Prologue/1節
文字数 3,093文字
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『───ヴェルティ国内、深夜3時……突如として発生した集団自殺行動。道路の飛び出しや高所からの飛び降り、線路への飛び込みなどで街は混乱に陥っています。現在警察と消防がこの奇怪な現象の調査に当たりながら傷病者の搬送を行なっていますが、原因は未だ不明で───』
『現場の皆様は焦らず、落ち着いて安全な場所に移動してください!繰り返します、現場の皆様は───』
『速報です!ヴェルティを混乱に貶めている国民の集団自殺行動は、新型の感染症であるという声明をヴェルティ医学会が公表しました。我が国は、自死を招く病魔に蝕まれているのです───!』
………民衆の、悲鳴が聞こえる。
救急車の、サイレンの音が聞こえる。
そして───泣いている、あなたの声が聞こえる。
どうか、泣かないで。
僕の声が聞こえますか。
どうか、そんな事を言わないで。
だって、あなたは────
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「………『だって』も『どうして』も無いだろう、何が何でもいきなりすぎる」
「はっはっは、お前に止められるとは思わんかったのう……てっきり賛同してくれると思ったんじゃが、なぁ───クレマリー」
豊かな髭を蓄え、赤のラインが入った白衣に身を包んだ老人男性───リズベルト・ゴッドフレイは、長い白髪に透き通ったルビーのような瞳を持ち、赤を基調としたドレスのような衣服に白衣を纏った女性「クレマリー」を見遣った。
クレマリーはじと、とリズベルトを睨んで答える。
「賛同すると思うか?この診療所はどうする」
「心配しなくとも、リューデンなら病院は山ほどある」
「リューデンは確かに医学の中心地だが、それはあくまで都心だけだ。この地域に病院は此処しか無いんだぞ……お前が居なくなれば大勢が困る」
「医師ならお前が居るじゃろう」
「…は?」
「儂も定年が近い、後継者の事くらい考えておる。儂の一番弟子のお前なら、この診療所を継ぐに相応しいじゃろう……クレマリー、どうかYesと言ってはくれんか」
この通り、と弟子に頭を下げる師匠───彼に威厳という言葉は存在しないのだろうか。クレマリーは溜息を一つ吐いた。
此処は国家リューデンの地方の街にある小さな診療所。
医療技術が進歩しており、医学の中心地として栄えているリューデンには、病院は星の数ほど存在する。首都ノーヴァに足を運べば大抵の病気は完全に治す事ができるし、新薬や新型ワクチンの開発もリューデンは盛んなため「治す事が出来ない病気は現段階で存在しない」という言葉さえ豪語にならない。この国に留学を志す医師や医学生も多く、リューデンへの留学は夢と名誉、とまで言われている。
……話が逸れてしまった。
この診療所は都市圏から外れた郊外にこぢんまりと造られたものであり、手術室やリハビリテーションの設備は設けられていない。しかし、此処で医師を務めているDr.リズベルトの元にはしばしば留学生が訪れたり、彼は齢60を超えてなお公開手術に呼ばれたりしている。
───Dr.リズベルトはただの「診療所の医者」では無いのだ。
若い頃に数多くのオペレーションを行なって大勢の命を救い、リューデンの医学の発展に貢献したリズベルト・ゴッドフレイ。寸分の狂いもない彼のオペレーションは最早芸術だと賛辞する者も多い。
さらに彼はリューデン精神医学界の第一人者でもあり、うつ病や双極性障害、統合失調症などをはじめとした精神疾患の患者が暮らしやすい国づくりを目指して医療の見地から政治活動にも参加している。
そんなリューデンにとって必要不可欠なDr.リズベルトが、弟子であるクレマリーに診療所を一任してまでやりたい事とは───?
「……偉大なるDr.リズベルトが職務を投げ出し、私を此処の後継者にしてまでどうしてもヴェルティに行きたい、と」
「そうじゃ」
そう───目の前のこの男は、リューデンの隣国ヴェルティに移住したいと宣っているのだ。クレマリーは治らぬ頭痛に、額に手を当ててもう一度溜息を吐いた。
……クレマリーがリズベルトの移住に賛同できない原因は、この診療所を放置する事だけではない。
「はぁ……よりによって今【死の国】と噂されているヴェルティに、何故…」
「【死の国】だからじゃよ」
「【死の国】だから?意図が読めないな……ヴェルティで死者が年々増えているのは知っているだろう、感染症か治安の悪化を疑うのが普通だ…そんな場所に行くと言われて賛同するわけが───」
「ほう……鋭いなクレマリー。ヴェルティには病が流行っておる」
「……鋭い?嘘を吐いて私の同情を得ようとするならそうはいかないぞ」
「誰が嘘を吐くか。今感染症を疑うのが普通だ、と言ったな。まさにその通りなんじゃよ……ヴェルティには、《病魔》と呼ばれる新型の病が流行しておる。【魔が刺す】…という言葉があるじゃろう。《病魔》は人を破滅に導く……人に【魔を刺す】事によって感染し、悪事を行わせる精神的な病じゃ」
「《病魔》……聞いた事がないな。感染症でありながら精神疾患なのか?治療は心理療法が有効、とでも?」
「勿論心理療法も効果的じゃが、基本は腫瘍を取り除く外科手術じゃな。感染すると体内にクリスタルのような腫瘍が形成され……それがじわじわと心を蝕んでいく。最終的には希死念慮を呼び、思考能力を奪って自殺を決行させる。儂はその《病魔》をこう名付けた───自死を招く病魔 《スアサイダル》、と。」
「スアサイダル…」
「じゃが、これに気付いたのはどうやら儂とヴェルティ国立中央病院の院長だけのようでな……治療法を早くヴェルティに広めなければならん。」
「そのために、お前がヴェルティに行く……そういう事だな」
「そういう事じゃ。理解が早くて助かるのう……。これは儂一人の問題ではなく、ヴェルティの全国民……もっと言えば周辺国家全域の命を守るための一大プロジェクトじゃ。じゃから……頼むクレマリー、この診療所を任されてくれんか」
「………。そこまで言われて、Noと言えるわけがないだろう……はぁ、今日は溜息ばかりだ……。いいだろう、此処は私が受け持とう…」
「すまんな……この恩は必ず返す……」
「それで?出発はいつなんだ?」
「明日じゃ」
「……はぁ?」
明日??
思わず素っ頓狂な声を出してしまうクレマリー。引き継ぎの手続きなどやる事は沢山あるだろうに……。…まさかこの男、最初から私にこの診療所を任せる事を決めてかかっていたのか…!?有り得る。非常に有り得る。彼の事だ……私が最終的にYesと言うと確信を持って既に手続きを済ませていたに違いない…!
そんな事を考えながら、それでもクレマリーはその混乱を飲み込んだ。
「頭痛が酷いな……明日、か。明日から私は此処の院長、というわけだな」
「クレマリー院長、いいではないか…。ふぉっふぉっふぉ、一番弟子が出世したのう…」
「事の原因が何か言ってるな…。それじゃ、話がついたわけだし…私は失礼する。Dr.リズベルト、出発の支度が出来たら早く休むように。寝坊して行けなかったとのこのこ診療所に顔を出しても入れてやらないからな」
「こりゃ手厳しいのう。そうじゃな……もう17時じゃ。診療所も閉める時間じゃし……儂も早く休むとするかのう…」
「嗚呼、そうしてくれ……」
クレマリーはそう言うと踵を返して診察室から出て行った。リズベルトは笑顔でそれを見送ると、窓の外に目を遣った。初春はまだ、日が暮れるのが早い。太陽が傾いて、オレンジの夕陽が窓から柔らかく部屋に差している。リズベルトは目を細め……「必ず、《スアサイダル》を撲滅せねばならんな」と零した。
その背後に迫る影に───彼はこの時、まだ気付かなかった。