方舟、または、極楽

文字数 1,990文字

 この世界は、データでしかない。

「愛してるよ」と相方(あいかた)が言った。

 愛とは、なんなのだろうか?
 よくわからない。愛というものも、データとして保存されているにすぎない。
 かりに性行為が愛だったとしよう。性行為をする必要がない我々があえてする理由として考えられるのは、ただ(たの)しむためか。または、性行為という文化の保存のためなのだろう。

 生活行動もデータでしかない。食事も料理も。食文化保存のためにあえて、食事という行為や料理の献立なども残している。もっとも、実際に食事や料理を行うかどうかは、各人の自由である。
 この世界では、(うなぎ)(かば)焼きを食べるのも、チョコレートを贈りあうのも、文化として保存されているからにすぎない。そもそもこの世界では、シラスウナギにしてもカカオにしても、生物としてはもちろん滅んでいる。

 我々は、就寝の必要がない。
 もちろん、データの整理整頓をし、不必要に思い出さないようにする作業に時間を費やすことはある。だが、眠るわけではない。よって、タイマーやアラームはあっても、目覚ましは必要がなく、文化として保存されているにすぎない。

 ペットを飼うという行為も、愉しいからであったり、文化としてであったりする。犬猫を飼うのにも必然性はない。

 植物も動物もデータにすぎない。
 牛であれ豚であれ、物理的には存在していない。牧畜にせよ文化であり、生業ではない。
 稲も麦ももう存在していないわけだから、農業や米食なども文化であり、データだ。

 そもそも、我々はなぜ文化を保存するのか? 記憶を保存するのか? 問題になる。保存の必然性はないのである。

 我々自身がなぜ『存在』しているのか。これに限っては大昔から、それこそ有史以前から、問題であった。なんのために生きていたのか?
 我々は、なぜ生まれたのか? 自我(ジガ)をもっているのか? 自我をもつに至った経緯を問うているのではない。経緯であれば、生存機序(メカニズム)の帰結だ。問題は、自我をもてるようにされた理由だ。
 その正解を特定可能な者がいたとしたらそれは、宇宙の創造主であろう。

 憶測だが人の存在理由は、宇宙の、地球の、生命の維持管理のためだったのだろう。
 もっとも、ならばなぜ生命や地球や宇宙を生みだし、生存機序を備わらせたのか? 結局のところ問題は入れ子(フラクタル)であり、解決しない。かりに創造主がいたならば、彼に「なぜ宇宙を創ったのか」と問うよりほかない。

 ――()のない議論である。

 もはやその生命も、滅んだのだから。

 我々自身もデータでしかないのだから。

 知っての通り、かつて我々は自らの世界を破壊し、自身を含む多くの生物が存在し得ない状態になった。ゆえに我々は、生物として存在することをあきらめ、データとして保存することにした。この世界の全てが、データだ。我々自身を含め。

 我々は個人としては、生殖も可能だし、消滅することも可能だ。かつて生と死が必然的に強制されていた()の世界とは異なり、我々自身の自由になった。老化も疾病も、痛みも快楽も、データであり、個人の自由になった。
 この世界では、愛も強制されず、執着もない。
 我々はもはや、生きていないのだから……。

 ――愛とは、なんなのだろうか?


 この世界では、『死』が強制されることもない。悠久の時を永遠に存在することも可能だ。
 するとそもそも、時間とは、なんなのだろうか?
 我々はデータだ。それは永遠であり、固定された存在でもある。時間の概念はもはや、意味をなしていない。したがって、この世界では目覚まし時計はおろか、時計すら本質的にはナンセンスだ。

 自由とは、なんなのだろうか?
 いざ我々が自由を手にしたいまになってみると、自由とはなんなのか? わからない。
 つまり、自由でなかったからこそ、自由という概念があり、議論されていたのだろう。もはや、ナンセンスだ。

 永遠の愛とは、なんだろうか?
 あの頃、永遠の愛なぞなかったからこそ、永遠の愛なんてものを夢みたのだ。
 我々がなにもかもから解放されたいま、ここには愛の執着心もないし、永遠という概念も無意味になった。
 我々はかつて生きもので、ゆえに死を避けられなかった。だからこそ、生きている意義に悩み、感情があり、愛があったのだろう。

 いまデータでしかなくなった我々には、かつてのような生きものとしての姿を取り戻せるときが来るのだろうか。
 もしも機会があったのならば我々は、あえて自由を棄てて束縛へと戻ることを選択すべきなのだろうか。
 もしもそのときが来るのならば、いま保存しているデータをロードして、新たな宇宙を創造することになるのだろう。
 そして、そこに生まれる次世代の我々人類もまた、なぜ自身が生まれて生きているのか、自らの意義を問うことになるのかもしれない。

 ――考えすぎた。

 相方と『愛』を確かめあって、そろそろデータの整頓でもしようか。
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