第1話
文字数 2,962文字
一
僕の日課、沼のある公園への早朝散歩。そのコースから少し外れたところに、ちいさな骨董店 がある。
住宅街を歩いていると突然現れる(気がする)、こぢんまりした箱型のその洋館は、建物自体が文化財になっていて、時々なにかの撮影に使われたりもするらしい。
古今、和洋問わずの趣 き深い器をバランスよく扱い、飾りつけのセンスも抜群なので、僕は時折、散歩の途中でコースを逸 れ、わざわざショーウィンドーを冷かしに行くこともあった。
の、だが……。
二
その日は、八月最後の水曜日だった。薄曇りで、朝からじわじわと蒸し暑く、風は吹いているけれど、生ぬるかった。僕はなんとなく沼での散歩を早めに切り上げ、その骨董店の前を通って帰ることにした。
朝早いので、店はまだ開いていない。入口ドア左のショーウィンドーを覗くと、茶道用の茶器が並べられていた。真ん中に鎮座している大ぶりの茶碗は、鉄瓶 に浮いた赤錆 のようなざらざらとした渋い色合いで、僕の好みだ。
右のショーウィンドーには、大きな壺が一つ。こちらは表面に荒れが無く、艶々黒々としていて、一見して新しいものだと分かる。添えられた木の札には、『古代ギリシア赤絵式 ・複製』と、墨字で書いてあった。赤みを帯びたベージュの地肌が、獅子 のようなものを従えた、半裸の女性の姿を描いている。
いや、違うな。これはただ半裸なのではなく、下半身が何か……たぶん、蛇なんだ。従えているのも、よく見れば獅子ではなく、双頭 の犬のようだった。
「エキドナ……かな?」
思わず声に出して言ってしまってから、はっとした。「神性 のあるものが寄る場所で、モノの『名』をみだりに口に出すな」と、師匠……ゆずこさんに、固く戒 められていたのに。
気温と湿度がすっと下がって、生ぬるい風も止んだ。冷凍庫の中に突然放り込まれたような感覚だ。まずい。
僕とショーウィンドーの間の地面から、アスファルトの表皮をものともせず、なにかがぬるりと這い出してくる。それはつと立ち上がると、あっという間に僕の背丈を追い越して、頭上から眺め降ろしてきた。
エキドナ。上半身が美女で、下半身が蛇であるという、ギリシャ神話の女怪 、数多の怪物たちの母。
「あなた、私のことを良く知ってるのね」
一聴すると若い女性の声のようだが、複数の音が入り混じっていて、なにやら不快感がある。訝しく思って見上げると、かたちが整い、かつ豊かな乳房が、上下にかすかに弾んでいた。つい、そちらに注目してしまう。オルトロス(双頭の犬)のほうを口に出さなくて良かったな、などと、下世話 なことも考えた。
「可愛い。若くてとても美味しそうだし。ふふっ、味見してみようかしら」
髪を解いた。ゆるくうねって小麦色に輝く、長い髪。菫 色の瞳は宝石のようにきらめいているが、瞳孔 は縦に裂けている。
「ほら、見て。ちゃんと『できる』わよ」
エキドナは艶 めかしい笑みを浮かべながら、ちょうど僕の顔の位置にあった下腹部に両手をやり、押し開くようにした。ぬめりを帯びた鱗の間から、確かに人間サイズのそれが見える。
僕だってまあ、そういうことは嫌いなほうではないし、彼女はとても美しいとは思う。だがこれはちょっとな。生々しすぎて全く嬉しくない。
どうしたものかな。何も用意していないけど……。
「おい、そこまでにしとけ。散れ散れ、ここはまだ、お社様 の縄張りだぞ」
背後から聞こえてきた声は、子供のように甲高くはあったが、その奥底に、神 さびた威厳を湛 えていた。周囲がぱっと明るくなり、唐突にまた、むしむしと暑くなった。
「おまえら、その辺うろついて、たまにちまっといたずらなんかしてるうちは見逃しておくけど、徒党を組んで悪さすんなら、容赦しねえぞ。ほれ、散れ」
エキドナの姿がふっと消えた。何か黒っぽい、手足の付いた小さな毛玉のようなものが、四方八方に飛び跳ねながら逃げていく。
「やれやれ」
言いながら、ペタペタと歩いてきたのは、暗緑色の子供……いや、河童だった。水墨画の世界から抜け出てきたような、丸っこくて柔らかい独特のフォルム。点みたいな目がとても愛らしい。ん? あの時僕が描いた河童に、なんとなく似てるような気も……。
河童は、僕の視線などものともせず、正面にやって来て仁王立ちした。
「こら、おまえ! おまえ、あの女の弟子にしちゃ、脇が甘すぎんじゃねえのか? こういう店には、付喪 やらなんやらよく寄ってくるから、気を付けろって言われてるだろ!」
今度は僕が叱られた。だが、全くもってその通りで、ぐうの音も出ない。
「すみません……」
「分かりゃいいんだよ。だけど気を付けろよホントに。おまえが風の神のお気に入りじゃなかったら、おれだって放っておいたんだからな!」
腕を組んでぷりぷりしている。力ある水神の眷属に対して不遜 ではあるが、ものすごく可愛らしいと思ってしまった。
「さて、こんなところで立ち話もなんだな。少し歩くか。おまえん家の近くまで送ってやるよ」
河童は腕組みを解くと、さっさと歩き出した。僕も慌てて従う。
こういう自由なところは、いかにも身近な妖怪って感じで、面白いなあ……。
三
道すがら、河童はぺちぺちと小気味よいリズムで足音をたてながら、楽しそうに僕に話かけてくれた。
「なあ、おまえ、知ってるか。風の神にはさ、長いこと、おれが見えてなかったんだ。そもそも『カッパ』がなんであるか知らなかったんだから、当たり前だよな。でもおれ、ずっと、風の神と仲良くなりたかったからさ。おまえがきっかけ作ってくれて、感謝してるんだよ」
そうなのか。僕も少しは、役に立てたということだろうか。そうならば、喜ばしいことだ。
だが、河童はちらりとこちらを見ると、今度は少しうつむいた。この先の話をするのは、あまり気が進まないようだ。
「あのさ。でも、そのことなんだけどさ。
おまえ、なんつーか、良くも悪くも、想像力が豊かすぎるんだよな。そんでそれを、相手に伝えるのがやたらうまい。さっきの付喪のねーちゃんもさ、なかなか美人で色っぽかったけど、あれ、おまえの妄想した姿から具現してたんだって、気付いてたか?」
「……!」
「おまえのそれ、かなり大きな力だし、祓い屋っておまえの職業に、合ってると言えば合ってる。だけど逆に、すげえ危ないっちゃ危ないんだよ。分かるか?」
「はい」
「風の神みたいな存在の大きなモノや、おれみたいに年経 て知恵のある妖怪はまだいい。自分で選べるから。だけど、今日みたいに、形も定まらないやつにうかつに現身 を与えてしまえば、命取りになることだってある。
お互いに、な。
な、それだけは、よーく覚えておくんだぞ」
「……はい」
いつの間にか、次の角を曲がると僕の家がある区画が見えてくる、というところまで来ていた。河童が足を止める。
「さて、もうここいらでいいだろ。おれはあっちの川の友達に会ってから行くよ。じゃあな」
上げた手をさっと一振りすると、だしぬけに方向を変え、さっさと歩いて行ってしまう。僕は二たび慌てて振り向き、その背に向かって一礼した。
「ありがとうございました!」
一陣の涼風が吹く。河童の姿は見えなくなった。
道の端で、まだ穂の青いススキがひと群れ、風に揺れている。その根元から、鈴虫の音が聴こえてきた。
僕の日課、沼のある公園への早朝散歩。そのコースから少し外れたところに、ちいさな
住宅街を歩いていると突然現れる(気がする)、こぢんまりした箱型のその洋館は、建物自体が文化財になっていて、時々なにかの撮影に使われたりもするらしい。
古今、和洋問わずの
の、だが……。
二
その日は、八月最後の水曜日だった。薄曇りで、朝からじわじわと蒸し暑く、風は吹いているけれど、生ぬるかった。僕はなんとなく沼での散歩を早めに切り上げ、その骨董店の前を通って帰ることにした。
朝早いので、店はまだ開いていない。入口ドア左のショーウィンドーを覗くと、茶道用の茶器が並べられていた。真ん中に鎮座している大ぶりの茶碗は、
右のショーウィンドーには、大きな壺が一つ。こちらは表面に荒れが無く、艶々黒々としていて、一見して新しいものだと分かる。添えられた木の札には、『古代ギリシア
いや、違うな。これはただ半裸なのではなく、下半身が何か……たぶん、蛇なんだ。従えているのも、よく見れば獅子ではなく、
「エキドナ……かな?」
思わず声に出して言ってしまってから、はっとした。「
気温と湿度がすっと下がって、生ぬるい風も止んだ。冷凍庫の中に突然放り込まれたような感覚だ。まずい。
僕とショーウィンドーの間の地面から、アスファルトの表皮をものともせず、なにかがぬるりと這い出してくる。それはつと立ち上がると、あっという間に僕の背丈を追い越して、頭上から眺め降ろしてきた。
エキドナ。上半身が美女で、下半身が蛇であるという、ギリシャ神話の
「あなた、私のことを良く知ってるのね」
一聴すると若い女性の声のようだが、複数の音が入り混じっていて、なにやら不快感がある。訝しく思って見上げると、かたちが整い、かつ豊かな乳房が、上下にかすかに弾んでいた。つい、そちらに注目してしまう。オルトロス(双頭の犬)のほうを口に出さなくて良かったな、などと、
「可愛い。若くてとても美味しそうだし。ふふっ、味見してみようかしら」
髪を解いた。ゆるくうねって小麦色に輝く、長い髪。
「ほら、見て。ちゃんと『できる』わよ」
エキドナは
僕だってまあ、そういうことは嫌いなほうではないし、彼女はとても美しいとは思う。だがこれはちょっとな。生々しすぎて全く嬉しくない。
どうしたものかな。何も用意していないけど……。
「おい、そこまでにしとけ。散れ散れ、ここはまだ、お
背後から聞こえてきた声は、子供のように甲高くはあったが、その奥底に、
「おまえら、その辺うろついて、たまにちまっといたずらなんかしてるうちは見逃しておくけど、徒党を組んで悪さすんなら、容赦しねえぞ。ほれ、散れ」
エキドナの姿がふっと消えた。何か黒っぽい、手足の付いた小さな毛玉のようなものが、四方八方に飛び跳ねながら逃げていく。
「やれやれ」
言いながら、ペタペタと歩いてきたのは、暗緑色の子供……いや、河童だった。水墨画の世界から抜け出てきたような、丸っこくて柔らかい独特のフォルム。点みたいな目がとても愛らしい。ん? あの時僕が描いた河童に、なんとなく似てるような気も……。
河童は、僕の視線などものともせず、正面にやって来て仁王立ちした。
「こら、おまえ! おまえ、あの女の弟子にしちゃ、脇が甘すぎんじゃねえのか? こういう店には、
今度は僕が叱られた。だが、全くもってその通りで、ぐうの音も出ない。
「すみません……」
「分かりゃいいんだよ。だけど気を付けろよホントに。おまえが風の神のお気に入りじゃなかったら、おれだって放っておいたんだからな!」
腕を組んでぷりぷりしている。力ある水神の眷属に対して
「さて、こんなところで立ち話もなんだな。少し歩くか。おまえん家の近くまで送ってやるよ」
河童は腕組みを解くと、さっさと歩き出した。僕も慌てて従う。
こういう自由なところは、いかにも身近な妖怪って感じで、面白いなあ……。
三
道すがら、河童はぺちぺちと小気味よいリズムで足音をたてながら、楽しそうに僕に話かけてくれた。
「なあ、おまえ、知ってるか。風の神にはさ、長いこと、おれが見えてなかったんだ。そもそも『カッパ』がなんであるか知らなかったんだから、当たり前だよな。でもおれ、ずっと、風の神と仲良くなりたかったからさ。おまえがきっかけ作ってくれて、感謝してるんだよ」
そうなのか。僕も少しは、役に立てたということだろうか。そうならば、喜ばしいことだ。
だが、河童はちらりとこちらを見ると、今度は少しうつむいた。この先の話をするのは、あまり気が進まないようだ。
「あのさ。でも、そのことなんだけどさ。
おまえ、なんつーか、良くも悪くも、想像力が豊かすぎるんだよな。そんでそれを、相手に伝えるのがやたらうまい。さっきの付喪のねーちゃんもさ、なかなか美人で色っぽかったけど、あれ、おまえの妄想した姿から具現してたんだって、気付いてたか?」
「……!」
「おまえのそれ、かなり大きな力だし、祓い屋っておまえの職業に、合ってると言えば合ってる。だけど逆に、すげえ危ないっちゃ危ないんだよ。分かるか?」
「はい」
「風の神みたいな存在の大きなモノや、おれみたいに
お互いに、な。
な、それだけは、よーく覚えておくんだぞ」
「……はい」
いつの間にか、次の角を曲がると僕の家がある区画が見えてくる、というところまで来ていた。河童が足を止める。
「さて、もうここいらでいいだろ。おれはあっちの川の友達に会ってから行くよ。じゃあな」
上げた手をさっと一振りすると、だしぬけに方向を変え、さっさと歩いて行ってしまう。僕は二たび慌てて振り向き、その背に向かって一礼した。
「ありがとうございました!」
一陣の涼風が吹く。河童の姿は見えなくなった。
道の端で、まだ穂の青いススキがひと群れ、風に揺れている。その根元から、鈴虫の音が聴こえてきた。