第5会話 コーラくらい自由に飲ませろっつー話ですよ

文字数 3,995文字

 高野がコンビニ袋を提げて戻ってきた。
 「戻りました~、はいコレ」
 ブラックの缶コーヒーを差し出されるまま、安住はそれを受け取る。
 「おう、お疲れ。ありがとーう」
 安住は受け取ったその手ですぐに缶を開け、こくりと一口飲み、ほうと息をついた。その目は蛍光灯の向こうの暗い天井に向けられているが、それはただ目がそこにあるというだけで、何かを見ているわけではなかった。
 安住は100円玉2枚をテーブル越しに渡す。
 「はい、確かにいただきました」
 「よし、あと1時間くらいやったら帰るか」
 「ですね」
 そう言葉を交わし、またそれぞれの作業に取り掛かろうとした。
 取り掛かろうとしたのだが、ある音によって安住は注意を引き付けられる。

 シュッ——

 オフィスでは耳なじみのない空気の抜けるような音。その音は安住から見て正面、高野の方から聞こえた。
 パソコンの画面から顔を上げ、横から覗き込むと、高野が手に持っていたのは黒色の飲み物だった。だがそれは会社の深夜のオフィスに似つかわしいコーヒーではなく……
 「コーラか」
 高野はごくごくと炭酸を流し込んでいる。
 「……っは~、たまに飲みたくなるんですよね。頭使った後は特に」
 「脳が糖分欲してるのかもな」
 「ですね。今更ですけど、別にいいですよね?」
 

の意味を安住はすぐに悟る。
 「ん? うん……あーいや、日中だと誰かうるさいかもしれんから、一応止めといた方が良いかもな。今みたいに深夜とか誰もいない時にしとけー」
 「はーい」
 気前よく返事をした高野は、そのまま何気なく安住に聞いてみた。
 「安住さん、ジュースってなんでダメって言われるんですかね」
 「職場でか?」
 「はい。ネットとかでもよく見ますけど、世間的にそういう風潮みたいなのあるじゃないですか。うちもそうかもしれないですけど」
 高野の言うとおり、他の飲み物と比べてどことなく(はばか)られるような気がするのは確かだろう。似つかわしくないと感じたのも、そういった風潮に起因しているのかもしれない。そう安住は考えた。
 「なんでって言われたらなあ、別に規則で禁止されてるわけでもないし、雰囲気?」
 安住は手を頭の後ろに組み、どこ見るでもなく天井を見る。
 高野はやや声を荒げるように言う。
 「僕そういうなんとなくの風潮、結構嫌なんですよ。フツウダメダロ! みたいなのってちゃんとした理由が無いっていうか、思考停止な気がしていっつも納得できないんですよね。」
 最近まで思考を停止させかけていた安住にとっては少しだけ耳の痛い話である。
 「……まあそうだな。 "普通" って何なの、って話だ。うん」
 「そうですそうです」
 安住はデスクに置いてあるコーヒーに目をやった。
 「コーヒーはOK……」
 「ですねえ」
 「ジュースは甘いからダメ……、いや、それならコーヒーだって微糖は飲んでても問題無いな」
 「そうなんですよ。甘い飲み物はダメ! って言うんだったら甘いコーヒーも栄養ドリンクもダメじゃないですか。でも栄養ドリンクは安住さんも飲んでるし、それに別部署の、あの~女の人で……、恋淵さんの先輩の方とかもめちゃくちゃ飲んでますけど何も言われてないですよね」
 「恋淵さんの……ああ、(みどり)か?」
 「そうそう碧さん」
 碧は安住達とは別の部署の社員である。恋淵の先輩にあたり、安住と同期で入社した。同期は他にも数人いたが、みなそれぞれのやむを得ない残念な理由によって散り散りになってしまい、かけられた(ふるい)の中に最終的に残っていたのは安住と碧のみだった……、という顛末である。
 ちなみに碧というのは苗字である。安住にはある程度近しい女性であっても下の名前で呼ぶなどという気概を持ち合わせてはいなかった。
 「碧な~、あいつは水みたいに飲んでるな」
 「絶対ヤバいですよね。歳も安住さんと近い感じですよね?」
 「あーうん、2個下かな。でもあいつの身体丈夫なんだよなあ。健康診断もオールクリアーっつってた」
 「へえ~」
 「何なら身長も若干伸びてると」
 「えっすご、最近の話ですかそれ?」
 「うん、去年のって言ってたな。タバコも酒もやって食生活もたぶんあんまり良くないはずなんだがなあ……」
 「羨ましいですね」
 「ほんとだよ……」
 安住の目は、想像の彼方にいる碧へ向けられている。身体の健康に気を取られず故障に縁が無い彼女の姿と、雨風に(さら)された放置自転車のような自分の身体を比べると、羨望の念を抱かざるを得なかった。
 「はあ……」
 安住は首に手を当ててコキコキと鳴らし、そしてまた遠い目をした。そんな安住を高野は意に介さず話を戻した。
 「で、栄養ドリンクはOK、コーヒーはOK、お茶も水ももちろんOK! ってなると、もうジュースを制限する理由もない気がするんですよね」
 「ん~、じゃあ、作業効率はどうだ? 水やお茶じゃなくても、カフェインで能率アップするならいい、みたいな。酒はアルコールが入って仕事にならないからダメなわけだし」
 高野はコーラを手に取る。
 「でも、それこそコーラにだってカフェイン入ってますよ」
 「含有量は少ないだろ? コーヒーやエナドリの方が多いし」
 「まあそれはそうですねえ、確かに」
 「うん、カフェイン……。ああ、でもエナドリも過剰に砂糖入れてごまかしてるだけのやつもあるしなあ……」
 「例えばなんですけど、めちゃくちゃジュースっぽい見た目で、カフェインの多いエナドリがあったらどうなりますかね」
 「ん」
 安住と高野はその仮定を想像する。二人の頭には空想上の上司が目くじらを立てて小言を言っている姿が、まるで思考をリンクしているかの如く思い浮かんだ。
 「難癖付けられる気がするな」
 「しますね」
 「カフェイン満載でも "ジュースです!" みたいな見た目だと、脳内上司が注意しに来る」
 「大手をぶんぶん振って歩いて来ますね。競歩みたいに」
 高野は椅子の上で腕だけをぶんぶんと振った。
 脳内ではそれと同じ動きをした上司が、シューという炭酸の音を聞きつけるなり目の前に……
 「あ、炭酸がダメなんかな」
 「それも思ったんですけどね。でも炭酸水は大丈夫なんですよたぶん」
 「ああ~、炭酸水か。伏兵がいたな」
 ここまで味、カフェイン、炭酸と、思いつく節を並べてみたが、壁を貫けるような理論には未だ辿り着かない。
 「結局、雰囲気か、そういうの何個か合わせての理由なんですかね。今挙げたのを全部乗せした飲み物は注意されやすい気がします」
 「複合的な理由かもな。あとは見た目がジュースっぽければ目につく」
 「じゃあもう水筒にコーラ入れて飲もうかな」
 「極論それなら言われないな。炭酸抜かなきゃいけないけど」
 「炭酸抜きコーラですね」
 「うん」
 沈黙の後、安住が結論を下す。
 「ま、結局、明確な根拠は無いってことだな」
 「はあ~、嫌な世の中ですねホント。コーラくらい自由に飲ませろっつー話ですよ」
 高野は軽快にキャップを開け、ごくごくとコーラを飲む。
 安住はふと考えた。自分が最後にコーラを飲んだのはいつだっただろう。高野の堂々とした飲みっぷりを見て、安住は自分の過去を回想した。
 初めてコーラを飲んだ時のことは覚えている。父の運転する車に乗って出かけていた時のことだ。何用で出かけたのかは覚えていないが、炎天下の、抜けるような青空の下、高速道路を走っていた。助手席に乗っていた小学生の私だったが、当時は暇をつぶすような道具も持っておらず、外の景色にも飽きた頃、持て余した両手は自然とドリンクホルダーに刺さっていた父のコーラへと伸びていき、キャップを開けて一口飲んでみたのである。
 すると、甘みを感じ取るのも束の間、口の中でぶくぶくと溢れ出した炭酸は、剣山を口に入れてしまったのかと錯覚するほどに私の舌を何度も刺した。そして気体となった炭酸は目の裏側の方へと上っていき、そのまま目玉をつるんと押し出してしまうのではないかというほどの刺激で私を攻撃した。パニックになった私はコーラを車の中にこぼし、父に怒られた。
 そんな苦く懐かしい最初の記憶が安住の中には残っていた。
 海馬の中から映し出されるビデオは、次第に現在のシーンへと近づいてくる。
 「最後に飲んだの、いつだったかなあ」
 「コーラですか?」
 「うん」
 最初の記憶は30年経った今も鮮明に残っているが、しかし最後はいつだったか。きっと、どうでもいい日常の一コマの中で飲んだのだろう。日常の傍らにあったコーラも、めっきり飲まなくなってしまった。
 安住は何も言わずに立ち上がり、そのまま扉を出た。

 次に安住が戻ってきた時、その手には1本のペットボトルが握られていた。
 「よし」
 安住は歩きながらキャップを開け、ごくりごくりと飲む。
 単純に飲みたくなった、と言えばそれも正しい。しかし、安住の心中に浮かび出た気持ちはそれだけではない。
 社会という大きなコミュニティの中には、人々の認識の上に作られた暗黙の了解が存在する。それは不自由で、非常に曖昧でぼやけたものであるが、何とはなしに皆それを守って生きている。
 そんな不自由を、飛び超えてみたくなったのだ。
 シュワシュワと喉に刺さる炭酸が心地よく、半分くらい飲んだところで安住は口からコーラを離した。
 「は~~~」
 フラッシュを浴びたような、立ち眩みにも近い感覚が安住を包み込む。
 「いい飲みっぷりですね」
 「おう」
 「どうしたんですか急に」
 「……ま、たまにはいいだろ」
 「ですね」
 「よし、もう少しやったら帰るぞー」

 その日はもう2人が会話をすることはなかった。オフィスの中からは、パソコンを操作するカタカタという音と共に、もう一つ、しゅわしゅわと炭酸の抜けていく音が小さく小さく鳴っていた。
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