第1会話 メシに子供も大人もあんのかよ

文字数 3,863文字

 「安住(あずみ)さん」
 先に口を開くのはいつも高野(たかの)である。
 向かいの席に座る安住は、決まってこう返すのだ。
 「なんだ、終わったか?」
 「終わるわけないですよこんな量」
 「だろうなあ」
 オフィスの照明は4分の1だけが稼働し、窓際の一角だけを照らしている。その白光に照らされる二人の男は、今日もパソコンを前に、死んだ顔でもぞもぞと仕事をしている。
 「これやって意味あるんですかね」
 「考えるなー高野」
 時刻はとうにてっぺんを過ぎている。オフィスには高野と安住の二人しか残っておらず、キーボードとマウスのカタカタチキチキという音が、この残業の虚しさを一層際立たせている。
 そんな音を聞いている内に、気が狂う前に、いつも何の気なく話が始まるのだ。
 「安住さん」
 「なんだ」
 「僕ハンバーグ好きなんですけど」
 「うん」
 「ハンバーグが好きなのって、子供っぽいな~って思います?」
 「ん~、まあ世間一般的にはそう言われるんじゃないか」
 高野は手を頭の後ろに組み、椅子の背にもたれかかった。
 「やっぱそうですよね」
 「なんだそりゃ」
 「安住さんはハンバーグ好きですか」
 「そうだなあ、特に好きってほどでもないかな」
 「じゃあ小学生だった頃は?」
 「ああ、まあそう言われると、子供の頃は好きだったかもなあ」
 「やっぱそうですよね」
 「何それ」
 「いやね、思ったんですよ。例えばカレーとかハンバーグって全然大人でも食べるじゃないですか」
 「食う時は食うね。自分ではあんまり頼まないけど」
 「そうですよね。でも好きな食べ物聞かれた時に、ハンバーグって答えると、子供っぽいって言われるんですよ」
 「うん」
 「この子供っぽいって何なんだろうなあって」
 「なんだろうなあ」
 「メシに子供も大人もあんのかよと、僕は思うわけです」
 「まあそうだなあ」
 「話聞いてます?」
 「聞いてる聞いてる。大人っぽいメシだろ? ん~」
 安住はマウスを一定の間隔で小気味よく押している。
 「子供の頃は肉のほうが好きだったけどなあ、最近は胃もたれキツくて食べられない」
 「それは安住さんが老化してるだけなんじゃないですか」
 「バッカお前なあ、抗えないんだよ人は、老化に、寄る年波に」
 「そんなもんですかー」
 高野はキャスター付きの椅子でくるくると回り始めた。
 「お前も30才なってみろ。一気に来るぞ三十路は。大波のように」
 「遠い話ですねえ」
 安住はキーボードにかかっていた作業の手を止めた。
 「いやいやお前、俺もそう思ってたんだけどな。いいか高野、ジャネーの法則って知ってるか?」
 高野は回るのを止めた。
 「なんですかそれ」
 「大人になってからの体感時間って子供の時と比べて短く感じるだろ?」
 「そうですねえ」
 「高校の授業の50分とか長く感じたもんだろう。でもほら、今時計を見てみろ」
 「はい」
 「さっきまで定時だったのにあっという間にK点越えだ」
 高野はため息をつく。
 「別にいつものことですけどね」
 「そう、子供の時と比べて大人は体感時間が短くなる。こういう現象、これをジャネーの法則という」
 「へえ」
 「しかもこの体感時間は歳を食うごとに加速度的に短くなっていく」
 「短くなるとどうなるんですか」
 「納期に間に合わなくて死ぬ」
 「終わりですね」
 「終わりだよ。このまま人生もあっという間に終わるんだろうなあ」
 「何してんすかね」
 「何してんだろうな」
 安住は向かいのビルを見た。隣のビルの階下には、自分たちと同じようにいそいそと仕事に励む社会人の姿がある。それを時折見ては、ガラスに反射する自分の姿と重ね合わせるのである。
 「それでハンバーグの話なんですけど」
 「まだすんのその話」
 「しますよ。それで、なんとなくご飯の中にも子供っぽい大人っぽいってあるじゃないですか」
 「まああるな」
 「僕はこんな印象操作は間違ってると思うわけですよ」
 「おう、そうかい」
 「話聞いてます?
 「聞いてる聞いてる。印象操作だろ」
 「まあいいですけど、それで」
 高野が言いかけたところだった。
 「何の話ですか」
 空っ風が吹く深夜のオフィスには似つかわしくない、瑞々しい女性の声。安住と高野の身体はシンクロしたように跳ね上がった。
 高野が振り返ると、長い髪を後ろで一つ結びにした、やや猫背気味の女性が立っていた。
 「なんだ恋淵(こいぶち)さんか」
 恋淵は隣の部署の人間である。つまり今座っている席も恋淵の席ではない。
 「お疲れ様です安住さん、高野君も」
 安住が恋淵に聞く。
 「びっくりした。まだいたの?」
 「家近いので。知りませんでしたっけ」
 「へえ、そうなんだ。どの辺り?」
 高野が横やりを入れる。
 「あ、それセクハラですよ安住さん」
 「えー、そうなの。マズったなあ」
 「年齢と体重だけじゃないんですよ今の時代は。コンプラコンプラ」
 「ごめんね恋淵さん」
 恋淵は高野の隣の空席に座った。恋淵が背もたれに身体を預けると、使い古された安っぽい椅子が音を立てて軋む。
 「別に聞かれて困るものでもないですけど。何の話してたんですか」
 「安住さんが老化で胃もたれがヤバいって話です」
 「何ですかそれ」
 「いや違うから。お前がハンバーグにお熱だって話だろ」
 高野はさっきまでの情熱を取り戻し、堰を切ったように喋り始めた。
 「そうそう、恋淵さんも聞いてくださいよ。いいですか? 僕はハンバーグが大好きなんです。でもこれってちょっと子供っぽくてヤだなあって思うんです。僕はですね、この風潮を何とかしたい。世間から子供っぽいメシ大人っぽいメシという偏見を無くしたいんです」
 「はあ」
 新進気鋭の政治家が街頭演説を行うかのように、高野は大げさな身振りで話す。
 「なんですかその反応は。昨今では特に大事な話ですよ? ポリコレってやつで」
 高野がそう言うと、安住が即座に諭した。
 「それは怒られるから止めとけ」
 「まあそれは置いといて。どうですか恋淵さん」
 高野の無茶振りに恋淵は答える。
 「難しいんじゃないですか」
 「そんなこと言わないでくださいよ。僕は好きなものを自由に好きなだけ食べられる世界がいいんです。食べ物に対する偏見は拭われて然るべきなんですよ」
 「まあそれはそうですけど。でも偏見というか、私、休日たまに一人でファミレス行くんですけど」
 「うん」
 「絶対に

ってありますよ」
 「脱け出せない料理って何ですか」
 恋淵は言った。
 「お子様ランチです」
 「うっ」
 静寂の中に放たれた矢は、高野の脳天ど真ん中に突き刺さった。
 安住が判定を下す。
 「はい、恋淵さんの勝ち。高野は精進するように」
 高野は額に手を当てる。
 「完全に論破された……。ていうか恋淵さん、お子様ランチ頼むの」
 「頼みますけど。いけませんか?」
 「いや、全然いいです。むしろいい」
 「そういう話ですもんね。子供っぽいとか、他人の目なんて気にするだけ損ですよ」
 「聞いたか高野。ハンバーグごときで悩んでいるようじゃまだまだってわけだ」
 高野は膝に手をつき、恋淵に向かって頭をぴしっと下げた。
 「おみそれいたしました」
 「いえ」
 「お子様ランチって何乗ってるんですか」
 恋淵は皿の上の食材を思い出そうと目線を上げる。
 「すぐそこのファミレスだと、それこそハンバーグに、チキンライス、エビフライ、スパゲッティ、フライドポテトとブロッコリーとミニトマト……、ですね。あとデザートにゼリーも」
 「いいなあ。至れり尽くせりって感じですね」
 ここで安住が気付く。
 「ほお、もしかして逆転の発想で、お子様ランチが子供っぽいんじゃなくて、子供っぽい料理を寄せ集めたランチをお子様ランチと呼ぶんじゃないの」
 それを聞いた高野は、腕を組んで天井を見る。
 「おお、なるほど。ハンバーグにスパゲッティにフライドポテト」
 「ま、お子様ランチという絶対的な存在がある以上、食べ物に子供っぽい大人っぽいが出るのは仕方ないっつーことだな、いい勉強になった」
 「無念」
 恋淵さんが言う。
 「気にしないのが大事ですよ。旅の恥はかき捨てです」
 「確かに……。よく行くのは家の近くのファミレスなんで旅って感じじゃないんですけどね」
 「いいえ、人生は旅ですよ」
 「え、深い」
 話が一段落ついたところで、安住は聞いた。
 「ていうか、高野終わったんか?」
 「もちろん終わってないですけど」
 「お前なあ」
 「もうお腹空いて今日は無理です。また月曜日」
 恋淵が少し姿勢を正す。
 「すいません。集中を乱したようで」
 「いいんだよ。高野の与太話は限界の合図だ」
 「その通りです、あ~お腹空いた」
 高野は伸びをした後、そのままの姿勢で机に突っ伏した。
 安住は腕を組んで少し考えた後、提案した。
 「ファミレスでも行くか」
 高野は首を上げる。
 「奢りですか?」
 「……まあ今日はいいだろう」
 「やったー」
 高野はのそりと両手を挙げた。
 「よーし行きましょう」
 「行くか。恋淵さんは? 行く? もう帰る?」 
 「私も行きます」
 「よーし、行こう行こう」
 二人はパソコンの電源を落とし、デスクの上を片付ける。
 「今日もよく働いた。あー腰いて」
 「老化ですか」
 「お前なあ、光陰矢の如しだぞ」
 恋淵は自分の席に戻り、肩にバッグをかけて戻ってきた。
 三人はそのまま出口に向かって歩き出した。
 「よし、行くぞー」
 高野がフロアの電気を消す。深い夜の闇に包まれたオフィスを、三人は後にした。
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