この世でただ一人の
文字数 3,963文字
弟の母親は、流れ者の小汚い女でした。
いつどこからやって来たのか、いつの間にか村の隅っこに住みついて、野良猫のように子を孕み、育てきれずにこの世を去りました。
物心つく頃には弟はすでに一人で、村の人の慈悲によって育てられていました。
しかし自分の子でもない弟を最初に引き取って育てたのは、本当は心当たりのある者だったのでしょう。
女だけで子を授かることはできない以上、父親が存在するはずです。
ただ父親候補が一人とは限りませんし、周知されるには具合の悪い話ですから、あくまで弟は『身寄りの無い子』でした。
喋れるようになると同時に、大人たちの『教育』がはじまりました。
働かざる者、食うべからずだ。
うちだって生活が苦しいのに、自分の子でもないお前を引き取って育ててやっているんだ。
当たり前のことではないんだから、よくよく感謝して、早く恩を返せるようにならなきゃダメだ。
働きで返せないうちは、笑顔と言葉で返すんだ。ほら、嬉しいです。助かりました。ありがとうございますって言うんだよ。
(……要するに役に立てんうちは、犬みたいに尻尾を振って媚びて見せろということじゃ)
他の子どもがするように愛想をよくすれば、もう少し楽に生きられたかもしれません。
しかし生まれつき気性の激しい弟には、どうしても低く出ることができませんでした。
自分を叩く相手を殴り返すと、子どもでも大人でもやられたヤツは大げさに泣き喚いて「いきなり乱暴された」と弟を悪者にしました。
周りは必ず孤児で不愛想で協調性の無い弟を疑いました。
しかし実際は弟から手をあげたことも無ければ、家のものを盗み食いしたことも、物を壊したことも、嘘を吐いたこともありません。
それでも
(真実かどうかは関係ない。人は数の多いほう、力のあるほう、愛しとるほうに味方する)
(じゃから負けるのはいつも俺じゃ。俺は一人で、力も無く、愛されてもおらんから)
それでも自分を捻じ曲げようとする力に負けて、都合のいい人間にされることを弟は拒みました。
七歳になると、これまで『親切』にしてくれた人の家を飛び出して、人の施しを拒否して、虫やカエルや蛇を捕まえて食べていました。
獣じみた振る舞いをする弟を、
『人の道理を解さない畜生のようなヤツだ』
『野良犬だってエサをもらえば芸くらい覚える』
と村の人たちは忌み嫌いました。
弟は自分がなんて言われているのか知りつつ、
(俺はあいつらを喜ばせるための芸など覚えとうない)
(あいつらのいちばん下について、おこぼれをもらって生きるくらいなら、腹が減ったままでええ。屋根の無いままでええ)
と意地を張り続けていました。
しかし冬が近づくにつれて、動物も草花も姿を消して食べ物が取りづらくなりました。
目を閉じても眠れないほどの寒さと飢えに、弟は毎夜さいなまれました。
そのうち寒さや飢えも感じないほど、全ての感覚が遠ざかり、ぼんやりして来ました。
このまま静かに目を閉じていれば、いずれ自分が消えていくことが弟には分かりました。
その安らぎに逆らってまで生きる意味が、弟にはありませんでした。
けれど、ある日。弟は夢うつつに、誰かの声を聞きました。
「ダメじゃよ。こんなところに一人で寝とったら。もうすぐ冬が来るのに寒くて死んじまうよ」
その人は冷たい大地の上に、死体のように横たわった弟の傍にしゃがみ込み、
「冬が終わるまで、うちにおいで。アンタが嫌なことは、なんもせんでええから」
恐る恐る肩を揺らし、懸命に声をかけながら
「こんな寂しいところで、なんの楽しみも知らんまま、ひとりで死んだりせんで……」
頬の上に温かな雫が落ちるのを感じて、弟が薄目を開くと、
(なんでこの人は泣いとるんじゃ)
自分を見下ろす泣き顔が不思議で、何気なく手を伸ばすと、姉さんは両手で弟の手を握りました。
それは助けを求めての行為ではありませんでしたが、姉さんは了承と誤解して、小さな弟を背負って連れ帰りました。
(大人は逆らうと叩くから嫌いじゃ)
(子どもは意味もなく叩くから嫌いじゃ)
でも、この半端な大きさの姉さんのことは、まだ何も知りません。
嫌ならまた出て行けばいいだけだと、そのまま身を委ねました。
姉さんは自分の食事を半分、いつもボーッとして、話すことも笑うこともしない弟に分けてくれました。
冷たい水をぶっかけるのではなく、沸かしたお湯で丁寧に汚れた体を拭いてくれました。
食べるためや屋根を借りるために、何かしろと言われることは一度も無くて、
「これっぽっちのご飯じゃ足りんじゃろうに、いつも文句も言わんで、なんでも食べてええ子じゃね」
ただ大人しくご飯を食べるだけのことで、優しく頭を撫でてくれました。
大人に頭を撫でられるのは嫌いでした。撫でてやれば喜ぶだろうと、侮られていることを知っていたから。
それなのに姉さんに撫でられるのは、不思議と嫌じゃありませんでした。
(なんでこの人は俺を撫でる?)
(なんでこの人は俺に笑う?)
弟はある日、その疑問を姉さんにぶつけました。
「なんでアンタは、なんの役にも立たん俺を撫でる?」
まず姉さんは喋れないと思っていた弟が、実は喋れたことに驚きました。
その喜びも手伝って、姉さんは笑顔で
「アンタは大人しくてええ子じゃから、ここにおってくれるだけで嬉しくて、撫でたくなるんじゃ」
野良犬みたいな孤児が居るという噂を、姉さんも聞いていました。
暴力的で嘘吐きで盗み癖のある、とんでもない悪たれだと。
しかし実際に拾って来て一緒に暮らすようになると、無愛想なだけで、むしろ普通の子よりも大人しく、なんの問題も無い子だと分かりました。
さらに弟自身も知らないことですが、
「それにいつもおらの後をついて来るのが、弟みたいで可愛いんじゃ」
その言葉で弟ははじめて自分が無意識に、この人が視界から消えないように追いかけていたことに気付きました。
(要するに俺はこの人に、気付かんうちに尻尾を振っとったのか)
自分が甘ったれの子犬のようで恥ずかしくなりました。
けれど、可愛がられるために懐くのではなく、自然に懐いて可愛がられるのは嫌ではないと感じました。
はじめて感じる温かさや安らぎにヌクヌクしているうちに、冬は過ぎて行きました。
しかし
『冬が終わるまで、うちにおいで』
姉さんの言葉を思い出して、春になったら出て行かなくちゃいけないのかと、弟は怖くなりました。
(この人は優しいが、家は貧しい。この人のおっかさんは俺をごく潰しだと嫌っとる。実際、この人の食いもんを奪っとる。ずっと置いてもらえるはずがない……)
自分の存在は姉さんにとって迷惑だ。
本来なら出て行くべきだと考えつつ、やっと見つけた安心できる居場所を追われることが、どうしても怖くて、夜。弟は眠っていた姉さんに泣きながら
「なんでもするから、どこにもやらんで」
物心ついてからはじめて、捨てないでと人に縋りました。
誰かの飼い犬になるくらいなら、死んだほうがマシだと思っていたのに。
自分を養うのは姉さんにとって負担で、無理な頼みで困らせるだけなのに。
しかし姉さんは、近くで眠っているおっかさんを起こさないように小声で、
「そんなに怖がらんでええよ。なんでもするなんて言わんでも、アンタはもううちの子じゃ。ずっと、ここにおってええんじゃ」
姉さんは当たり前のように請け負うと、
「うちは貧乏じゃからあんまり食べさせてやれんけど、アンタはおらが護るから大丈夫。もうなんも心配せんでええよ」
姉さんは弟を抱き寄せると、ポンポンと優しく背中を叩いてくれました。
姉さんの温かい腕の中で、穏やかな胸の音を聞いていたら、真夜中なのにお日様が差したように目の前が明るくなりました。
本物の太陽に、光を感じたことなどなかったのに。
皆と同じように照らされていても、自分だけずっと暗いところにいるように感じていたのに。
弟は姉さんの腕の中で、さっきまでとは違う涙を流しながら、
(俺はこの人が好きじゃ。この人だけが俺の家族じゃ)
(この人のためならなんでもしよう。明日もこの人と居るために生きよう)
生まれてはじめて人を愛し、生きたいと思いました。
姉さんは何もしなくていいと言ってくれましたが、弟は自分から仕事を手伝うようになりました。
捨てられないようにではなく、ただ姉さんを助けたい一心で。
(もっと姉さんに楽させてやりたい。もっとたくさん手伝えるようになりたい)
その想いは弟をドンドン強く賢くしました。
村の大人たちのやり方を見て、会話に耳を澄まして学ぶべきことを見つけました。
しつけられることは嫌いでしたが、知ることは嫌いでは無いと気づきました。
むしろできることが増えることも、頭に描いた計画が実現していくことも面白かった。
何より姉さんの役に立てることが嬉しかった。
姉さんのためだと思うと、頭の中にキラキラした夢がたくさん生まれた。
弟が普通よりも役に立つと分かっても、いくらでも利用できる立場にあっても
「おらは将来うまいもんを食べて綺麗な着物が着られるより、今アンタがのびのび幸せで暮らせるほうがええんじゃよ。じゃから、あんまり根を詰めんでね」
ただ弟が幸せであること以外は、何も望まない姉さんのためだからこそ、弟は「もっとがんばろう」と思えました。
愛されるより、愛せるほうが幸せじゃ。
してもらうより、してやれるほうが幸せじゃ。
自分が嬉しいより、姉さんが嬉しいほうが幸せじゃ。
そう思える相手と出会えたことが、誰も愛せなかった弟にとって何よりの幸せでした。
大店の娘も村の人たちも姉さん自身も、育てられた恩返しだ。すり込みだと思っていましたが、弟にとっては間違いなく
――自分のために結婚したいんじゃ。俺はあの人の傍に居るんが、いちばん幸せで落ち着くんでの。
姉さんはこの世でただひとり信じられる人で、心から落ち着ける幸福な居場所でした。
いつどこからやって来たのか、いつの間にか村の隅っこに住みついて、野良猫のように子を孕み、育てきれずにこの世を去りました。
物心つく頃には弟はすでに一人で、村の人の慈悲によって育てられていました。
しかし自分の子でもない弟を最初に引き取って育てたのは、本当は心当たりのある者だったのでしょう。
女だけで子を授かることはできない以上、父親が存在するはずです。
ただ父親候補が一人とは限りませんし、周知されるには具合の悪い話ですから、あくまで弟は『身寄りの無い子』でした。
喋れるようになると同時に、大人たちの『教育』がはじまりました。
働かざる者、食うべからずだ。
うちだって生活が苦しいのに、自分の子でもないお前を引き取って育ててやっているんだ。
当たり前のことではないんだから、よくよく感謝して、早く恩を返せるようにならなきゃダメだ。
働きで返せないうちは、笑顔と言葉で返すんだ。ほら、嬉しいです。助かりました。ありがとうございますって言うんだよ。
(……要するに役に立てんうちは、犬みたいに尻尾を振って媚びて見せろということじゃ)
他の子どもがするように愛想をよくすれば、もう少し楽に生きられたかもしれません。
しかし生まれつき気性の激しい弟には、どうしても低く出ることができませんでした。
自分を叩く相手を殴り返すと、子どもでも大人でもやられたヤツは大げさに泣き喚いて「いきなり乱暴された」と弟を悪者にしました。
周りは必ず孤児で不愛想で協調性の無い弟を疑いました。
しかし実際は弟から手をあげたことも無ければ、家のものを盗み食いしたことも、物を壊したことも、嘘を吐いたこともありません。
それでも
(真実かどうかは関係ない。人は数の多いほう、力のあるほう、愛しとるほうに味方する)
(じゃから負けるのはいつも俺じゃ。俺は一人で、力も無く、愛されてもおらんから)
それでも自分を捻じ曲げようとする力に負けて、都合のいい人間にされることを弟は拒みました。
七歳になると、これまで『親切』にしてくれた人の家を飛び出して、人の施しを拒否して、虫やカエルや蛇を捕まえて食べていました。
獣じみた振る舞いをする弟を、
『人の道理を解さない畜生のようなヤツだ』
『野良犬だってエサをもらえば芸くらい覚える』
と村の人たちは忌み嫌いました。
弟は自分がなんて言われているのか知りつつ、
(俺はあいつらを喜ばせるための芸など覚えとうない)
(あいつらのいちばん下について、おこぼれをもらって生きるくらいなら、腹が減ったままでええ。屋根の無いままでええ)
と意地を張り続けていました。
しかし冬が近づくにつれて、動物も草花も姿を消して食べ物が取りづらくなりました。
目を閉じても眠れないほどの寒さと飢えに、弟は毎夜さいなまれました。
そのうち寒さや飢えも感じないほど、全ての感覚が遠ざかり、ぼんやりして来ました。
このまま静かに目を閉じていれば、いずれ自分が消えていくことが弟には分かりました。
その安らぎに逆らってまで生きる意味が、弟にはありませんでした。
けれど、ある日。弟は夢うつつに、誰かの声を聞きました。
「ダメじゃよ。こんなところに一人で寝とったら。もうすぐ冬が来るのに寒くて死んじまうよ」
その人は冷たい大地の上に、死体のように横たわった弟の傍にしゃがみ込み、
「冬が終わるまで、うちにおいで。アンタが嫌なことは、なんもせんでええから」
恐る恐る肩を揺らし、懸命に声をかけながら
「こんな寂しいところで、なんの楽しみも知らんまま、ひとりで死んだりせんで……」
頬の上に温かな雫が落ちるのを感じて、弟が薄目を開くと、
(なんでこの人は泣いとるんじゃ)
自分を見下ろす泣き顔が不思議で、何気なく手を伸ばすと、姉さんは両手で弟の手を握りました。
それは助けを求めての行為ではありませんでしたが、姉さんは了承と誤解して、小さな弟を背負って連れ帰りました。
(大人は逆らうと叩くから嫌いじゃ)
(子どもは意味もなく叩くから嫌いじゃ)
でも、この半端な大きさの姉さんのことは、まだ何も知りません。
嫌ならまた出て行けばいいだけだと、そのまま身を委ねました。
姉さんは自分の食事を半分、いつもボーッとして、話すことも笑うこともしない弟に分けてくれました。
冷たい水をぶっかけるのではなく、沸かしたお湯で丁寧に汚れた体を拭いてくれました。
食べるためや屋根を借りるために、何かしろと言われることは一度も無くて、
「これっぽっちのご飯じゃ足りんじゃろうに、いつも文句も言わんで、なんでも食べてええ子じゃね」
ただ大人しくご飯を食べるだけのことで、優しく頭を撫でてくれました。
大人に頭を撫でられるのは嫌いでした。撫でてやれば喜ぶだろうと、侮られていることを知っていたから。
それなのに姉さんに撫でられるのは、不思議と嫌じゃありませんでした。
(なんでこの人は俺を撫でる?)
(なんでこの人は俺に笑う?)
弟はある日、その疑問を姉さんにぶつけました。
「なんでアンタは、なんの役にも立たん俺を撫でる?」
まず姉さんは喋れないと思っていた弟が、実は喋れたことに驚きました。
その喜びも手伝って、姉さんは笑顔で
「アンタは大人しくてええ子じゃから、ここにおってくれるだけで嬉しくて、撫でたくなるんじゃ」
野良犬みたいな孤児が居るという噂を、姉さんも聞いていました。
暴力的で嘘吐きで盗み癖のある、とんでもない悪たれだと。
しかし実際に拾って来て一緒に暮らすようになると、無愛想なだけで、むしろ普通の子よりも大人しく、なんの問題も無い子だと分かりました。
さらに弟自身も知らないことですが、
「それにいつもおらの後をついて来るのが、弟みたいで可愛いんじゃ」
その言葉で弟ははじめて自分が無意識に、この人が視界から消えないように追いかけていたことに気付きました。
(要するに俺はこの人に、気付かんうちに尻尾を振っとったのか)
自分が甘ったれの子犬のようで恥ずかしくなりました。
けれど、可愛がられるために懐くのではなく、自然に懐いて可愛がられるのは嫌ではないと感じました。
はじめて感じる温かさや安らぎにヌクヌクしているうちに、冬は過ぎて行きました。
しかし
『冬が終わるまで、うちにおいで』
姉さんの言葉を思い出して、春になったら出て行かなくちゃいけないのかと、弟は怖くなりました。
(この人は優しいが、家は貧しい。この人のおっかさんは俺をごく潰しだと嫌っとる。実際、この人の食いもんを奪っとる。ずっと置いてもらえるはずがない……)
自分の存在は姉さんにとって迷惑だ。
本来なら出て行くべきだと考えつつ、やっと見つけた安心できる居場所を追われることが、どうしても怖くて、夜。弟は眠っていた姉さんに泣きながら
「なんでもするから、どこにもやらんで」
物心ついてからはじめて、捨てないでと人に縋りました。
誰かの飼い犬になるくらいなら、死んだほうがマシだと思っていたのに。
自分を養うのは姉さんにとって負担で、無理な頼みで困らせるだけなのに。
しかし姉さんは、近くで眠っているおっかさんを起こさないように小声で、
「そんなに怖がらんでええよ。なんでもするなんて言わんでも、アンタはもううちの子じゃ。ずっと、ここにおってええんじゃ」
姉さんは当たり前のように請け負うと、
「うちは貧乏じゃからあんまり食べさせてやれんけど、アンタはおらが護るから大丈夫。もうなんも心配せんでええよ」
姉さんは弟を抱き寄せると、ポンポンと優しく背中を叩いてくれました。
姉さんの温かい腕の中で、穏やかな胸の音を聞いていたら、真夜中なのにお日様が差したように目の前が明るくなりました。
本物の太陽に、光を感じたことなどなかったのに。
皆と同じように照らされていても、自分だけずっと暗いところにいるように感じていたのに。
弟は姉さんの腕の中で、さっきまでとは違う涙を流しながら、
(俺はこの人が好きじゃ。この人だけが俺の家族じゃ)
(この人のためならなんでもしよう。明日もこの人と居るために生きよう)
生まれてはじめて人を愛し、生きたいと思いました。
姉さんは何もしなくていいと言ってくれましたが、弟は自分から仕事を手伝うようになりました。
捨てられないようにではなく、ただ姉さんを助けたい一心で。
(もっと姉さんに楽させてやりたい。もっとたくさん手伝えるようになりたい)
その想いは弟をドンドン強く賢くしました。
村の大人たちのやり方を見て、会話に耳を澄まして学ぶべきことを見つけました。
しつけられることは嫌いでしたが、知ることは嫌いでは無いと気づきました。
むしろできることが増えることも、頭に描いた計画が実現していくことも面白かった。
何より姉さんの役に立てることが嬉しかった。
姉さんのためだと思うと、頭の中にキラキラした夢がたくさん生まれた。
弟が普通よりも役に立つと分かっても、いくらでも利用できる立場にあっても
「おらは将来うまいもんを食べて綺麗な着物が着られるより、今アンタがのびのび幸せで暮らせるほうがええんじゃよ。じゃから、あんまり根を詰めんでね」
ただ弟が幸せであること以外は、何も望まない姉さんのためだからこそ、弟は「もっとがんばろう」と思えました。
愛されるより、愛せるほうが幸せじゃ。
してもらうより、してやれるほうが幸せじゃ。
自分が嬉しいより、姉さんが嬉しいほうが幸せじゃ。
そう思える相手と出会えたことが、誰も愛せなかった弟にとって何よりの幸せでした。
大店の娘も村の人たちも姉さん自身も、育てられた恩返しだ。すり込みだと思っていましたが、弟にとっては間違いなく
――自分のために結婚したいんじゃ。俺はあの人の傍に居るんが、いちばん幸せで落ち着くんでの。
姉さんはこの世でただひとり信じられる人で、心から落ち着ける幸福な居場所でした。