返事をちょうだい
文字数 1,951文字
脇道から現れた小さな犬が、目の前を横切って道路を渡って行く。向こうから近づいて来るトラックが見えたので少しヒヤッとしたけれど、犬は無事に渡り切った。胸を撫で下ろした次の瞬間、その後を追って女の子が道路に飛び出した。
——危ない!
隣を歩いていたはずの希夢 くんが、いつの間にか前にいて、女の子の腕を掴むとわたしの方に放り投げるように引き戻した。その弾みで、女の子と入れ替わる形で、彼の身体が道路に飛び出した。
わたしは女の子の身体を何とか受け止めて尻もちをつく。
鼓膜を突き抜けるブレーキ音と衝突音。
思わず瞑っていた目を開いたとき、目の前にはトラックも彼の姿もない。
トラックは随分先で、斜めに道路を塞いで停まっていた。
「交通事故です。救急車をお願いします。場所は、」
誰かが救急車を呼んでいる。
誰か轢かれたのかも。
希夢くん、女の子は大丈夫。わたしがちゃんと受け止めた。でも、誰か、別の誰かが轢かれちゃったかも。
希夢くん、どこ?
腕の中で固まってた女の子が、感情を取り戻して泣き始めた。小学校低学年くらいかな。
「大丈夫だよ。怖かったね」
女の子を立たせ、汚れたスカートの裾を払ってあげる。膝に薄っすらと血が滲んでいた。
「ちょっと擦り剥いちゃったか。でも、これくらいなら、大丈夫。すぐに治るよ」
お母さんらしき人が駆けて来て、わたしから奪い取るようにして女の子を抱き締めた。
どうやら女の子の名前は、みさきちゃんというらしい。
よかったね。お母さん、来てくれて。
立ち上がって周囲を見渡す。
希夢くん、どこ行ったんだろ。
お手柄だよ。希夢くんのおかげで、みさきちゃんは擦り傷だけで済んだんだから。
トラックの方へ歩いてみる。
アスファルトには焦げたようなタイヤの痕が、まるで焼印のように残っている。
運転手さんは無事みたい。よかったね。
トラックよりもまだ随分と遠くの方に、人だかりがあった。でも、すごく離れてるから、関係はなさそう。ざっと見る限り、人だかりの中にも希夢くんらしき姿は見えないし。
振り返ると、みさきちゃん親子のところにはさっきの犬が戻って来ていた。
でも、やっぱり希夢くんはいない。
そうだ。
スマホを取り出して、LINEを開く。
昨日、交換したばかりの連絡先。彼を好きになったのは、もう六年も前のことなのに。
中学一年の春。クラスの自己紹介で彼のことが気になったのは、わたしと名前が似てたから。たったそれだけのきっかけなのに、彼を目で追うようになっていた。
彼は友達もすぐに増えて、いつも大勢の輪の中で笑ってた。テニスが上手だと聞いた。
ゴーデンウィークが近づいた頃、廊下を歩いてたら、保健室から飛び出して来た彼とぶつかりそうになった。この六年間で彼と最も接近した瞬間。未だにその記録は更新できていない。
部活で手首を痛めた彼は、顧問に指示されて保健室に来たらしい。でも保健の先生が不在だったので、部活に戻ろうとしていたところだった。
——だめだよ。最初が肝心なんだから。湿布くらいならしてあげる。
まだ明確な恋心が確立されていなかったことが幸いして、わたしは彼と普通に会話ができた。包帯をぐるぐる巻きにし過ぎた左手首はどう見ても不格好で、彼も何か言いたそうな目をしていたけれど、実際には何も言ってこなかったから良しとした。
でも、保健室での数分間。その間に確固たるものとなってしまった彼への思い。そのせいで、それ以降、彼の前では喋れなくなった。同じ高校に進学したのに、同じクラスになったのはあれっきり。ただただ視界の片隅で彼を探し続けた六年間だった。
ところが昨日。東京の大学に進学して、本当ならもうこの町にはいないはずの彼とばったり出会った。思いがけず告白をされて、今日のお散歩デートの約束をした。その帰り道。
彼はいなくなった。
どこを探しても彼の姿は見つからない。
昨日、彼と奇跡の再会を果たした商店街の本屋さんにも。告白してくれた場所で、今日の散歩コースでもあった公園にも。
公園の近くにある中学校は、彼と初めて出会った場所。誰もいないグラウンド。彼が駆け回っていたテニスコートにも、人の姿はない。人気のない校舎。保健室には鍵がかかっていた。
公園に戻った。
LINEは既読にならない。電話を架けても出てくれない。名前を呼んでも、返事はない。
またLINEを送った。電話を架けた。名前を呼んだ。
返事はない。
繰り返そう。きっとそのうち返事が来るはず。
画面の滲むLINEを送って、電話を架けて、涙声でも名前を呼んで。
何度でも繰り返そう。
LINEを送って、電話を架けて、名前を呼んで……。
返事が来るまで、繰り返すんだ。
希夢くん、お願いだから、返事をちょうだい——
——危ない!
隣を歩いていたはずの
わたしは女の子の身体を何とか受け止めて尻もちをつく。
鼓膜を突き抜けるブレーキ音と衝突音。
思わず瞑っていた目を開いたとき、目の前にはトラックも彼の姿もない。
トラックは随分先で、斜めに道路を塞いで停まっていた。
「交通事故です。救急車をお願いします。場所は、」
誰かが救急車を呼んでいる。
誰か轢かれたのかも。
希夢くん、女の子は大丈夫。わたしがちゃんと受け止めた。でも、誰か、別の誰かが轢かれちゃったかも。
希夢くん、どこ?
腕の中で固まってた女の子が、感情を取り戻して泣き始めた。小学校低学年くらいかな。
「大丈夫だよ。怖かったね」
女の子を立たせ、汚れたスカートの裾を払ってあげる。膝に薄っすらと血が滲んでいた。
「ちょっと擦り剥いちゃったか。でも、これくらいなら、大丈夫。すぐに治るよ」
お母さんらしき人が駆けて来て、わたしから奪い取るようにして女の子を抱き締めた。
どうやら女の子の名前は、みさきちゃんというらしい。
よかったね。お母さん、来てくれて。
立ち上がって周囲を見渡す。
希夢くん、どこ行ったんだろ。
お手柄だよ。希夢くんのおかげで、みさきちゃんは擦り傷だけで済んだんだから。
トラックの方へ歩いてみる。
アスファルトには焦げたようなタイヤの痕が、まるで焼印のように残っている。
運転手さんは無事みたい。よかったね。
トラックよりもまだ随分と遠くの方に、人だかりがあった。でも、すごく離れてるから、関係はなさそう。ざっと見る限り、人だかりの中にも希夢くんらしき姿は見えないし。
振り返ると、みさきちゃん親子のところにはさっきの犬が戻って来ていた。
でも、やっぱり希夢くんはいない。
そうだ。
スマホを取り出して、LINEを開く。
昨日、交換したばかりの連絡先。彼を好きになったのは、もう六年も前のことなのに。
中学一年の春。クラスの自己紹介で彼のことが気になったのは、わたしと名前が似てたから。たったそれだけのきっかけなのに、彼を目で追うようになっていた。
彼は友達もすぐに増えて、いつも大勢の輪の中で笑ってた。テニスが上手だと聞いた。
ゴーデンウィークが近づいた頃、廊下を歩いてたら、保健室から飛び出して来た彼とぶつかりそうになった。この六年間で彼と最も接近した瞬間。未だにその記録は更新できていない。
部活で手首を痛めた彼は、顧問に指示されて保健室に来たらしい。でも保健の先生が不在だったので、部活に戻ろうとしていたところだった。
——だめだよ。最初が肝心なんだから。湿布くらいならしてあげる。
まだ明確な恋心が確立されていなかったことが幸いして、わたしは彼と普通に会話ができた。包帯をぐるぐる巻きにし過ぎた左手首はどう見ても不格好で、彼も何か言いたそうな目をしていたけれど、実際には何も言ってこなかったから良しとした。
でも、保健室での数分間。その間に確固たるものとなってしまった彼への思い。そのせいで、それ以降、彼の前では喋れなくなった。同じ高校に進学したのに、同じクラスになったのはあれっきり。ただただ視界の片隅で彼を探し続けた六年間だった。
ところが昨日。東京の大学に進学して、本当ならもうこの町にはいないはずの彼とばったり出会った。思いがけず告白をされて、今日のお散歩デートの約束をした。その帰り道。
彼はいなくなった。
どこを探しても彼の姿は見つからない。
昨日、彼と奇跡の再会を果たした商店街の本屋さんにも。告白してくれた場所で、今日の散歩コースでもあった公園にも。
公園の近くにある中学校は、彼と初めて出会った場所。誰もいないグラウンド。彼が駆け回っていたテニスコートにも、人の姿はない。人気のない校舎。保健室には鍵がかかっていた。
公園に戻った。
LINEは既読にならない。電話を架けても出てくれない。名前を呼んでも、返事はない。
またLINEを送った。電話を架けた。名前を呼んだ。
返事はない。
繰り返そう。きっとそのうち返事が来るはず。
画面の滲むLINEを送って、電話を架けて、涙声でも名前を呼んで。
何度でも繰り返そう。
LINEを送って、電話を架けて、名前を呼んで……。
返事が来るまで、繰り返すんだ。
希夢くん、お願いだから、返事をちょうだい——