第二話 蛆虫

文字数 5,220文字

 珍しく腹がふくれた私は昼まで寝てしまった。起きたきっかけは老人が錆びた小さな鉄を石で研磨している音だった。腰を曲げて座っている老人は片手を水が入ったバケツに入れて水を掬い平らな石の上にそれを撒いた。そして錆びた鉄の側面を斜めにしてその濡れた石に擦り当てた石の上ではきめ細かい砂が鉄を削っているような細く鋭い音が聞こえた。その音は最初は強く鋭い音が出るが最後にはそれが少しずつ消え失せていった。等間隔で聞こえてくるそれはまるでさざなみのように強く聞こえては遠くなっていった。
「この方法はここから遠い国のやり方だ。時間はかかるがその分いいものができる」
小慣れた手つきでナイフを磨ぐ老人が言った。
「ナイフでも作って誰かを脅すのか」
「奪うことは何も得られない。いつかそれは自分を破滅させるものにしかならない」
錆びがとれた鉄は光沢を放ち老人の瞳を掠めた。
「だが、それは人を傷つける以外に使い道はないだろ」
「よいか。これは私がお前に最初に教える最も重要なことだ」
地べたで横になっていた私は起き上がり石壁に背中をつけた。ドアのない部屋の入り口からは強い昼の陽光が差し込んでいた。私は老人の背にあるそれを見てぼんやりと屋上に行くか、食べ物を獲りに行くか。腹をさすりながら考えていた。
「世の中にあるほとんどのものは最初に作ったものが意図した使い方をされていない。だからそれらを使うときはそれが作られた意図を汲み取り使いなさい」
「なら、どうやったら上手に殺せるか考えろってことか」
「原始時代の私たちの祖先は仲間を殺すためではなく食糧を取るために石を研磨し刃を形成した」鋭い光が私の目を刺すように入った。すぐに顔を横にずらして痛い光の光源に目を向けた。鉄は私が思った通りナイフだった。老人はそのナイフを石の柄にはめ込み細い糸で硬く縛っていた。「私が知る限り人が人を殺すために一から発明したものは原子爆弾とミサイルと化学スモッグしかない」
「三つもあるのかよ」
「人の歴史でその三つしかない」
「三つしか…………ね」
私は老人が布の中にしまったナイフをまじまじ見ながら言った。
「人の歴史は長い。その中でいいものの方がはるかにたくさん生まれている」老人がよぼよぼと立ち上がった。そして入り口に立てかけた二つの細い棒を持った。「魚を獲りに行くぞ」
私は貧相な細い棒を見て猜疑心を向けた。
「まさかそんなので昨日の魚を獲ったとか言わないだろうな」
「まさかのまさかだ。知識とは人間の体感から得られる常識をこえるものだと知れるぞ」
「なに言ってんだが」
私は立ち上がり老人と外に出た。すると、昼の太陽が想像以上に強く私を照らした。それがあまりにも強く思えて私は目を窄めてしまった。
「今日は荷物を持ってくれないのか」
腰を曲げている老人が図々しく言った。
「またご飯を持って帰れたら持つ」
「ほほ。」微笑んだ老人が先に歩いた。「お前がまた目を輝かせる様を見るのが楽しみだ」
貧民街の中で一番高い私たちの場所では太陽が直接当たる。私は人生で初めて昼まで寝たのに太陽の暖かさのせいか。まだ寝足りないような気がして目を閉じた。
「なんだ。寝ぼけているのか」
「腹が少ししか減ってないんだ。いつもは死にそうなのに。だから、初めてご飯を獲りに行くのが嫌な気分になってる」
「なら行くのをやめるか」
「どうせ腹は減るんだ。行くしかない」
「ほほ。そうだな。」老人が少し笑った。「あぁ、全くその通りだ」
気だるさの中で目を開けた。顔を上げて空を見た。なんだかこの世界も悪くないと思った。腹が減ってないだけでだ。だけど、それほど重要なことも世の中にはあまりないのかもしれない。







 私たちが汚い川にきて三時間ほど経過した。私は貧相な棒を持たされその先に吊り下げられた水に沈む糸を見ていた。釣りというやつだ。これは大変に根気がいる作業だ。魚がいるかもしれないし、いないかもしれない水の中に釣り糸をぶら下げてひたすらに魚がくるのを待つしかない。釣りを知っていれば、もしくは一回でも釣れていれば魚はくると思いそれなりに待てる……………訂正しよう。私は釣りを知っている今でも待つのは嫌いだ。
「あんた、私に嘘ついてるだろ」
「おっかしいな―――」
老人が呆けた声を出した。私は腹が立って竿をグイングインと動かして老人にキツくいった。
「おかしいなじゃないだろ!もう太陽があんなに斜めになってるんだぞ!」
「まぁまぁ、そう釣り糸を動かしてはせっかく寄ってきた魚が逃げるぞ」
老人はほほと微笑み、私は大変に苛立っていた。老人と二人で呑気に座り数時間も経っていた。通り過ぎる人間たちには川に糸を垂らす奇人たちに何回もなにをしてると聞いてきた。だから何度も聞かれては老人が「魚が獲れる」と答えた。それを聞いた奴らは私たちを馬鹿にして鼻で笑ってどこかに行った。私だって信じられなかった。だが、昨日の魚を見たからにはこの方法があってるかもしれないと信じてずっとつきあった。
「川の下が見えないのにいるとかてきとうなこと言うなよ」
だが、我慢と空腹の限界でもう信じることはできなかった。
「あと少し待つんだ。そうすれば釣れるような気がする」
「今日で何度目の釣れるかもしれないだよ」
「ほほ。できないと思いやるよりできると思いやる方がものごとは面白いものだぞ」
「だぞ。じゃねーよ。もう私はいつも通り飯を探すからな」
私は釣竿を老人に投げた。老人は私の怒っている姿を見るとほほとまた腹が立つ笑い方をした。





 陽が沈むまで時間が経過した。私の成果はまたしてもなかった。
「今日もかよ」
川から出た私は汚い水が染み込んだ服を脱ぎ捨てた。膝に手をつけ垂れ下がった前髪から落ちていく水を眺めた。腹がふくれていたあの朝はあんなに幸福だったのに今はいつも通り惨めなものになった。最悪なんてものじゃない。
「どうやら今日は生きるためのご飯を食べるしかなさそうだな」
老人が来た。
「魚は」
「ない」
私は深いため息を出した。わずかに期待していた。私は脱いだ服を殴るようにとった。そして当てもなく足をふらつかせ歩いた。
「どこに行く」
「どこでもいいだろ」
あたりは真っ暗だった。だから私は頭を下げてどこも見ることもなく歩いた。
「食べるあてがあるのか」
「…………………。」
私の足は半歩ずつしか歩かなかった。当然だ。生きる理由もないのに生きるために無様なことをしようとしてるのだから。だが、止めることができなかった。私の気持ちに反して体はもうそれしかないと知っていたから。
「私も食べるあてがる」
私はすぐに足を止め老人に振り向いた。死体に群がる蛆虫を食べることを避けられるかもしれない。
「なんだ」
「気は進まんがな」
「気は進まないって」私は顔をすぐに曇らせた。「あんたも同じことを考えてたのか」
「そうだろうな」
私は酷く落胆した。一時的でも私を幸福にしてくれたこの老人なら何か妙案があるだろうと希望を抱いていた。
「なぁ……………。」
「なんだ」
私は歩きたくなかった。先が全く見えないこの暗い道を。だから老人に話しかけた。
「死体に群がる蛆虫は食うのに死体を食うことはできないんだ」老人が歩いてきた。私は後ろめたさを覚えて自分の足元を見た。「その蛆虫が食べてるものは死体だ。だから死体を食べてるようなものなのに死体そのものを食うとなると無理になるんだ」
「私も同じだ。蛆虫は食えるのにご遺体は無理だった」
老人の足が見えた。
「嘘だろ。そもそもあんたは魚を獲れるんだ。蛆虫を食うことすら───」
「友のご遺体だった」
「は?」
老人の顔を見てしまった。老人は空を見ていた。星がまだ出ていない空だった。だから瞳が黒かった。
「自軍と離れてしまった私たちはなにも食べることができずに何日もジャングルの中で敵兵から逃げていた。お互いに励ましいあいどうにか生き残っていた」老人が息を深く吸った。そして、「ある日の夜のことだ」と枯れた声で呟いた。「敵軍に見つかり友が撃たれてしまった。私は友を背負い懸命に逃げた。まるで泥濘の中を歩くように足が重く、いくら進んでも全く進んだ気がしなかった。しかし、死にたくないと思い必死に逃げた。やがて木々の間を縫う光が見えた。太陽が昇ったのだ。私はそのくらい歩いたのかと思うと安心して腰をおろした。すると、私の後ろから薮が折れた音が聞こえた。私は敵兵だと思い慌てて振り向いた。そこにいたのは友だった。私はあまりにも必死に逃げたせいで友を背負っていたことを忘れていた。だから私は今頃になって友に大丈夫かと声をかけた。返事はなかった。………………」老人はシワだらけの細い腕を背中に回して探るように手を動かした。「…………死んでいたんだ」奇しくも星の光が地上に届いた。そのせいで老人の顔の凹凸が強調された。肉がやや垂れた鼻先が白く光り、頬は暗くぼんやりとしていた。まつげはまるで一滴の雫が光を通すがごとく輝きその下にある瞳は闇に隠されるせいかひどく朦朧としているように見えた。震えた唇から老人のため息が漏れた。「私は友の死を悲しんだ。だが、私はそう時間が経たない内に友の肉が美味しそうに見えたんだ。もう一週間もまともなものを食べてなかった。だからようやく食べられる肉があるとふと思ってしまった。だが、そんなことをしていいはずがない。どのような状況であろうとも友の死肉を食べる行為が赦されるはずがない。そう考えたのに私の口からは涎が溢れていた」老人の唇に力が入った。細い腕には青筋が立った。両手で握られた拳は今も褪せることがない老人の怒りが伝わった。
「………………。」
「……………………。」
「……………………………………。」
「……………………………………………。」









「……………………けど食べなかったんだろ」
老人はその言葉を聞くと眉を下げ瞼を閉じた。
「………………………。」
「………………………………。」
「……………………………………。」
まだ無言が続いた。だが、微かに啜り泣くような彼の吐息だけが聞こえた。
「…………………………。」
「…………………………。」
「獣のごとく友の腕に齧りついた。そして私は彼の骨が見えるほどの肉片を引きちぎった。…………………。血が口の中で溢れかえった。鉄臭く冷たく油のようにドロッとしていた。ふと友の顔を見た。すると、涙が溢れ出てきたんだ。そのせいで全身に力が入らなくなり私の口から友の肉片が落ちた。その時、私も今のお前と同じことを思った。どうして生きてるのだろうと。どうしてそこまでして生きているだろうと。生きる理由などないのに。どうしてだろうと」
「私はそんなこと───」
「わかるさ。……………わかるとも。そこまでしなければ生きられないからこそわかる」
老人が星を見た。私は…………私はどこを見ていただろうか。
「………………。あんたはどうして生きてるんだ」
「お前と一緒だ。空を見てあの先に自由を求めて走って生きていた」
「ならここが……こんな場所があんたにとっての自由なのか」
「もう年老いてしまった。だからここで静かに死のうと思っていた」
「こんな場所を死に場所に選ぶなんて空の先に行ってもたいして変わらないんだな」
「それはお前の目で見て確かめるしかない」
「なんだよそれ。あんたがここにいるってことはしょせんこの世界はそんなものだってことだろ」
老人の足音が聞こえた。私の前を過ぎて私が行こうとした明かりのない道を歩き始めた。
「いいのか。外を見ないで死んで」
「変わらないんだろ」
「本当にそう思うか」
老人の足音が遠ざかっていく。この老人の歩調は暗闇でもいつも変わらずとぼとぼしていた。だから耳に長く、足音の数だって多く残る。
「あんたがここにいるからそうに決まってる」
「ほほほ。本当にそうか」
いつもの馬鹿にした笑い方が私を煽った。本当に全てが勘に触る老人だと思った。
「今日も明日も蛆虫かもしれないんだぞ」
「明日は違うものが食べられる」
「どんなものが」
「魚に決まってる。また腹がふくれれば昼まで寝れるぞ」
「そんなことに意味なんて──」
「幸せだっただろ」
「けど腹が減ったら惨めになる」
「なら毎日、魚を食べればいい」
「そんなの無理だ」
「ほほほ。なら私だけが明日の魚を食べられるな」
「は?」
「お前さんは今日を生きるつもりがないのだろ。それなら明日の魚なんてないぞ」
「ずるいだろ。そんなの!」
魚の味を覚えてしまった私は大声で老人に言った。しかし老人の声は返ってこなかった。私は魚の油やあのほろほろした白身を思い出した。今までよくわからない美味しくもないものばかり食べてきた私にとってはご馳走だ。私はそれを老人一人が食べる姿を思い浮かべてずるいと地団駄して思った。子供の頃の私は大変に意地汚かった。
「待てって!私も行くよ!」
私はこうして老人の口車に乗せられた。それも一度や二度じゃないんだ。おかげで今も生きるはめになった。
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