第2話

文字数 3,169文字

 『カクテル』

 ここに一葉のスナップ写真がある。撮影されたのは僕が二十三歳の春。写真には僕とマスター。そして、身重の女性が写っている。それはテレビからコマーシャルが消え、元号が昭和から平成になった年の事だ。その頃の僕は世の中に目を向ける事も、自分の人生の道標を見付ける事も出来ていなかった。ただ、自分の事だけしか考えられない大勢の中の独り。根拠の無い未来像。同級生達が好景気の波に乗り派手になっていく中、毎日、路上ライブとバイトで過ごす僕。
 蒲田駅近くにあるバー。そこで飲んだカクテルと街の人達。今想うと、僕にとって運命的な出逢いだったのかも知れない。それまでの僕は何となく入学した専門学校を卒業し、定職にも就かずにフリーター生活をしていた。
 学生時代の仲間とカラオケボックスに入り浸る毎日。外界から遮断された世界で僕等だけの歌を唄っていた。あの日、バー蜂を訪れるまでは。その日、僕は家路を急ぐ人達の雑踏の中の一人だった。いつもの信号で捕まり、空を仰ぎ見ると目に水滴が入ってきた。アスファルトに黒いしみが幾つも出来た頃、信号が変わった。その角を右に曲がれば、僕のアパートがあった。その時、僕は違う風景が観たかった。角を左に曲がり、普段は通る事の無い路地を抜けた。思ったより雨脚が激しくなった。タバコ屋の軒先で一息つく。雨に煙る大通りの向こうに古ぼけたバーの看板が見えた。バーかぁ。さすがに初めてのバーに一人では入れないなぁ。その時、黄色い看板に灯が燈った。雨に煙るモノトーンの街で、淡い光が滲むように浮かびあがる。店の名前はバー蜂。開店したばかりなら他の客も居ないか。雨宿りがてら、一杯だけ飲んで帰ろうかな。僕は雨の降る大通りを駆け足で横断しバーの扉の前に辿り着いた。重そうな扉。開けづらいなぁ。えいっ。勢いだぁ。カァラァッ、コッロァッ。静寂の世界。薄暗い店内にオレンジ色のランプが燈っている。少し湿気のある古木の薫り。目の前のコの字型のカウンターに近づくと、50歳過ぎ位のマスターらしき男性がいた。
「いらっしゃい」
 マスターの優しい笑顔が緊張を和らげた。
「あのぅ。初めてで。一人なんですけど」
「どうぞ。当店はショットバーです。チャージとかは無し。一杯で幾らだけ。例えば、ジンリッキー一杯で帰れば800円。これ、どうぞ」
 マスターがカウンターのスツールへ、僕を(いざな)い、乾いたスポーツタオルを差し出した。僕は入口近くのスツールに腰掛けると、スポーツタオルを受け取って雨に濡れた体を拭いた。本当に800円で済むのかな。
 まぁ、いいか。一杯だけ飲んで帰ろう。
「あのぅ。じゃぁ。ジンリッキーをください。あの、ジンリッキーって何ですか」
「はい。ジンとライムと炭酸水。サッパリしてます。大丈夫かな」
「あっ、はい。お願いします」
 カラッ。ドウクゥッ。ドウクゥッ。プシィッ。シュゥ―。ウパァッ―。マスターが、ライム入りのグラスに氷を入れ、ジンを注ぎ、炭酸水の瓶を開けて注ぐ。
「お待たせしました」
 僕の前に置かれたグラスの中で、泡が暖色の灯かりに煌めき弾けている。
「頂きます」
 何だろう。香辛料のような薫りと爽やかな酸味が口の中で広がり炭酸水が舌の上を刺激する。
「美味しい」
「有難う御座います」
 マスターがグラスを磨きながら微笑む。
 カッ、カッ、カッ、カッ、、、、。微かに聞こえてくるのは柱にある振り子時計の音だ。こんな静かな世界は久しぶり。自分が自分に還っていく感覚。僕の周りは、いつも人工的な音が溢れていた。僕はキョロキョロと店内を見渡し、手元のジンリッキーを見詰め、二口目を飲む。
 カァラァッ、コッロァッ。ザァッ、ザァッ、パァファー、ザッァ―。店の扉が開き、雨音に混じった車の音が聞こえた。
「よぅ。だいぶ、本降りになって来たな」
 初老の男性客が入って来て、店の奥のカウンター席に座った。左脚を引きずり、左腕も不自由なようだ。
「いらっしゃい、ノブさん。多分、小一時間で止みますよ」
 マスターが男性客にスポーツタオルを差し出した。初老の男性客はマスターが差し出したスポーツタオルを無言で制した。白銀の短髪に雨露が光っている。
「いつもので」
 少し濁った声で男性客が言った。
 カラッ。ドウクゥッ。ドウクゥッ。プシィッ。シュゥ―。ウパァッ―。男性客の前にカクテルが置かれる。多分、ジンリッキーかな。
 男性客は天井を仰ぐようにカクテルを飲んだ。僕と一瞬、目が合うと笑顔で言った。
「兄さんも、濡れちまったクチかい」
「えっ。はい。少し」
 男性客は子供のような笑顔で続けて言った。
「まぁ、お天道様にゃあ、敵わんから。一杯飲んでりゃ止むよ」
 グラスを持ち上げ乾杯の仕草をする。
「兄さん、よく来るのかい」
「いえ。初めてなんです」
「ほう。そうかい。わしは、ノブって言います。宜しく」
 男性客が小さく御辞儀をした。
「あっ、はい」
 僕も頭を下げる。
「兄さんは学生さんかい」
「いえ。一応、働いてますけど。んー、でも、何をやっていいのか目標が無いんです」
 思わず漏れた心の声。見ず知らずの人に何でだろう。ノブさんはカクテルを勢いよく飲むと言った。
「誰もが特別な目標を持たなくてはいけない事なんてないよ。今を一所懸命に生きれば、無駄な事なんて一つもないんだよ」
 ノブさんは天井を仰ぐようにカクテルを飲み喋り続けた。
「深く考える事なんてない。人生なんて宝くじみたいなもんさ。たまたま大当たりする事も有るし、当たらなくったて、どうって事ない。ここで飲んでるのだって偶然なんだよ。自分で良い縁に気づくか気づかないか、それだけなんだよ」
 年輪を重ねた男の言葉は、僕の胸の奥に染み入る。
 ノブさんはカクテルをゆっくりと味合うように飲み、誰かに語りかけるように言った。
「わしも悩んだ事があったよ。だがなぁ、一杯の酒で救われる事ってあるんだよ」
 ノブさんは僕を見ると満面の笑顔で言った。
「兄さんは運が良いよ。この店を知って、飲んでいるだけで運が良いんだよ。はぁっ、はぁっ」
 ノブさんは嬉しそうに大笑いし、グラスを掲げて乾杯の仕草をした。
 カァラァッ、コッロァッ。ザァッ、ザァッ、パァファー、ザッァ―。店の扉が開き、御腹の大きい身重の女性が入って来て、僕とノブさんに軽く会釈をした。僕も軽く会釈をする。
「お義父さん、これ、フルーツと傘。だいぶ、降ってきましたよ」
 身重の女性がビニール袋と傘をマスターに渡す。
「よぅ。麻衣ちゃん。ずいぶん大きくなったなぁ。もう、産まれるんかい。そういゃぁ、麻衣ちゃん、実家に帰るんだって」
 ノブさんが親しげに話しかける。
「はい。そうなんです。ノブさん、色々、有難う御座いました」
「そうかいっ。寂しくなるなぁ。そうだぁ。写真、撮ろうやぁ。マスター。あのぉ、大晦日に撮ったフィルム残ってんだろう」
「あと三枚ぐらい残ってます」
 マスターが使い捨てのインスタントカメラを持ってカウンターから出てきた。
「僕っ、撮ります」
 僕は席を立った。
「おぅ、すまないなぁ」
「すみません」
「申し訳ありません。有難う御座います」
 ノブさん、女性、マスターが頭を下げる。
 僕はカメラを受け取ると、店の入り口付近に立った。
「じゃぁ皆さん、奥で。もう、ちょっと、寄ってください。じゃ、撮りますよ。もう一枚」
 二枚のシャッターを押す。ノブさんが手を上げて、僕に近寄りながら言った。
「ありがとう。ありがとう。兄さんも一枚」
「いぇ。僕は、いいですよ」
「いいから。並んで」
 ノブさんがカメラを僕から受け取り指示をする。
「どうぞ。撮りましょう」
 女性が促す。僕は何故か、マスター、その娘さんらしき女性に挟まれて写真を撮った。
 初めて入ったバー。初めて逢った人達との何気ない交流。その日の出来事が妙に心地好かった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み