第1話

文字数 5,000文字

 閑静な住宅街に犬の遠吠えが響く。
 背中に、今出たばかりのコンビニの明かりを感じながらスマホで時間を確認するとニ十二時を回っていた。あと二時間もしないうちに、除夜の鐘が鳴る。
 僕は逡巡した後、駿に電話をかけた。七回目のコールで繋がった。それがどうも不自然な回数に思えた。
「今外に出てんだけど何時頃来る?」
 と僕が言うと、え、と間の抜けた声がスマホ越しのどこか遠い世界から聞こえた。
「どうせなら駅で待ってようかなと思って」
「行っていいの?」
「だってそういう約束だったじゃん」
 じゃあ行くわと駿は言った。電話を終えるとまた犬の遠吠えがした。除夜の鐘よりもこっちの方がいいかもしれないとふと思った。
 最寄り駅で十五分程待っていると、駿が「おう」と金髪の頭を掻きながら現れた。僕達は、僕のアパートへ向かうために並んで歩き出した。
 微かに雪が降り、空気は全てを新品に入れ替えたかのように澄んでいる。どこの家にも灯りはついていて、町をあげて年を終える準備をしているように感じられる。と同時に、これは普通の日常と何ら変わりはないのだとも思う。ただ、僕がそう意識しているからそう見えるのだ。でもそれが「特別」というものなのかもしれない。
「前に来た時も思ったけど、犬がうるせえな」
 駿が苦笑交じりに口を開いた。視界の端で白い息が吐きだされるのが見えた。表情を見たわけではないけれど、作った笑いだとわかった。「この辺は犬が多いからね」と僕は答えた。
 それで会話は途切れた、と思った時「……お前本当にいいのかよ」と駿が言った。
「何が」
「だから、何で会ってくれんのかってこと」
「だって去年もそうだったし約束してたからね」
「状況が変わっただろうが」
 僕が何を言おうか迷っていると、犬の鳴き声が聞こえてきて僕達は一緒に肩を震わせた。歩道沿いに建った一軒家のむき出しの入り口から、リードに繋がれた雑種がこちらに向かって吠えている。リードはギターの弦のようにピンと張っている。
「うるっせえな、こいつ」
 駿がその犬に近づいて殴るふりをする。もちろん本当に殴ったりはしない。見た目は派手でやんちゃだけど、弱い者いじめはしないことはよく知っている。
「いいこと思いついたぞ」と駿が唐突に言って振り返った。その時、今日初めてしっかり目が合った。「今夜、この町の犬を全部放そう」
「はあ?」
 僕は半笑いで歩き出す。その腕を引っ張られるので立ち止まった。慌てて手を離した駿が取り繕うように「俺、まじでやるぜ」と意気込んだ。
「何も今年最後の日にそんな大それたことしなくても」と僕が言うと、
「違うね。大事なのはそこじゃない。来年最初ということだ」と笑った。
「来年最初?」
「だってよ、新年の始まりの日に町が脱走した犬で溢れるって凄いだろ?」
 僕はその光景を思わず想像してしまう。町中に首輪がついている犬が闊歩している風景を。小さな横断歩道でも何十匹の犬が一斉に渡ったら渋谷のスクランブル交差点みたいに犬の大渋滞が起きるかもしれない。
 確かに面白い。漫画チックだ。でも漫画チックということは馬鹿くさいということに他ならない。
「な?凄いだろ?」
「はあ……」
「よっしゃ決まり」
 嫌な予感がした。「いや、決まってない。何が決まったかはわからないけど、多分決まってない」
「お前も一緒にやるんだよ」
 僕は鼻から息をすう―と吐いた。余談だけど僕はあからさまな溜息が嫌いだ。だからそういう必要がある時は、こうやって鼻から息を出すようにしている。
「変人の発想にはついていけないね。まあ、止めはしないから終わったら家来いよ。年越しそばでも作って待ってるから」
 僕が歩きだしても今度は腕を掴まれたりしなかった。おい、と何度か呼びかけられただけだった。
 変わってるのはお前だよ、と駿が呟いたように聞こえたけれど、それは気のせいだったのかもしれない。
 アパートに戻って僕は年越しそばを作り始めた。その最中、何度か犬の遠吠えが聞こえてきたけれど、それはいつものことだし、だから僕はそんなことは大して気にせずに沸騰した湯に麺を入れた。立ち上る湯気を見ていると、あの時もこうして湯を沸かしてコーヒーを駿に出したんだったと思いだす。
 大学一年の時に知り合った僕達は、普段は違うグループに属していながらたまに二人で遊ぶような仲だった。元々、僕らは全く接点がなかった。黒髪の友達しかいなかった僕が、色鉛筆みたいな集団の金色担当の駿となぜ仲良くなったのかというと、偶然同じ講義を取っていたのをきっかけに彼の方から僕に寄ってきたのだった。それから不思議な距離感での付き合いが始まった。そういう集団に偏見があったわけではないけど、駿には全く嫌悪感は感じなかったし、根は良い奴というのはすぐにわかったから一緒に居るのは楽しかった。思えば、出会ってから一年半程が経つけど、僕は駿から遊びのほとんどを教えてもらった。去年の年末、お互いに実家に帰らなかった僕達は、僕の部屋で朝まで酒を飲んで過ごした。僕達はそんな仲だった。    
 だけどつい先日、僕達はそんな仲ではなかったのかもしれないという出来事があった。いつものようにアパートに遊びに来た駿にコーヒーを出したけど彼は口をつけなかった。「あのさ」と言ったきり彼は顔を赤くして煮え切らない態度をとり、何かを凄く言いにくそうにしていた。それはまるで、読点ばかりの文章のような口調だった。
 僕は察した。僕がいくらせかしても核心を言おうとしない彼の様子を見て何となくわかってしまったのだ。
「俺さあ、男が好きなんだよね」
 やがて駿が言った。
「だからさ、その……わかるでしょ」
 そこで、何故これだけ住む世界が違う駿が僕とやけに仲良くしていたのか妙に納得した。そして、僕はそんな気はないとしっかり断った。
 彼自身を否定したつもりは絶対にない。だけど、やはり心の整理というものは必要だった。また今年も年末を過ごそうと約束をしていたのが少し裏切られた気がしたのは事実で、だからこそ今日まで何となく連絡を取ることを避けていたのだ。
 電話が鳴ったのはそばを啜っている時だった。もう、二十三時半だった。
「おい。今五匹目。次はお前のアパートの裏のでっかいの行くからな」
 僕が「まじかよ」と言い切る前に電話は切れた。子供みたいに高揚した声だった。どうやら本当にやっているらしい。何度か警察にお世話になったこともあるという駿だから犬を逃がすなんてことくらいなんともないのかもしれない。
 僕は苦笑しながらふと、さっきの会話を反芻する。うちの裏?
 まずいのではないか、と僕は思った。あそこの犬はとにかく甘やかされて育っている。つまりひどく行儀の悪い犬なのだ。誰彼構わずすぐ吠えるし、近づいた人間に噛みついて近所で問題になったこともある。
 僕は、鼻から息を吐き出すと食べかけのそばを残して外へ出た。
 アパートの裏に回ると、ちょうどその家の庭へ入ろうとしている駿がいた。その姿は泥棒そのものだ。叫んで声をかけたがったが、駿はもう塀の中に入って行ってしまった。ここでごちゃごちゃしようものなら家の人に気づかれて僕まで泥棒扱いされる。全く、一年でも一番人が起きているこの日に何でこんなことをやるんだという駿への愚痴と、暢気に紅白なんか見てるんじゃないよという飼い主への理不尽な八つ当たりを心の中で呟きながら、忍び足で駿を脅かさないように静かに近づいた。
 僕が塀から顔を出したその直後だった。重戦車のような鳴き声をあげながら飛びかかってきた大型犬に驚いた駿が転んで僕の足元に尻餅をつき、僕を見てまた驚いた。犬と僕を何度も交互に忙しく見て、「お前、何やってんだよ」とアホみたいなことも言った。その間も犬は最大限の声を振り絞って僕達にとびかかろうとしている。リードがギシギシと音を立てた。
 どうして遠吠えはあんなに風情があるのに近づいた瞬間にこんなに下品になるのだろう。歯茎はむき出しで涎まで垂らしている。さっき夜風に交じって聞こえてきたお前の遠吠えに耳を傾けて感傷に浸っていた僕の感情を返してくれ。 
 そんな風に大型犬を冷静に見ていた僕だったけど、吠えている犬を不審がった飼い主が外に来る気配を感じて、「まずい、人が来る」と駿を促し僕達はその家の敷地内から出た。
 目の前にアパートはあるのに僕は家には帰らなかった。何となく、家とは全く逆の方向に歩き出した。駿も後ろからついてきた。
「あの犬は狂暴なことで有名なんだよ」と僕は言った。
「めっちゃびびったあ。すげえでかかったし」と横に来て駿は笑った。「でもさ、まじで四匹逃がしたからな」とトンボの羽をもいだことを自慢する子供みたいな顔をした。
「馬鹿じゃねえの」
 僕は呆れながらも、先程の想像がただの妄想ではなく現実となっていることに不思議と高揚していた。犬たちがこの町をうろうろしてはちあったりしていると考えて思わず楽しい気持ちになった。きっと、逃がされた犬たちよ一斉に鳴いてみろなんて、駿と出会う以前の僕だったら思わないだろう。
 ふと空を見上げると、新品の絵の具で塗りたくったような完璧な夜空が僕らの頭上に広がっていた。
「なあ」と駿が言う。
「ん?」
「お前って、こういうの理解する?」
 僕達の間には少しの沈黙がおりた。それ以上駿は言葉を付け足す気はないようだった。
「全然理解できない」と僕は言った。そして、「犬を逃がすなんて普通じゃない」と鼻で笑った。
 空気は澄んでいて、そのせいか自分の声がよくとおる気がした。「そっか」と駿が小さく笑った。
「年の変わり目にこんなことしてるの世界で駿だけだぞ」
「でもさでもさ、お前もやってみろよ。結構面白いぞ」
「いいよ。俺は」
「まあいいからさ」
 そう言って、駿は僕を強引に引っ張るとズンズンと歩き出した。行先が決まっているような歩き方だった。僕は何故かそれに素直についていった。
「ほら、こいつ」
 五分程歩いて着いた所は、たまに僕も通りかかる平屋の一軒家で、そこには玄関の柱に繋がれた小さな柴犬がいた。確かここは老人が一人で住んでいてその散歩の仕方が乱暴だと近所でしばしば話題になっていたはずだ。
「こいつのことがさ、お前んち来るたびに気になってたんだよな」
 柴犬は僕らを見て情けなさそうな顔でくうん、とないた。そこで、はっ、とある考えが浮かんだ。僕は駿を見た。「ん?」と駿が眉毛を吊り上げる。
 もしかしたら。駿はこういう犬を狙って逃がしていたのかもしれない。あまり幸せとは言えない犬を開放するためにこんなことをしていたのではないか。
「ほら」
 駿が暢気そうな顔をして顎で僕を促す。渋る僕の背中を押す。僕は自然と柴犬の目の前にしゃがんで頭を撫でた。柴犬は大人しく手さえ舐めてくれた。番犬にはどうやら向いていないらしい。
 その時だった。遠くで鐘の音が聞こえた。除夜の鐘だ。僕と駿はどこか遠くを見上げた。同じ場所から鳴っているはずなのに二人の視線はばらばらだった。
「年、変わったな」と駿が後ろで小さく言った。うん、と僕は返事をした。
 僕は、この何かが終わって何かが始まる雰囲気が嫌いではない。多分、誰もが――もう死にたいと思っている人でも、イベントごとに興味がない人でも、受験生でも「あ、今年が終わって新しい年になった」それくらいは必ず意識する。そこに大きな意味なんかはなくても必ず意識する。
 そして正月を、新年を迎えるのだ。
 柴犬を撫でながら僕は言った。「堂々としてればいいんじゃないの。堂々と」
 僕は決して後ろを振り向いたりせず、ずっと柴犬の情けない顔を見ていたから駿がどんな顔をしていたのかはわからない。でも、「……そうかな」とだけ声がした。
「うん」と僕は言った。
 僕は、柴犬の首輪に手をかけた。
 犬がどこかで遠吠えをした。それは駿が逃がした犬かもしれないし、そうではないのかもしれない。柴犬がその鳴き声に耳をぴくっと反応させた。
「除夜の鐘より、犬の遠吠えだな」
 と、駿が呟いた。僕は頷いて笑った。
「早く帰ろう。麺が伸びまくってる」
 
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