Ruhig schreitend - Variationen
文字数 3,417文字
仕事の電話が鳴らない午後は、安楽椅子に腰掛け、ウィスキーのロックを片手にラジオを聴く。今日は買い物に行くつもりだったが、空模様を見て中止した。湿気でぶよぶよと膨らんだ雲が一面……出かける気は失せた。
しばらく抓みを弄っているが、興味をそそられる番組には当たらない。首相への賄賂が発覚しただの株価が急落しただの、胸糞悪い話題ばかりが流れてくる。
諦めて電源を切ろうとしたとき、不意に一つの音が飛び込んできた。これは――弦楽器の音か。私はヴォリュームを上げ、スピーカーに耳を近づけた。
どうやら室内楽曲の演奏のようだった。弦楽器と管楽器が奏でる淡々とした音符が、焔 立つように現れては消えていく。それは音楽と言うにはあまりにも冷たく、歪なものだった。
十分ほどで曲は終わり、番組司会者の声が、アントン・ヴェーベルンの『シンフォニー』だと紹介した。
アントン・ヴェーベルンの『シンフォニー』。
アルコールに焼けた胃袋が、呼応するかのように疼いた。
私はその曲を、もう一度聴いてみたくなった。
近所のレコード店に行ってみると、ヴェーベルンのレコードは棚の隅に一枚だけ置かれていた。原色のキュビズミックなジャケットが目を刺す。『シンフォニー』は一曲目に収録されていた。再生時間は二つの楽章を足しても十分足らずで、私が聞いたのは特定の楽章ではなく、全楽章の演奏だったのだと知った。私は店主に代金を払い、早足に自宅に戻った。
着替えもせずにレコードを取り出し、丁寧に蓄音機にセットした。心臓が耳元で鳴っていた。こんなに気持ちが昂 るのは久しぶりだった。針を載せる――ホルンの遠吠えにハープの爪弾きが重なり、演奏は始まった。
『シンフォニー』は音の羅列だ。そこにメロディはない。ベートーヴェンやシューベルトの音楽が空間的な厚みを持った三次元の音楽だとしたら、ヴェーベルンのそれは、点と線とで構成された二次元の音楽だ。荒く織り込まれニクロム線で支えられた、無機的なかたまり。合わない者は十秒と持つまい。親しみやすさもなければ明確な盛り上がりもない。ただただ、表情の無い響きが部品のように組み合わされていくだけである。
しかし私は、その簡潔な響きに惹き込まれた。
次の日も、その次の日も、私は憑かれたようにレコードを聴き続けた。曲が終わると針を戻した。幸いなことに、仕事の電話はかかって来なかった。
やがて私は、目を閉じると奇妙な光景を想起するようになった。
暗闇の中に、一対の手が浮かんでいる。午前二時の月のように蒼く、氷の温度を持ったそれは、床に散らばった積木を持ち上げては、何やらオブジェを作っている。人でもなく物でもなく、平面的で多面的な不思議なオブジェ。しかしそれは、積木を載せるたびにどこかが綻んでいく。ひび割れ。軋み音。積木の崩壊。漠然とした不安と焦燥を覚える不気味な景色は、瞼の裏で果てることなく繰り返される――。
ちりり。
ちりり。
断続的な自然音に、映像が乱れる。
オブジェは腕もろとも礫散 し、私は目を開けた。
辺りを見回すと、窓の外で雲雀 が鳴いていた。街路樹の枝に留まり、首を忙しなく動かしながら囀 っている。その声は甲高く、ヴェーベルンの『シンフォニー』を掻き消していた。
私は抽斗を開け、銃を握り、引鉄を引いた。
中空に
私はゆっくりと銃口を下げた。
そのまま、拳銃は床に落ちた。
電話が鳴った。
びくりと震えた私は、額に浮いた脂汗を拭い、受話器を取った。相手は上司だった。一人の女についての情報を喋り、返事も聞かずに電話を切った。仕事だ。受話器を戻すと、私は床に転がった銃を取り上げた。まだ熱を帯びた鉄の塊を無理矢理ポケットに押し込むと、外出の準備を始めた。
女は役所勤めだというので、退社時間に合わせるように家を出た。玄関口が見える公園のベンチで新聞を広げていると、目的の女が現れた。スーツは質素だったが、薬指に光る指輪は安月給の市の職員には身分不相応な代物だ。私は尾行を開始した。
適度な圧迫感を与えながら女の後ろを歩く。始めは身を隠しながら、次第に自分の姿を相手に認めさせていく。女は気味悪そうに振り返りながら、次第に尾行に気づき始める。複雑に進路を変えながら私を撒こうとしたが、その時はもう手遅れで、薄暗い路地のどん詰まりに行き着いていた。
女は悲鳴を上げた。だが誰にも声は届かない。ここはそういう場所だ。私は銃を取り出し、壁にすがりつく女に狙いを定め、引鉄を引いた。消音された銃声が、短く空を切った。
しかし、銃弾は女の顔ではなく、壁を抉 った。
私は驚き、混乱した。この距離で外すなどありえない。女は放心していた。全身を弛緩させ、口の端から涎を垂らしている。重力に耐え切れず、顎先から路地に垂れたそのとき、私の脳裡に音が湧き立った。次々と連なっていく音符――それは、一つの曲を成して流れ始める。ヴェーベルンの『シンフォニー』。脳の中で、青白い手が積木を組む。不気味なオブジェは、私自身の姿に似ていて――。
私は喚きながら両手を振り回した。しかし、青白い手も積木も、ヴェーベルンの『シンフォニー』も消えなかった。反響した叫びが幾重にも増幅され、全身に降りかかった。
気がつくと、私は水溜りの中に倒れていた。舌の上に汚水の味がした。女の姿はどこにもない。転がったローファーが、大きな口を開けて嘲笑っていた。
自宅に帰り着くと、私は電気も付けず、服も着替えず、部屋の床に寝転んだ。在るのか無いのか分からない天井を見上げる。大量の疑問符が脳内を満たし、その狭間から記憶の断片が浮かんでは消えていく。壁を抉った弾丸。糸を引く唾液。青白い手。オブジェになる自分自身。
そして、ヴェーベルンの『シンフォニー』。
電話が鳴った。相手は分かっている。私は起き上がり、暗闇の中で受話器を取った。三分後だ――上司はそう吐き棄て、電話は切られた。私は受話器を置いた。そして声を出さずに笑った。
棚からヴェーベルンのレコードを取り出し、蓄音機にセットした。静かに針を乗せると、ホルンの遠吠えにハープの爪弾きが重なっていく。安楽椅子に身を沈め、煙草を咥えて火を点けた。深く煙を吸い、ゆっくりと吐き出す。空になった肺に、音符が満ちていく。
雑然としたものは消え去っていく。
青白い死者の手も。
散らかされた積木も。
落ち着くところに落ち着いていく。
中空に漂う紫煙を見つめながら。
私は静かに目を閉じた。
歪な光景は、もう見えなかった。
*
十月某日の夜、アパートの一室で、住人の男が死体となって発見された。
通報した隣室の女は、大仰な身振り手振りを交えながら、若い警官に発見までの経緯をまくし立てた。突然大きな音が聞こえた、外に出てみると隣室の部屋のドアが開いていた、声をかけたが返事がないので恐る恐る中に入ってみると、暗がりの中で住人が死んでいた――これだけの事実を把握するのに、警官は女の飼い猫自慢や夫の浮気騒動まで聞かされる羽目になった。
喚き散らしている女を閉め出すと、警官はひととおり全ての部屋を見て回った。余分な家具はひとつもない。ぽつりぽつりと置かれたそれらには、あまりに隙間がありすぎた。物がありすぎるのも息が詰まるが、物がなさすぎるのもまた息が詰まるのだ。
現場となった部屋に入る。男は安楽椅子に腰掛け、うつむいた姿勢で事切れている。前頭部に空いた大穴。背後から撃ち抜かれている。即死だっただろう。半ば固まりつつある血溜まりの中には、吸いかけの煙草が一つ落ちていた。長さから見て、火を点けて間もなく撃たれたようだ。寸前まで背を向けていたということは、犯人が顔見知りであることを示唆している。
ここにきて警官は、室内に音楽が流れていることに気がついた。探ればそれは安楽椅子の正面に置かれた蓄音機からのものだった。飛び散った血が付着しているが、レコードは支障なく回転を続けていた。ずいぶん前から流れていたのだろうが、あまりにも静かな曲のせいで分からなかったのだ。名も知らぬオーケストラは唯一の聴衆の死も知らず、律儀に音を並べ続けていた。
警官は酷く悲しい気持ちになった。
制帽を深く被り直すと、レコードから静かに針を外した。拠りどころをなくした音符が、血溜まりの中に落ちて消えた。
Fine.
しばらく抓みを弄っているが、興味をそそられる番組には当たらない。首相への賄賂が発覚しただの株価が急落しただの、胸糞悪い話題ばかりが流れてくる。
諦めて電源を切ろうとしたとき、不意に一つの音が飛び込んできた。これは――弦楽器の音か。私はヴォリュームを上げ、スピーカーに耳を近づけた。
どうやら室内楽曲の演奏のようだった。弦楽器と管楽器が奏でる淡々とした音符が、
十分ほどで曲は終わり、番組司会者の声が、アントン・ヴェーベルンの『シンフォニー』だと紹介した。
アントン・ヴェーベルンの『シンフォニー』。
アルコールに焼けた胃袋が、呼応するかのように疼いた。
私はその曲を、もう一度聴いてみたくなった。
近所のレコード店に行ってみると、ヴェーベルンのレコードは棚の隅に一枚だけ置かれていた。原色のキュビズミックなジャケットが目を刺す。『シンフォニー』は一曲目に収録されていた。再生時間は二つの楽章を足しても十分足らずで、私が聞いたのは特定の楽章ではなく、全楽章の演奏だったのだと知った。私は店主に代金を払い、早足に自宅に戻った。
着替えもせずにレコードを取り出し、丁寧に蓄音機にセットした。心臓が耳元で鳴っていた。こんなに気持ちが
『シンフォニー』は音の羅列だ。そこにメロディはない。ベートーヴェンやシューベルトの音楽が空間的な厚みを持った三次元の音楽だとしたら、ヴェーベルンのそれは、点と線とで構成された二次元の音楽だ。荒く織り込まれニクロム線で支えられた、無機的なかたまり。合わない者は十秒と持つまい。親しみやすさもなければ明確な盛り上がりもない。ただただ、表情の無い響きが部品のように組み合わされていくだけである。
しかし私は、その簡潔な響きに惹き込まれた。
次の日も、その次の日も、私は憑かれたようにレコードを聴き続けた。曲が終わると針を戻した。幸いなことに、仕事の電話はかかって来なかった。
やがて私は、目を閉じると奇妙な光景を想起するようになった。
暗闇の中に、一対の手が浮かんでいる。午前二時の月のように蒼く、氷の温度を持ったそれは、床に散らばった積木を持ち上げては、何やらオブジェを作っている。人でもなく物でもなく、平面的で多面的な不思議なオブジェ。しかしそれは、積木を載せるたびにどこかが綻んでいく。ひび割れ。軋み音。積木の崩壊。漠然とした不安と焦燥を覚える不気味な景色は、瞼の裏で果てることなく繰り返される――。
ちりり。
ちりり。
断続的な自然音に、映像が乱れる。
オブジェは腕もろとも
辺りを見回すと、窓の外で
私は抽斗を開け、銃を握り、引鉄を引いた。
中空に
ぱっ
と羽毛が散り、囀りは消えた。私はゆっくりと銃口を下げた。
そのまま、拳銃は床に落ちた。
電話が鳴った。
びくりと震えた私は、額に浮いた脂汗を拭い、受話器を取った。相手は上司だった。一人の女についての情報を喋り、返事も聞かずに電話を切った。仕事だ。受話器を戻すと、私は床に転がった銃を取り上げた。まだ熱を帯びた鉄の塊を無理矢理ポケットに押し込むと、外出の準備を始めた。
女は役所勤めだというので、退社時間に合わせるように家を出た。玄関口が見える公園のベンチで新聞を広げていると、目的の女が現れた。スーツは質素だったが、薬指に光る指輪は安月給の市の職員には身分不相応な代物だ。私は尾行を開始した。
適度な圧迫感を与えながら女の後ろを歩く。始めは身を隠しながら、次第に自分の姿を相手に認めさせていく。女は気味悪そうに振り返りながら、次第に尾行に気づき始める。複雑に進路を変えながら私を撒こうとしたが、その時はもう手遅れで、薄暗い路地のどん詰まりに行き着いていた。
女は悲鳴を上げた。だが誰にも声は届かない。ここはそういう場所だ。私は銃を取り出し、壁にすがりつく女に狙いを定め、引鉄を引いた。消音された銃声が、短く空を切った。
しかし、銃弾は女の顔ではなく、壁を
私は驚き、混乱した。この距離で外すなどありえない。女は放心していた。全身を弛緩させ、口の端から涎を垂らしている。重力に耐え切れず、顎先から路地に垂れたそのとき、私の脳裡に音が湧き立った。次々と連なっていく音符――それは、一つの曲を成して流れ始める。ヴェーベルンの『シンフォニー』。脳の中で、青白い手が積木を組む。不気味なオブジェは、私自身の姿に似ていて――。
私は喚きながら両手を振り回した。しかし、青白い手も積木も、ヴェーベルンの『シンフォニー』も消えなかった。反響した叫びが幾重にも増幅され、全身に降りかかった。
気がつくと、私は水溜りの中に倒れていた。舌の上に汚水の味がした。女の姿はどこにもない。転がったローファーが、大きな口を開けて嘲笑っていた。
自宅に帰り着くと、私は電気も付けず、服も着替えず、部屋の床に寝転んだ。在るのか無いのか分からない天井を見上げる。大量の疑問符が脳内を満たし、その狭間から記憶の断片が浮かんでは消えていく。壁を抉った弾丸。糸を引く唾液。青白い手。オブジェになる自分自身。
そして、ヴェーベルンの『シンフォニー』。
電話が鳴った。相手は分かっている。私は起き上がり、暗闇の中で受話器を取った。三分後だ――上司はそう吐き棄て、電話は切られた。私は受話器を置いた。そして声を出さずに笑った。
棚からヴェーベルンのレコードを取り出し、蓄音機にセットした。静かに針を乗せると、ホルンの遠吠えにハープの爪弾きが重なっていく。安楽椅子に身を沈め、煙草を咥えて火を点けた。深く煙を吸い、ゆっくりと吐き出す。空になった肺に、音符が満ちていく。
雑然としたものは消え去っていく。
青白い死者の手も。
散らかされた積木も。
落ち着くところに落ち着いていく。
中空に漂う紫煙を見つめながら。
私は静かに目を閉じた。
歪な光景は、もう見えなかった。
*
十月某日の夜、アパートの一室で、住人の男が死体となって発見された。
通報した隣室の女は、大仰な身振り手振りを交えながら、若い警官に発見までの経緯をまくし立てた。突然大きな音が聞こえた、外に出てみると隣室の部屋のドアが開いていた、声をかけたが返事がないので恐る恐る中に入ってみると、暗がりの中で住人が死んでいた――これだけの事実を把握するのに、警官は女の飼い猫自慢や夫の浮気騒動まで聞かされる羽目になった。
喚き散らしている女を閉め出すと、警官はひととおり全ての部屋を見て回った。余分な家具はひとつもない。ぽつりぽつりと置かれたそれらには、あまりに隙間がありすぎた。物がありすぎるのも息が詰まるが、物がなさすぎるのもまた息が詰まるのだ。
現場となった部屋に入る。男は安楽椅子に腰掛け、うつむいた姿勢で事切れている。前頭部に空いた大穴。背後から撃ち抜かれている。即死だっただろう。半ば固まりつつある血溜まりの中には、吸いかけの煙草が一つ落ちていた。長さから見て、火を点けて間もなく撃たれたようだ。寸前まで背を向けていたということは、犯人が顔見知りであることを示唆している。
ここにきて警官は、室内に音楽が流れていることに気がついた。探ればそれは安楽椅子の正面に置かれた蓄音機からのものだった。飛び散った血が付着しているが、レコードは支障なく回転を続けていた。ずいぶん前から流れていたのだろうが、あまりにも静かな曲のせいで分からなかったのだ。名も知らぬオーケストラは唯一の聴衆の死も知らず、律儀に音を並べ続けていた。
警官は酷く悲しい気持ちになった。
制帽を深く被り直すと、レコードから静かに針を外した。拠りどころをなくした音符が、血溜まりの中に落ちて消えた。
Fine.