくも聖地巡礼となった。胸が高なった。医療技術は世界最先端。外科医ではないので最新技術は肌では感じとれない。看護師は地味な仕事。検査機器がいかに優れても基本は対人術を磨くこと。幸はターミナルケアと呼ばれる終末期患者への対処法に興味があった。実はこれもテレビドラマが端緒。アメリカ人の多数はキリスト教信者。病院の中に教会もある。牧師もいる。十字架を前に両手を握りしめる光景が当たり前にあった。とある患者が震えながら神父と対峙していた。担当教官の説明では末期癌の告知を受けた患者だという。神父は患者に寄り添い支えていた。実に印象的な光景だった。
 一乗寺の僧侶との出会いは市立病院にターミナル病棟を新設するという時だった。幸の願いでもあった。留学後企画書を練り上げ院長に提出した。当時の風潮も幸いし二年後には二十床での出発にこぎつけた。マスコミに取り上げられたこともあり二十床は予約で埋まった。企画書の中では主要コンセプトとして僧侶も加えてあった。アメリカの牧師に准えた。キリスト教に替わるものは日本では仏教であろう。病院内に寺院は無理でも僧侶から直接患者に語りかけて貰いたかった。来たるべく死について。幸は仏教もかじった。その死生観はキリスト教に劣るものではない。終末期の告知は医師や看護士の仕事。しかし死の受け止め方、死までの在り方は医療従事者では手にあまった。
 幸のイメージとして寺は花の「水仙」だった。すぅっと真っ直ぐ直立し清々しく薫る。樋口一葉の「たけくらべ」のイメージがこびりついて離れない。僧を目指す信如と遊女になる宿命を背負った少女・美登利との淡く儚い純恋を吉原を舞台に叙情的に描いた文学作品。幸はこの小説を識ってから幾度となく吉原を散策した。いつかこんな恋がしてみたい。


 白神英海と名乗る青年僧侶が市立病院を訪ねてきた。○市役所の保健課から依頼を受けたという。ターミナルケアに関して詳しく教えて欲しい旨を看護士ステーションの受付に告げた。幸は面談室で僧侶とあった。僧侶なる職業の者と実際に会うのは初めて。藍染めの作務衣姿、東山紀之似の僧侶の背筋はキリリと伸び精悍だった。緑がかったスキンヘッドが清廉さを際立たせている。幸はこの時すでに「たけくらべ」の儚い恋の世界に入っていた。一通りターミナルケアの趣旨を説明したものの声は上擦り加減。僧侶は幸の様子をいぶかしみながらも実直に話を聴いてくれた。○宗でも数年前からターミナルケアへの積極的参加を打ち出した。しかし患者の持つ宗教への不信感が障壁となっていると云う。患者にしてみれば坊主姿は死を連想させる。逆効果だというのだ。○宗の参画は今のところ空振りに終わっている。でも今回は病院側からの申し出。渡りに船ということだった。聞けば、もう死を自認する患者相手。幸と英海の話しは弾んだ。時を忘れいつしか辺りは闇に包まれていた。
 幸と英海はその後何度か看護士ステーションで会い食事を共にする仲になった。必然と幸は感じた。英海は「たけくらべ」のあの信如そのものだ。聞けばまだ独身。格の高い寺の妻はそれなりの格式が必要だそう。一乗寺では来年第二十六代住職の就任にあたり世間に広く告知する晋山式を挙行の予定。その新命(新住職)こそが白神英海である。この晋山式に併せてしかるべく嫁入りも用意されている。幸は気の毒に思う。人生が他者に委ねられている。境遇も信如に似ている。逢瀬は晋山式の直前まで続いた。今の幸は男手に頼らなくとも食べることだけは出来る。思う存分に男女関係を楽しめた。
 ほどなくまたしても子供が出来た。ちょっと焦った。でも元々母子家庭。もうひとりぐらい何とかなりそう。心配は相手の気持ちの方だった。英海の反応は幸を充分満足させるものだった。「大丈夫。安心して産んで欲しい」
 膨らんでいく腹を横見で下世話な噂を拡げる同僚もいた。でも元々母子家庭で不倫には当たらない。そりゃそう。病院からのお咎めはなかった。幸は産休をとり女の子を産み復職した。もちろん一年半ほどターミナルケアの職から離れるものの英海が逐一報告してくれた。英海は当初やはり反発にあったようだ。死を連想させる坊主に対する拒絶。しかし〇市での一乗寺の存在は大きかった。患者にも寺の檀家やその縁者は少なからずいた。英海はそこから端緒を開いたよう。無理せず必要としてくれる患者だけを対象に仏の道を説いて廻った。幸が病院に復帰する頃には「安らかにみ仏と共に」と題するパンフレットがターミナル病棟の待合に置かれていた。
 「梨恵」と命名する。普通の赤子だけど臍下に十字の痣があった。「アレアレ彼氏はきっとビックリするわ、フフッ」痣を押すと梨恵は微笑む。愛おしかった。出産を機に徐々に英海から支援を受けるようになった。自分から媚びたものではない。月の生活費、息子の教育費。自然と増えて行く。もちろん愛娘の諸々の費用も。生活の質が以前より格段にあがった。ただ体調が優れなかった。産後の日達が悪い。二人の子供と仕事を抱えて悩んでいる幸に英海から申し出があった。娘を引き取るというもの。幸は戸惑った。英海は結納していたからだ。新妻は承知なのか。いぶかしんだ。女の嫉妬は娘の成長に悪影響。重々確認した。ただ笑って万事平気という。
 自律神経の乱れから来るフワフワめまいで乳飲み子を床に落としそうになった時に幸は決断した。寺に暴力は不釣り合い。そんな危なっかしい理屈も正当化の底支えをしていたかも。否応なく取り上げられた訳ではない。支障があれば何時でも引き取る。これには英海も承知してくれた。育つ場所が替わるだけ。この子はいつまでも二人の子。まぁ勝手な親たちの論理づけ。その後ひと月に一回は子供に会った。それも児童の頃まではのお話し。一乗寺の子であることは約束事。戸籍上の母は居る訳だし大きくなるに連れて徐々に会うことは憚られた。やがて少女になり大人になる様子を遠くから見つめるだけとなった。

第四章
 米津依織は西武新宿線の○駅、○市役所前でコンビニを経営している。大手コンビニチェーンのフランチャイズ。依織は母子家庭に育った。母親は看護師。彼女は毎日忙しかった。病院勤務の間は祖母に預けられた。祖母は市役所前で雑貨店を開いていた。郊外のお店のこと、タバコから飲み物、弁当、日常雑貨品まで手広く商っていた。祖母が亡くなりその店を継ぐにあたってコンビニに改装したのである。三十歳の時に決断しもう八年になる。
 母、幸は五十歳半ばで看護師長になっている。患者さんへのケア「私の生きがい」が口癖だ。ただ然るべき時にあなたと一緒に居られなかったことを申し訳なく思っていると、時折自虐的な話しもする。
 幸は動くホスピタリティーだ。小さい頃から病院に連れられて働く母の姿を見ていた。どう見ても薄汚いお爺さんに寄り添い、笑顔で丁寧に顔を拭き体を拭う姿になにか神聖なものを見る思いがした。
 母は誰に対しても優しかった。ヤクザまがいに恫喝されても、マァマァ落ち着いてにはじまり、素敵な笑顔でまるで駄々っ子を手なずけるよう。まさに神業。小泉今日子似のこんな素敵な女性から父はどうして遠ざかったのか? 理由が分からなかった。
 父は離婚後他の女性と結婚し子をなし、東北の一都市で幸せに暮らしていると母から聞いた。二人の間に何があったのか知りたい思いもあった。けれど母の笑顔を曇らせることの方が嫌だった。
 コンビニ開店に際しては、母が資金を全額提供してくれた。フランチャイズの保証金と開店準備金でほぼ一千万円。永年の笑顔の代償と考えると思い切り気が引けた。
 依織はおちこぼれだ。自分で自分が分かっている。ゆとり世代ではないので成績の基準は小学生の時から五段階評価。もれなく一を並べた。相対評価教育では七パーセントの生徒が一でなくてはならない。仕方ないこと。母は個性だからといつもかばってくれた。それでも一度母の病院の精神科を受診したことがあった。後に発達障害を疑ったと知れた。それにアトピーの持病があった。乾燥してくると首筋や肘付近に赤い湿疹が出てくる。
 頭が悪い運動神経がない。そのうえ見た目も悪く(お笑いの〇ちゃんに似ている)てはどうにもならない。もらうべき時のチョコ数はゼロ。やはりと項垂れて自宅に戻ると勉強机にチョコがひとつ置いてあった。
 惨めな気持ちが募って母に強く当たった。苦い思い出。高校は偏差値最低の県立高校にも落ちて金さえ払えば入れる私立に机を並べた。高校を出ると経営専門学校に。母と祖母には金銭的な負担ばかりかけた。頭があがらない。
 「店長、肉まん補充しておきますか?」
 新人バイトのカノンの声だ。彼女の履歴書には花音と記されていた。キラキラネーム。依織は決して自分は好かれないと知っていた。女性とは何人かとは付き合った。長続きはしなかった。大概、自然消滅してしまう。どこに原因があるのか依織には分からない。
「はい、お願い」
 と商品を棚に詰め込みながら答えた。
「店長、こんなに賞味期限切れがあるんすか? 」
 カノンがレジ下においてある段ボール箱を見つめながら素っ頓狂な声をあげた。
「いいの、いいの。それ、使うから」
 とだけ言って言葉を濁した。説明してもどうせ分からないだろうと考えた。
 依織は数人の仲間とKIBOOというNPO法人を主宰している。具体的には子供食堂を通じて貧困にあえぐ子供を救うこと。正式には特定非営利活動法人(NPO法人)という。社会貢献活動、ボランティア活動を公的に後押しする団体。知事の認可が必要。母の後押しが大きかった。市立病院の看護師長だ。保健所や市役所の健康保健課、教育委員会にもコネクションがあり容易に認可が下りた。 
 依織は社会奉仕活動に関心がある。生い立ちが貧しかったわけではない。たぶん母親のせいだろう。車椅子の人を見かけると必ず介助を申し出た。強要は慎むようにと母親に釘をさされている。介助を嫌がる人もいるという。
 KIBOOの活動はもう八年になる。公民館の二階を毎晩借用し空腹の人が誰でも立ち寄れる食堂を開いている。小中学生が中心だが中にはホームレスも来る。依織は食べ物を頬張る人の顔が好きだ。誰でもがホット安堵の笑みを浮かべる。食材はフードパントリー(貧困家庭への食糧支援を目的に食糧を備蓄する団体)でもある地元の大手スーパーが提供してくれる。調理は市役所生活福祉課の木本奈々さんが担当。もちろんボランティア。
 最近ではパソコンも敷設し簡単なプログラミングも教えている。こちらは大手電気メーカーを定年退職した元エンジニアの受け持ちだ。さらにXBOX、WII、PS4も置いてゲームもできるようにした。貧困の子供には憧れの機種。ソフトも中古を購入する。木本さんも自分の子供のお下がりをよく持参する。
 毎日十数人が夕食を食べに来てくれる。先日KIBOO立ち上げ時に食べに来ていた子供が、大学に入学したと挨拶に来てくれた。素直に嬉しかった。目下の問題は本当に食物を必要な子供に温かい夕食を提供すること。
 貧困は根が深い。猫が自分の病気を隠すように、貧困も隠れる、地下に潜る。なかなか食べに来てはくれないのだ。今後は地域の情報を元に個別に当たらなければと思っている。まずは親を説得しなければならない。貧困が恥ではないこと。子供を犠牲にしてはならないこと。慎重にかつ根気強く説き伏せぬばならない。児相(児童相談所)や民生委員の制度もあるが隠そうとする人には無力。手をあげさえしてくれれば助ける道は必ずある。何とか手をあげてもらいたい。依織は素直にはそう思っている。
「ちょっと出かけてくるね。すぐもどるから」
 依織はカノンに声を掛け店の前の大通りを市役所へと向かった。○市ご推奨のケヤキ並木。桜が終わる頃には若葉が燃え出す。いや燃えるのとは違う。反対だ。上から下に緑がさして来る。 
 まだ冬枯れで淋しい。市役所は店の真向かいだ。昼休みには依織のコンビニに職員が弁当を買いに来る。市役所の中にも売店はあるが、こちらは障害者施設が作る弁当やパンを販売している。その店を横切り生活福祉課に向かう。行き先は木本奈々さんのところ。

「お忙しいところ、すいません」
「昨夜はじめて来た女の子の名前と住所が判りました。アオイソラと言います。漢字は蒼井空です。桜木小学校の六年生で住所は美園三丁目〇、『自由区jp』二〇三です」
 木本さんが書きとめた。
「はい、分かりました。受け持ちの民生委員さんに立ち寄ってもらうようにします。まかせてください」
 依織はいとまを告げて出入り口に向かった。会計課のところに黒い長い列が見えた。ああ今日は五日か。支給日だ。
 支給日とは生活保護費の支払い日。○市ではおよそ三千五百世帯が対象となっている。毎月七億を超える金がいる。これは血税。市民の眼は厳しい。大概の市では生活保護費を抑えようと努力する。その結果「追い出し」と呼ばれる無情な行為に出る。まずは希望者を受け付けなければいい。何やかやとインネンをつけ相手に辞退させる。近隣都市で追い出された困窮者の受け皿に○市がなっているらしい。
 木本さんによると新規受給者の半分は近隣他市に断られていると言う。生活保護は市民になってはじめて得られる。引越し代金は手弁当。だから十万円借金してでも○市に越してくる。みな必死なのだ。マジで。
 なにかが違うと依織は思う。子供食堂に来る子の親は生活保護を受けていない。貧困を抱えながら必死にこらえる。ほとんどが一人親家庭だ。生活保護制度のことは知っている筈。なぜ受給しないのか?
 結論から言えばメリットが少ないのだ。大本の審査でプライバシー(預貯金、土地などの財産、ブランド品や金目の物の有無)を曝け出すことになる。保証人(支援が出来ない親族)も必要。こうした自尊心を傷つけられる審査にパスしても最低限の生活しか保障してくれない。保護費を受給して働くのは違法。賃金は保護費から差っ引かれる。預金はできないし生活の質は上がらない。
 子供の教育費はどうすればよい? 医療費は無償になるが保険証は発行されない。人によっては唯一の身分証明書を取り上げられる。これはヒトとしての尊厳にかかわる。委細そんな訳で身体には酷だがパートやバイトを掛け持ちしてでも必死に働く。
 現行の生活保護制度は一人親貧困家庭の救済には役立たない。国のデータでは七人にひとりが貧困。一人親世帯では二人に一人が貧困。この子たちは満足な教育も受けられない。希望の職種などは夢のまた夢。委細省くが貧困は貧困を呼ぶ。親になっても貧困から抜け出せずその子供もまた貧困にあえぐ。
 
第五章
 白神梨恵は西武新宿線○駅を降りた。近くに桜で賑わう大きな市民憩いの公園がある。住まいは〇駅から少し東京よりの清瀬市。勤め先のコンビニは〇駅からケヤキ並木を五十メートルほど歩く。
 ×一の三十二歳子ナシ。梨恵は美容師の資格を持つ。しかも豊富な経験を持つレジデント。引く手あまたの職業。けれど今は正職に就くことを止している。今はちょっと違うことに関心がある。そのコンビニは梨恵の探究心を充足させてくれる場所の筈。
 梨恵はおととし同僚の美容師のオトコと電撃結婚した。同業のオトコはチャラチャラしていて信用ならないという風聞を無視。それまでの男女のお遊びはオワリ。旦那とファッショナブルでハイクォリティーな家庭を築きヘアメイクサロンを独立経営する。オンナは結婚となるとオトメチックになる(これは子宮があるせいだと保健体育で習った)。
 けれど結婚二か月後にこの夢はアッサリ瓦解した。旦那が浮気した。何気なく見たスマホの履歴で割れた。履歴ぐらい消去しろよ! 梨恵の腸は旦那の無神経な態度に一層煮えくり返る。リベンジを決意。浮気を仕返してやった。
 もちろんハッキリと旦那に分かるように。大喧嘩の末離婚と相成った。普通の女性が子供の頃から夢見たバラ色の結婚生活がたった三月で消滅。梨恵は傷心した。同じ職場での出来事。先輩後輩と複雑に人間関係が絡みこれを表現するとドロドロ。
 あのドロドロは疲れたと今は暢気に言えるが、傷心は長引いた。こんなに弱いオンナだったのかと自分を呪うほど。心は荒んで、仕事中に職場のトイレで喚き散らす始末。だってあのセックス依存症オトコが二、三メートル先で同じ空気を吸っている。
 〇市の美容師の仲間うちに格好の下世話ネタを提供することに。前代未聞の珍事。こいつらをディズニーのある舞浜のシェラトンに招待し盛大な結婚式を挙げたばかり。恥ずかしいったらありゃしない。
 店を辞めて土地勘のない千葉県幕張市に転居し、近くのショッピングモールに出店しているGAPの店員になった。こっちは涙ながらに郷里を離れ好きな美容師も出来ないほど傷ついたのに。ダンナは経営会社の配慮から〇市の系列店舗に移っただけ。それも悔しかった。何時だってオンナが損する。
 復活のキッカケは友人が作った。
「そう霊感占い師よ。私も看てもらったんだけどとにかくすっごいんだよぉ。私が援交してたことも当てちゃって、一体なぜ? という感じぃ。あんたも看てもらいなよ、だめもとでぇ」
 半信半疑だった。だって「霊感占い」といえば女性誌や週刊誌には必ずっていうほど広告が載っている。「恋愛・結婚・相性・復縁・不倫・仕事」つまり恋愛を中心に人生諸事万事に亘る悩み事を霊感で解消してあげるというもの。
 電話相談が主で十分間五千円もする。いまはスマホのメールもありだそう。先生と呼ばれる霊感の持ち主たちが十人ほど写真と簡単なプロフィールで紹介されていてその中から好みを選んで電話をかける。この先生たちもランク付けされている。よく当たる順ということなのか値段も違ってくる。十分間一万五千円の先生もいる。
 知り合いに「霊感占い師」をバイトでやっている人物がいた。花村という名の僧侶。寺の収入だけでは不自由だったらしく夜になると受話器を握る。「電話の多くは今の恋愛が上手く行くかどうかを聞いてくるものなんだ。けど昨晩の電話は酷かった。不倫をしているんだけど相手と奥さんが別れるようにしてくれっていうんだ。いくら霊感があってもオレは万能の神ではないんだよぉ」笑ってた。 
 一時間ほど相手に話させると僧侶には二万円の実入りがある仕組み。この僧侶が電話相手をどのようにあしらったかは知らない。聞く気もなかった。梨恵はこの僧侶のことを好きじゃない。伊藤英明似が売り。鏡があれば必ず自分を写し見るタイプ。自尊心の塊。こういうオトコの中身は狭量で安っぽいもの。従って「霊感占い」なるものに偏見がある。
 ただ今回は躊躇いよりも縋る気持ちが勝った。連絡をとって小手指駅前のスタバで会うことにした。相手は霊感占い師。一癖も二癖もある人物かと思った。法外な礼金や体を求められたらすぐに引き返そうと身構えていた。だが実際は梨恵と同じ背丈の貧相な老人だった。友人にもう少し詳しく聞いておけばよかった。梨恵はペロッと舌を出した。老人は梨恵の心情を見透かしたように、
「あんたを煮て食ったりせんよ。ハハ」
 老人は笑っていた。次の一言に梨恵は驚いた。
「あんたは寺の娘じゃな? 」
 その言葉で老人を信用した。だって当たっていたから。白神は珍しい名前。実家の一乗寺を連想できる。けど友人は私の旧姓を知らない。私は結婚後の金子梨恵で通っていた。
 老人は容赦なかった。男女付き合いのだらしなさを窘め、欲のままに動く本性を叩きのめした。清々しく生きる「清貧女子」になれと。
 またこの世の出来事には必ず初めの「因」があり生み出されたモノが「果」結果となると教えられた。離婚は私と旦那の間に起こったこと。それは結果。最初の「因」はどちらにもある。もし旦那だけに「因」があるとしたら私には「果」が無いことになる。けど現実には「果」がある。これは簡単な人生の理屈じゃよ。老僧は笑った。
 ドロドロも自分が招いたことと断罪された。確かにそうかも。ただ下を向くだけだった。手付かずのアイスコーヒーに大量の汗が滴る頃老人は気になることを語った。
「本当の母親に逢ってみる。母親から生き甲斐を感じてみる。まずはそこからだな。アンタさんとはまたどこかで遭うことになるな。アンタにはどうやら役割があるようだ…」
 また遭うには顔をしかめたが前段には驚いた。えっ、本当の母親? 確かに疑っていた時期はある。お祖母ちゃん子として育った。母親はすぐそばに居たが疎遠だった。学校からの手紙もお祖母ちゃんに手渡しお小遣いもお祖母ちゃんから。不思議と云えば不思議。でもそんなことはとっくに忘れていた。忘れるぐらいだから特段不都合はなかったのだろう。
 老人は差し出した礼金も受け取らず話し終えると席を立った。スタバの自動ドアを急いで追いかけたが老人の姿は風のように消えていた。
 梨恵はその後見事に復活した。目の前がヒラケた気がした。早速幕張を引き払い〇市の隣り清瀬市に戻って来た。友達も多い馴染みの場所。こっちの方が住みやすいに決まっている。キョウナリ(京成)電車沿いの薄暗いアパートで小さくなっていた自分が馬鹿らしかった。
「ホントに凄い人だった。あの人は霊感占い師じゃなくてお坊さんじゃない」
「えっ、オボウさん? なに? なにそれ?」
 ? マークの友人の美容師に礼を言った。その後東村山の美容院で働き出した。客も美容師仲間も新鮮で梨恵には好ましかった。折りしも成人式の時分でヘアメイクを終えた新成人が早速インスタにアップするのを見て本当にやりがいを感じた。十年前の初心に帰った瞬間。しかし常に老僧の言葉が耳元にひっかかっていた。
 本当の母親かぁ。見つかったら一度描き損じた人生設計図に新たな図形が描けるのだろうか?
 だったらいいなぁ。
 裏口から職場のコンビニに入った。シフトは遅番。仕事先は二十四時間営業。働き方改革で二十四時間営業の店舗は減っている。しかしここは店長の意向で二十四時間営業を頑なに守っている。コンビニは防犯に一役かっている。暗く人通りのなくなった深夜でもここだけは明るい。何かの災厄から逃れてくるには持って来いの場所。店長はそのことに拘る。
 梨恵はロッカーをあけて身支度を整える。支度と云ってもロゴ入りのジャケットを一枚羽織るだけ。鏡でパパっと化粧をチェックしてレジに向かうドアを開けた。

 このコンビニに勤めたのには事情がある。母親探し。梨恵は探偵(女性/沙羅探偵事務所)に相談した。この探偵は例のドロ試合のプレーボールに当たって旦那の素行調査を依頼した。馴染みがある。かつての父と母の喧嘩の内容、そして盗み見た葉書から、○市の看護師で、サチという名前、年齢は五十代などの情報を提供した。二十万円の調査料とひと月の時間で調査が完了した。
 申し訳なさそうに依頼していない看護師の息子のことまで付け加えてきた。サービスということだろう。前回の調査で梨恵はどん底に沈んだ。探偵は見当違いだが梨恵に同情を寄せたに違いない。そうこのコンビニは看護師の息子が経営している店舗だ。
 いきなり看護師サチを尋ねるのは憚かられた。だって言葉がつづかない。三十二年の時を経ての母子の再会に何の意味があるのか? 相手の心の奥底は窺い知れない。けれど老僧に言われるまで母親に執着していたわけではない。父方の祖母に猫可愛がりされて育った。何不自由もない。多少疎遠だったが母親は居たし、愛情に飢えていたのとは違う。
 ただ祖母が亡くなると、時折寺の母親は梨恵の素行の悪さに激高した。敏感な思春期のこと。それが父親から受けている蛮行(浮気?)のハケ口だと知れた。そして理不尽にも自分に向けられている。オンナのカン。
 また梨恵は僧侶という職業を嫌った。寺の娘だ。いろんな僧侶を見て来たし情報も得た。その結論として僧侶とは『裸の大殿』だ。檀家は一目置く。為になる説法も聞けるし、困り事は借金も含めて相談できる。万相談所。そこまでは佳し。
 ただ僧侶はそこから出ようとしない。あんたの使命は仏法の布教と人々の救済だろう。世間には困窮している人は檀家以外にゴマンといるはず。まるでネコにテリトリーがあるように自寺から出ない。
 僧侶が全部とは言わない。梨恵はそこまでは知らない。けど自分のシマでのアガリでベンツに乗りVSOPを飲む。きっと自信がないのだ。僧侶の説法と云っても現在ではハウツー本が溢れている。原稿はコピペだらけ。あの世の名前・戒名も三途の川を渡す引導文も三万円で買った虎の巻から採ったもの。早い話私は美容師で彼らは僧侶。あまたの職業のひとつ。別段徳が備わっている訳ではない。広い世間に出れば化けの皮が剥がれてしまう。だからシマを出ない。
 かように考えるに至り梨恵は両親への反逆を開始した。以降、寺の娘に求められた品行のすべて蹂躙し好き放題して来た。中学時代は地元のワル仲間でつるんで喫煙、飲酒、万引と補導の常連となった。高校時代には学校のワル女子と渋谷に繰り出し援交を始めた。
 宮崎あおい似の小顔スレンダーを持ち味に客には困らなかった。アガリは化粧品・衣類などのブランド品につぎ込む。学校側に知られ停学処分をくらった。中高時代の学校からの呼び出しにはすべて父が対応した。母は我関せずを決め込む。父は何も言わなかった。それにも腹が立つ。大抵の親は怒るだろう。
 高校卒業と同時に家出した。「パパ」を作って暮らした。代官山の2Lマンションをあてがわれ月二十万円の小遣いも貰った。ニーソ姿で舐めてあげるとブランド品を買って貰える。相手は六本木ヒルズ族で四十代の妻子持ち。お相手の詳細は知らない。「パパ」であればヨカッタから。「パパ」不在の折は赤坂のクラブで誘ってくる若いオトコたちとセックスを愉しむ。そんな女友達はたくさんいた。
 ただ十代の終わりを迎えるとさすがに焦った。「私の人生」に想いが及ぶ。友達の中には結婚して家庭を持つ「素敵女子」も出だした。こんな腹がたるんだオヤジにオンナ盛りを差し出すのかと思うとウンザリした。その晩家出した。また「パパ」を探す。
 今度は美容師専門学校の入学金と二年間の授業料併せて三百万円の支払いが条件。出会系サイトで案外簡単に見つかった。品川駅前で不動産業をしている。五十代妻子持ち。やはり腹が出ていた。こん時は前の「パパ」からの小遣いを貯めた金で初台に1Lマンションを借りていた。そこで定期的に体を許した。この借金はいつまでも残った。梨恵が結婚しても関係を迫って来た。なもんだ。最終的には半グレの男友達に引導を渡してもらった。それでオワリ。
「おはようございます」
 梨恵はいつもの作業についた。今から二十時までが担当。
「はい、お願いします。今夜は雨かもね」
 店長の米津依織が応じた。
 面接の時、この人は兄だと直感した。どこがと言われれば困るが血の臭いだろうか。まぁ事情を心得ているからとも思う。たぶん店長は自分を見て何も感じないのではなかろうか。この人の母親に(窓にあたる雨粒見ながら)特段恨みがあるわけじゃない。でも騙されたままなのは癪だった。それにあの老僧は実の母親との出会いが曇りがちドロドロ泥にキラリ神光が射すきっかけになるようなことを言った。オンナの三十二歳はギリギリ。今は花盛りでも今後は尻つぼみと相成る。
 私は人生をやり直したい。それも清々しく。未練はあったが東村山の美容師を止した。確証はないが試す価値はある。老僧の言葉はそれだけ魅力的だった。探偵がサービスで提供した情報をまずは利用しようと思った。徐々に母親に近づけばよい。
「金子さん、美容師さんだったんだね? 」
 梨恵はハッとした。
「あ、ごめん。別に調べた訳じゃないよ。昨日、市役所に行ったら、いつもお弁当を買いに来る職員から聞いた。HAVEN美園店で髪切ってもらったって」
 HAVEN美園店とは泥試合のあったヘアサロン。狭い○市のこと。客に遭ってもおかしくはない。履歴書には美容師とは伏せた。コンビニで働くには無用な情報。
「すいません。履歴書には書きませんでした」
「いやいや、責めてるんじゃなくて、もし美容師さんだったら、女の子たちの髪をお願いできないかと思って。もちろんお金はだすよ。仕事だから」
 梨恵は事情を理解した。このコンビニは別の仕事をやっている。貧しい子供たちに夕食を提供しているのだ。女の子とは夕食を食べに来ている小学生のこと。この仕事を知ったときは驚いた。今までの人生で他人のために何かをしている人にお目にかかったことがなかった。
 大抵は自分勝手。オトコはセックスの快楽だけをオンナに求める。元夫には五人のセックス相手が居た。探偵調べ。狭い○市にラブホは三店しかない。入り口の防犯カメラ映像を現金で買ったのだろう。四人がヘアサロンの客でひとりは同僚だ。全員梨恵の顔見知り。中には「結婚おめでとう」祝辞を述べたヤツも居る。旦那の味を試したのだ。赤面すると共に怒りが込み上げて来た。
 探偵はホントに申し訳なさそうに知り得た情報だからと浮気の理由も教えてくれた。オッパイが小さいこと。陰部にある十字のタトゥがキモイ。これでキレた。あくる日には元夫の友人に声をかけた。相談に乗ってと酒に誘えば大概のオトコは落とせる。あくる日もそのあくる日もオトコ(旦那の同僚・友人)を替えた。キッチリ五人がリベンジの数だ。最後にエッチな証拠写真を五枚、元夫に送信した。
「はい、了解です。いつでも協力します。お金は要りません」
「ありがとう。子供たちも喜びますよ、きっと。だって、もう何ヶ月も髪の手入れしてないですよ、きっと。もちろん洗ってはいるんでしょうが」
 子供たちの話になると哀しそうな顔をする。いつだってそう。
 梨恵はこの兄かもしれないオトコに不思議な感想を抱いていた。一度試しにワザとオッパイが見えるように依織の前にしゃがんでみた。しかし依織は見ようとしない。平然と品を棚に詰め込んでいる。こんなオトコは始めてだ。実の父親だって覗くのに。
「女の子はいつ来るんですか? 」 
 これがKIBOOへの第一歩だった。母親のことはまだ何も訊いていない。

第六章
 花村龍円は一乗寺の隣り○市にある安養寺の住職。宗旨は一乗寺と同じ○宗。ただ規模が違う。檀家百程度の小規模な寺院だ。従って住職だけでは食っていけない。今は一乗寺に勤務している。龍円は京都の○宗中核寺院の三男坊で、京都の同宗経営の大学卒業後に職を探して関東にやってきた。安養寺は宗門が用意してくれた赴任先である。子のない先住の後釜だった。それでも住職が亡くなり先に不安を感じていた年寄りの檀家衆には喜ばれた。
 龍円は生まれつき霊感が強かった。墓地に行くとある墓の前では先祖たちとの声が聞こえた。大体は母音の連続で歌のように聞こえる。でも意味はよく分からない。隣の墓からは何も聞こえない。十メートル離れた墓の前でも聞こえる。親や兄弟に話しても信じてもらえない。
 父親は僧職であるのに霊など存在しないと頭ごなし。龍円はこの謎を突き止めたくて仏教の大学を選んだ。現代の僧侶などに興味はなかった。その昔の高僧は呪術を操ったと聞く。自分はこの呪術に興味を引かれた。弘法大師は日照りの時に嵐を呼び大雨を降らせ、人々に崇拝された。僧侶と自認するには、この奇跡とも呼べる力を持っていなくてはならないと本気で思っている。
 龍円は大学卒業後の○宗の「大寒行」で自分の霊感を体系づけることが出来た。霊感に確信をもったというべきか。呪術を使えるようになった。「大寒行」とは真冬の百八日に亘って〇宗の修行道場で行われる。中身は口外禁止。守らなければ同行の者たちから厳しい断罪をうける。
 謂れは役小角(えんのおづぬ)が始めた修験道に遡る。役小角とは七世紀飛鳥時代の呪術者のこと。険しい山岳を舞台に厳冬に冷水酷暑の炎火に耐え抜きひたすら読経を続ける。いわゆる荒行。要らぬものがそぎ落とされていく。だが誰もが呪術を身に付けられるものではない。ほんの一ひと握り。
 勤務する一乗寺は〇宗を代表する寺院だ。その住職が何の力もなくて良いのか? 生まれつきの家柄だけじゃないか。今の住職は次期の法主に内定しているし息子の知正は次期一乗寺住職。知正は無力で愚鈍でマヌケだ。なのに地位名声、富を獲得する。龍円はこのやりきれなさを補うように呪術に磨きをかける。
 今では布教活動に使っている。安養寺とは別の宗教法人「安養教会」を立ち上げた。板張りの剣道場のような二十畳ほどのプレハブを安養寺の敷地に建てる。仏教施設だから拝礼する本尊は用意した。設備投資はこれだけ。あとは自ら術をふるうのみ。
 龍円の操る呪術とは加持祈祷術「悪霊退散」である。キリスト教で言うなら「悪魔祓い」十字架と聖書、聖水を使う。彼のは読経と独特な所作で気を伺う。絶好のタイミングで掛け声と共に片腕で九字(臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前を叫びながら所作をする)を切る。床の中央に座らされたヒトはガタガタ震えだし気を失い床に倒れこむ。

 体を起こす時には違う人格の呻き声がする。悪霊のおでまし。
「ウーハー、ダガワレヲオコスカ? ワレハカノチニスクウシロヘビナリ」
 悪霊は今までの恨みつらみも述べる。ひと通り喋らせてから、
「仏の御名において出て行け!」
 と号令を発する。
 その刹那、ヒトはもう一度気を失う。次に起き上がった時には元の人格に戻って眼をパチクリさせている。「これで悪霊退散したまう」と低く重々しく告げて儀式を終了する。汗が龍円の全身をしたたる。極限の疲労を感じる。失敗は自分の身に悪霊を招き入れ兼ねない。必死の技。出でくるものは八百年前の白蛇だったりムジナや狐だったりする。時には代々○家にたたる霊の場合もある。
 これが出来る僧侶は全国でも数えるほどしか居ない。宗教儀式なのだから布施をもらう。一例三十万から五十万円。この術を受けに来る人はスガル思いだ。長年原因が分からず心の病にうち震えている。病院難民。術を見届けた親族は驚きと共に最上の礼を述べる。だから金に糸目はつけない。必ず原因が分かるし、その場で原因を追い出してくれる。安いもの。評判は口コミで広がり今では北海道や沖縄からもわざわざやって来る。貧乏な安養寺の経済基盤としてかかせないものとなっている。

第七章
 知正が老僧と出会ったのは昨年のこと。副住職の仕事にも慣れて来た頃。一乗寺門前に続く参詣道にある石灯篭の前でひとり佇んでいた。蝉時雨が煩い夏の夕暮れ時だった。白髪交じりの坊主頭がいかにもご同業を物語っていたけど袈裟・作務衣を着ている訳ではない。
 半袖ポロシャツにグレーのズボン姿だった。頭を上に口をあんぐり開けて手先で顎をなでていた。知らない顔だしこんな時間に観光客でもないだろう。ひょっとして地域を荒らしていた賽銭泥棒かと思い勤務中の若い僧侶に訊きに行かせた。夜半の犯行の下見かもしれない。賽銭のはした金などどうでもよい。問題は居直られて本堂を傷つけられたり庫裡に侵入される恐れもある。
 やがてにこやかに笑顔を浮かべて老僧・児玉日秀が近づいて来て頭を下げた。
「怪しいもんやない。四国の坊主ですわ」
 右手で坊主頭をなでつけていた。
「あ、そうですか。わたしはこの寺の副住の白神知正と申します」
 知正は合掌の姿勢をとった。
「多忙のところあいすまはん。龍泉寺さんの帰りに通りかかったんですわ」
 龍泉寺とは宗派は異なるがこの地域の大規模寺院である。
「それは、それは。龍泉寺さんのお知り合いでしたか。わざわざ四国から」
「龍泉寺の住職とは〇山時代の兄弟弟子でしてね。わしは香川にある寺の住職だわ。寺を息子に代替わりしてからは暇をもてあましてのう。こうして都会に出て来た…」
 ○山時代とは宗祖が開いた道場での修業をさす。名高いものだ。知正は思わず畏まって目礼した。
「檀家衆はいつも同じ顔ばかりじゃでのう。もう棺桶が近い連中ばかりだわ。まだ元気なうちに都会の若い人の世話をしたくてのう。なにせ都会はストレスばかりだから。龍泉寺さんに毎月の半分居候をきめこんで、相談にのって欲しいっちゅう人のところに通っておる」
 知正が愛想笑いをしていると老僧は続けた。
「ひょんなことだがあの石灯篭は代々のモノかな?」

 知正は頷いた。父から創建当時のものと聞いたことがある。子供の頃よくよじ登っては叱られたものだ。なんでそんなものに関心があるのか訝しんでいると老僧は後ろを振り返り参道を指さした。
「明日から一乗寺さんの参道の玉砂利を洗わせて貰えんかのう? 」
 知正は意味が理解できない。返事が出来ないでいると、
「玉砂利に成仏できない仏さんが仰山へばりついておる。ワシが手水舎(ちょうずしゃ)で洗い清めてきちんと成仏させてやらんといかん」
 児玉日秀の声には有無を言わせない力強さがあった。こんな痩せた小さな老人のどこにそんな力があるのか知正は分からなかった。知正は龍円を思い浮かべた。この児玉という老僧は龍円と同種の人間だ。きっと霊感があるのだと思った。
「一乗寺さんには迷惑かけんから。空いた時間に来て、勝手に砂利を洗ってかえるでのう」
 知正は頷くしかなかった。
 それから毎日のように児玉日秀はやって来た。酷暑の陽炎の中でもザルの中に十粒くらいの玉砂利を入れては、手水舎で経を唱えながら洗ってまた元の場所に返していた。玉砂利の数がいかほどあるのか誰にも分からない。途方もない数だ。なにかの罰ゲームのようだ。ていうか老人虐待に見られかねない。都合よく暑さで参詣者は居ない。
 この行為を止めさせる理由も見つからない。一乗寺の従業員はもれなく闖入者を興味深く眺めた。知正が事情を話したが皆一様にふーんと云う顔した。ただ花村龍円だけは眼が輝いていた。英海住職にはどのように報告したらよいか。寺の中に成仏できない仏がうようよ居るなどと言えるものではない。寺院の矜持にかかわる。知正は頭を抱えた。
 ある事件が起きた。児玉日秀が一乗寺に通いはじめて十日ぐらい経ったろうか。寺務経理の菊池裕子が三時の休憩時間に老僧を招いた。老僧は大粒の汗を額に浮かべていた。菊池裕子がかいがいしくオシボリを差し出すと、
「双子のお子さんの障害の程度は重いのかな?」
 と裕子に尋ねた。本人はもちろんだがそこに居た全員が口をアケた。知正や他の二、三人は菊池裕子に双子が居ることもましてや障害者であることなど知る由もなかった。
「旦那さんの趣味のせいだな」
 老僧は断言した。菊池裕子は頷き両手を握りしめ次の言葉を待っていた。すでに老僧の虜になっている。休み時間が終わり出て行く老僧を裕子が追った。たぶん連絡先を訊きに行ったのだ。知正はこれが霊感ある者の伎かと思った。龍円に偉ぶられてもすんなりとは承知出来ない。けどこうして目前で見せ付けられると頷かざるを得ない。児玉日秀はこうして信者を獲得しているのだ。
 そして厄介なことは起こった。
 英海住職が老僧を伴って庫裡に入ってきたのだ。いつまでも住職が気づかない筈はない。門前で玉砂利洗いをしているのだから。
「むさくるしいところで」
 住職は客間に向かった。大抵は境内にある檀信徒会館での接客となる。庫裡にとは最大級のもてなしだ。宗門からの使者、檀家総代・幹部しか入れない。自分の普段の生活空間を他者に見せることになる。相当に近しい者でなければ有りえないことだ。
 これで大黒(妻)はじめ知正も同席という合図にもなった。住職と老僧を見比べるとやはり老僧の方が十歳ほど老けて見える。英海はやはり先輩僧侶をたてているようだ。知正はどうなることやらと気をもんだがこれからひと悶着あるようには思えない。大方のことは立ち話しで聞いたのだろうか…。

 老僧はやはり上座に通された。英海は相対して大黒と知正は下座に。
「寺の積霊を払ってくださるとはまったくの難役、まことにありがたいことで。心より御礼申し上げる」やはり話は訊いていたのだ。知正は英海の反応に驚いた。自分の寺に不成仏などあってはならないのではないか。
「いやいや、ワシも要らぬ手出しをしまして相済みません。副住があまりに快く招き入れて下さりこちらも礼をいわねばなりません」
 知正をたててくれた。思わず感謝だ。
「それでは副住はご存知で、こちらが大黒になります」
 と紹介した。
「これは大黒さん。こんにちは。わしは四国の坊主でのう。縁あってここにお邪魔しております」
 老僧もひょうきんな笑顔をつくりながらいきなり本題に入った。とんでもないことを言ったのだ。
「失礼かもしれんがお宅には法律(秘め事・柔らかく法律と云った)みたいなもんがあるようじゃな。それで窮屈に暮らしておったじゃなかろうか? 娘さんも出て行ってしもうた」
 大黒の母の瞳がキラリと輝き知正を見つめた。
「あっご老僧はなんと言うか見えないものを感じられるそうなんだ」
 知正は最低限の説明をした。法律云々は分からない。娘とは自分の五歳上の姉のことだろう。
「あのう」
 思わず身を乗り出す大国を英海が制した。
「まぁまぁ、今日は御礼の席ですよ」
 英海は威厳を込めてピシリと。大国は黙らざるを得なかった。その後は何気ない昨今の寺の運営について話した。老僧の田舎寺院はもはや老人の茶飲み場になっているそう。午前は大きな病院に診察に行き、午後からは寺に集まって好き勝手なことを話すそう。老僧は早々息子に住職を譲って刺激のある都会に憧れたと言う。何だか田舎のヤンキー少年みたいなことを云う。また最後にこうも言った。
「ここの開山は(誓願文)で有名な八老僧のひとりかな?」
 「八老僧の誓願文」とは祖師の代から伝わる釈迦由来の宝物関する云い伝えのこと。伝来の宝物とは京のある寺に在った。当時の京は織田軍と三好軍との戦闘が激化し寺も放火された。八老僧の一人は燃え盛る炎から身を挺して宝物を護り抜いたとされる。
 誓願文には、
「…その身安からならず故に地蔵菩薩に変じてこれを隠すものとする。後世これを見出したる者は釈迦の縁者と成し一千貫(現在の貨幣価値で数億円)を与えるものとする…」
 ただ未だに行方は分からない。〇宗では有名な話し。話し終わると老僧はまた砂利洗いに戻って行った。
 老僧の玉砂利洗いは英海との面会のあと十日続き仕舞いを迎えた。どうやら全部洗わなくても済んだらしい。「みな、成仏した」と言い残し四国・多度津の自寺に去った。やれやれ。
 老僧との面会をきっかけに知正は母と父に別々に呼ばれた。母は老僧が言ったワード「法律」にしきりに拘った。老僧にもう少し詳しく訊いて欲しいらしい。父の手前もある。知正は曖昧に答えといた。でもなんで? 法律、姉? このキーワードが浮かんだ。姉の方は高校卒業後サッサと寺を出た。思春期を迎えてから親とのイザコザが絶えなかった。姉は半グレだ。喫煙、飲酒、援交、悪い噂はよく届く。なぜそんなに反抗するのか知正には分からない。何でも欲しいものは貰えたのに。自室で親と娘の言い争いに小心からいつもハラハラしていた。
 ここは寺だ。家族内での言い争いなどあってはならないと世間は思う。でも寺だってただの一家族に過ぎない。夏休みに仲良く家族で旅行に行くし学力をめぐって言い争う。普通の家庭と何の替わりもない。姉は美容師となり同僚と結婚し離婚し今は知らない。姉の名は白神家では禁句となっている。檀家衆も知ってか知らずか「娘さんどうした?」などとは決して云わない。亡き者として今では通っている。「法律」とはおそらく姉を半グレにした原因のことだろう。尋ねてもみたいが。まぁどうでもよいか。
 父親からは、あの老僧の言うことを一切聞いてはならないと謂われた。
「お前も大寒行に行ったのだから霊感ある者の存在は知ってるな。それを飯のタネにしている者もいる」
 〇宗祈祷術のこと。知正には劣等感の元凶。それが出来ないために龍円に強請られる破目に至っているし。
「いいか、霊力霊感はあってもそれ以上でもそれ以下でもない。必要な者はそれで救われるかもしれない。ただ世の中の多くのことを解決出来るものではない」
 いやに説得力があった。今日の親父いや住職は僧侶めいたことを言う。滅多にないこと。! マークだ。ただこの話しは知正にとっては大歓迎。父親に霊感があるかどうか尋ねたことはない。たぶん無いような気はする。それは遺伝すると先輩から教えられた。なら住職にも無いことになる。いや今の言葉を冷静に租借すれば親父にはそれが無いと教唆するものだ。知正は惨憺たる結果に終わった「大寒行」を思い浮かべ心底安堵した。

第八章
 〇宗恒例の「大寒行」は毎年十一月中旬に始まる。「大寒行」の云われは役小角(えんのおづぬ・八世紀)が開いた修験道。山岳宗教ともいわれ文字通り厳しい自然の中でその身を鍛える(修行する)。宗教には必ず聖地なるものがくっ付いている。キリスト・イスラムのエルサレム、仏教のブッダガヤ。宗教と似て非なるもの北朝鮮のキム王朝だってペクトゥ(白頭)山っていう聖地がある。日本の各宗派も塵界を阻む秘境を次々と聖地にする。〇宗も峻険な山々が連なる人跡届かぬ霊場を有する。
 「大寒行」とは過酷さを念頭に厳冬に滝水を被る行。「大寒行」では一日七回、下締めひとつで経を唱えながら観音滝の水を被る。これをベースに大蔵経の読経、九字相承(九字の切り方)、相伝書(〇宗の秘伝)の「書写行」を修する。百八日間の食事は朝夕二回、梅干し沢庵一個と白粥のみ。処遇は監獄以下。誰にも面会、連絡すらとれない。なにせ秘境。夜中に道場を抜け出しても娑婆まで辿り着けない。
 白神知正は一乗寺の副住職となって最初の試練に臨もうとしている。〇宗にとって「大寒行」はいっぱしの住職への登竜門。知正は〇宗系列の大学卒業後、「大寒行」だけは嫌だと避け続けていた。けど父で師僧の英海からあと数年後には住職を譲るので今年の「大寒行」を受けろと言われた。師僧の指図にはさからえない。
 何より格式の高い寺の住職にとって「大寒行」は必須のもの。それでも嫌がる理由とはその悲惨さにあった。毎年百人以上入行するものの中途挫折する者も多いと聞く。経験者に尋ねても具体的なことは教えてくれない。緘口令が敷かれている。ただ薄ら笑いを浮かべてただ経験しなきゃ分からないと口を揃える。どう怖いのか情報が無い分余計に恐ろしい。この数か月は「大寒行」と聞くだけで気が重い。
 とうとうその日がやって来た。入行式を前日に済ませた総勢百名の行者は半鐘を合図に一畳ほどの寝床を飛び出し下締めひとつで道場横の観音滝前に縦列に並ぶ。外気は刺すよう。地べたの岩からは痺れるような冷温。
 ジッとしては居られない。自然と体が動く。どこからともなく般若心経の一節がはじまる。知正も唱和した。それも怒声のような大声で。少しでも体が温まる。体が知っているというべきか。
 やがて最初の十人ほどが勢いよく滝水に身を投じはじめる。辺りが白く霞む。冷たい水が人肌に触れて蒸気が出る。順番を待つ間にしぶきで半身水浸しになる。足先の感覚がなくなる。早く番がやってくるように願う。もはや待つ方が辛い。
 一端合掌姿勢で滝水を被りだすとあとは無我夢中。すでに全身の感覚がない。いつ止めてよいのかも分からない。すべて周りの者次第。あとで分かったことだが行には経験者が複数存在する。中には三度も四度もの強者も。行の式次第はこれら経験者に操られている。
 宿坊に戻って身体を拭う間もなく続いて本堂で朝の読経がはじまる。続いて白粥。次に声明の練習。各種所作の練習。九字の訓練。相伝書の書写。間の休みというものがない。最初は皆に追い付くのに必死。だが我慢は出来た。何も考えずに黙々と課せられた題目をこなせば良い。

 年を越した辺りにはスッカリ馴染んでしまった。晩秋から厳冬にかけての百八日間。朝三時から夜の十一時過ぎまで就寝時間は四時間あまり。熾烈だけどいつものように周りに溶け込んで過ごせばなんとかなるだろう。長い人生のたった百日余りのことだ。これを乗り切れば元の「若」の生活に戻れる。知正は六本木のクラブのことを思い浮かべる。やけに懐かしい。
 「大寒行」は七十日目を境に様相が一変する。学びの体制からそれまでやって来たことを問う試験体制にシフトした。仏教では問答という。「大寒行」の目的は〇宗秘伝の加持祈祷法を伝授するもの。相応しい者にしか授けない。
 すなわち七十日の間に①身体精神を鍛錬し②九字の切り方並び③相伝書を手中に収める必要がある。その三本柱が〇宗師子相伝の加持祈祷法。知正のようになんの自覚もなく無難に過ごしてきた者には通用しない世界がそこにある。
 予想通りに知正はひとつの問答も通らない。だって何も覚えていない。理解していない。成長したのは髪と髭ぐらい。まぁそんな輩は知正だけではないが。最初の問答でたじろいで居た知正に事も無げに問答をクリアした僧侶が目に留まった。
 どこかで見た顔。それが一乗寺に出入りする僧・花村龍円だった。彼は二回目の「大寒行」。物腰に余裕が感じられた。ワンコがご主人に向けるような訴えかけるような眼差しで見上げると龍円は「お、若」と応えた。そこから知正と龍円の切っても切れない絆(赤い糸)が生まれることになる。
 立往生する行者は知正だけではない。すべてをクリア出来る修行僧の方がマレ。必ずどこかで立ち止まる。その時の助け船が先輩修行僧。二回目、三回目の行者のこと。彼らは一度済ませているから万事心得ている。だから教えられる。道場内での私語は厳禁。それに代わって何かを書き留めた二つ折りの小さな和紙が教示用に飛び交う。問答は何回か繰り返されるが行者を待ってはくれない。すべては百八日で終わってしまう。先を急ぐまさに修羅場と化す。
 宙に行き交う紙たち。それを誰が呼んだか「切紙奏上(きりがみそうじょう)」という。仏法の真髄が刻まれている聖なる御書が問答を突破するためのただのアンチョコと化している。しかもタダではない。地獄の沙汰もナントヤラ。ひと紙三十万円~する。娑婆に出てから現金を払う仕組み。
 知正は「大寒行」を終えるまでになんと三十三枚の切紙を龍円から貰った。数えたくはないが四百万円超(多分税別)。それでも知正は必至。なんとしてでもを「大寒行」終えたい。元の生活に戻り「若」と呼ばれたい。早く六本木のユアに逢いたい。数百万は別格本山の跡取りの知正には端金だ。ただし知正が失ったのは現ナマだけではない。跡取りとしての品格も。道場の教官、同行者に醜態を晒してしまった。何よりも切紙を直接もらった龍円の存在はデカい。自分のダメさ加減を一番知っている相手。一生頭があがらない。
 あとで知正は先輩僧たちの素性を知って驚愕した。彼らはすでに〇宗秘伝の加持祈祷法を使いこなせる。それなのに何度も行に参加する理由…それは切紙奏上で儲けること。龍円は二度目。彼曰く、一度目の借金の清算と儲けのためだそう。いずれまた行に参加するとのこと。美味くすれば年収が稼げる。知正は憤ったが恥ずかしくて表立っては口に出せない。フー。これが「大寒行」の顛末。

第九章
 花村龍円は決意した。新興宗教団体を興す。力が在りながら日蔭に埋もれていく日々。一刻も早く溜飲を下げたかった。手っ取り早いのは宗教の立ち上げ。世の中嘘っぱちの似非宗教に溢れている。そのどれもが金目当て、マルチ商法まがい。信者も信者なら教祖と名乗る者には何もない。空っぽ。なぜ崇める?世間は何かに縋らないと生きては行けない人々に溢れている。自分こそが尊崇の器だと確信している。
 まずは安養寺教会の利用者を辿る。彼らは間違いなく信者だ。彼らに新たな信者を獲得してもらう。SNSを通じて「霊感・霊視」を拡散して頂くのだ。口コミ戦術。また知り合いに「霊感占い」の会社を経営してるヤツがいる。龍円はその会社の稼ぎ頭。金さえ払えば教団の設立にノウハウを貸してくれるハズ。
 教団の柱は霊感占いだ。悩める人々を納得させればよい。子供の頃から霊感が強く自信もあった。相手の心など手に取るように分かる。心が読めない相手と言えば最近出会った老僧だけだ。老僧は笑みを浮かべながら龍円に近づくと「あんたは祈祷術を使うな」と云う。挨拶を返すと「変なことに使うではないぞ」と釘をさされた。
 聞けば宗門は違うが役小角の流れを汲む宗門。祖師自身が大いなる術を使った霊能者。龍円の〇宗も宗祖が霊能者で、似ている。「変なこと」とはどういうことか。今からすることは救済だよ。変なこととは片腹痛い。
 「仏教教団えにし」と名付けた。通称えにし(縁)だ。親しみ易い方がよい。場所は池袋東口駅前のマンションの一室とした。ホームページを設け霊感占いを前面に押し出した。金額は布施とした。幾らでもよいということだ。信用してもらえるし高額を受け取れる。僧侶としての経験。
 早速迷える子羊たちが殺到した。龍円の経歴が下種な勘繰りを払拭する。なにせ現役の〇宗の僧侶。人間は悩みごと製造機。老若男女様々。中には十一歳の小学生も。千円置いていった。悩みごとはイジメ。七十代の恋愛相談も在った。五才下の男の気持ちが知りたいという。さすがに唖然とした。
 占いの後には入団を勧めた。特典は観音菩薩の上に「(延命)十句観音経」を記した掛け軸の無料配布。無料が餌となり団員は増えて行く。「十句観音経」とは四十二文字の世界一短い経典。これは馴染みの仏具屋に発注した。コストはひとつ千円未満。別に観音菩薩像を用意した。こちらは三十万円で販売する。高さ十五センチ見栄えは良好。仏具屋が何処からか見つけてきた。多分中国製だろう。

 教団内部の事務運営は友人僧侶の妹・よしみが取り仕切ってくれる。×一のアラサーの女子。簿記一級の資格を持つ。クレジットも使えるようにしてくれた。
 ある日ひとりの女性に惹かれた。霊感占いに来たシングルマザー蒼井加奈だ。結婚に失敗し今後どうしてよいか分からないと云う。札幌から親の反対を押し切って結婚上京した手前相談出来かねるらしい。定職もなく子育てもあり難儀している。
 龍円は「あなたには観音菩薩が宿っている」と彼女に告げた。自分の弟子となって布教の手助けをして欲しいと依頼した。根っから信心深い性格ですぐに応じた。龍円のとりまき第一号。聞けば一乗寺の〇市に住んでいる。すぐに適当な新しい住居を龍円名義で手配した。
 すぐに情婦の関係に発展した。友人の妹に手を出さずによかったとほくそ笑んだ。龍円は蒼井加奈をいつも同伴させた。一輪艶やかな役割を期待した。長澤まさみ似のグラマラスな容姿。男性信者受けが良い。
 教団は着実に前進する。龍円の霊感はあたる。噂が噂を呼ぶ。この類のことは口コミに限る。過度の宣伝は逆効果。ただ龍円ひとりでは賄いきれない数になって来た。霊感を働かせるのは疲れる。悪霊祓いほどではないにしても集中力が必要。最初から外れてはまずい。
 疲れ果てた龍円は無職の僧侶を数人雇った。寺院生まれの次男か三男で自分と同じような経歴の持ち主。一様に食うのに困っていたので二つ返事で企みに参画した。いずれも霊感には自信があるというから採用した。けど試しに蒼井加奈を観させたが誰も正確に言い当てられない。そこらの「霊感占い師」だって同じようなものだ。今はそれで佳しとしたい。
 ある日よしみが六本木ヒルズ族「ASファンド」の高木を連れてきた。高木は実に数十億の融資を提案してきた。教団を拡大するための資金。本拠の伽藍建設に始まり運営のシステム化、集金方法の多角化などの為の費用。
 カネのなる木の下にはいつだってクンクン鼻のハイエナが集まる。パリスーで金縁メガネの高木も一皮むけば獣。龍円の心境は複雑だ。金は儲けるが何故こいつらにまで恩恵を。ただ現金を何処からか持って来られるだけの連中なのに…。太った豚は太り続ける。世の中の仕組みは散々に叩き込まれた。
 悩みぬいた挙句融資に応じた。早速、教団の本拠をアパートの一室からファンド所有西東京市の五階建て黒塗りのビルに移すことに。同時にファンドはマルチ商法を提案してきた。商品は例の「延命十句観音経の掛け軸」。信徒がこれを十万円で仕入れ十五万円で第三者に販売する。信徒は五万円儲かるし布教の手助けを出きる。龍円はあまり気が進まなかった。マルチ商法・ネズミ講の末路は見えている。本来の目的はなんだ。法力ある者が信仰を広めるのではなかったか。龍円は金儲けと衆生救済との間でマジに悶えている。

第十章
 梨恵の唯一心許せる友はワンコだ。実家の寺を出た直後から一緒に暮らしている。現在三代目のワンコはスムースコートチワワの女の子。名前はCOO。もう一匹パピヨンの女の子の「モモ」。こちらは保護犬。ヘアメイクサロンの客・富永市子さんから保護犬活動のことを聞いた。捨てられたり飼えなくなったワンコを無償で預かり里親を見つけるまで世話をする。梨恵は富永さんの活動に参加した。
 富永さんは二十歳になる娘さんと一緒に常に十数匹の保護犬の世話をしている。梨恵は初心者なのでなるべく飼いやすい子を一匹預かり、自分でフェースブックやヘアサロンのホームページを介して里親を探す。これまで五匹の里親を見つけた。達成感と充実感があった。
 梨恵は〇市美園地区の公民館に急いだ。春まだ遠く、風が冷たい。目的はKIBOO主催の子供食堂を訪れ少女の髪を切ること。愛用のシャネルのトートにはヘアメイクセット一式も入っていた。
 アーティストの必須アイテムはシザー(鋏)。これは奥が深い。大きさもマチマチ。梨恵は少ない方だが六本は持っている。価格は一本十万円もする。普通のハサミとの違いは手に馴染む機能性と切れ味。髪の毛には多くの油脂が含まれている。すぐに切れ味が悪くなる。だから定期的に研屋さんに依頼する。日本刀と一緒だと聞いたことがある。
 へぇーと聞き流していた。けれど実感する出来事があった。いつまでも白を切る旦那の手前の木机に愛用のシザーを突き立てたのだ。フザケルな!と思いつく限りの悪態とともに。シザーは容易に木を貫いた。取っ手の振動音を今でも鮮烈に覚えている。旦那は恐れをなして白状した。咄嗟の行動。最初からシザーを持っていたのは事実。もしかしたら体に突きさそうとしていたのかも。いやもう忘れた。
 当初の目的は実の兄らしい男性が経営するコンビニで働いて実の母親の実態を探ることだった。だがまだ母親のハの字も訊き出してはいない。この依織という男性は実に興味深かった。梨恵は少なからず容姿に自信がある。大概のオトコはエロい視線を尻に胸に足へと執拗に向けるし気を惹こうと様々な手管を揮う。
 オンナはすぐに感じ取れるものだ。なのにこのオトコは梨恵をオンナとして見ない。また勤務してひと月になるがお茶へのお誘いもない。大体あまり口を利かない。勤務時間に無駄話もない。ないない尽くしでキッカケが作れない。いきなり母親の話でもないだろう。困っていた処にヘアーメイクへの協力要請が舞い込んだ。渡りに船。内心KIBOOの仕事にも興味はあった。  
 あまりキレイではない公民館の二階にあがった。KIBOOの看板文字が目に入った。建付けの悪い引き戸をあけた。部屋は学校のひと教室ほど。これも小学校の机が十個ほど点在している。奥の壁際にビュッフェ形式に料理が並んでいた。すでに食べている子もいるし皿に料理を盛っている子もいる。 

「こんばんは」
 梨恵は依織に声をかけた。依織は子供とパソコンに対峙していた。
「あ、すいません。わざわざ」
 深々と頭を下げた。
「では最初にKIBOOについて教えますね」
 依織は別室に梨恵を案内した。そこにはエプロンを付けた身なりに構わないアラフォー女子が居た。ヘアメイクの要望は実はこの人じゃないかと思った。
「美容師さんの、助かります」
 女性は調理担当。市役所の職員だという。ボランティアのひとり。今日はハンバーグとピラフと炒り卵、フライドポテト、サラダ、チキンスープ、果物、プリン、ナタデココと指を折りながらニコニコ嬉しそうに説明してくれた。飾らない優しそうな女性だ。
 依織は子供食堂の説明を始める。学校から帰っても誰も居ない。冷蔵庫には何も入っていない。お金もない。学校給食が唯一の栄養補給という子も当たり前にいる。給食が無い日は子供食堂が頼り。ギリギリの生活を強いられている。
 依織が子供の実態を知ったのはコンビニでの万引き事件から。小学三年生の男の子と一年生の女の子の兄妹がコンビニのお菓子を狙った。被害などはたかが知れているが犯罪は犯罪。交番に届けたが犯人があまりに幼いので児童相談所に通告。ほどなく児相の担当者が来て小学生万引コンビに相対した。
 「お父さんお母さんは?」「どこに住んでるの?」「小学校はどこ?」などといくつかの質問をしたのち「これは典型的な育児放棄だわ」とためいき交じりに。怪訝な依織に「共稼ぎで両親は夜遅くまでいないの。たぶん家には食べ物もないわね」続けてコンビの身なりをみて「着替えもないわね、きっと」万引コンビは児相に引き取られて行った。
 依織は児相の車に乗せられるコンビの上目遣いの眼が忘れられない。それからだ。依織は育児放棄の子供たちに関心を寄せるようになった。万引事件の処理で児相に赴いた折に〇市の実態を聞いた。なにか出来ることはないかで辿り着いたのが子供食堂だった。最初の子供は民生委員に連れられてやって来た。万引コンビと同じ眼差しを依織に向けた。そして「ここは毎日来ていいの?」と尋ねた。だから子供食堂に休日はない。
「誰から髪切ってもらおうか。今日はクミちゃん来てるかな? 」
「さっき、居たよ。クミちゃーん」
 依織が外の遊び場に飛び出して行った。
 ほどなく依織がクミらしい女も子を連れて戻ってきた。はにかみ屋さんなのかもじもじ指をしゃぶっている。三年生くらいか。まっすぐ伸びた艶やかな髪は腰丈まで。不揃いだし邪魔そうだ。案の定うっとおしい前髪は適当に切ってある。邪魔だから自分で切ったと思う。
 クミの髪が人気のボブに仕上がるまでに三十分とかからなかった。ショートの方が日常生活に楽だ。持参した鏡で仕上がりをクミに見せると身体をクネラセにっこりとハニ噛んだ笑顔を見せた。おそろく生まれて初めてのヘアメイクだろう。梨恵は自分の経験になぞらえ自然と笑みが生まれた。
 ヘアメイク初体験者は列をなした。今夜食堂を訪れた半数は女の子、そのほとんどがヘアメイクを望んだ。クミの仕上がりを見て自分もと我先に手を挙げたのだ。梨恵はみんなのアイドルになった。とはいえアイドルにも限界はある。依織が助け舟を出した。「今夜は五人までね。梨恵さんにはまた来るように頼むから」そして五人目の女の子が蒼井空だった。五年生、結構大人びて見える。
「どうしたら美容師さんになれるの? 」
 蒼井空は真剣な眼差しを向けた。なりたい者リストの最上位らしい。
「そうねぇ、高校を出てからヘアメイクの専門学校に行くの。それから試験を受けて合格したらなれるわよ」
「それってお金かかる? 」
 食えないインターン時代の生活費を含めて四百から五百万はかかるだろう。梨恵はオトコに一切の費用を出させたことを思い出していた。梨恵が口ごもっていると、
「お母さんに相談してみよう」
 どうやら母親はいるらしい。依織から個別な生活状況は聞かないことと釘をさされていたが思い切って一歩踏み込んでみた。
「お母さんは家に居ないの? 」
「うん、九時頃にしか帰って来ないの。フクキョウソだから仕方がないんだってさ」
 梨恵はフクキョウソにひっかかった。寺の娘だ。
「お母さんってどこかの宗教に入ってるの? 」
「うん、エニシだよ」
 梨恵は了解した。最近SNS上でチラホラ見かける新興宗教集団だ。しかし新興宗教に入れあげて娘を毎日一人きりにするとはどういう了見だ。しかしこれは子供に話しても分からない。梨恵は話を替えた。
「お姉ちゃん、ワンコ飼ってるんだ。それでね。名前がCOOっていうの。空ちゃんもくーだよね」
 空の眼が光った。
「私もワンコ飼いたい」
 それから話はワンコになった。小学生には将来の話よりも身近なワンコだ。
「じゃ、今度一緒に連れてくるね。約束するね」
 そう言ってをサロンエプロンを空から取り数回はたいた。空の髪が宙に舞い夕陽を浴びて輝いた。
 その後は流行りの「パプリカ」の大合唱となった。決まった振り付けもある。子供たちはCDの曲に乗って踊りまくる。梨恵も子供に手を取られた。
「ええ分かんないよぉ。おネイちゃん」
「真似してみて」
 空がゆっくりと見本をみせる。梨恵はそれを真似る。
「ほらほら出来た出来た! 」
 梨恵は子供たちといつまでもはしゃぎ回った。ホントに愉しかった。

第十一章
 花村龍円は天王洲の高層マンションからポルシェ・パナメーラで教団本部までやってくる。青梅街道を下れば案外早い。都内の高層マンションとピカピカの外車は憧れ。美人の愛人も手に入れた。蒼井加奈は自分にご執心。出せば果てるまで舐め続ける。格好のセックスパートナー。
 まぁ貧しい母子家庭から教団ナンバー2に。シンデレラストーリー。生活は一変。ブランド品を身に着け美食三昧。龍円なしでは考えられない激変ブリ。気になるのは確か娘が居たはず。でも龍円の視界から抜け落ちている。
 黒塗り五階建てのオフィスビルのような教団本部に着くと住み込みの信者数人が出迎える。深々と合掌。信者ひとりひとりに見覚えはない。毎日同じ顔なのか否かも分からない。車寄せの着いたエントランスを抜けると左右に三十畳ほどの道場。ご本尊・観音菩薩に向って数十人が一斉に観音経を唱えている。
 龍円は最上階の教祖室へ。教祖室の五階はエレベーターに表示がない。シークレットキーを使う。なぜここまでするのか、頭をかしげたが手入れが入った時の対処だと後で知った。なるほど。だから最上階はごく一部の「教団えにし」の心臓部しか入れない。
 教祖室に入るとよしみがチャッカリ教祖の机の上で脚を組んでいた。この女は敬意を払わない。いつも対等だと思っている。確かに教団立ち上げ時のメンバー。経理に熟達しているよしみ抜きでは今はなかったとも思う。しかしだ。よしみには霊感がない。霊感あっての教団なのだ。デカイ顔はさせられない。
「ちょっとその恰好はよしなさい」
 よしみに説教される。しかも挨拶抜きだ。龍円はアルマーニの長袖Tにジーンズ。
「少なくても作務衣でハイヤーを使えばいいんじゃない。オンオフを弁えればいいのよ。簡単な話し」
 よしみの云うことはいつも正しい。そこが龍円の気に入らない処。龍円は仕事着の法衣に着替え始めた。よしみの前でもへっちゃら。スッポンポンの裸になる。
「あのさー、ちょっと気になる案件があるんだよね」
 最近のよしみは先物投資にはまっている。「ASファンド」の助言らしい。儲けはタックスヘイヴンへとの筋書き。龍円は気のない返事をし机の上の霊感占いの予定表を確認した。
「ちょっと真面目にきいて!」
 よしみはキツイ口調に変わった。
「あのね、最近苦情をいう信者が出てきてさ。霊感占いでこうすれば佳いと言われたけど少しも良くならないって」
 よしみの反発の矛先は蒼井加奈のことかネズミ講のことだ。違う話で虚を突かれた。と同時にその言葉、龍円は思い出している。六本木のクラブ・ジュジュのエリカ(多部未華子似)だ。同じことを言った。龍円はエリカが好きだ。だから関心を買おうと霊感占いを申し出た。エリカの家で。あわよくばとの思いもあった。彼女も興味があったよう。
 龍円は彼女の弟の病気をあてて見せた。凄いわ。エリカは驚いていた。店では弟のことを誰にも話していない。すがるような眼付きだ。
「で、どうすれば治るの? 」
「うーん、先祖供養を入念にすることだ」
 と龍円。
「あんた馬鹿じゃないの」
 エリカの様子が変わった。
「弟の病気は進行性筋ジストロフィー。先祖代々の墓の前で拝めば治るっていうの?非科学的なこと言わないで。それで治るんだったら全国の患者は一斉にそうするわよ。あんたは望み通りに大金持ちね!」
 エリカはまくしたてた。
「私に必要なのは最先端医療とお金、分かった」
 その通りだ。先祖供養で事態が改善するとは龍円でも思えない。自分は無力。自信喪失。関心を買うつもりが帰り討ちに。嫌われそうそうに追い払われた。エリカとは永遠にお別れだ。実に忌まわしい出来事。ふとした折にエリカの艶めかしい下着姿と共にこの時のことが思い出されて気分が下がる。
 「は、そう」
 龍円は戸惑っている。悪霊祓いでは眼前の悪霊を退治する。実に説得力ある。見守る身内も文句のつけようがない。けれど霊感占いでは悩みの根っ子言い当てられても解決法は見えない。仏教徒なのだからみ仏を信仰し自ら精進するしかないだろう。これが僧侶の考え方だ。けどこの教団の信者は努力などしない。大金を払ったのだからすぐに事態が好転すると思う。
「で、どうするの。このままだと大事になるわよ。ひとりは弁護士を雇っているみたい」
 よしみでは対処のしようがないのだ。
「分かった。俺が悪霊祓いをする。文句を言っている信者に説明してくれ。教祖が直々に術を施すと」
 自分が事態を収拾するしかない。なに心配することはないさ。選ばれた力があるのだから。オレには仏がついている。
 龍円のユメは教団を全国組織にして末永く語り継がれる大仏教教団を創ること。そして力のある自分をないがしろにして地方の小寺院に葬った〇宗のハナを明かすこと。
 
第十二章
 飼っているワンコのCOOと保護犬のモモを電動チャリの前籠に乗せて子供食堂に向う。二匹は畏まって風に立ち向かう。今日の梨恵はインディゴストレッチジーンズにピンクのスウェット。シャネルのロゴ入り。今日は約束のワンコのお披露目。回を重ねるごとに子供食堂が楽しくなる。
 今では「パプリカ」の振り付けをすっかりマスターした。ヘアカットのリエちゃんは人気者。食に事欠かない子も評判を聞きつけてやってくる。梨恵は分け隔てなくカットする。毛量が少ない子供のこと短時間で出来る。何より出来栄えに気を配る必要がない。相手はヘアメイクに不慣れ。いじくって貰っただけでアナ雪気分。たまに男の子も。これは余りに見苦しいのを依織がつれてくる。
 どの子もワンコに遭いたがる。飼いたくても飼えない。自分の子供の頃を重ねていた。寺にはポチはいいがお座敷犬のショコラはちょっと。質素が建前。仕方ないので柴犬を。可愛かったがやはり友達のショコラが欲しかった。いつもの公民館の駐輪場に止めて二階にあがる。今夜もいい匂いがしている。シチューの匂い。両腕の二匹も鼻をピクピク。好物だ。
「わー、ワンコだ。ワンコだ」


 たちまち人輪が出来た。主役はCOOとモモ。梨恵は二匹を子供たちに。二匹はぺろぺろ嘗め回り、順番に抱っこされている。
「人気者ですね。犬にはかなわないや」
 と依織。
「ワンちゃんたちシチュー食べる? 」
 市役所の木本さん。
「はい食べます、食べます。ちょうど食事の時間で助かります」
 梨恵は会釈を返した。梨恵もシチューをご相伴。ワンコはすっかり子供たちに慣れ、室内で追い駆けっこを繰り広げている。梨恵は子供たちの輪の中の蒼井空に話しかけた。
「どう、モモのこと気に入った」
「うん、とってもかわいい」
 空の瞳は輝いている。実は保護犬のことを知って空はモモを引き取りたがっている。けれどそれにはまず親の承諾がいる。しかも承諾の中には、将来に亘って犬を飼って行ける資格も入っている。
 資格審査は梨恵の仕事。以前にトラブルがあった。三十代の子の無い夫婦。どう見ても裕福そうに見えた。形通りの承諾書と確認書にサインをもらい妻の腕に預けた。ところが一月後の定期訪問の折にはやせ細り、ブルブル震える犬の姿があった。梨恵は早速奪い返した。ネグレクト。餌代はあっても足りないのは愛情だ。身に染みた。
「お母さんなんだって?」
「いつでも連れておいでって」
 空は元気よく答えた。このところ空を取り巻く環境が激変した。洋服の変化。一揃いのシマムラから数着のGAPにランクアップ。子供食堂には習慣で毎日来るが食事目的ではない。だって食べない。友達と遊んで帰るだけになっていた。
 木本さんによると、母親が「教団えにし」の幹部になって羽振りが急に良くなったとのこと。近所の噂。住まいも年代物のアパートから市内で、一、二を競う高層高級マンションに移った。毎日の生活ぶりは空自身の話し。
 食事は知らないおばさんが家に来て作ってくれる。お風呂もピカピカで毎日入る。着替えもタンスに新品がある。カバンも無地から鬼滅の刃のアニメ付きに替わった。けど相変わらず母親は家に居ない。夜遅くに帰ってくる模様。
「今夜はお母さんいるの?」
「うん約束した」
 モモを抱えて空は明るい。梨恵はモモを空に託したい。けど…まずは母親だ。依織にも相談。母親を知らないから何ともとのこと。
「じゃ、みんなご飯を食べて終わってから、お母さんとこ行こっか」
 ほどなくして梨恵と空とモモは空の家に。木本さんがタントで送ってくれる。COOは子供食堂に。いつもは部屋に残すと寂しがる。今夜は賑やかだから振り向きもしない。アイツめ。
 依織の云う通り空の新居はすぐ近くだった。〇市で十階を超えるビルは珍しい。新築まもなくのデザイナーズマンション。空の家は最上階。オートロックの部屋番号2001。すぐに共用扉は開いた。誰かは居るよう。エレベーターを降りると空の家の玄関ドアは開いていた。
 空は母親を呼びに走る。梨恵とモモは玄関口に待機。出てきたのは薄茶色の作務衣を着た五十がらみの女性。宗教色満点。梨恵の心に黄色信号が点灯。奥から「犬は置いて行って頂戴」と若い女性の声が。だふん母親だろう。作務衣おばさんはモモを引き取ろうとした。
「この犬は捨て猫とは違うんです」
 梨恵はピシャリと。ぽかーんとしているモモを胸に抱き寄せた。その様子を見た空は慌てて奥の母親の元へ。しばらくおばさんとのにらみ合いが続く。やがて母親が奥から。グラマラスで大柄な女性が現れた。一目で花柄のワンピがディオールのものだと気づく。空は母親を見上げている。
「空の母親です。娘がお世話になっているようで」
 少しも感謝しているようではない。
「この犬は保護犬といいまして飼い主の事情で世話が出来なくなった個体を一時預かっています。次の飼い主さんが見つかるまでの間。ですからこの子の将来には私に責任があります。正式に譲渡するには誓約書と、それまでの予防注射代などの費用もかかります」
 梨恵は今までと同じセリフを述べた。規則がある。ヘンな飼い主に渡せばまた同じ末路が待っている。
「あっそう、おいくら、あとハンコウ」
 母親は作務衣おばさんに目配せした。金さえ払えば何でも通ると思っている。梨恵は腹がたってきた。
「一番大事なのは私の許可なんです。現在の飼い主は私ですから…」
 梨恵はピシャリと言い放った。
「あらそう。じゃいいわ。空には別の犬を買うわ。犬なんていくらでもいるじゃない」
 母親は梨恵を観ずに空に向かって言った。
「空ちゃん、モモにはまた遭わせてあげるね。今夜は帰るね、さよなら」
 梨恵は母親には挨拶もせずに引き揚げた。いくらなんでもあれは酷い。何匹かの譲渡の経験もあるしモモを託された富永市子さんの話しにもこんなのはない。空は可哀想。けれどモモは一度飼い主に裏切られている。二度目はない。
 子供食堂にCOOを迎えに。リードは持参だがモモは歩かない。抱っこされたまま。モモは新しい家族を失った。梨恵はあの母親について考えている。たしか空は「教団えにし」のフクキョウソと言った。その教団名には見覚えがある。新聞は読まないからインスタかツイッター。真っ黒な無機質なビルを背景に、教団ロゴ入りの法被姿でピースサインの中年女性の二人組。こんな写真をアップするなど、フツウでは在り得ないので、むしろ記憶に残っている。調べてみよう。空のためにも。梨恵は電動チャリの足を速めた。
 九時を回っていた。COOとモモは寝床にまっしぐら。疲れたのだろう。三人とも夕食は子供食堂で。レンジで緑茶をチン。ダイニングテーブルでパソコンを開く。「教団えにし」を検索。ずらずら出てきた。体験談や中には悪口も。ウィキペディア(Wikipedia)で検索。創設まもないらしく、記述が追い付いていない。それでも教団の起こりや思想の概要、創始者の名前で目が止まる。一乗寺の花村龍円。
 そうだ。彼だ。驚くと同時に彼ならやりそうな気がした。高校を出てから実家とは縁切り状態だが、生活に困ると寺務経理の菊池裕子に助けを求めた。裕子は姉のような存在。親子関係をどう捉えていたのかは分からない。けど数少ない理解者だと梨恵は思っている。
 金目当てに寺に忍んで行くと必ずっていうほど龍円に出くわした。彼は梨恵の臀部とか胸の辺りを執拗にイヤらしくねめつける。必ずチョッツカイを出して来る。けど無視。近くの寺院の住職をしているが食いつめて一乗寺でバイトを。弟のトモマサとは一緒に〇宗の修行にも行った。一応兄弟子になる。頭が上がらないらしい。ワルで集られているとも。弟は人が佳くて気が弱い。さぞ恰好なターゲットだろう。
 梨恵はパソコンを閉じた。教祖の名で事情はスッカリ理解できた。金目当ての実ナシ宗教。食い物にされる信者はたまらない。確かに迷える子羊たちのこと。イットキの安寧は得られる。けど悩みの根治には至らない。再び悩むと布施が足りないとホザかられる。ありったけの金をむしられ、挙句、借金苦まで背負わされる。
 父・英海も新興宗教を嫌う。檀家をとられるのは深刻だ。古くからの檀家が新興宗教に改宗したという話しはよく訊いた。墓地をどうするのかで必ずもめる。寺は〇家全員分の法事代金を失う。これはデカい。
 英海はこうも言っていた。悩みは欲から。欲を捨てよが本来。この欲を食い物にしている新興宗教は許せない、と。なにか正論に聞こえる。けどベンツに乗り夜にこっそり寺の裏口からどこぞの女の元に通う父を好きにはなれない。故にしょっちゅう母親と喧嘩。アンタこそ欲を捨てよだ。
 まぁ、父のことはよい。空はどうしているのだろう。すぐにモモを譲れないとは言っておいた。でも母親とのいさかいを眼の当たりにしては心中穏やかならずだろう。他の犬を買うとは方便。犬などに興味はない。おそらく空は泣き寝入りさせられる。
 モモを託したいのはやまやま。けれど、今の母親では厳しい。なんとか龍円の教団から離さねば。これは相当に難しい。フクキョウソとブランド服は龍円の寵愛の証。母親は甘い汁をススる教団側の人間。汁が苦汁に変わらなければ更生はムリだろう。梨恵は天を仰いだ。どうしよう。空になんと説明しよう。
 梨恵は時刻を確認しスマホを手に取った。そうだ、依織に相談しよう。
 COOとモモを起こさないようダイニングに移った。

第十三章
スマホが鳴った。十一時近く依織はコンビニでレジの集計作業中。子供食堂から戻ってからのいつもの習慣。着信、梨恵から。さっき空の家に行ったはず。
「はいどうしました?」
「遅くにすいません。空ちゃんのことで、お話が」
「母親どうでしたか?」
 梨恵はさっきまでの出来事と母親の実態を告げた。
「お母さん、え、えにしですか…」
 依織は宗教のことがまるで分からない。スラスラ話せる梨恵に感心しきり。あ、いやいや梨恵ではない。いま大事なのは空のことだ。
「明日、僕から空ちゃんに説明します」
 十歳の空には分からない話し。ワンコを飼いたいそれだけ。安請け合い。情けないが依織も困っている。どう話そうか。
「ありがとうございます。それから今後は犬を同行させても構わないでしょうか? 空ちゃんに子供食堂に居る間だけでも一緒にいさせたくて」
 歓声をあげてワンコと走り回る子供たちが目に浮かぶ。
「はいどうぞどうぞ」
 依織は快諾し残業への労いの言葉を聞いてから通話を切った。
 やはりダメだったか。予感はあった。不遇な子がほとんど。犬を飼うとは幸せな出来事。それにしても母親が新興宗教とは。空を取り巻く環境はよくなっていた。宗教とは依織にはよく分からない世界。生きていれば悩みごとは起きる。誰もが解決してさっぱりしたい。
 自分のことを考えてみる。「もてない」が最大の悩みごと。でもこれはどうあがいても解決出来ない。心中で折り合いをつけるしかない。大体の悩み事はそんなものではないか。それがどうして新興宗教に入れ込むことにつながるのか。果てまた梨恵の云うような「甘い汁」を啜る側が出来るのか。依織には見当もつかない世界。
 依織は今夜別の問題も抱えている。最終集計パソコンの数字と実際にレジにある現金が合わない。このひと月で十日ほどある。それも数千から数万円単位で現金が足りない。うーん依織は首を捻った。パソコンの故障はまずありえない。入力もバーコード。レジも全自動。間違えようがない。以前にはなかったこと。
 フランチャイズ契約のマニュアルに目を通す。こういう時は店員による窃盗を疑えとある。困った。人を疑うとは依織には最も不得手なこと。小規模店舗のこと。従業員全員でレジ作業を行う。マニュアルの次の行で目がとまる。防犯カメラを確認せよ、とある。なるほどその手があったか。確かにレジを映すアングルに一台設置されている。こういう時の為か。依織はマニュアルなるものを作った人物に驚嘆している。さらに疑いある時は警察同行のうえと記載がある。恐れ入った。

 次の日出勤早々に防犯カメラ映像を確認する。映像は警備会社のサーバーに最長一年保管される。まずは金が合わない一昨日。モニター画面を開店から閉店までマウスで辿る。十六時二十六分二十七秒で映像を止めた。
 客もいないのに女性がレジを開け中の札を出している。斜め後ろからの映像。これは、カノン。たった一日の一コマでは何かの事情があるかもしれない。続いて金額の合わない日を辿る。またしても不自然な仕草で映っているのはカノン。もはや疑いようがない。
 履歴書によるとカノンは介護専門学校生で昨年秋から雇ったバイト。どうするか? シフト表に目を通す。カノンは今日の十四時から二十時までの勤務。なにせ初体験のこと。勝手が分からない。まずは確認してみるか。依織は優しい。のちのちこの甘い判断が依織を窮地に陥れることになる。
 「おはよっす」
 カノンはいつも男口調。会話全体になぜか、スがつく。店内は昼食時の混雑が終わってひと段落したところ。従業員の昼食タイム。依織は男子大学生のひとりにレジを任せてバックヤードに向った。そこで更衣室から出てくるカノンを待つ。防犯カメラ用のディスプレイもある。
「カノンちゃん、ちょっと」
 依織は店に出ようとするカノンを呼び止めた。不審そうなカノン。依織はレジの実状と防犯カメラ映像のことをなるべく平静を装って説明した。依織としては謝罪のうえ返金してくれればそれでよいと考えていた。警察沙汰など論外。しかしカノンには通じなかった。
「わたし、現金なんか盗っていません」
 カノンは泣き出した。ボロボロの涙は机に音をたてるかのよう。想定外の行動に依織は狼狽した。慌ててティッシュを差し出したがカノンは片手で払いのけた。その後は何を言っても聞かない。やがて涙を出し尽くしたところで席を立った。
「疑われてるんですね。私もうここでは働けません。さよなら」
 それだけ言って去って行った。依織は訳が分からない。てとも犯罪者の姿勢ではない。まるでイジメに遭った子供のよう。子供食堂でたびたび見かける。見間違いだろうか? 依織は何度もビデオを再生させられることになった。
 濡れ衣だったら平身低頭カノンに謝罪せぬばならない。しかし事実は覆らない。レジからお札を抜き取っては画面から消えている。輝く銀の十手をかざし悪事はお目通しだいっと見栄を切るには至らなかった。下手人は犯行を否定し逆ギレして去った。被害額二十万円は泣き寝入りか。  
 あー、依織はぼやいた。

第十四章
 その患者は突然舞い込んできた。米津幸が夜間勤務の深夜のこと。救急隊員からは七十三歳男性脳梗塞の疑い、血圧五十の九十、脈拍六十、体温三十五度、ER(緊急救命)の準備を要請と連絡があった。市立病院は三次救急指定の埼玉県の中核病院。すぐに受け入れの準備を整えた。
 五分ほどで救急車が到着。三名の看護士で患者をストレッチャーに移動、ERに運び込んだ。救急隊員からの報告と所見から誰もが脳梗塞と信じた。すぐに酸素吸入、血算、生化学、頭部CTをオーダー。やはり中大脳動脈に軽度の狭窄があった。
 対処が早かったことで容体は安定、合併症もなく意識も回復。明日脳外科医の登院を待っての開頭手術となった。患者は集中治療室に移された。ここまでは完璧な対応。米津幸は実際にその場に立ち会っては居ない。あとで中堅の看護士から報告を受けた。別に気にも留めなかった。いつもの手順。
 なぜこの時に肺のCTも撮らなかったのか、と何度後悔したことか。全ては遅かった。一週間前に新型コロナウィルスへの対応マニュアルが総務から回ってきていた。市立病院では感染率の非常に高いエボラ出血熱に備えての模擬訓練は実施し、マスコミに報道までされている。
 感染症に対するリスク管理は出来ている筈、いやそう信じていた。だが実際は違った。あの晩の心筋梗塞の患者が新型コロナウィルス保菌者だとは誰一人として疑わなかった。分かったのは心筋梗塞の術後しばらくして熱発、咳き込みはじめたから。熱発だけなら術後の感染症でよくある話し。ただ咳き込むとは変だ。そして胸部CTへ。
 青ざめた看護士が幸の元に駆けつけた。
「どうしたの? 院内は駆け出し禁止よ」
 幸は余裕の笑み。若い看護士にありがちなこと。
「すいません。三日前に運び込まれた患者さん、コロナ保菌者です!」
 若い看護士は慌てていた。幸にはすぐに理解できない。最初から順序立てて話すように促した。新型コロナウィルス罹患者は、埼玉県でも毎日報告されて来ている。TVは中国・武漢で始まった新感染症を連日報道する。意見を求められた学者は教科書通りの答えをするだけ。手洗いマスクは必需品。ていうか、やれることは感染しないこと。即効、街からはマスクや消毒液がなくなった。
「あのう、おとといの晩に心筋梗塞で搬送されて来た患者さん、いまコロナのPCR検査が出て陽性でした」
 幸は若い看護士の言葉をゆっくり咀嚼した。まさかこの病院でというのが実感。まるで現実味がない。他人ごとのように。
「それで患者さん、どうしたの?」
 若い看護士は目を丸くした。
「いえ、どうしましょうか? まだERにいます」
 幸は我に返った。頭の中に考える限りの対処法を浮かべた。
「まずはERから一度院外に出して。それからエボラ訓練でやった手はずでアイソレーター(密閉式ストレッチャー)に載せて、滅菌減圧室まで搬送して頂戴。患者さんを運ぶ人員はプロテクターを忘れないでね。それから内科の医局と院長に大至急連絡して。内線を私宛にちょうだい」
 あとは無我夢中だった。訓練と実践は違う。訓練はすべて想定内。しかし実践は想定外の連続。慌てて倉庫の一番奥隅の段ボールから感染防止用のプロテクターを引っ張り出す。完璧に防護出来るのかは分からない。着用の仕方も忘却の彼方。改めてマニュアルを確認する始末。

 窓越しにアイソレーターを眺めながら、これまで一体幾人がこの患者に携わったかを考える。その人たちは明らかに濃厚接触者。全員隔離しなければならない。昨晩の応急措置から今までを考えると五、六人の看護士と最低二人の医師は関わっているだろう。
 隔離と云ってもそんなに多くの人数を一体何処に。不安で頭はトッチラカル。おまけに減圧滅菌室は物置と化していた。患者を運び入れるまでに小一時間を要した。さらにメンテ不足で減圧がかからない。業者に修繕してもらうまで用をなさない。
 危機管理不足。その一言。幸は責任を痛感している。まさか自分の病院がこんなことに。院長をはじめ感染症を担当する医者からも幸を安堵させる言葉はとうとう出なかった。
 翌日この院内感染は全国ネットで報道された。午後には厚労省から新型ウィルス感染症担当官が複数来院し、事情聴が開始された。その結果ERと集中治療室のある西棟が閉鎖。また五人の看護士と二人の医師が二週間の自宅待機となった。
 完全に白とは言い切れないが、高度な医療が必要とされる通院患者が多くいることから中央・東棟は通常開院を許された。西棟の入院患者は早速中央・東棟に移され混乱は一時解消した。けれど解決ではない。西棟の殺菌処理が済むまでは半身不随の病院となった。さらに七人の医療従事者の現場離脱は痛い。そうでなくとも慢性人手不足なのに。
 ネット上では容赦ない誹謗中傷が寄せられた。市立病院は公衆衛生を裏切った「コロナ病院」と陰口を叩かれ翌日以降来院者はほとんどいない。入院患者の中には転院を希望する者も現れた。現金なもの。病院は瀕死の様を呈した。
 十日後世間の様相は激変。埼玉県内のコロナウィルス罹患者が急増。またぞろ検査外来が賑わいだした。怖い噂よりも先ず自分の身を案じたのだ。この時埼玉県では医療崩壊が起こっていた。隔離病床不足、医師・看護師不足。重度肺炎患者に使用する人工呼吸器数も遥かに足りない。さらに呼吸不全患者の最後の救命手段「エクモ」(体外に出した血液に酸素を投与し体内に戻す装置)も県に五台しかない。何よりも堪えたのがN95マスク、ゴーグル、ガウンが無い事。医療者が我が身も守れない。
 幸は「戴帽式」のことを考える。初めての病院実習、憧れのナースキャップを授かる。そしてナイチンゲール像から灯を受け取り「誓詞」を述べた。患者のために「最善を尽くす」と誓った。幸は看護師長として覚悟と正義ある行動を決断した。我が身の安全より苦しむ患者への措置優先させる。
 困惑する看護師たちに「ナイチンゲール誓詞」を想起させた。看護師たちは身を粉にして働いた。一時は搬送されてきた患者を廊下で措置する場面も。食事・睡眠は交代制でガウンを節約するためトイレも我慢する毎日。いつ終わるかも分からない。たとえて言うなら戦闘真っただ中の野戦病院。支えは「ナイチンゲールの灯」。
 野戦病院は一週間続いた。そのあと搬送患者は著しく減った。政府の外出自粛要請と「軽症者はホテルへ」の分離政策が功を奏した。幸は埼玉県で十二人目の死亡者を早朝看取った。七十一歳男性、糖尿の持病。夜半が峠だと分かっていた。けれど病室に肉親の姿はない。親族は外来の待合に居た。感染の恐れがあるため見舞が禁止されている。
 亡骸は納体袋(感染防止用)に収めて火葬場に行く。対面は遺灰になってから。やるせない思いで「エンゼルケア」を部下の看護師と行っていた。この「エンゼルケア」は「ナイチンゲール誓詞」と同様看護師の正義と幸は考えている。病や老死と闘った生きた記憶を患者と分かち合う。
 今ではこの「エンゼルケア」を無駄な時間と割り切り一万五千円で業者に託す病院もある。幸には到底理解不能。僧侶の英海から「エンゼルケア」と「ナイチンゲール誓詞」を仏道の「施無畏(布施のひとつ)」と教示され同感した。看護師の正義を見つけた。これを矜持として生きてきた。
 幸は部下たちと久しぶりに中庭に出た。プロテクターなしで。緑がこんなに青く空がこんなに輝いているとは知らなかった。全員が伸びをした。重荷から解放されると人間は思わずこの行動をとる。突然幸は意識を失い芝生に倒れた。芝生の感触は覚えている。ちょっとザラついて冷っとした。体が動かない。瞼さえも。意識は遠のいた。
 目を覚ましたのは隔離病棟の一室。左腕に点滴チューブが。頭痛がする。身を起こそうとする。鉛のように重たい。再び倒れこむ。ほどなくして見慣れた防護服の看護師が。
「よかった。意識が戻って」
 部下はフェイスガード越しに満面の笑み。
「びっくりして。すぐに必要な検査はしました。全部白です。ただコロナが陽性でした」
 幸は呆然とした。言葉が出ない。
「念のためチームの看護師全員のPCR検査をしました。結果はまもなく出ます。とにかくゆっくり休んでください。院長に連絡します。院長が来ることになっています」
 幸はダルイ頭で頷いた。数時間後に院長は聞きたくない事実を持ってやって来た。ガラス越しの会話。
「体調はどうかな? あまりいい知らせではないよ。君のチーム全員が陽性だった。これはかなり深刻な問題だ。いま緊急理事会で病院を閉鎖することにした。院内感染を看過できん。これは非常事態だ。現在入院しているコロナ以外の患者は検査後陽性でなければ県内外の医療機関に転院させる。この病院はもはや死に体だよ。君も良くやってくれた」
 院長も悲痛だ。公立病院の長として責任を問われかねない。
 幸は朧げな意識の中で終戦を宣言した。

第十五章
連日の祈祷疲れで花村龍円は、教団の自室のソファーに倒れこんでいる。インチキ宗教と罵った数人の信者に祈祷を施した。太古のムジナや白蛇が出て来た。自分自身の変化を見ては信者も黙らざるを得ない。中には弁護士同伴の信者も。構わず術を。現れた五代前のご先祖の霊に弁護士は腰を抜かした。ざまぁ見ろ! オレを甘く見るんじゃない。この青臭い弁護士野郎が。信者もろとも早々に道場から追い払った。
「大変よぉ! 」
 またよしみだ。起き上がるのも煩わしくオーと声だけ出した。
「なによ、悠長ねぇ。あんたコロナ知ってる? 」
 この女はいつもタメ口だ。あいよと気のない返事。
「信者の間で流行ってんのよ。その件で『湘南の南風テレビ』が取材したいって」
 龍円はようやく身を起こした。
「もちろん断ったわよ。でも事実。毎週日曜の集団礼拝があるでしょ。あれでうつったみたい。中師(霊感占い師)の話だと五人はかかってるって。どうする? 」
 そう云われても龍円には答えようかない。韓国ではキリスト教系新興宗教団体のクラスターが全土へ感染を拡げた。マスコミ各局は「日本でも宗教集団内部で大規模クラスター発生!」とわめきたいのだ。ここまで来るとさすがの龍円も対応を考えざるを得ない。
 龍円は驚くべき行動に出た。起死回生の一手。逆境をチャンスに。今こそ自分を世間に売り出す絶好機。ほくそ笑んだ。実は一度はやってみたい思っていたこと。七月に教団前広場にて「コロナ退散の大祈祷会」開催。マスコミ各社にファックスを送る。
 本気か? よしみをはじめ中師の面々も不安気。本気でコロナを殺せると思っている? 龍円は自信満々。こんな時こそ力のある教祖が国民のために法力を揮う。調子に乗って日本仏教各宗派、著名な新興宗教団体、またキリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンズゥー教、ゾロアスター教の長宛に祈祷に参加するよう触れを出した。
 龍円の思惑通りにことは進んだ。龍円の考えはホームページに掲載済みである。はじめは真面目に取り合わないマスコミや宗教団体がほとんど。ほどなくして「日本史を客観視するならば…」と歴史学者たちが重い口を開きはじめる。
 まだ政権が天皇にあった頃(奈良・平安時代)には人々に脅威(自然災害や飢饉、疾病)が迫ると、盛んに寺社で厄災除けの加持祈祷が行われた。またも弘法大師(空海)は雨乞いの祈祷をし、日蓮聖人は各種厄災除けの祈祷をしたと古文書にある、と言う。
 科学では解明出来ない摩訶不思議な力があっても可笑しくはない。効力があったから何度も繰り返されたのではないか。宗教専門雑誌電子版には「こんな時こその宗教!」と題するコラムが掲載された。無力と悟られることを恐れる宗教。布施が減ることを嫌がる宗教。仏法を説く者は衆生を救済して見せよと吠える。 
 実はこの話「ASファンド」の高木も一枚噛んでいる。龍円の浪費で早くも教団資金が底を付きかけていた。そこで高木に話を持ち掛けた。さらに高木は担保を用意した。「埼玉翔んでったテレビ」を一枚噛ませたのである。このローカル局は昨年名称を変更したが、社歴五十年の老舗。今の代表は創業一族三代目の若手で、経営の多角化を図っている。
 基盤である広大な緑地を有する埼玉北西部を再開発したがっている。現状では何も無い処に何かを創らなければ集客は見込めない。そこで墓に目をつけた。折しも樹木葬が流行りだした。埼玉の春はミツマタから始まって蝋梅、梅、桜、桃とバラ科の植物に適した環境。問題は集客の目玉。もし茨城県の牛久大仏のような仏像が造営されれば、目玉が創れる。ただ仏様をおっ建ててもそこに意味がなければ誰も来ない。

 「教団えにし」はどうだろうか? と高木に話しがあったそう。ローカルと云ってもメディアだから教団については調べがついている。既存の日本仏教に所縁があることは確認済み。けれど怖いのは世間の評価。第二の「オウム真理教」。そう見る向きも確かにある。ここはひとつ「コロナ退散祈祷会」を機に教団の実像を世間に示す必要がある。そのために一時間のドキュメンタリー番組を仕上げたいらしい。
 教団の生い立ちと祈祷会への道程を紹介し、正当性を強調する。ただひとつ条件があった。龍円の出自〇宗のしかるべく地位の者のインタビューが欲しいという。教団は〇宗が土台だと云ってもらえばそれでいい。龍円はふたつ返事した。
 充てはある。一乗寺の新住職に就任する弟々子の白神知正。一乗寺は〇宗の別格本山。その新住職であれば申し分ないだろう。なに文句は言わせない。ハハ、奴のタマは握っている。
 近々「埼玉翔んでったテレビ」のプロデューサーが龍円の元に来るらしい。ドキュメンタリーは調味料次第で大きくが味が変るらしい。龍円の前には大きく道が開けた。龍円は日本宗教界に問うて見たかった。僧侶のあるべき姿を。いよいよ力量を揮う場が出来上がってきた。龍円は両のこぶしを握り絞めた。

第十六章
 病気が流行り始めていることは、依織も連日のマスコミ報道で知っていた。北海道はいち早く非常事態宣言をし、埼玉県も罹患者数が連日二桁を記録する。公立学校の閉鎖が噂されていた。無料の給食だけを一日の糧としている子供たちはどうなるのか?子供食堂の存在はますます重くなる。依織はそんな風に考えていた。ところがいざ公立学校が休校となると子供食堂の需要も落ちた。二十人が三人に。これはどうしたことか? 
 街中に子供の姿が消えた。エプロン姿の市役所の木本さんも頭を捻っている。市役所も新型コロナウィルス騒ぎでてんてこ舞い。得たいが知れないから市民は不安。不安を少しでも解消しようと市役所に尋ねてくる。市役所だって乱入者の正体が分からず混乱し翻弄されている。木本さんはそんな中でも子供食堂に駆けつけてくれた。依織と木本さんは顔を見合わせる。
 「唯ちゃんはいっちゃ行けないってお母さんに言われたよ」
 三年生の男の子。木本さんオリジナルのアスパラガスのパスタを頬張りながら。その一言で事情が分かった。なるほど今夜の食事よりは安全を選んだのか。学童にはウィルスの事情は分からない。いつものように子供食堂に行きたがるだろう。だって食事のほかにゲームもあるし友達と遊べる。やはり家に留めるのは親の意思か。
 しかし一週間を過ぎ頃るから状況は変化した。一転して子供食堂は活況を呈した。「給食が無いいま最後の食事の場」マスコミは全国の子供食堂の実態を一斉に報じ支援を要請した。KIBOOにも多くの食糧がフードバンクを通じて届けられ、ホームページには激励のメールが相次いだ。再三の支援要請に一度も応じたことのない大御所芸能人たちはリモートのリレー形式でいち早く支援を社会に呼びかけNHKの全国ニュースにも美談として紹介された。調子がいいったらありゃしない。木本さんはじめスタッフたちはこの機に乗じての売名行為だと憤慨した。
 社会的認知度が増したことで親の許可が出始めた。もっとも親の方も自宅待機やら最悪失職で子供の食どころではないはず。また子供は戻ってきた。明るい笑顔で。ところが今度は埼玉県から子供食堂の閉鎖要請が舞い込んできた。せっかく学校を閉鎖しても子供食堂に子供が集まっては意味がないという論理。ぜひ感染拡大に協力して欲しいという。依織は頭を抱え込む。これは悪魔の選択。まるで貧困と疾病が闘いどちらに協力するかを迫られている。
 依織は続行を決断する。もちろん調理の木本さんらの了解を得たうえ。料理が出来なくては始まらない。木本さんには改めて感謝。他のスタッフにはよくよく考えて欲しい旨を伝えた。子供たちへは手洗いとアルコール消毒を徹底してもらう。感染症対策はぬかりなく。
 泣きっ面に蜂。頭の痛い事態が木本さんから持たらされた。KIBOOの拠点の公民館が近々閉鎖され高齢者施設に建て替えられるというのだ。確かに築五十年の建物はあちこち傷んでいる。また住民意識の変化から利用者も減少していた。新住民は祭りなどの参加型行事を好まない。〇市としては解体して、需要が見込める施設に改築するのが本筋。高齢者施設の新設は〇市の今年度の事業計画にも盛り込まれていたそう。ただ何処が候補地かは記載されていなかった。今回の情報は木本さんの市役所仲間から。
「知り合いは高齢者施設の建築図面を見たそうです」
 木本さんは付け加えた。
「ここで子供食堂を開設していることは知ってるようで事業自体を隣町の公民館や近くの小・中学校に移せるだろうと考えたみたいです」
「いや隣町といっても二キロは離れているし今の子供たちは通って来られないでしょう。それにKIBOOの開設時に近隣の小・中学校に協力を打診しましたが何処もダメでしたよ」
 木本さんもその辺の事情はよく分かっている。
「困りましたねぇ」
 そう言うしかない。
 KIBOO開設時に一番苦労したのは場所の確保だった。「食」を提供するからには保健所の許可がいる。キッチンや食堂をあらかじめ設定したうえで、保健所に認可を依頼する。その時は市民病院の看護師長の母が動いてくれた。そのお蔭でこの公民館に辿りついた。また一から始めるとなると、相当な困難が予想される。小中学校は業務以外の事業には消極的。責任が持てないという。この狭い地区には他に場所がない。
「いつですか?」
「年度内ということではないでしょうか」
 依織と木本さんは溜息をつくしかなかった。
「一応市長当てに存続を願う嘆願書を出しましょうか」
 今のところそれしか無いようですね。依織は応じた。一難去ってまた一難。ああ。

第十七章
 その日はコンビニのバイトは休み。夕方から子供食堂に顔を出そうと考えた。朝寝坊をして朝湯に入る。独り身は楽チン。鏡に裸身を写す。臍と陰毛の間に十字の痣がある。生まれつきのものだ。人目に晒す部位ではないのであまり気にしたことはなかった。けどセックス相手のオトコは見咎める。「これタトゥー?」と必ず聞かれた。
 最近、オトコが居ないからアチコチのお手入れを忘れがち。これではダメだわと足先の手入れからはじめた。点けっ放しのテレビからはちょうどお昼のニュース。最近は新型コロナ関連の話題ばかり。ソーシャルディスタンスと来た。ハハ、これじゃオトコが居たって近づけないじゃない。
 梨恵はディオールの保湿クリームを足全体に丁寧に伸ばす。湯上りのほてった肌に極上の香りが湧き立つ。至極の時。とその瞬間、耳を疑うようなニュースがテレビから流れて来た。

「埼玉県〇市に拠点がある新興宗教団体『えにし』がコロナ退散の祈祷会を七月〇日に開催するとしています。この教団は新型コロナの集団感染いわゆるクラスターの疑いで、一時話題になりました。しかし代表の花村龍円氏は、人類の一大事にこそ宗教団体が結束しウィルスを撲滅する祈祷を施す必要があるとし、全世界のほとんどの宗教団体に祈祷会への参加を呼びかけています。現時点で要請に応じる宗教団体はありませんが、一部の日本史研究者の間では、平安から江戸時代まで厄災が起こるたび朝廷や幕府が寺社に平然と加持祈祷を依頼していたという事実がある……」

 バカじゃなかろうかぁ。秘境アマゾンのホロホロ族?の祈祷師じゃあるまいし。今は医学・科学があるだろう。これはほとんど子供の仕業。花村龍円は人一倍思い込みが強いタイプ。自尊心の塊。やりかねない。でも一方で何もしない僧侶よりはマシかとも思う。
 「裸の大殿」の僧侶は今回も動かない。説法説教のたびに「衆生の救済」を声高に叫ぶのに。一体全体いつ衆生を救済するのか? コロナの大厄災に動かないでいつ動くのか? 大いなる疑問。父・英海はどんな顔をするだろう。まぁ、例の素知らぬ顔だなぁ。我関せず。
 弟のトモマサから龍円は〇宗の祈祷術が出来ると聞いた。弟は羨ましがっていた。梨恵は〇宗の祈祷術を具体的に知らない。しかし厳寒に過酷な修行をしてまでも手に入れたいものであることは理解できた。
 一乗寺からも弟をはじめ幾人かの僧侶が行に出た。けれど祈祷術が出来るとは聞かない。なるほど祈祷術を得た龍円が他の恵まれた僧侶への挑戦するのか? 花村龍円は食えない僧。家柄も学識もない。一旗揚げたいのか。そう考えると妙に納得が行った。
 今日は考え事が多いなぁ。梨恵の指先はひと通り体のケアを終え化粧に入っていた。
 ワンコのCOOとモモは子供食堂に出掛けること楽しみにしている。二匹とも構ってもらえるのが嬉しい。子供食堂の人気者。モモの里親探しで蒼井空の母親とのいざこざは気になっていた。相談した依織は翌日、空と話し合ったそう。依織の話しによると、空はしつこく母親にせがむと食堂通いを禁止されると思い、敢えてモモのことは云わないでいるそう。賢い子。
 その後は食堂でモモと会うことを心待ちにしている。コロナ騒動が始まってもコンビニは通常営業。子供食堂の方は一時子供の数が減ったが今は元の姿に戻った。梨恵の日常は続いている。スッカリ子供食堂が気に入った。二匹を遊ばせている間に子供たちのヘアメイクをする。「パプリカ」も一緒に踊る。もはやなくてはならぬ存在。本来の目的の方は影を潜めた。まぁ、そのうち母にも会えるだろう。何より本当の兄を見つけた。
 その兄は梨恵が知っているオトコたちとは明らかに違う。自分を飾らず隠さず生まれつきの優しさを子供たちに注いでいる。本心を言えば、実の兄を知ることが少し怖かった。今までのオトコたちと一緒だったらと考えると、きっとショックは大きいはず。けれど危惧に終わった。
 子供たちは依織のことを「食堂のお兄さん」と呼ぶ。それはNHKの「体操のお兄さん」「歌のお兄さん」と一緒。頼りがいのあるキラキラした存在。この兄の母親ならきっと素晴らしい女性のように感じる。いつしか梨恵は母に会うことに引け目さえ感じるようになっていた。
 「オーイ。ワンコ来たよー」
 梨恵は勢いよく引き戸を引いた。ワンコたちは部屋の中を元気よく走り廻る。けど今日はなんだか勝手が違う。鬼ごっにする子供たちがいない。部屋の片隅の椅子に依織と木本さんの姿が。
「またコロナ騒ぎですか? 子供たちいないけど」
「いえいえそうじゃないのよ」
 木本さんは了解を得るように依織を見た。依織が頷くのを見て、
「これ見て頂戴」
 と言ってスマホの画面を梨恵に見せた。見慣れたツイッターの画面。でもツイートの文字に驚かされた。

『美園町の子供食堂の米津依織は子供たちにエッチな行為をしている。
 子供たちを裸にし写真を撮っている』

 この文章が毎日掲載されていた。ツイートの名は「正義の目」となっている。
「なにこれ、一体誰がこんないたずらを」
 いや、いたずらの域を越している。だって子供たちは来なくなってしまった。これは何てったっけ。そう誹謗中傷、名誉棄損。立派な犯罪。依織が傷心していることはすぐに見てとれた。そんな依織に配慮しながら木本さんが、
「そうなのよ。私も全然知らなくて今朝、子供に言われたの。ツイッター学校でも噂になってるって。それで慌ててスマホを見たらこれが。いま依織さんとも話してたんだけど、心当たりがまるでないのよ」
 木本さんはもはや涙目。梨恵は自分のスマホでも確認した。やがて投稿者のイメージ写真に目が留まった。いつもの写真の上に違う写真から取った「目玉」が貼り付けられている。「目玉」に覆われて元の写真が巧妙に隠されている。ジッと見つめた。見た記憶があるが思い出せない。うーん。
「店長、私、犯人が分かるかも」
「それホント! 」
 木本さんが見上げた。それまで下を向いていた依織が重い口をひらいた。
「いや、犯人捜しはどうだっていいんだ。問題は子供が食べに来られないことだよ。たぶん親に止められてるんだと思う。親にしてみれば心配だよ」
 依織は嫌に冷静だ。
「だって、それじゃぁ、店長は何も悪くないのに悔しいじゃないですか」
 梨恵はホントに腹がたってきた。こんな善良な人が窮地に追い込まれるなど決してあってはならない。その晩はいくら待っても子供たちは来なかった。おでんが大きな鍋に山盛りに出来上がっている。
「なぁに、おでんは日持ちするから。明日には来るでしょう」
 木本さんが依織を励ますように台所を片付け始めた。依織は目を床に落としたまま。COOとモモをがちょっかいを出すのをあしらっている。
 梨恵は自宅に戻るまでに犯人を突き止めた。コンビニのバイト、カノン。彼女のツイートを以前見たことがある。眼玉が載る前の写真。ツイートは映画「天気の子」が面白かったとかなんとかツマラない内容。友達と一緒に食べた流行りのタピオカをイメージ写真に使っている。虹色のタピオカに目を惹かれた。
 けど確証とは言えない。ここは例の探偵だ。まだ借りは残っているかな。スマホを手にした。探偵は常連客にサービスですよと苦笑いして調べてくれることになった。会社にSNS捜査の達人がいるので明日には分かるとのこと。
 翌日の午前中には探偵から報告があった。スマホの番号と所有者が割れた蒼井加奈。梨恵はビックリした。蒼井加奈は空の母親。カノンの苗字は蒼井なのか? ええ? どういう関係なの??? 疑問は膨れ上がる。今日はコンビニのシフトの日。店長からカノンの苗字を聞き出すことに。
 それとも蒼井加奈がやったのか。依織と加奈との間に何か在ったのか? オンナがリベンジを考えるのは酷いことをされた時。梨恵は旦那の浮気を思い出す。蒼井加奈は空に関することで依織に何かされたのか? いやいやそんなことがあるとはとても思えない。モモの譲渡話しで相談したが依織は蒼井加奈を知らないと言っていた。
 じゃ依織とカノンの間ではどうだろうか? しかし何かあったなら絶対に気付く。同じ職場だし梨恵は男女関係の機微には敏感。依織を誹謗中傷したのは絶対にカノン。それはツイッターの画面が証明している。では問題は蒼井加奈とカノンのつながりか?
 依織は店内に居た。昨日のショックは大きい。無実の罪を咎められやるべきことを出来ないでいる。無念と怒りで自分ならとても仕事どころではないと梨恵は思う。
「ご苦労さま」
 依織の声は案外明るい。仕事は別と割り切れるのか。やはりすぐに逆上する自分とは違う。梨恵は挨拶を返して着替え室にそこにはタイムカードがある。カノンのカードを見たかった。十人分が九人になっていた。カノンのが無い。
「店長、あのカノンちゃん辞めたんですか? 」
 なぜ知っている。依織は訝しんだ。
「ああ、あのタイムカードが無かったから」
 依織は納得した。
「うん、ちょっとあってね」
 そのちょっとが大事なの。梨恵はすがさず、
「カノンちゃんの苗字は何ですか? 」
 依織は面食らった。
「たぶん安西だったと思う」
 え? 蒼井じゃない。じゃどうして蒼井加奈名義のスマホをカノンが持っていたのか?
「あのう、子供食堂の犯人はカノンちゃんですよ」
 梨恵は断定した。依織は驚き呆れている。依織はカノンにレジのカネを二十万円ほど盗まれている。普通は盗まれ側が相手の罪を告発するんじゃないの。? マークの依織に梨恵はツイッターの画面のことさらに親しい探偵に調べて貰った事実を話した。スマホの名義が蒼井加奈なのにも驚いたようで自分と同じく混乱している模様。
「カノンちゃんとの間に一体何があったんですか? 」
詰問調。依織は自分が疑われてると思ったよう。眼が・になっている。
「店長が何かしたなんて思っていません。ご心配なく」
 なんとかしてあげたい一心。妹なのだから。依織は梨恵の気持ちを察したらしく万引き事件のことを話した。カノンは泣いて店を出てったママ。音沙汰はない。
「どうしてその場に警察を呼ばなかったんですか?」
 もうジレッタイ。兄の人の好さは折り紙つき。人のワルイ梨恵には想像がつかない。
「だって防犯カメラの映像はあとでいくらでも加工できるじゃないですか。だから現行犯じゃなきゃダメなんです。あとで事件になってもあちらで雇った弁護士は防犯カメラ映像は悪意に捏造された可能性があると主張するんですよ」
 旦那の素行調査でこの手のことに詳しい。依織を咎めながらそんな自分がチョット悲しくなった。
「でも、だって、いや、被害者は店側なんだよぉ」
 依織には理解できないらしい。そりゃそうだ。善良な人には理解不能。悪いオンナ同志だから分かることか。梨恵はそれ以上責めるのはやめた。原因を知ってますます苦しむのは依織。今からカノンを訴えても名誉棄損で反逆される。カノンは結果を見越している。常習犯だなと思った。依織はレジを見つめたまま。
「店長、元気をだして。今日から私、店長の替わりに毎晩子供食堂に顔をだします」
 梨恵は依織を慰める側に回った。あのツイートはカノンの仕業。今更どうしようもないこと。依織は当分食堂に姿を見せない方がよい。けれどスッキリしない。問題はスマホの所有者。そうだ。空に直接聞いてみよう。今夜子供食堂に来るはず。

 「コンビニのカノンちゃんなら毎日お家にくるよ。ママと一緒に『えにし』にも車でも行くよ」
 空はモモを抱えながら事も無げに答えた。なるほどこれで繋がった。携帯料金も払えないカノンは上司の蒼井加奈からスマホを貸して貰っているってワケ。この前玄関先に現れた薄茶色の作務衣のおばさんのように、カノンも蒼井加奈の取り巻きのひとりなのか。
 カノンと加奈との関係を依織には話さずにおいた。話したところで依織が以前のように子供食堂に顔を出せる訳ではない。ただ梨恵はどうしても事情が知りたい。誹謗中傷と現金詐取。このふたつの事柄がどうしても繋がらない。依織が憎いんだったら誹謗中傷だけで充分。レジからカネを盗んで捕まったらどうする? ワルの論理に反する。きっと何か裏があるような気がする。

第十八章
 蒼井空の家の前でカノンを待ち伏せしている。カノンに会うにはこうするしかない。空からおおよその時間を聞いた。空が学校に行く時間にすれ違うようにカノンは自転車で来るらしい。怪しまれないようにCOOとモモの散歩を装うことに。カノンがワンブロック向こうの路地を曲がって来た。梨恵は二匹と共に走った。
「カノンちゃんじゃない? 」
 カノンは自転車を止めて振り向いた。
「コンビニ急に辞めちゃったんで驚いた」
 COOとモモはカノンを見上げている。
「あれ梨恵さんワンコ飼ってるんだぁ。可愛いいなぁ」
 ワンコたちはしゃがんだカノンの膝に足をかけて顔を嘗めようとしている。カノンはなすがままにさせている。
「うん、なんだか面倒くさくなっちゃってさ。ほらコロナでフェイスシールドとか手洗いだとか」カノンは検討違いなことを言っている。
「そうだね。でも何にもしないと怖いしねぇ」
 梨恵は調子を合わせた。数分の雑談の終わりに、
「私、霊感占いをやってもらおうと思ってさ。ほらカノンちゃん前に言ってたじゃない、興味あるって?」
 これは口から出まかせだ。新興宗教団員には新規信者獲得のノルマがつきもの。
「アレ、梨恵さんにも言いましたっけ。はいなんなら紹介しますよ」
 食いついた。イエイ!しばらく立ち話をして来週一緒に教団施設に行く約束をとりつけた。

  カノンとは西武新宿線田無駅で待ち合わせた。教団はそこからタクシーで十分ほどらしい。梨恵は花村龍円と顔を合わせないかと不安に思った。でも教祖がこんな一兵卒と一緒にいるとは思えない。それより蒼井加奈の方だ。ワンコの一件を覚えているかどうか。玄関先で挨拶した程度だしあの時はCAPを被っていた。たぶん顔は覚えていないだろう。
 教団のビルは黒塗りで趣味が悪い。世間を騒がしているからにはド派手なイメージがあった。けれど広場には一台の車もなく玄関先にも人影は見えない。何か無機質な空間だった。エレベーターで三階の一室に入った。入口には「調査部」とある。
「そこに腰かけて待っていてくださいね」
 カノンは入り口付近のソファを指さし奥のドアに消えた。一周ぐるりしたが何も置いていない。カラッポな空間。数分でドアが開いた。カノンが蒼井加奈を連れて来た。あの晩の慇懃無礼な態度とは真逆の愛想の佳さ。やはり覚えてはいなさそう。梨恵は何も知らないカモを装う。蒼井加奈は名刺をソファテーブルの上に差し出した。名刺の肩書は教団調査部長。
「よく来てくれました。カノンから訊きましたよ。霊感占いに興味があおりだそうで。差支えなければお困りの内容をお聞かせください」
 実に低調。梨恵は旦那の不貞を告げ真意を確かめたいと今更どうでも良いことを並べ立てた。嘘はどこかで論拠が崩れる。嫌でも本当のことを話すことだ。思惑通り二人ともスッカリ信じ込んだ。迫真の演技に二人は同情を寄せる。
「私もカノンちゃんもオトコには苦労させられて。オンナはオトコ次第ですからねぇ」
 それからはカルテと称して個人情報を記入させられた。もちろん適当に。大体は旦那の個人情報を記入する。
「霊感占いは午後から中師と呼ばれる方が直々にしてくださることになっています。あなたは運がいいですよ。カノンちゃんの知り合いで。最初から中師さまの占いなんてそうはありませんから」
 梨恵はスッカリ信用された。あとはオトコをめぐる愚痴話しで盛り上がった。蒼井加奈はしばらくすると別件があると中座した。
 霊感占いのが始まるまでにたっぷり時間がある。梨恵はカノンを昼食に誘った。新青梅街道沿いのパスタ店に。席に着き注文すると、
「梨恵さんはオトコに苦労したんスネ。そんなにキレイなのに。でもマジでリベンジしたんスカ?やるなぁー」
 カノンは同情したり感心したり。いつしか梨恵のことをワル仲間の先輩だと信じ込んだ。まぁ、そんなようなものだが。
「カノンちゃん、蒼井加奈さんてどういう人?」
 梨恵は依織を誹謗中傷した理由を聞き出さなければならない。
「教団ナンバー2ですよ。教祖のオンナってやつです」
 カノンには警戒の色がまったくない。ナポリタンをがっつく。
「調査部ってなにすんの?」
「それがっすね。早くいっちぇぱ教団の敵をやっつけるところです」
 なるほど父英海も新興宗教にまつわるトラブル(檀家の子息が新興宗教に入れあげているなど)によく巻き込まれていたっけ。この場合は父の英海が敵になる。
「へぇー、カノンちゃんもそこで仕事すんの?」
「自分は今のセフレがここのキッチンで働いてまして。信者というよりは仕事目当てで。加奈さんにも毎月小遣いもらって、まあパシリみたいなことやってマス」
 いまや隆盛の団体。信仰心よりもカネ目当ての者も多いはず。梨恵はピンときた。カノンに教団への信仰心忠誠心は皆無だと。ならば話は早い。
「あのさぁ、カノンちゃんコンビニの店長のことネットでチクったでしょう? あれも仕事。ツイッターで気づいちゃったんだよねぇ。カノンちゃんのだって。イメージ写真の消し忘れ。あれじゃバレるよ」
 梨恵はズバリ核心をついた。
「アレ、分かっちゃいました」
 シレっとしたもの。
「なんで?」
「加奈さんに言われたんスヨ。あの子供食堂は危険だって。今のうちに潰しといた方が教団の為だって」
 ええ? だって自分の娘が通ってるじゃないか。
「たぶんスヨ。空ちゃんが通ってるのが面白くないんじゃないンスカ? 家にはもうお金があるのに貧乏くさいから、もう行くなといくら止めても出掛けるって、嫌がってましたから」
 梨恵はあきれた。そんなことで。
「はー、なるほどねぇ。でもカノンちゃん、コンビニのレジから現金までヌイたでしょ。なんで?」
 梨恵はたたみかける。
「あの店長ヌルイし、ついでにカネとった方がよくないっすか」
 梨恵は得心が云った。ツイッターは蒼井加奈の指示。現金詐取はカノンの単独犯。依織はカモられたのだ。典型的なワルの行動。
 食事を終えて店を出た時カノンの腕を取り、
「カノンちゃん、一番のワルは蒼井さんだけどアンタも許せないよ」
 梨恵はそう言って、グーでカノンの顔を殴った。うめき声と地面にしゃがみ込むカノンを尻目に梨恵は堂々とゆっくり駅への道を歩いた。通行人の二、三人の眼が梨恵を追っていた。「セーラームーン」のあの名台詞「月に代わってお仕置きよ!」が脳裏を駆け巡った。
 「セーラームーン」はグーパンチは使わない。子供の頃の記憶を辿れば「ムーン・ロッド」を使った「ムーン・スパイラル・ハート・アタック」だったような。まぁどちらにしてもカノンの顔には青痣か赤痣、その両方が出来るだろう。

第十九章
 知正は一乗寺の職員を集めてコロナ対策会議を開いた。国は自粛要請を全国に広めた。しかしパチンコ店や風俗店とは違い、寺院には直接的な要請はない。だから自ら考えるしかない。寺の事務三人と作務を担当する僧侶七人。全員がマスク姿。そこに住職の英海の姿がないと分かると、
「要はこちらがウツラナイようにすればいいんじゃないか」
「当分の間の法事は中止。自粛ということだ。なにもこんな時期にやらなくたって。仏さんは怒らんよ。半年延ばしたってたいしたことはない」
「リモートでお詣りや法事をするっていうのはどうかな? 」
 ある僧が提案した。この話には全員が聞き耳をたてた。
「ほら、最近は会社員が自宅でパソコン使ってネットで経由で仕事してるでしょ。それをリモートっていうの。あれを寺にも導入すれば」
 僧はよく分かるように説明しだした。
「おっ、それいいね。だったらコロナがうつりようかない」
 皆が得心した。
 知正はそれだと思った。こんな妙案は一休さんでも思いつかないだろう。おっと一休さんの時代にはネットもスマホもないか。知正は早速寺のホームページにリモートでの法要の様子をビデオで撮りアップした。
 檀家側の役者には寺務の女性たちを配した。ウイズコロナ時代の新しい革新的な法要式を提案した。これはひょっとするとメディア取材もあるかも。知正は自信満々。翌日「千葉デズニーテレビ」から取材の依頼が舞い込んて来た。してやったり知正は悦に入っていた。
 父から新住職としてコロナ対策を任された。父は法主急逝のため宗務庁の行ったきり。母もこれ幸いと実家に帰った。取材当日、新たな感染症に対する葬儀法要式の在り方について自信満々に述べた。
 ある檀家から電話があった。
「わしら年寄りにはパソコンが使えん。なにかね、一乗寺さんは寺には人は来ないでくれっちゅうことかな。これじゃ墓参りにも行けんがな」
 その日の夕方近く門前から一本に伸びる小道を老婆が杖をついて歩いてくる。背中には年代物のリュック。この時間は正門を閉じる時刻。でも知正は閉じられない。なんだなんだと四、五人の僧侶が集まってきた。老婆は歩みが遅いのでなかなか近づいてこない。一人の僧が、
「あれは山中の婆さんだ。ほれ梅山町の」
 山中さんは先祖代々の檀家。週に何度かはお詣りにやってくる。コロナでも構わずやってくるマスクは無い。徒歩で片道三十分。結構な体力をつかうはず。
「ああ間に合った」
 老婆は汗だくだ。門前でほっかむりをとり腰を伸ばした。
「お詣りですか? 」
 とマスク姿の知正。
「それもそうだが。いまコロナ給付金ちゅうのが振り込まれて来てなぁ。懐が温かくなったからお布施にやって来たわ。先に行ったお父さんを供養してくだされ。
 近所で一乗寺さんがコロナで閉まると言っとったわ。心配で心配で。拝むところがなくなってしまう。ご本尊にもご先祖にも申し訳けがたたん。
 わしらはコロナでコロリと死ぬれば大歓迎だがな。あんたらは若い衆は患かりたくはないわな」
 ゲタゲタと笑うと入歯が口の中でガタガタと揺れる。老婆は郵便局の封筒を僧侶に手渡し本堂に深々とお辞儀をするとまた来た道を戻り始めた。知正をはじめ全員マスク姿の僧侶たちは老婆の後ろ姿に少なからず後ろめたさを抱いた。
 さてさてそんな折一本の電話があった。花村龍円から。
「頼みがあるんだけどさぁ」
 ほーら来た、知正は身構えた。
「心配すんな、金のことじゃないよ。金ならいまや腐るほどある。貢いでくれる人だらけさ。一乗寺にテレビ局行かすからさ、そん時に一乗寺は『教団えにし』を応援してるって答えてくんないかな」
 知正は意味が分からない。
「相変わらず鈍いヤツだなぁ。『コロナ退散祈祷会』のことだよ。マスコミには持って来いのネタだ。奴ら毎日のようにクンクンとオレんとこに来やがる。祈祷会の全貌を知りたがってるんだ。そこでだ。一乗寺の新住職に協賛を申し出て欲しいんだよ。協賛と云っても金なら要らないよ。名前だけ。いまオヤジさん居ないだろう?」
 父が不在であることも知っている。知正はあまり乗る気がしない。だが次の一言で気持ちが動いた。
「これからお前も霊力の持ち主と持ち上げてやるよ。新住職には喉から手が出るほど欲しいだろう? 」
 知正は考えた。断ったところで「大寒行」のことを持ち出して強請られる。ならばほどよい条件の時に折れた方がよい。
「分かった。取材を受けるよ」
「よしよしいい子だ。じゃお前は『大寒行』で霊力を得た大阿闍梨(苦行を成した尊師の位)だ。その替わり『埼玉翔んでったテレビ』の取材で『教団えにし』を持ち上げてくれ。ドキュメンタリー番組に仕上げたいらしい。明日はオレが取材を受けるから数日後には頼むな」
 スマホのやりとりはしばらく続いた。知正は悪い気はしなかった。今度の住職は祈祷術が出来る。超能力者として崇拝されることの快感。箔が付くとはこういうこと。
 「埼玉翔んでったテレビ」の取材スタッフは数日の後にやって来た。手はず通りにえにし側から僧侶二人が知正の付き添いで派遣されて来ていた。壮健、眼力鋭く、坊主頭が抜群に似合う僧。仕立ての良さそうな濃げ茶の法衣の上に、金色の教団法被を羽織っていた。
 これなら知正が教団の者ではないことが視覚的に協調されるだろう。かたや知正は緋色の袈裟姿。右手には中啓(夏扇子)を持つ。三者とも毅然と動ぜず。最も確固たる僧侶のスタイル。取材場所は絵映りの良い門前ということになった。ここからなら本堂、鐘楼、三重塔まで見える。ローカルニュースで見たことのあるキャスターのおネイちゃん。小ぶりでロリ顔。
「それでは、本日は一乗寺さんの門前に来ています。春は桜、夏にはアジサイ、秋には見事とな萩が境内に咲き誇り武蔵の自然や…」
 美女キャスターはしばらく辺り一帯の美辞麗句を喋りまくる。おおよそテレビ番組には台本がある。インタビューだって事前に打ち合わせをする。撮り直しは非効率。美女キャスターは居住いを正してまずは「教団えにし」の僧にマイクを向けた。
「世界宗教を挙げてのコロナ退散大祈祷会を主催する『教団えにし』には教祖の他に中師と呼ばれる霊能者がおります。我々は『教団えにし』の中師です。そしてこちらは我々が元所属してた〇宗の四百五十年の歴史を誇る別格本山一乗寺の新住職であります」
 僧侶はまるでボクシングのリングサイドアナウンサーのように知正を紹介した。知正はとりあえず一歩前に。すかさずロリ顔のキャスターがマイクをむける。
「古来より僧侶とは仏法を説き時によっては衆生救済のために法力を揮う集団でありました。教団えにしの教祖と私は、〇宗の『大寒行』で共にこの法力を得るために厳しい修行をし心身の鍛錬、研鑽を重ねてまいった訳であります。
 今回のコロナ禍は未曾有の国難。この機に何もせずとは我々僧侶は何のために鍛錬を重ねて参ったのでありましょうか。心より『教団えにし』によるコロナ退散祈祷会を応援するものであります」
 あらかじめ原稿はえにしの僧侶から手渡されていた。けれどその文面はまるで〇宗が「教団えにし」を後援する内容。まともに読んだらいくら人の好い知正でも一乗寺の住職を失職することは分かる。次の瞬間キャスターが不意を突く質問をした。台本にない。
「一乗寺の新住職に改めてお尋ねします。いまのご発言は〇宗の総意というこでよろしいんでしょうか?」
「いや、そう意味ではなく先ほども言いましたが、えにしの教祖とは兄弟弟子の関係でして、ああ、向こうが先輩で、それで応援したまでです」
「では〇宗の『大寒行』を修行した僧侶なら誰でも白神さんと同じように考えるということでしょうか?」
 美女は突っ込んでくる。知正はようやく理解した。これはこの質問をするよう龍円に依頼されている。畜生、このロリ顔は龍円のオンナかもしれない。いかにローカル放送局といっても首都圏だ。膨大な視聴者数になる。こういうところ龍円はしたたかだ。
「ちょっと話しが違う」
 これは生放送ではない。知正は収録を中断させた。美女キャスターはしまったというような顔をした。やっぱり。
「今のところはカットしてね。悪いけど〇宗の後援はムリだよ。僕にはそんな力はない。兄弟子だから応援しているだけね」
 知正は腹をたてていた。それでも二、三度取り直しの取材を受け、収録作業は小一時間ほどで終了。放送は一週間後だそう。嫌味の電話ぐらいは予想していたが、その後花村龍円からは何も言って来なかった。ただ、放送内容に知正は唖然とした。うまく編集されていて、これでは〇宗が「教団えにし」を後援しているかのように受け取られる。知正は焦った。しかし後の祭り。

第二十章
 木本さんの着信画面は向日葵を背景に小さな子供たちとピースサイン。笑顔に溢れた日常が伺われる。梨恵の気持ちまで明るくなる。いつもは元気な挨拶からなのに今日は黙っている。どうも変だ。
「あのう、どうかしましたか?」
「あのね、依織さんのことなんだけどね。ここ一週間ほど子供食堂に姿を見せないのよ。最初のうちは例のことで来ないようにしてると思ってたんだけど。なんだか心配になってね。それでコンビニに電話してみたのよ。そしたら本社の男の人が出て米津さんはコロナに罹患して入院してるっていうの。わたしビックリしちゃって」
 梨恵もしばらくコンビニで依織の姿を見ていない。そういえば制服を着た見知らぬ男性がバックヤードで集計作業をしていた。本社から来た人だとは思っていたが。梨恵は自分の迂闊さを恥じた。
「依織さん、大丈夫なんでしょうか?」
「私も聞いてみたんだけどその人も詳しいことは知らないっていうの。本社からそういう事情だから応援に行ってくれと云われただけだそう。食い下がったら、本社に確認して折り返すということで今連絡があったの。熊谷の県立病院にいることだけは分かった。病状なんかは分からないって」
「そんなぁ、いい加減だなぁ」
 梨恵はだんだん心配になってきた。
「だって依織さんはひとり住まいですよねぇ。どうやって分かったんでしょう?」
「それがね、救急車で運ばれたらしいの。自分で呼んで」
 依織の性格からして独りで養生していたんだと思う。救急車とは相当切羽詰まっていたと想像できる。
「わたし今から行ってきます」
 梨恵は壁の時計を見上げた。午後二時を少し回っていた。
「ホントに。ごめんね。私いま市役所から電話してるの。仕事がなかったらご一緒するんだけど」
 電話口から館内アナウンスが聞き取れた。
「いえ、何か分かったらメールしますね」
 スマホで県立病院を検索。道順を探る。拝島まで行き八高線で小川町下車。結構面倒で時間もかかる。梨恵は舌打ちした。出掛けて心配なのはワンコ。餌と水、帰りが遅くなった時のために電灯も点けた。
 病院はものものしい姿に替わっていた。玄関が封鎖され、白い大きな紙に感染者外来 と書かれ駐車場に誘導される。大きな駐車場にはいくつもの簡易テントが張られPCR検査受付場と立て看板がある。さてどうしたものか? 辺りを見回し病院関係者を探した。ほどなくテントから全身プロテクター姿の女性が出て来た。早速近づく。
「あのぅ、すいません。入院患者を探しているんですが? 」
 フェイスガード越しに迷惑そうな表情が読み取れた。駐車場の一番奥のテントを指さされた。相談所があるらしい。テントの中にはアクリル製の透明な檻のようなものがありその中で女性が机に座って書類に目を通していた。女性の前には椅子はひとつしかない。たぶん密を避けて一人ずつということなのだろう。テントの外には二、三人が順番を待っていた。
 辺りが暗くなる七時前に順番が回ってきた。
「一週間ほど前に入院した米津依織に面会したいんですが」
 アクリル板越しの女性はさすがにマスクだけの軽装備。
「ヨネヅイオリさんですね。えーと、はい確かにコロナ感染で入院してます。けれど面会は出来ませんよ」
 怪訝な梨恵に、
「ここは隔離病棟ですからね。回復したとしても二週間の経過観察期間もありますしね。ヨネヅさんはいま集中治療室にいます。正面玄関の脇に職員用の通路があります。そこから外来の待合に行ってください。患者さんの状態について説明があると思います」
 事務的な説明。「集中治療室」との言葉にただならぬ気配を感じて先を急いだ。梨恵はふとこの不安な気持ちはどこから来るのかと考える。嫌な父バカな弟違う母、でも家族は家族。病気になれば心配する。理由は家族だから。
 依織は実の兄だ。しかも誠実実直な人間。過去に梨恵をスリ抜けたオトコ達とは別の種族。何よりも他人の為に生きていると言っても言い過ぎじゃない。居なくなれば悲しむ人はたくさん居る。元気でいてくれなければ困るのだ。
 広い外来待合の椅子は撤去され濃い緑色の長椅子がまばらに配置されていた。長椅子は人で埋まってはいるがガランとした印象。その人は一番前列の椅子から立ち上がってこちらを見つめていた。瞳がぶつかりあった瞬間に誰だか分かった。「母」。一瞬、あとずさりする梨恵。
「白神梨恵さんね」
 女性は近づく。梨恵の左腕をとって、
「ありがとう来てくれて。依織も喜んだと思うわ」
 その眼には涙が溢れている。

「え!」
 梨恵は依織の夭折を悟った。全身から力が抜けて長椅子に倒れ込む。
「ついさきほどね。とうとう枕元に行けなかったわ。家族でもここから先には行けないの」
 母は呆然としている梨恵の脇に座り肩を抱くように回して、
「コロナに私も患かったの。だから分かる。何が起こってもオカシクないわ。私が看護師だってことは知ってるわね。だから人の死には慣れてるの。人間はね、まるでこの人には定めがあるかのようにアッという間に死んでしまう」
「そんなの間違ってる。まるで十字架に磔にされたイエスのよう」
 梨恵はキリスト教会にはつきものの十字架像を思い浮かべた。お決まりの磔ポーズは聖なるイエスに人間がしたことを思い起こさせるため。言葉の意味が分からずポカンとしている母に、
「依織さんは貧しい子供たちのためにあんなに努力したのに。でもネットでの誹謗中傷で食堂に行けなくなって、そのうえ公民館からの立ち退きまで要求されて、今度はコロナなんて酷すぎる」
 KIBOOの拠点の公民館が老人介護ホームに替わることを少し前に木本さんから聞いていた。一緒に憤慨しあった。泪を流したなんていつ以来だろうか。さし損なった目薬のように液体が頬を伝う感覚。覚えがない。何かにつけベソベソと泣く弟を違う生き物と眺めていた。
「私はヒドいオンナなんです。中学生の時から喫煙飲酒。高校生になると援助交際もしたわ。それから家出をして。オトコに集って暮らしてた。美容学校のお金も出させたの。性悪ですよね。それでも美容師になってやりがいを見つけてこの先は普通の女になろうと同僚と結婚たんだけど。でも浮気されてすったもにだで離婚して。何もかもイヤになって千葉に引っ越して店員始めたんだけど。いつも鬱々としていて。そんな時友達に紹介されたお坊さんに本当のお母さんに会えと言われたの。その言葉にヤケに真実味があって。いちからやり直そうと地元に戻って、まずは依織さんを訪ねたの。その延長にお母さんは居ると考えた。
 でもね。依織さんに出会って、誘われて子供食堂を手伝ううちに自分の心が落ち着いて素直になれて毎日が楽しくて。(もう泪は止まらない) 子供たちのヘアメイクをしていると、これが本当にしたかった事なんだと思えて。そのうちお母さんのことは何処かに行ってしまった。すいません私なに喋っているんだろう」
「私もあなたと同じようなものだわ。あなたが嫌っていたお父さんに集ってたの。月の生活費、依織の教育費、コンビニの出店料、何千万円にもなるわ。私たちやっぱり親子ね」
 母はそこまで言って居住いを正した。
「そんなことよりも実の娘を捨てるなんて酷いオンナだわね。あやまります。本当にごめんなさい」
 梨恵は謝罪を聞くために母に会おうと思ったのではない。将来について考えていた時にまずは母に会えという老僧の言葉に従った。私は実の兄と出会い今は兄を見舞に来たのに実の母から実の兄の訃報を聞いた。梨恵の頭は混乱していた。それでも理解できることはひとつあった。この人はたった今愛するひとり息子を喪くしたのだ。
「たとえお母さんに育てられてもわたし悪いオンナになってたわ、きっと。今は依織さんを弔わなければ。ねっ」
 梨恵は母を慰めた。
「いつになったら依織さんに会えるんですか?」
 母はハンカチで涙を拭い、
「それがね。わたしあの閉鎖された市立病院にいたから知ってるの。遺体はそのまま火葬場に行くの。逢えるのは灰になってからだわ」
 その情け容赦ない話はテレビで報道されていた。その時はどこか遠くの話しだった。
 館内アナウンスで母が事務室に呼ばれた。
「よかったら、一緒に来て頂戴。今夜は依織のお通夜」
 ふたりは席を立った。
 予想した通りに市営火葬場での遺灰の引き取りとなった。焼く前にガラス窓越しでの遺体との対面は可能とのことだった。行政側の精一杯の配慮だろう。いずれにせよ五日後の午後のこと。
 事務所にはどうしても遺体と対面したいと泣き崩れる老母の姿。当然のこと。充分なエンゼルケアも施せないだろう。余計なひと手間が院内感染の引き金になることを恐れているのだ。母は看護師。同じ医療従事者としての配慮が傷心からの軽挙妄動を必死に抑えている。
 母は説明に来た若い看護師に丁寧に礼を述べ、紙面にサインした。玄関に向かう母が階段でよろけた。手荷物が足元に散らばる。
「大丈夫ですか」
 梨恵は母の身体を支えた。もはや白髪に近い髪の色が目に浸みた。
「ごめんなさい。貧血を起こしたみたい」
 母はしばらく呼吸を整えてからまた歩き始めた。帰りは母の車に同乗することになった。
「あのよかったら、私が運転します。ご加減悪そうですし」
「でも大丈夫?」
「はい、慣れてます。スマホに道案内させますし」
 母は頷いて後部座席に倒れこんだ。梨恵は千葉に逃げ込んでいたころ休みの日にはレンタカーで房総の海に出掛けた。陽の当たらない部屋に一人で居るのが嫌だった。何をすることもなくただ波を眺めていた。
 つい最近のことなのに遠い昔に感じる。車をバックさせようとミラー越しに母を見た時に気付いた。母の容姿と髪形。どこかで記憶がある。美容師は指名してくれた客を覚えているもの。鏡越しで。しかもインターン時代を終えてヘアメイクアーチストとして独り立ちしたての時分。一層記憶に残っている。そうか母は自分の元に来ていた。
しばらく黙っていた母が口を開いた。
「あの人にはあの人なりの正義があったのよ。あなたは知らないだろうけど昔の一乗寺は本堂も住まいも茅葺で土壁なんかは今にも崩れそうに痛んでたの。オバケ寺と悪口言われていて、あの人本名は和久っていうだけど、久の字がキュウと読むでしょう。それであだ名はバケキュウ(ボロキュウ)だったらしいの。悔しがってた。
 それを一代でお城のようなお寺に変えてしまった。もうビックリ。別に決まり事はなかったけど奥さんをもらってからはお詣りにも行けなくなっちゃった。それであなたを見たいと思ったときは幼稚園から高校まで学校に出向いてたわ。だからどんな大人になったか大体知ってるの。ごめんね。こそこそと。一度お父さん、こぼしていたことがあったわ、仏罰だって」
 梨恵の知らないことばかりだった。本名も知らなかったし、自分の知っている父は(バケキュウ)とはおおよそ隔たりある絵張り腐った人間。
「結婚できないことは分かっていたの。でも子供を授かった時この人の子供だから産まなくちゃ行けないと思ったの。剛直で清貧で人助けに奔走する。ボロキュウでも実はあったのよ。依織はまだ幼いし、ヘナチョコ看護師が育てるよりも一乗寺さんで育った方がよいと思った。ごめんなさいね、勝手で」
「あのう、以前にサロンに来て頂きましたよねぇ?」
「あれ、よくおぼえているわね。すごく嬉しかった。立派な職業についたんだって」
 やはり。母とはすでに会っていた。灯台下暗し。


 車は国道十七号線に入った。コロナの影響か行き交う車の数は少ない。母の顔色には血色が戻った。
「さっき依織のことでSNSで誹謗中傷を受けているし立ち退きを要求されていると言ってたわね。あれどういうことなの?」
 梨恵はこれまでの経緯を話した。
「ああ、そうだったの。あの子何も言ってなかったわ。親子二人家族だから定期的にご飯を食べましょうってね。あの子も勤務時間が不定期だし私の方も病院勤務だから、なかなか合わせるのが難しかったけど手料理を食べに私の家に来てたわ。最後は一週間前。全然気づかなかった。あの子は昔からそうなの。嫌なことばかりで耐えるのが上手っていうか」
 なるほど。梨恵は合点がいく。立ち退き話しにもネットでの誹謗中傷にも本気で困ったり怒っている風ではなかった。どこか飄々としていた。土台打たれ弱い人間に人助けの子供食堂など出来るものではないだろう。
「私ね、あの子に謝らなければいけないことがあるの。コロナをうつしたのは私じゃないかと思う。市立病院が先月封鎖になったのよ。その時に私もコロナに集団感染した。もちろん検査結果が陰性になるまでは病院に隔離されてたんだけど。家に戻ってから何かとあの子が世話をやいてね。買い物だとか掃除だとか日常のことは何でもやってくれて。それって私を慰めてくれてたの。あの時、批難の眼はクラスターを起こした病院のスタッフに向けられていた。公立の病院だから余計にね。早々に戦線離脱とは、ただの税金泥棒だって。いくら陰性だからって再燃の危惧もあったの。だから来ないでいいと言ったんだけどきかなくてね」
 それもよく分かる。あの兄ならそうするだろうと梨恵は思った。
「そんな風に考えるのは。コンビニも子供食堂も開いていたしそこでうつったのかも」
 梨恵はこのことを本木さんに知らせたら子供食堂も一時閉鎖になると考えて気が重くなった。
「さっき保健所に依織の感染のことを伝えといたわ。勤め先のコンビニと子供食堂のことも。息子経由の感染者は絶対に出したくないわ。ううん、看護師の責任感じゃなくて、依織ならきっとそう考える」
 兄は間違いなくそうする。
「どちらに向えばいいんでしょう。お宅を知りません」
 車は国道十七号を南下し〇市に入っていた。
「子供食堂に行ってくださる」
「はい、でも」
 この時間に行っても誰もいないだろう。
「実は……さっき木本奈々さんにも依織の死を伝えたの。依織は子供食堂に二週間以上立ち寄って居なかった。だから子供食堂は安全。依織は子供食堂を守ったのよ。木本さん、泣き声でちゃんと聞き取れなかったけど、KIBOOのメンバーを子供食堂に集めるって言ってたわ。お通夜をご一緒したいって。もうすぐ県立病院を出ると伝えたからもういらっしゃるんじゃないかしら」
 なるほど誹謗中傷騒ぎで子供食堂から遠ざけられたけど、見方を替えれば愛する場所には感染を拡げなかったことになる。こう云うのを不幸中の幸いというのだろうか。死んだ依織にはちっとも幸いじゃないよ。
 公民館の駐車場に母のデミオを止めて子供食堂に入るとKIBOOのメンバー全員が神妙な顔で待っていた。母は依織の最期の様子とコロナ禍での遺体の処理方法を説明した。ほとんどの眼に涙が滲む。今夜は通夜の席。みんなで依織を偲んだ。
 当初のボランティアメンバーの女子大生を児童と勘違いしてテーブルに座れせたこと。またエモイとキモイを間違えて女子大生を困惑させたこと…。話しはつきない。今後の活動についても話し合われた。継続することが依織の意思だと皆の思いは一致。木本さんを中心にこれまで通りとなった。母も頭を下げた。ただ立ち退き問題は話題に登らなかった。通夜の席には相応しくない暗い話題なのだ。涙は吹き飛んで可笑しそうに笑っていた母が梨恵に、
「病院でお坊さんに私に会えと言われたと云ってた。そのお坊さんって」
 母は児玉日秀老僧の風体を言い当てた。
「私の病院にもそのお坊さんは来たの。コロナ騒動のちょっと前かしら」
 梨恵は驚いた。でもどうして母のことを。
「いいえ、私を尋ねて来た訳じゃないわよ。終末期の患者ケアをさせて欲しいと頼みに見えたの。そこの責任者が私だから私が面会した。それだけのことなんだけど。妙なことをおっしゃったからよく覚えている」
 梨恵は興味深々。
「あんたさんには仏との約束がある。アルジ(十字痣)を支えにゃならん。厳しいことがあるかもしれんが、しっかり頼む。そんなようなことを言ってたの」(十字痣のくだりは隠した)
「梨恵さん、あなたはなんと云われたの?」
「アンタにはもう一度、遇うことになる。アンタにはやってもらわなきゃいけんことがある」
 梨恵は記憶を辿るように。
「じゃ会いに行かなくちゃね。これからやるべきことを訊かなくちゃ」
 梨恵はハッとした。いま目的を果たした。母に出逢いこの短い時間でさえ梨恵は安らぎを感じていた。血液が温まる感覚。けれど兄を亡くしてしまった。私はこれからどうすれば。梨恵は児玉日秀老僧に逢いに行こうと考えた。

第二十一章
 白神梨恵は高松空港に降り立った。老僧の連絡先は寺務経理の菊池裕子が知っていた。弟に尋ねたところ菊池裕子の名を挙げた。事情は分からない。目的地まではスマホの案内にまかせる。もちろん四国ははじめて。空港からはレンタカー。グーグルマップによると空港から松山市街を通って山間部に入る。一時間の行程とある。白のマーチをゆっくり走らせた。
 目的地の児玉日秀の寺は多度津町を囲む山裾にあった。寺の門前横にマーチをとめた。見渡せるのは緑の田圃だけ。時折吹き抜ける風が青々とした稲に容赦なく足跡をつける。田舎だあ。感想は一言。寺門をくぐると茅葺の本堂と隣に赤いトタン屋根の庫裡と思われる建物が二つだけ。どちらもかなりくたびれている。一乗寺との違いに唖然とした。そう云えば母が昔の一乗寺の話をしていた。「オバケ寺」と。梨恵が知らない自寺もこんな有り様だったのか。どうしようかと呆然としていると庫裡の方から声がかかった。父英海に歳近い僧侶だ。
「はて、土地の人ではないようだな。みんな顔見知りだけん。遍路さん(四国八十八か所の古刹を巡る人)にも見えんなぁ」
 遍路とはなに? 梨恵は言葉の意味を考えている。答えに詰まっていると、
「もしや父の知り合いの〇市の寺の娘さんかな?」
 梨恵はびっくりした。
「やっぱり。お知り合いだったらあんたさんも知っての通り父は変ったお人でなぁ。あんたが必ず訪ねて来ると言うとったんよ」
「はい、私は日秀さんの知り合いで白神梨恵と申します。一乗寺の娘です」
 梨恵は深々と日秀の息子に頭を下げた。
「あのう、日秀さんはおられますか? 言われたように訪ねて来ました」
「せっかくですまんこったが日秀は往生しました」
 今度は往生の意味を考えている。
「ああ、死んだっちゅうことです」
 息子は平然としている。
「ええ、ど、ど、どうして?」
 梨恵は混乱した。
「先月コロナにやられましてなぁ。感染すると隔離されなきゃならんでしょう。何にも出来ないとがっがりしましてなぁ。四、五日で往生しましたわ」
 梨恵はなんとも言えない。ここに来た目的を失っただけではなく死んだなんて。肩を落とす梨恵を誘うように本堂横の木製のベンチに座らせた。
 ここからは青々とした田圃がよく見える。息子はちょっと待っててと言い残して庫裡に戻った。梨恵は一度深呼吸した。よく見ると遠くに市街の背の高い建物も見える。耳を傾ければ山からは蝉の大合唱。そうだ土産を渡さなくちゃ。羽田空港で買った菓子袋がベンチから地面に滑り落ちた。
 ほどなくして息子は麦茶が入ったコップと白い紙包みを持参した。
「暑いでしょ。まぁ一杯飲みんしゃい」
 麦茶はよく冷えていたけどイナカの味がした。
「さて、何から話したもんかのう」
 坊主頭を腰の手拭いで叩いた。
「父は僧侶の傍ら仏師(一本の木材から仏像を彫り上げる)をしておってのう。木を削りながら仏さんと喋ってるんよ。子供の時はビックリしてなぁ。うちの父ちゃんアタマは大丈夫かなぁ? なんて思ったもんだわ。そんでも先代から住職を引き継いでからしばらくは大人しゅう寺仕事をやっておったよ。葬儀だ、法事だとよくしなさった。けれどいつ頃かなぁ、私が副住になった頃かなぁ、もう葬式仏教は止めじゃと言いなさってなぁ。寺仕事はワシに押っ付けて、これからは弱ったお他人(ヒト)の救けをすると寺にはあまり居んくなってしもうた。とはいってもなぁ、こん街は狭い。檀家はほとんど農家だしなぁ。困った弱ったことなんか、ありゃせんよ。年寄りが膝が腰が痛いぐらいじゃなかろうか。ハハっ」
 老僧はさぞおかしそうに笑った。梨恵は日秀のことは何も知らない。知っているのは、フシダラな行状を完膚なきまでに叩きのめした最初の人物。こっちもハハっだ。 
「ワシの思うた通りよ。はじめは『讃岐新報』に『無料にてよろず相談致しますぅ』なんて広告を出しよったが相手はおらんかったんじゃろう。大阪・京都・神戸それから東京にまて行くようになって。自分の寺に帰るのは盆と正月ぐらいかのう。ほいでもそのうち『先生はおらんかのう。至急お話したいことがあるう』なんて電話がしょっちゅう掛かって来るようになった。あんお人は人の心を覗いたり、先を観んさる。あんたも知っておろう?」
 梨恵は素直に相槌を打った。その力によって自分はここに居る。
「残念だが、ワシにはないんよ。親父殿にもよく言われた。だからお前は寺仕事をやれと。寺仕事も人が喜ぶ大切な仕草。決して怠らんようとおっしゃった。口には出さんかったが自分には違う働き口があると言うことじゃなかろうかいな。そうこうしてコロナ騒ぎがはじまった。こんな田舎街でも観光客が持ちこんで旅館で大騒ぎになった。
 県知事さんが町役場にお出でになって注意するようおっしゃったが、さらに騒ぎなひどくなりもうした。はは、県知事さんのは、アレは脅かしかねぇと近所でも評判になってのう。そんでもみんな怖いもんだから人混みには行かんよう用心しておった。けどお年寄りは病院には行かなきゃいけん。百姓だって葉物以外に肉もお菓子も食いたくなる。となるとスーパーや。みんなおっかなビックリ。ちょっとしたパニックちゅうかいのう。ある日行方も知れないお方がすぅっと玄関先に立っておられた。親父殿だ。すぐに檀家を回るっちゅうてのう。何しに? と聞いたら、こげいな時にこそ坊主が居るんだと叱られましてなぁ。それから檀家廻りがはじまりました。一軒一軒のぞいて困ったことあるかいのぅ? と聞いて廻る…」
 老僧は一度麦茶を口に含んで溜息をついた。
「この境内にも仰山ある。あんたの寺にもあるだろう。ほれ、そこにも」

 梨恵は竹藪の片隅を見つめた。小さな祠か石碑のようなもの。字が書いてあるがもちろん難しくて読めない。
「あれには『疱瘡(ほうそう)地蔵』と書いてあるんよ。あんたのとこと違って田舎の坊主には学がない。学士様は数えるほど。住職といっても中学高校を出て大きな寺に修行に出されただけの恰好だけのもん。ワシもこの石の意味をそれまで知らんかった。平安時代からご一新の頃まで『疱瘡(天然痘)』という病が流行った。この近在でも子供を中心にだいぶ死んだらしいんよ。それで怖いモンは神様にして拝むにかぎるちゅうことらしい。親父殿はどうやら『疱瘡』とコロナを同じものと考えたんじゃな。そん時はこの寺が医療の最前線だったらしい。今は病院だがなるほどそん頃には医者なんぞ珍しいしなぁ。頼りにするところは寺しかなかったんだな。あや、話がどこかに行ってしもうた。そうそう檀家廻りではビックリするほど頼み事が出て来た。マスクがないから始まって病院への送迎、老人ホームの面会、来月の法事のこと、お金のこと。ホントに万相談所になってしもうた。親父殿にこれ全部やるのかと聞いたら当たり前だと叱られた。坊主の仕事は布施をすることだってね」
 老僧はその時の日秀の顔を真似て見せた。日秀に叱られたことのある梨恵にはその迫力が伝わった。
「病ちゅうのはのう…」ここで老僧の声は詰まった。
「病ちゅうのは一番弱いところをつくんよ。この辺りは自然が豊かじゃけん、高齢者目当ての有料介護施設がタケノコのようにあちこち顔を出しちょる。コロナはそこに蔓延したんよ。親父殿は最後までそこにいんしゃった。死に場所はここだと思うとんたかのう。お前は来ないでよい。今後の寺仕事を頼むと言い残して往ってしもうた。聞いた話では死んでいく老人の手をとっていたそうな。まぁあっぱれと思うてくんさい」
 老僧はそう言って、白い紙包みのようなものを梨恵に渡した。
「これは親父殿があんたが来たら渡してくれと預かった手紙じゃけん。中は見ておらんよ」
 梨恵は手紙を受け取り、改めて忘れていた土産を渡し、
「あのう、日秀さんのお墓参りをしたいんです」
「ありがたいがのう」老僧は頭をさすりながら。
「坊主のくせに墓はないんよ。遺灰は多度津の海に捨てよ、が遺言じゃけん。もう捨ててしもうた。まぁなんにせよ、変ったお方よ」
 老僧は苦笑した。梨恵は礼を述べ寺の娘らしく本堂に一礼し寺を後にした。
 手紙は多度津の海で読もうと思った。日秀の遺灰が舞い散った海。スマホのナビをセットした。
 瀬戸内海は静かだった。夕陽が赤いモザイク模様を海面に創っていた。遠くにいくつかの島影がみえる。梨恵は防波堤に腰を下ろした。人影はない。カモメが数羽旋回している。日秀の手紙を開く。

 これを読んでいるということはワシはこの世にいないことになる。人の命などあまり価値はないと思っている。足元の蟻と同じ。幾世代にも亘る命のつながり。その中のほんのひとつ。誰も明日があると思って寝る人はいんじゃろう。ということは明日が無くなっても誰も気づかない。命などそんなもの。ワシは都合よく来世があるなどと思っていない。たださっき言ったような人々の連鎖の中には自分と同じ魂を持つ人間は必ずおると思う。未来の人に思いを託そうと思う。
 ワシは一乗寺さんの参道の石灯篭でゴータから声を掛けられた。ゴータちゅうのはお釈迦さん「ガウタマ・シッダールタ」の愛称じゃよ。生前ワシをはじめみんなもそう呼んでおった。ワシはその石灯篭に隠されていた「ゴータの記名柱」を取り出した。それは〇宗で最大の宝物。でもゴータは宗門より相応しい持ち主に渡ることを望んだ。それはいま寺務経理の菊池裕子さんの元にある。あんたはそれを受け取りに行ってほしい。手にすれば謂わずと知れる…云々。
 あんたは寺の娘。これから話すことに少しは耳を傾けてくれると思う。僧籍を持つ者の一番の仕事は布施をすること。誰にかといえば自分以外の全ての人に。布施とは三つに分かれる。財施、法施、施無畏。財施は献金。法施は仏の言葉を伝える。大事なのは三番目の施無畏。無畏とは『あらゆる厄災から他者を護ると誓う詞』これは難しい。これが出来た唯一の人間がゴータだ。最初に気づいた人ともいえる。今では仏教などと言っているがゴータの本質じゃよ。
 一乗寺さんに是非やっもらいたい。あんたの父上はやがて〇宗法主だ。ならばちょうど良い。残念ながら今の一乗寺さんは財施と法施の一部しかしとらん。あんたには最初に会った時に因果律を教えた。そうあんた自身が「因」によって産まれて来た「果」だ。その「果」はまた「因」を生む。その「因」に意味を与えるのがあんたの役目。あんたは自分のいわれを知った。そして大事な肉親も亡くしてしもうた。(きっと兄のことだ) 今こそ立ち上がってもらいたい。これからさらなる厄災がはびこる。そんな中に正義を行ってもらいたい。一乗寺さんは大きな寺じゃ。やれることはたくさんある。達者でな。また会おう。             児玉日秀拝                         

 梨恵は兄・依織を想う。難しいことは分からないが兄は老僧が云う施しをしていた。見返りを求めない子供たちへの献身。返してもらいたいのは無邪気な笑顔だけだった。そうだ!私は兄の替わりに食堂の子供たちを守らなくちゃいけないんだ。貧困や疾病は待ってはくれない。グズグズしては居られない。急がなくちゃ!
 私はもう涙を流さない。涙は他者への施しと変える。そう老僧に教わった。
「やることをしなければ!」
 梨恵は決意して立ち上がった。

第二十二章
 梨恵の部屋中が一瞬翡翠色に輝いた。それまで忙しそうに振られていたCOOとモモの尻尾がピタッと動きを止める。
 異変は菊池裕子から受け取った白木の箱を開け中身を取り出した時に興った。左手に握られた「如意(棒・仏具)に刻まれた十字」が一瞬翡翠色に瞬いたのだ。閃光はまるで雷のよう。梨恵は衝撃が全身を駆け巡り……感電した。
 

 梨恵は次の日に例の探偵に連絡した。もう何度目になるか。お世話になりっ放し。梨恵の言葉に相手は驚いた。
「え、今度は『教団えにし』の教祖ですか? すいません、今度ばかりはちょっと事情を聞かせて頂けますか?」
 なるほどそうだろう。相手がデカすぎる。いまマスコミを賑わしている新興宗教。場合によってはちっぽけな探偵事務所は吹っ飛んでしまうだろう。梨恵は丁寧に正確に事情を話した。
「分かりましたがおカネはかかりますよ」
 覚悟のうえだ。花村龍円のオンナ関係の調査依頼。一体何人出て来るだろうか? それによって金額が増える。オンナを見つけたとして証言録取(証言を録画する)にはカネがかかるとのこと。探偵は一人あたり両手と云う。おそらくオンナには相応の口留め料が払われているとのこと。だろうな。
 問題は着手金(被害者への報酬)。手元に大金はない。言いあぐねていると、お金は後で良いと云う。一瞬言葉に詰まっていると、あなたは間違いなく大金を手にするからと不思議なことを云う。調べられる限り被害者はあぶり出してみせます。探偵は自信をのぞかせた。
 梨恵は恐縮しきりで別件も相談した。依織を追い詰めた誹謗中傷の件。梨恵は蒼井加奈へのリベンジの方法をよくよく考えた。痣はじきに治る。素顔に戻る。もっと手厳しい方法こそ相応しい。空には悪いが憎っくき相手。ここは冷静に大人の対応だ。(この時には加奈の娘・空を自分で引き取ろうとまで決意した) ワルイものはワルイ。空も大人になればきっと分かってくれると思う。
 探偵は知り合いの弁護士を紹介してくれた。昨今ネットでの誹謗中傷の案件は増大しその悪質化が問題視されている。所謂「やり逃げ」のこと。匿名の犯罪だから立件が難しい。まずは裁判所に誰がやったかを調べる情報開示請求を、許可が下りたらネットを管轄する総務省へ、総務省がプロバイダーに情報開示を命令、その後警察という具合に複雑で時間も費用もかかる。犯罪だから処罰は出来る。けど諦めと正義の気持ちとの根競べになる。弁護士によると今回のケースは名誉棄損、侮辱罪よりも虚偽告訴等罪が適用される可能性が高く量刑は3月以上10年以下の懲役(刑法第172条)。初犯でも執行猶予は付かない (なぜなら被害者は死亡しているから。死因はどうにでも推量出来る) 見込み。梨恵は罪を償ってもらいたい。依織の為に子供たちの為に。
 ひと月後探偵から連絡があった。被害者が十八人見つかったという。これで全員。まぁ見方を替えれば教団員全員が被害者とも言える。けどこの十八人は性被害を受けた著しい犠牲者だと云う。証言録取の映像と資料も送られて来た。沙羅探偵事務所の封筒には白い椿に似た花が一輪描かれていた。
 梨恵は早速、教団本部に電話した。
「わたし白神梨恵といいます。教祖の花村さん居ますか?」
 受付の女子は「被害者の会」かメディアと勘違いした。やや強張った声で電話を保留した。
 次に出て来たのは教団広報と名乗る者だった。
「教祖さま本日は留守ですが」
 ああそこに居るな。梨恵は直感した。
「はい、白神梨恵様ですね。どのよ…」
 途中で電話が切り替わった。花村龍円だった。
「よぉ、梨恵ちゃんじゃない。久しぶり」
 思った通り。
「弟のことで話があるんだけどさぁ。今から行っていい?」
 弟の知正はドキュメンタリー事件以来一乗寺から姿を消している。週刊誌に追われるやら檀家に吊し上げをくらうやで行方不明と相成った。
「はいはいトモちゃんね。寺に居ないの?」
「無責任ね。けしかけといて」
「はは、お待ちしてしております。あれ、場所分かる?」
「有名人のお宅はスマホで分かります」
 梨恵は電話を切り身支度を整えた。

 教団まではタクシーでさほど遠くない。受付に名前を告げると最上階の名前のない部屋に通された。というか最上階には他に部屋がない。ただ広い部屋の中心に大きな机、その前にソファが置かれている。他には何もない。それでも二つある窓からは陽が射し込んでいる。
「ここは仮住まいでね。来年には大本堂が出来上るの」
 花村龍円だ。赤い上下のSUPREAMのスウェット姿。足は白い鼻緒の雪駄。教祖とはほど遠い。ヤクザにしか見えない。この部屋には他には誰も居ないよう。
「お嬢と最後に会ったのは旦那と別れて寺の経理に金を借りに来た時以来だ」
 よく覚えていやがる。
「やっぱりオンナは三十少し過ぎが熟れ頃ですな。おキレイで」
 イヤらしい笑み。
「トモちゃんなら六本木のオンナの処ですよ。でもお金がなくなるとこちらに来ますけどね」
 長居は無用。梨恵は早速本題に。
「弟の件はどうだっていいの。これを机のパソコンに刺して」
 USBを手渡しナニコレと不審そうに眺めている龍円を促した。龍円は面倒くさそうにパソコンを立ち上げUSBを刺した。
「アレアレ」
 龍円は画面に見入っている。音声ボリュームを上げる。オンナたちの悲痛の叫びが聞こえてくる。
「アンタのお気に入りの子たちでしょ」
 龍円は最初の二、三人の被害者の声を聴き終わったあとに薄笑いを浮かべて、
「強請ってるの?」
「まぁそうとも言えるわね」
 龍円の眼付きが変った。
「ひょっとして住職が? 」
「父とは関係ないわよ」
 龍円はまた気味の悪いせせら笑いを浮かべた。
「それでいくら欲しいの?」
「そうねぇ。まずはこの子たちに一千万円ずつかな」
 龍円は椅子に腰かけたまま机に両脚を放り出し証拠のUSBを空中に放り投げた。
「可愛くないねぇ。ちょっとお小遣い替わりに五百万円というならお嬢らしいのになぁ」
 USBはソファーの脇に転がった。龍円は机に立て掛けてある木剣を手にした。
「これ判る。これは木剣。まぁ腕でも出来るけどこの木剣の方がシックリ行くね。これで九字を切る。するとアレ不思議! すべてのことが分かってしまうの。この伎はお嬢の親父さんにも若にも出来ない。なんでオレにだけ出来るのかねぇ」
 部屋隅の姿見鏡に木剣を振り回す姿を写している。木剣のシュッと空気を切る音が伝わる。
「〇宗のお祖師は祈祷術を伝授する。使いこなせる者だけに。だから術を極めた者が僧を束ねる。お嬢だって寺の出身だ。意味は分かるよなぁ。オレはお祖師に選ばれたんだよ。それにもうひとつ言わせて貰えばオレは人助けをしている。悩みごとから解放してやっている。この十八人の何千倍もな」
 龍円の言葉は自信に満ち溢れている。その言葉に完全に酔っている。
 梨恵は床に転がったUSBを拾い上げながら徐に口を開いた。
「じゃあ、木剣でご自慢の術を私にかけてみたら?」
「おっ! いいねぇ。いきなりワンピースを脱ぎだしてお嬢の裸が見られるかもな」
 龍円は雪駄を脱ぎ裸足になると右手に木剣左手は合掌のまま蹲踞の姿勢をとる。そして立ち上がるなり気合もろとも木剣で九字を切り始めた。
 「臨! 兵! 闘! 者! 皆! 陣! 烈!  … ・ … うぅー―」
 木剣は七文字で止まったまま先に進まない。
「アレどうした?なんで次の言葉が出ない?」
 龍円は驚き慌てている。そりゃそうだ。こんなことは過去に一度もなかったことだろう。梨恵は微笑みを浮かべながら立ち上がった。
「お祖師さまにお願いして二文字をあなたから奪った。私が返すまで術は封じられたわ。残念ね」
「おいおい、緑の眼のお前は何者だ! お嬢に化けた悪霊。今までの仕返しに来たのかぁ?」
 龍円は生唾を飲み込み尻を床に付けたまま壁まで後ずさりした。眦は引きつり息遣いも荒い。木剣は床に転がったまま。梨恵はその木剣を拾う時に、姿見鏡で翡翠色に輝く瞳を見た。なるほど。これじゃ魔物に見えるな。
「そうねぇ。悪霊かもね」
 梨恵は木剣を元あった位置に戻し、
「あなたの行為はすべて間違いだとは言わない。確かに助けられた人も多い。コロナ退散祈祷会は疫病に立ち向かう僧侶の姿勢もみせてくれた。でもひとりでも犠牲者を出してはどんな善行も台ナシだわ。あなたに足りないのは仏の心(仏性)よ。よくよく考えてみてね。じゃ、また」
 梨恵は部屋を後にした。

終 章
 白神英海は〇宗の第五十五代法主となった。時期を同じくして「埼玉翔んでったテレビ」の「教団えにし」に関するドキュメンタリー「コロナ危機に立ち向かう者たち」が放送された。英海は番組内で局側のインタビューに応じている息子の知正に尋ねた。知正は花村龍円との兄弟弟子の関係からどうしても断れなかったこと。また報道は真実と違い巧みに編集され教団側に沿った捏造だと訴えた。さもあらん。花村龍円という男、名を挙げる為なら何でもする。このドキュメンタリーも花村が仕掛けたものだろう。息子と花村の関係も知っていた。息子には知らないフリだが「大寒行」の折に花村から大枚の「切紙」を買ったこと。そのことで強請られていることも。
 喫緊の課題は〇宗と新興教団「えにし」との関係を明確にすること。英海は大手新聞とホームページに以下の文章を掲載した。

 〇宗は祖師が説法を始めてからおよそ八百年の間国民に寄り添った日本仏教の宗派のひとつであります。仏教とは釈迦の教えをさします。世界の在り方とあらゆるものは因果の法則によって起こり輪廻転生を繰り返します。これは万物共生とも言い換えられます。新型コロナウィルスも起こるべくして起こりまた消えるべくして消え去るものであります。人間は生き物を殺して食す為に存在している訳ではないのと同様にコロナウィルスも人間を殺す為に存在する訳ではありません。人間もウィルスも自然界の一部であり幾星霜繰り返し共生してまいりました。大宇宙の理のひとつであるのです。
 僧侶とは元来衆生(皆様方)に布施を施す者であります。コロナ禍にあっては畏れず国民に寄り添い不安を取り去るのが仕事であります。コロナウィルスの治療薬、ワクチンを作るのは現代にあっては医術であり、僧侶がその任を担えるものではありません。
 確かに〇宗には「加持祈祷術」を得んが為の修行法はございます。しかしこれは仏法の修行のひとつ。「加持祈祷術」は仏法最大の奥義・解脱大覚(悟り)への到達方法のひとつに他なりません。決して世間で言われているような下世話な呪術、魔術のようなものではございません。
 最後に〇宗と「教団えにし」とは全く無縁でございます。この教団の幹部は確かにかつて〇宗の僧侶でありました。ご存じの通り日本仏教界は過去にたくさんの新興宗教団を生み出してまいりました。この教団もその一部とお考えください。  
 これからも〇宗は全国寺院の僧侶を通じて常に国民に寄り添い仏法を説く日本仏教々団で在り続けてまいる所存です。                         九拝合掌 

 法主の表敬告白文(表白文)である。これで事態は沈静化した。宗派によって誤差はあるが日本仏教は千年以上の歴史を持つ。幾年月は重い。一秒は誰にも等しく一秒だが千年ともなると比べるものがない。ちょっとした傷では揺るがない。英海はその経験からまた歴史からそのことを知っていた。
 法主に就任し一連の行事を経ったある日英海は一乗寺に出掛けた。あの番組以降一乗寺は混乱中。檀家総代は責任をとって辞任。寺は会社と同じ組織。社長は住職ではあるが、檀家総代は会長職。千を超える檀家も五里霧中。コロナ期における葬祭供養の在り方それに「教団えにし」との関係も宙ぶらりん。たしかに教団の頭首はつい最近まで一乗寺の僧侶だった。やれやれ、収拾せぬばならない。
 暑い昼下がり英海はひとり寺務所に来訪は告げず裏山の墓地に向った。この辺りは白い萩の花が秋口に可憐な彩をみせる。
「お父さん」
 英海は驚いて振り向いた。梨恵がそこに立っていた。
「おやおや」
 梨恵は黒のワンピで黒髪をポニテに結んでいた。こんな質素な身なりの娘をかつて見たことがない。
「ああいやだ。こんな姿の娘にビックリ! って顔してるわよ」
 ズバリ言い当てられた。
「ハハ、よく分かるね。でもどうしてここに?」
「お母さんに聞いたのよ」
 英海が訝しんでいると、
「米津幸さんよ」
 梨恵の口元には笑みが。若き看護師米津幸のほほ笑みそのまま。いつの間にか母親に似て来た。
「そうか。逢ったのか。それは知らなかったな」
 英海は坊主頭の汗を腰の手拭いで拭いた。
「お前の兄さんの墓に行くところだ。お前も行くか?」
「もちろんそのつもりで来たのよ」
 梨恵は英海の前でくるりと一周して喪服姿を見せた。ふたりは裏山の石段を並んで登りはじめた。
「お父さん、法主になったんだってね。法主って〇宗のトップってことてしょう。おめでとう。凄いわ」
 梨恵は随分変わったと英海は思う。殻を脱ぎ捨てた。梨恵の殻とは在るべき処から遠ざけられた為に生じた無意識の閉塞感。幸の処で育てば兄と共に素直な人間になっていたろう。はてはて随分と遠回りしたことだ。
「お前のくちから褒め詞が出るとはな」
「私、変ったの。年老いたお坊さんに逢って、本当のお母さんに逢って、お兄さんに逢って」
 梨恵はたった半年の出来事だったのに果てしない時の流れに身を委ねている。私は父と米津幸との間の「果」だ。老僧はそう言いたかったのだ。私は「良果」として新たな「因」を作らねばならない。兄の替わりに。この一乗寺を最大限に利用して。
「年老いたお坊さんとは児玉日秀老師のことだね」
 梨恵は頷いた。父も気づいていたのか。やがて二人は広大に続く墓地の新区画についた。この緑豊かな丘の向こうは狭山湖。湖から風が吹いてくる。
「実はわたしお父さんに頼みがあるの」
「依織さんの子供食堂、いま立ち退きを要求されてるの。市役所が老人介護施設を建てるからって。それに依織さんコンビニの従業員だった女の子から嫌がらせを受けて…」
 まだ殴った右手の甲が疼く。まるで世界戦を闘ったボクサーの様。
「まさかあの公民館だったとはな。それは知らなかった。そうか立ち退きの件はすぐに解決する。しかしもうひとつの件は心配は要らなそうだが」
 英海が指さした墓石の周りは花束だらけになっていた。ひと際異様を放つ空間と化していた。
「この花束は毎日相当数のお供えだ。みな識ってるよ。正義は偽りようがない」
 ホントだ。花束に埋め尽くされた黒御影の墓石には「希望」の文字が白く彫られている。
「もうひとつ頼みが」
「こっちが本筋だね」
 英海は溜息をついた。横顔に梨恵は老いた父を感じた。
「お父さん、これを見てください」
 梨恵は持ってきた白木の箱を差し出した。英海は中身を確認しすべてを理解した。箱の中身に一礼し厳かに蓋を閉じた。
「私ね、依織さんの意思を継ぐ財団を造りたいの」
 梨恵は依織の墓石を見つめた。
 コロナで亡くなった兄の遺志を継ぐ財団を造る。この発想が梨恵にあった訳ではない。依織の死後、幸や木本さんやKIBOOのメンバーと何回も話し合いを重ねる中で「財団」の発想が出来上がった。誰もが依織の意思を何とか形にしたかった。言葉だけではいずれ聞こえなくなる。「財団」作りの手数料は幸がコンビニのフランチャイズ契約の解除金を充てるといってくれた。だけど莫大な原資(大元のお金)はどうする。原資を使って人助けをする。だからみんなが諦めかけた時、梨恵はお金の調達を引き受けた。
「何をする財団かな?」
「子供食堂、保護犬・猫活動がメイン。まずは県内から充実させるつもりよ。幸さんが代表になるの。いい発想でしょ。幸さん実は市立病院では働けない状況になってるの。病院閉鎖の犯人捜しの当事者になってる」
 英海はじっと考えている。たぶん幸も承知のうえだと理解しただろう。梨恵は俯いていて考え込んでいる父親の左手にそっと「切紙」を滑り込ませた。そこには決意の言葉が刻まれている。
「ああ、しかし道のりは険しいぞ。まだ若い女の人生を棒に振ることになる」
 英海は心のどこかで感じていた。驚きはなかった。ただ娘の身を案じた。
「もちろん。私もう結婚はしないし。他にすることもないしね」
 梨恵は顔をしかめて見せた。結婚はコリゴリ。オトコも要らない。実感。梨恵はただ兄に替わって正義を貫こうと決意していた。もちろんドロドロの過去は消せやしない。その替わりに俗世での所謂「オンナの幸せ」を捨てる覚悟。
「あ、そうそう、子供食堂には高等教育のための育英資金も作るの。これも依織さんのユメだった。『貧困と教育支援』これはいつでもワンセットだと云ってたわ」
 子供食堂に通ってた子が大学に進学したと報告に来てくれたことを本当に嬉しそうに喋っていた。まさにやりたかったことなんだ。
「そして最後に花村龍円に傷つけられた十八人の女性たちを救う。彼はもう何も出来ない。教団はいずれバラバラになるわ」
「なるほどな。十字の転生か」
 三十年前木枯らしの夜、寺に連れて来た乳飲み子には十字の痣があった。いまこうして翡翠色に変じた瞳を見て英海は唸った。
「すべて八老僧の仰せの通りになった。これは『都市伝説』の類だとばかり思っていたが。 
 約定通り一千貫は振り込もう」
「それからトモマサはいま『教団えにし』に居るそうよ。六本木のクラブの女の子に子供が出来たそう」
「なるほど。逃げた訳か」
 英海は大きくため息をついた。
「そうか。万事分かった」
 二人は一乗寺が見渡せる丘に並び立つ。

エピローグ
 一乗寺の「晋山式」が始まった。鐘楼堂から祝いの鐘が鳴り響く。山門、本堂には五色旗が建つ。焚かれた拈香(ねんこう)が境内に香る。本堂前には〇宗のお歴々、結縁の住職、他宗からの使者の僧侶が並び、その背後には数多くの檀家衆が立ち並ぶ。(ソーシャルディスタンスをとって)

 秋天一碧
 

 新命は濃紺の真新しい袈裟にピンクの「修多羅(しゅたら・袈裟の上の羽織もの)」真っ白な「尼頭巾」姿。その登壇に檀家衆がざわめく。COOとモモが木本さんの腕の中で梨恵の姿を追う。
 ご本尊に新命(新住職)が誓いの詞を述べる。(父〇宗法主に「奏上」した「切紙」に刻まれた詞)

 我は第二十七代住職・白神梨恵である 
 我は「施無畏」を以って衆生と共に生きん

 その声は狭山湖からの清風に乗って狭山丘陵にも響き渡る。梨恵の左手の如意に刻まれた十字が(翡翠色/Ambapali)に瞬いた。その輝きを境内の大銀杏の蔭から一人の女性が愛おし気に見つめた。女性(Uppalavanna)の髪にはシャラ(沙羅双樹)の白い花が一輪。     
                                                                                                                第一部 おしまい
(この物語はフィクションです。登場する人名・組織名・地名にモデルはありません)
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