第1話

文字数 2,323文字

 子どもが大きくなって、家の中の物の片付けもほぼ一巡した。子どもたちが小学生の時に描いた絵、作った小物。
 息子が家庭科の授業で裁縫した、子どもサイズのエプロンや巾着。捨てられずにとっておいたけれど、もう見返すこともないだろう。広げて、もう一度目に焼き付けてから、処分する。
 娘が友達と集めていたメモ帳、消しゴム、よくわからないファンシー小物たち。あの頃は宝物だったのだろうそれらも、燃えるごみと燃えないごみに分別する。


 それでも、捨てられずに手元に残したものもいくつかある。

 二人の子どもたちが、それぞれに着た真っ白なフリル満載の産着。出産後、退院する時のためだけに用意したそれらは、今では箱の中で薄く黄ばんでいる。笑えるほどフリルだらけの産着を手にすると、我が子を初めて抱き上げた時の言葉にできない想いが蘇る。

 あるいは、娘の七五三の着物。着る機会などないとわかっていても、七五三の祝いの着物を簡単に処分できる人は少ないだろう。
 そして、息子が小学校の入学式の時に着た、子供用の半ズボンスーツ。何か祝い事かお呼ばれでもない限り、こちらも着る機会は無い、というか全く無かった。

 もう、それぞれが役目を終え、桐箱と箪笥の中で眠っている。



 そんな、節目を飾る華やかな存在ではなかったけれど、どうしても長年捨てられなかったものが、私にはある。

 押し入れの中でせんべいのように薄くなってしまった、乳幼児用の掛け布団。元は、娘が生まれた時に5点セットで買ったものの一つだ。ところどころ黄ばんでくたくたになったその布団は、見る度に私の気持ちを初めての子育ての頃へとタイムスリップさせる。



 初めての育児は誰だって手探りだ。子どもにお乳を与えることも、ゲップをさせることも、おむつの交換も、何もかもが母親としての重大な任務のように思えた。自分が一瞬でも目を離せば死んでしまう存在がいるということが、とてもとても重く感じられて「育児を楽しむ」なんて別世界の出来事だった。

 娘がぐずれば「何か体に問題があるのでは?」と心配になり、一度に大量のうんちをしても「病気では?」と不安になる。今なら笑えるそれらのことも、新米ママには一大事だった。娘を産んでから、私はとにかく不安で緊張していた。
 そこへ、娘の出産祝いに来てくれた親族が、無責任な一言を付け加えて置いてゆく。

「ミルクで育てると病気がちになるんですって。やっぱり母乳じゃないとね」

 娘が初めての子どもで、うまく母乳を与えられなかった私は、そんな言葉をいちいち深刻に受け止めた。

 しぼった母乳を哺乳瓶に入れ毎回計測する。
「○○ミリしか出てない、これじゃ足りない」
「今回はたくさん出た!」
「せっかく絞れたのに飲んでくれない、どうして……」
 授乳のたびに一喜一憂する。

 本来の私は楽観的で明るい性格だったのに、別人のように神経質になっていた。初めての出産ということで、里帰りして実家の奥の和室で娘と向き合う毎日。母乳をうまく飲ませられず、私の頭の中は授乳のことでいっぱいになっていた。


 その日も多分、私の眉間にはしわが寄っていたと思う。

 娘を寝かしつけていると、母が部屋に入ってきた。娘の布団の横に座り、眠る顔をのぞき込む。
「可愛いねえ」
 そう言ってくれる母の言葉も、私の耳には入らない。

 娘は可愛いけれど、ちゃんと母乳育児が出来ない私は母親失格。私は「母親という者は普通は○○だ、正しい育児は□□だ」という見えない敵を作り出して戦っていた。

 固い表情の私に気づいているのかいないのか、母が娘の上掛けを撫でながらぽつりと言った。

「『骨休み』か、良い言葉だねぇ」

 急に出てきた言葉に、意味が分からず母を見る。母は微笑みながら娘の上掛けを撫でていた。
 ふかふかした白い上掛けには、可愛らしいクマの絵とお花と『HONEY SMILE』の文字。

 一瞬ポカンとしてから、母の誤解に気づき一気に笑いが込み上げてきた。せっかく寝かしつけた娘を起こしてしまうと思っても、笑いは止められなかった。
 お腹を押さえて笑う私に、今度は母が不思議そうな顔をする。
「どしたん?」
「お母さん、それ、ハニースマイルだよ、骨休みって、くふっ」
 それを聞いて、ちょっと照れながら母がつぶやく。
「なんだ、そうなん?ほねやすみかと思った」

 ひとしきり笑ってから、ふと気づいた。娘を産んでから、声を上げて笑ったのは初めてだ。ずっと眉間にしわを寄せて過ごしてきた。

 ハニースマイル、ほねやすみ。

「ほんと、良い言葉だね」
 気づけば素直に言葉にしていた

 私の笑顔を見て、母が嬉しそうに微笑む。

 肩の力がふっと抜ける。

 ずっと戦ってきた見えない敵は、いつの間にかどこかに消えていった。



 あれほど悩まされた母乳育児だが、まもなく娘はあっさりと出の悪いおっぱいには見切りをつけ、ミルクですくすくと育った。
 二人目の息子の時は、力強くごくごくと母乳を飲んで、そして飲み過ぎて度々吐いたが、こちらもすくすくと育ってくれた。




 今でも、あの日のことを時々思い出す。

 何かに行きづまった時、壁の厚さ大きさに、耐えられなくて下を向きそうになった時、日々が辛いと感じた時に、ふと母の言葉が蘇る。


「『骨休み』か、良い言葉だねぇ」


 戦前生まれの母が、一字一字たどたどしく訳してくれたであろう「ほねやすみ」

 あの言葉は、私にとって何物にも代えがたい支えとなった。眉間によったシワを優しく伸ばし、うつむく顔を上げることを思い出させてくれる呪文のように。




 あの日の、母の微笑み、娘の寝顔、やわらかな上掛けの白さ。


 ハニースマイル、ほねやすみ


 思い出は今も、私の中でとろりと金色の輝きを放っている。










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