第1話 老人

文字数 3,786文字

 私の生まれは貧しかった。石がただ積み重なってできたずさんな家が私の実家だった。風が吹けば外の砂が煙を撒いて家の隙間に押し寄せた。窓もドアなんてものはなかったが蝿はいなかった。理由は簡単で家に食べ物なんてなかったからだ。本当に何もなかったんだ。母に資産なんてものはなかったから母は体を売っていた。私はその事故で恐らく生まれた。私の父について何も話したことがないから多分そうだ。母は私をいつも恨めしそうに見ていた。だけど、私は恨んでいない。本当だ。
 私の故郷といえばいいのだろうか。貧しいものたちが集まってできた掃き溜めのようなところだった。故郷というと綺麗なものに思えてどうも違うような気がする。私のような子供がたくさんいてみんな、へどろがついたような汚い黒い服を着ていた。中にはどこかのスポーツチームのレプリカの服を着ていたやつもいたな。子供たちは太陽が昇ると同時に目が覚めて汚濁の川に集まっていた。腹が減ったまま寝たから朝はいつも空腹に叩き起こされるんだ。川には生物がいる。どれだけ汚くても何かしらの生物がいるんだ。私たちはそれをとって生きた。中には盗みを働く奴もいたがほとんどの奴はそれが原因でなぶり殺された。死体はいつも私たち貧民が見えるところに野晒しにされた。見せしめだっただろうがどのみち盗まなくても餓死する。だからそんなことは全く意味がなかった。だからいつも死体があった。あぁ、それに娼婦の死体もあった。なぶり殺しにされた死体も酷かったが私は女だからな。性器に精子を散々入れ込まれた後に棒で突っ込まれた死体なんかが多かったから娼婦の方が凄惨な死に方だと思った。
 ドブ川の生物を食べた後は狭い街の中を適当にぶらついた。運が悪ければ朝食の生物にあたって一日中嘔吐した。死にたいと思うほどしんどいが運が悪いことに死ねない。街の中は所狭しと建物が立っていた。小高い丘を切り崩して強引に人が住んでいった土地だった。だから道は路地裏のようにどこも狭いし階段ばかりだった。だけど高い建築物なんてものはなかったから太陽が傾くまでならどこも太陽が当たり一見すると活気がある街に見える。中に入れば地獄だが。どこにいっても街の中は臭いし大人や子供が体を地べたにつけていた。仕事なんてないから日中にプラつく大人も多くいた。みんな顔が死んでいた。私は体が丈夫な子供だったから街の中で一番高い場所を目指していつも歩いていた。上にのぼっていく感覚が好きだったんだ。何もない青い空が近くなっていってどこまでも飛んでいく鳥とも距離が近くなる。解放されていくような、もっと明確に表現すれば自由を身近に感じられるような気がした。空の先にはきっと美味い食べ物があって、綺麗な川もあって、人の遺体だってここよりは転がってないと世界について思いを巡らせた。想像してるだけなのに楽しかったんだ。現実を知らない子供の特権だ。
 一番空に近い家の屋根にかかった梯子を上り屋根に腰を下ろした。私と同じ視線より上は雲と空があった。眼下には陽光に照らされた一見綺麗そうに見える貧民街区があった。空に近いその場所では空の風がよく体に当たって気持ちよくて鳥が感じるような空で飛ぶ自由の風味のようなものを感じた。多少の空腹を無視してそれを見ることができたが栄養を欲している胃液が私の胃を溶かし始める痛みには耐えきれなかった。だからだいたい昼が過ぎたあたりでご飯を食べるためにあの汚い川に戻る。そのために当然梯子を使い屋根から降りた。すると、ここの家の家主の老人がいつも立ってたんだ。上るときはいつもいないくせに私の腹の虫の声が聞こえたかのようにいいタイミングで下りるときはいた。老人は言う。「腹を満たしたくないか」と。この老人はいつもそう言っていた。だから私は「老人が獲れる生き物は川にいない」と老人を通りすぎて言った。すると老人は若輩者を煽る嫌な高笑いをした。「お前が知らないことを私は知っている。それを試せばお前は川にいる大きな魚を食べられる」私はその言葉を無視して川に行った。この貧民街区で老人は珍しかった。理由は単純で老人が生きられるほどこの地区は優しくないからだ。だから今でもなぜ老人になってまでも生きられたか疑問が尽きない。




 私が空に近づくために屋根に上り、降りる時はいつも老人がいた。毎度、毎度、毎度。しつこかった。それにあの高笑いがどうも勘に触った。どうせすぐに死ぬだろうと思い我慢していたが老人はいつまで経っても死ななかった。数ヶ月だろうか。半年だろうか。老人のうざ絡みを無視し続けていたが限界がきてしまった。
「そんなに言うならあんたが獲ればいいだろ」
「私はその方法がどうも下手でな。だからお前にやって欲しい」
「何も獲れなかったらもう私にかまうなよ」
「よいよい」
老人はまるでインコが頭を意味もなく上下に振るようにてきとうに頷いた。私はその姿にまた苛立った。
 老人の遅い足取りに合わせて小川まで歩いた。老人は顔を少しだけ左右に動かして狭い路地に横たわる人々を見ていた。私はその行動は厄介な奴に絡まれやすくなるからやめろと言ったが老人は大丈夫だと言いそれを続けた。見ても何もならないのにそんなリスクを背負う老人は馬鹿だと心底思った。私は距離をとって老人の後ろを見ながら歩いていた。だから、いつもなら走ってあっとうまにすぎてしまう道を私もそれなりに見てしまった。当然、人は視界に映さなかった。こんなことで強姦や殺されたりしたら笑えないからな。臭いは当然相変わらず酷かった。誰かの血痕が道の中央に当然のようにあった。行き交う人々はそれを気にしなかった。私も気にしなかった。だからその上を踏んで歩いた。が、老人だけはわざわざ迂回してそれを踏まなかった。少し遠いところから誰かの怒鳴り声が聞こえた。私はまた誰かが誰かを襲ってるだけだと思った。しかし、老人はその方向に振り向きしばし立ち止まった。私は変人のせいで絡まれたくないと思った。だから私も立ち止まって他人のふりをして老人が歩くのを待った。絹を裂くような女の悲鳴が聞こえた。老人は急いでその方向に走っていた。日中の太陽すら拒む細い細い暗い道に呑まれるように老人の背中が闇の中で消えていった。私も移動した。もう会うことはないだろう。


 一人で小川に着いた私は食べられる生物を探していた。油か何かが浮いた川はいつも川底が見えないほどに黒かった。だから目視で水生生物が見えることがまずなかったので手探りで生き物を探した。下水と同じくらい臭いが生きために仕方なくそうした。それを六時間しても何も獲れない時は我慢して寝るしかなかった。その日は獲れない日だった。汚い小川から出て川と同じ色に染まった黒い服を脱ぎ捨てた。家に帰っても薬物を打つ狂った母しかない。そんなもので腹は満たされない。途方にくれた私は空を見上げた。斜陽が貧民街の外にある立派な街の建物に完全に隠されていたせいで空はどことなく明るいが地上は夜だと思うほどに暗かった。暖色に満ちた綺麗な空がこの世の掃き溜めで生きる私をみくだすんだ。私は子供ながらにあぁ、惨めだとしみじみと思った。こんな日にはいつも強姦され殺された精子まみれのあの死体に群がる蛆虫を食べた。その死人の肉を食べようかと思ったこともあった。だが、口に入れた直前であまりにも自分が気持ち悪いと思い吐き出した。その日は自分のことを卑下した。生きる価値がないと思うほどに卑下しそれでも腹が空く自分に涙を流した。
私は投げ捨てた服を拾い水を絞った。腹が減り力が入らないから少ししか絞れなかった。そして、空腹で震える手を上げて服を着た。私は空に行きたかった。そこは綺麗だったから。そこはきっと蛆虫よりマシなものが食べられるから。私が汚れることがきっとないと思ったから。
「ここにおったか」
振り向くと老人がいた。片手には生き物のように動くビニール袋があった。
「生きていたのか」
「私はな………。」
ビニール袋が鳴った。私が反射してそれに視線をやった。すると老人はそのビニール袋を私に差し出した。私は訝しい目をしたが老人は気さくな顔でほれと言い私に持たせようとした。
「なんだよこれ」
「魚が入ってる」
「魚?どうやって獲ったんだ?動きが速いのに」
私が矢継ぎ早にそう言うと老人は背を向け歩き出した。
「今はそんなことより腹が減ってかなわない。先にご飯を食べよう」
「くれるのか⁉︎」
私は興奮して言った。本当にただ嬉しかった。まともなものが食べられるからな。
「ほほ。一人では食べきれんからな」
私はその言葉を聞いた途端に笑顔になった。こいつはいいやつだ!間違いなくいいやつだ!とご飯をくれたから思った。アホだと思わないか。
「私が魚を持つよ」
「急に優しくなりおって」
老人が笑った。日が沈んで貧民街が真っ暗になった帰り道だった。変わらず道は臭いし狭いし道端には人間が死んだ目で横になっていた。だが、隣には老人がいた。食べ物があった。家に帰ったらご飯にありつける。そう考えただけでとても楽しくて嬉しかった。恐らく、幼少期に誰もが感じるであろう幸福な帰路だったと思う。今でもふと思い出すんだ。今回だけのことじゃない。それから老人と何度も往復したこの帰路を。あの頃は今がずっと続くと思っていた。
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