あの子の居ない三年間

文字数 3,165文字

ところが遠くの街に奉公に出ても、弟の献身は止みませんでした。もともと毎月、文で様子を知らせる約束でしたが、仕送りまで入っていました。

驚いた姉さんは、弟の残した読み書きの教本とにらめっこしながら、

『アンタががんばって稼いだお金じゃろう。自分のために使いなさい』

なんとか返事を出して、お金も送り返したものの

『俺は姉さんにいい暮らしをさせたくて働きに出たんだ。姉さんがもらってくれなきゃ意味が無い。だから遠慮しないで受け取って、少しはいいものを食え。姉さんは痩せすぎだ』

弟のほうが読み書きができるので、倍の注意が返って来て

(もうどっちが保護者か分からん……)

姉さんは落ち込みつつ、弟の厚意を素直に受け取ることにしました。ただ弟が苦労して稼いだお金だと思うと、もったいなくて使えず、全て貯金していました。

『街の女の人たちは綺麗なんじゃろうな?』

遠回しに気になる子は居ないのかと、探りを入れた時も

『街の女は髪を綺麗に整えて、かんざしを挿している。顔に白粉をはたいて、唇に紅を引いている。明るい色の着物を着て、わらじじゃなくて下駄を履いている』

弟は淡々と見たままを報告すると

『村に帰る時には街で見た綺麗なもの全部、姉さんに買って行ってやる』

(違うんじゃ……。ねだっとるんじゃないんじゃ……)

『あと、街にはたくさん女がいるが、姉さんがいちばん綺麗だ』

姉さんはその言葉にやけに動揺してしまい、文を抱きしめてしばし震えていました。


おっかさんや村人たちの予想とは裏腹に、弟からの月一の文は三年間絶えることなく続きました。三年間の奉公が終わる一月前に届いた文には

『俺の気持ちは三年前と全く変わらん。帰ったら姉さんは俺のものになるんだから、いざとなって焦らんように、よく気構えしておけ』

弟からの帰郷の知らせを受け取った姉さんは、

(あの子はせっかく街に行ったのに、よそ見もせんで、おらのところに帰って来るんか。本気でおらを嫁にするために)

弟に会えるのは、とても嬉しいことです。でも三年前に手放したはずの弟の厚意を、このまま受け取ってしまっていいものか、姉さんは戸惑いました。

おっかさんに迷いを打ち明けると、

「いいに決まっとるじゃろうが。むしろここまでしてくれる男の想いに応えんほうが失礼じゃろう。だいたいあの強情者に面と向かって迫られて、気の弱いアンタが拒めるんか?」

拒めんじゃろうなぁ……と姉さんは容易く想像できました。

(拒めんかったら、どうなるんじゃろう?)

別れの日。髪に口づけをされたことを思い出した姉さんは、これからはああいう触れ合いをするんじゃろうかと想像して、恥ずかしさに打ち震えました。

真っ赤になって俯く姉さんを見ながら、おっかさんは

(もう二十三じゃと言うのに、本当におぼこい子じゃねぇ)

と呆れつつ、苦労ばかりだった娘に、ようやく春が訪れることを、楽しみにしていました。


しかし約束の日を一月過ぎても、弟は村に帰って来ませんでした。三年間、欠かさず届いていた文も、ぱったり来なくなりました。

村の人たちは「やっぱり捨てられたんだ」「そりゃそうだ」と同情半分、悪意半分噂しました。

けれど弟からの最後の文の内容を知る、姉さんとおっかさんだけは

「あの子は気難しくて不愛想じゃが、自分からした約束を勝手に反故にするような不義理な人間じゃない。もし結婚をやめるにしても、キチンとアンタに話を通すはずじゃ」

しかしその見解が正しいとすれば、弟の身に連絡も寄こせないほどの何かが起きたことになります。

姉さんは心配で居ても立っても居られなくなり、おっかさんの了解を得ると、弟を探しに街へ行くことにしました。


この村から弟の居る街へ向かうには、途中で山も越えなければなりません。大の男でも行き来をためらうほど遠路を、それも若い女性が一人で行くのは、とても危険なことでした。

それに姉さんは、この村から一度も出たことがありません。それでも、どうしても弟の無事を確かめたくて、せめてもの用心として男装して旅に出ました。

着物に塩が浮くほど汗にまみれて、息を切らして山を越え、足を棒にして、何日もかけて街までの遠路を歩き通しました。

頻繁に文をもらっていたので、弟がどこで働いているのかは知っていました。


街につくと姉さんはさっそく、弟が働いていた店を訪ねました。

小汚い旅人の入店に、中に居た店員や客は顔をしかめました。しかし今は周りの顔色など気にしている余裕が無く、姉さんはここで弟が働いていませんかと尋ねました。

弟の名前を聞いた店員は

「若旦那のお知り合いですか?」

「若旦那? いいえ。その子は、ただの奉公人です」

「最初は奉公人でしたが、この店のお嬢さんに気に入られて結婚されたんですよ。だから今は、ここの若旦那なんです」

姉さんは相手が何を言っているか分かりませんでした。弟はつい最近まで自分と結婚しようとしていたのですから、このお店のお嬢さんと結婚してしまうはずがありません。

ところが店員に

「もうすぐ帰って来るはずですよ、ほら」

指された先を見ると、そこには別れた頃より大きく逞しく成長した弟がいました。仕立てのいい着物を着ているのもあり、見違えるように立派な姿でした。さらに弟の隣には、まるで絵に描いたように似合いの美しい女性が立っていました。

目の前の光景が信じられず、姉さんは思わず弟の名前を呼びました。

名前を呼ばれて初めて、弟は姉さんの存在に気づいたように

「なんで俺の名前を……もしかして、あなたは俺の知り合いですか?」

まるで初対面のような態度に、姉さんは戸惑いながら、

「俺の知り合いかって、どういう意味じゃ? もしかしても何も、おらはアンタの……」

しかし姉だと名乗る前に、大店の娘がスッと割り込んで、

「すみませんが、主人は高熱を出したせいで、記憶を失くしているんです。お話ならまず私が伺いますから」

そう言って強引に、二人を引き離しました。


店から遠く離れた路地に連れ出された姉さんは、大店の娘から詳しい経緯を聞きました。

弟が最後の文を出した後、原因不明の高熱で倒れたこと。次に目が覚めた時には、ここに来る以前の全ての記憶を失っていたこと。

それを聞いた姉さんは、記憶喪失には納得したものの、

「でも記憶を失ってから今日までそんなに日にちは経っとらんはずなのに、もう結婚して若旦那って。いったいどういう成り行きで?」

大店の娘によると、記憶を失う前から彼女は弟に好意を持っていたそうです。また弟は働き者で勉強家だったので、娘の父親にも見込まれて「ぜひ婿に来てくれ」と求められていました。

しかし当の弟だけが、

「ありがたい話だけど、自分には結婚の約束をした人が居るから、と。どうやらその人に恩義があるようで、どうしても借りを返さなければならないからと、その時は断られたんです」

けれど記憶を失った弟は、一目で大店の娘に好意を持ったそうです。こんなに美しい女性は、今まで見たことがないと。

そこで昔のことはあえて伏せたまま、もう一度縁談を持ちかけたら、今度は喜んで承諾したと言います。

「あなたがお考えのように、普通ならあり得ないくらいの即決ですよね。でもそれだけ本心では、私を求めてくださっていたんだと思います。ただ真面目な人ですから過去の恩義に縛られて、素直になれなかったのでしょうね」

大店の娘は、少し困ったように微笑みながら、

「ですから私は、あの人に過去のことを思い出して欲しくないんです。結婚の約束をしていたという方には気の毒ですが、恩義のために好きでもない女と結婚するなんて、あの人にとっては不幸でしょう?」

だから姉さんには、このまま弟に会わないで帰って欲しいと頼みました。あなたと主人の関係は分からないけど、過去のことを思い出せばあの人は、また昔の約束に縛られて苦しむだろうからと。
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