第8話

文字数 1,337文字

 エピローグ
  2019年夏。
 僕は三十年前の扉を開いた。
 カァラァッ、コッロァッ。静寂の世界。
 薄暗い店内にオレンジ色のランプが燈っている。少し湿気のある古木の薫り。目の前のコの字型のカウンターに近づくと、若々しい青年がテキパキとして、清々しい接客でもてなしてくれた。
「いらっしゃいませ」
 そうか。この青年が、あの時の子。
「タケシ君だね」
「はい」
「僕、君に会った事があるよ。この御店で。君が御母さんの御腹の中に居る時にだけどね」
「有難う御座いします。祖父と母が御世話になりました」
 タケシ君が笑顔で答えた。御爺さん譲りの優しい笑顔。
「いやいや。僕は何にも。マスターには僕が御世話になって」
「そうですか。今日は何に致しましょう」
「あっ、そうだね。うん。タケシ君の御薦めを一杯ください」
「かしこまりました」
 カラッ。ドウクゥッ。ドウクゥッ。プシィッ。シュゥ―。ウパァッ―。新人マスターが、ライム入りのグラスに氷を入れ、ジンを注ぎ、炭酸水の瓶を開けて注ぐ。
「お待たせしました」
 僕の前に置かれたグラスの中で、泡が暖色の灯かりに煌めき弾けている。
「美味しい」
「有難う御座います」
 新人マスターがグラスを磨きながら微笑む。
 誰も居ないバー蜂の店内でカクテルを飲みながら、僕は今と過去とを繋ぐ記憶の糸を探していた。バー蜂で出逢ったカクテルと様々な人達の人生の一場面。
 暖色の灯かりの中で揺らめく懐かしい顔。
 このバー蜂で一時(いっとき)、同じ空間を過ごしたというだけで何も知らない人達。
 やっぱり、ノブさんは正しかった。僕は運が良い幸せ者だ。
 僕は新人マスターに声をかけた。
「マスター。お願いがあるんだ。もし、この店に悩んでいる人、辛そうな人が来たら、一杯、このカクテルを御馳走して欲しいんだ。代金は前払いで置いていきますから」
 僕は余分な代金と勘定を支払い席を立った。
 カァラァッ、コッロァッ。ザァッ、ザァッ、パァファー、ザッァ―。その時、店の扉が開き、雨音に混じった車の音が聞こえ、二十歳代前半の若い男性客が入店してきた。
「あのぅ。初めてで。一人なんですけどぉ」
「どうぞ。当店はショットバーですから。チャージとかは無し。一杯で幾らだけです。例えば、ジンリッキー一杯で帰れば八百円です。どうぞ、座ってください。これ使ってください」
 マスターがカウンターのスツールへ若者を誘い、乾いたスポーツタオルを差し出した。若者は入口近くのスツールに腰掛けると、スポーツタオルを受け取って、雨に濡れた体を拭いた。
「雨、降ってますか」
 僕が若い男性客に声をかけると、若者は少し驚いた表情をした後、答えた。
「えっ。はいっ。少し」
 僕は笑顔で言った。
「まぁ、お天道様には、敵わないから。一杯飲んでれば止みますよ」
 僕は若者とマスターに軽く頭を下げ、店を出ようとした。
「あの、傘、持って行ってください」
 マスターが傘を差しだしたが、僕は右手を上げ無言で制した。
「また、来ます」
 僕はバー蜂の扉を開けた。雨は止んでいた。
 駅近くで夜空を見上げると、東急プラザ蒲田の屋上で幸せの観覧車が、ゆっくりと回っている。雲の切れ間から月の光が差し込む。
 マスター。ノブさん。アミさん。そして、僕の知らない誰か。ありがとう。
(了)
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