第1話

文字数 2,000文字

「やった! 大哉、おめでとう」
 念願のプロ初勝利。
 テレビの中に、涙ぐみながらも笑顔を見せる大哉がいる。
 そんな大哉の笑顔を見ていたら、私まで胸がいっぱいになってきた。
 目を閉じると、胸の前でぎゅっと両手を握り込んだ。

「あった」
 押し入れの一番奥から段ボール箱を引っ張り出すと、中から黄ばんだ大きな布を取り出し、広げてみる。
『がんばれ!』と大きな文字で書かれた横断幕。
 本当は、大哉が出発するずっと前に完成していたのに、未完成だからと、私は大哉の見送りに行かなかった。
「実は、野球の強豪校に誘われててさ。どうしてもそこで甲子園を目指したいんだ」
 大哉が思い詰めた表情で私にそう言ったのは、今から八年前の、まだ夏の余韻の残る暑い時期だった。
「すごいじゃん。よかったね。だって、ずっと甲子園に出るのが夢だったんだもんね」
「ああ」
 はにかんだ笑みを見せる大哉。
 中学三年間、ずっと野球に夢中で、私のことなんかほとんど見てくれなかったけれど、あのときは久しぶりに私の目の前で笑ってくれたっけ。
 中学卒業と同時に大哉が地元を離れてから、私は大哉に一度も会っていない。もちろん連絡すら取っていない。
 あのとき、もし私が見送りに行っていたら、今の私たちの関係は違ったのかな、と時々考えてしまう。
 だって、テレビの中の大哉は、あまりにも遠すぎるから。
 最近、奇妙な噂を耳にした。
『心残りのある、あの日あの場所へとつながるトンネル』が存在するのだという。
 そのトンネルは、もう一度やり直したい、あの日あの場所へと通じているらしい。
 そんな眉唾物の噂、いつもなら聞き流して終わりなのに、藁にもすがる思いで、私はそのトンネルがあるという噂の場所へと向かった。

 ……違う。あの日じゃない。
 噂のトンネルを抜けた先にあったのは、土砂降りの雨。
 あの日は、大哉の旅立ちを祝うかのような、快晴の空だったはずだ。
「——明里、まだこんなところにいたのかよ」
 背後から聞こえた低い声に、ドキリと心臓が鳴る。
 気づけばそこは、中学の昇降口だった。
 振り返ると、野球部の練習着姿の男子が、ぞろぞろ昇降口へとやってきているところだった。
 校舎内でトレーニングをしていたのか、練習着に泥はついていないものの、みんな汗だくになっている。
「なんだ。やっぱおまえら、付き合ってたのかよ」
 囃し立てるような声が聞こえ、
『は? こんなゴリラ、好きなわけないでしょ⁉』
と、当時の決まり文句を反射的に返そうとして、間一髪思いとどまった。
 そうだ。このあと、一人で怒りながら家に帰ったんだっけ。
 そして、傘を持っていなかった大哉は、ずぶ濡れになって帰り、そのまま三日間寝込んでしまったのだ——最後の大会に出られないまま。
 あのあと、私のせいだと、どれだけ悔やんだことか。
「付き合ってない! けど……私のに入ってけば?」
 鞄から折り畳み傘を取り出して大哉に見せると、大哉は一瞬意外そうな表情をしたあと、私の大好きな目尻の下がった笑みを浮かべた。
「さんきゅー、明里」

「なんなの、アイツら。『やっぱ付き合ってんじゃん』って。ああいうの、ほんっとウザい」
 二人で小さな折り畳み傘に入るのを見て、当然のように冷やかされ。二人で歩きながらも、どうしても不満を口にしてしまう。
 本当は、こんなことが言いたいわけじゃないのに。
「まあ、俺は付き合いたいってずっと思ってたけどな」
「はあ⁉ だ、誰と?」
「あのなあ。明里しかいないだろ、この状況で」
 呆れ顔で私のことを見下ろす大哉と、しっかりと目が合った。
 当時の私なら、きっと軽く流して終わりだった。だけど……。
「別に、いいけど?」
 目を逸らしながらもなんとかそう返すと、大哉がハッと息を呑む。
「だったら、最後の大会、明里のために全部勝つ」
「なに言ってんの。チームのためでしょ?」
 無茶苦茶なことを言う大哉に、くすりと笑う。
 こんな未来があったのなら。もっと早く素直になればよかった。
 今さらこんなことをしたって、過去が変えられるわけでもないのに。
 だったら、私にできるのは——。
「私、向こうに戻ったら、ちゃんと大哉に好きって言いに行くから。だから、待ってて」
「やだ」
「なんで? なんでそんなこと言うの?」
 大哉に強く拒絶され、じわりと目尻に涙が滲む。
「待たない。今聞きたい」
「だ、だから、それじゃ本物の大哉に伝わらないから」
「ずっと後悔してた。ちゃんと明里に言わずに、地元を離れたこと。やっと言えたんだから。なかったことにはしたくない」
 ひょっとして、大哉もあのトンネルに……?
 そっと大哉を見上げると、大哉も私のことをじっと見つめていた。
「ずっとずっと大好きだったよ、大哉のこと」
「うん。俺も」
「一緒に戻ろ。『今』へ」
 固く手をつなぐと、あの日あの場所へと通じるトンネルをもう一度目指して歩きはじめた。
 今度は、二人で。

(了)
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