第1話

文字数 2,000文字

 私の家には、ちょっと奇妙なしきたりがある。
 毎日夜明けに北西の方向にお辞儀をすること。
 そして――これ。
 袋に入った手鏡。18歳の誕生日まで開けてはいけない事になってる。
 先祖のおみちさんの日記と共に代々伝わってきたもので、その日記はまるで冒険小説。小さい時から何度話を聞いても胸がドキドキした。


 時は江戸時代。
 おみちさんは、ひと月後に気に染まない祝言を控えて鬱々としていた。
 算術が苦手な養父母の金をまんまと番頭がごまかして、店に大きな借金ができたのが一年前。優しい養父母を救うため、断り続けていた豪商の息子への嫁入りを決意したのはいいけれど、息子はぼんくらの遊び人。若い身空をあいつに捧げるのかと思うと、おみちさんは毎日ため息ばかりついていた。
 部屋の片付けをしていたある日、おみちさんは押し入れの奥にあった奇妙な手鏡を見つけた。
 それは封印するかのように布でぐるぐる巻きにされ、その上に貼られた紙には
『幸せなる者、開けるべからず』
 って、大書されていた。
 おみちさんは、ぴーんときた。この手鏡はおりんさんのものだ。この部屋はもともと亡きお祖母様の妹、おりんさんの部屋だった。おりんさんは十八の時に書き置きを残して突然姿を消したらしい。
 腕っ節が強く、天狗を助けたって逸話も伝わっているおりんさんは、きっと冒険心の塊で意志の強い娘さん。床の間に飾られた絵の中の、悪戯っぽくつり上がった目を見ればすぐわかる。
 おみちさんは考えた。
 絶望的に不幸せな自分は、この封印を解いていいはずだ。
 どこか魅入られるような気持ちで、おみちさんは布を解いて手鏡を取り出す。
 その途端、まばゆい光が広がって、鏡面がぐらりと揺れた。
 目を開けた彼女が見たのは、鏡面に浮かび上がる青年。
 それは頭を白い布で覆い短い口ひげを蓄えた、切れ長の目をした殿方。手にした白いカップには炭のように黒い飲み物。
 どっきーーん! 愁いを帯びた表情はそのままおみちさんの心を撃ち抜いた。
「なんてすてきな異国の絵……え、ええっ」
 絵とばかり思っていた青年が突然動き出したのである。おみちさんは手鏡を放りだして畳の上にすっころぶ。這いつくばって慌てて逃げようとした、その時。
 鏡の中から
「あなた、どなた」
 たどたどしい日本語が聞こえてきた。
 恐る恐る手鏡の中をのぞき込む。髪に巻かれた白い布を孔雀の羽根つきの石榴(ざくろ)石の飾りで留めて、にっこり笑うその青年を見た時、おみちさんは思ったね。
 ああ、この人が運命の人だ。
 もちろんあの放蕩息子なんて、一瞬のうちに頭の中から消し飛んだ。
 それから毎日、毎日、おみちさんは鏡の中の殿方とおしゃべりをした。彼の飼っていた象や、大きな美しい白いお墓の話。驚いたことに彼は王子様で、そしてとても困った状況にあるらしかった。
 でも片言のおしゃべりはほんの少しの間だけ。突然画面がかき消えたあと、声だけが聞こえてすぐ終わりになるのが常だった。
 ある日、会話の途中で呼ばれた王子様が別室に行った後、おみちさんは見てしまう。王子様の黒い飲み物に、侍従が何かを入れたのを。
 毒? 伝えなきゃ。おみちさんの頭に血が上る。
 王子様はまず座ったあとに、きっと一口あれを飲む。
 うっとりと王子様の一挙一動を見ていたのは伊達ではない。王子様の行動はお見通しである。
 でも、おみちさんはその飲み物の名前を忘れていた。確か豆、豆から作った……。
 広い部屋のドアが開き、王子様が一人で戻って来た。早くこっちに来て。私を見て。
「飲んじゃだめ」
 叫びながら全力で首を振るおみちさんだが、王子様が気づく前に鏡の中の画像が不意に消えた。
 でも、まだ声なら聞こえる。おみちさんは叫んだ。
「黒豆の汁、飲まないでっ」
 泣きながら、手鏡を握りしめる。
 その時、鏡面が泡立つように揺れて急に大きく広がった。

 王子様に日本語を教えたのは異国から来た彼のお祖母様。
 おみちさんは気がついていた、王子様の目がおりんさんとよく似ていることを。
 彼女は、鏡がつなぐ時空旅行の先達だった――。

 しばらくして、おみちさんの家は計算が得意な婿を迎えて一気に立ち直った。
 黒い髪をきりりと結い上げたりりしい婿殿は、仕事はできるくせにちょっとつたないしゃべり方が可愛いと、町娘たちの間で大評判。おみちさんをヤキモキさせた、って。
 そうそう、私の家の奇妙なしきたりはもう一つある。
 おせちに入れる黒豆の甘い煮汁をガフェって呼んでるの。
 これ、ペルシャ語のコーヒーの発音に近いみたい。
 お祝い事の時にはこれを飲んで、ガフェって乾杯するのよ。


 ところで、私は今晩18歳になる。
 将来の進路は決まってないし、なんにも打ち込めるものがない。
 このまんま、流されるまま流れに乗って、平凡に年を取ってしまうのかしら?
 そんなの、いや。
 私は手鏡を袋から出し、冒険の扉を開ける。
 ガフェ!
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