第2話

文字数 5,540文字


 ときどき現場で測量をしているときに、ふとMのことを思い出す。彼は冷たい雨の降る晩秋(ばんしゅう)の夕方に、自ら電車に飛び込んで死んだ。木村自身は実際にはその光景を見なかったのに、なぜか具体的な細部を(ともな)って、その光景がよく頭に浮かんでくるのだった。どんよりと曇った空。冷たい風が吹いている。カンカンカンカン、という遮断機の音。ライトを点けた電車が、猛スピードで突進してくる。あと一歩前に踏み出せば、俺はこの世から消える。すべてのくだらないものごとから、解放されるのだ・・・。

 社会に認められないフラストレーションがその主たる要因だったのだろう、とは比較的容易に想像できる。それに加えて金銭的な問題もあった。彼はまったく金を持っていなかった。アルバイトをしなければならない時間がもったいないのだ、とよくこぼしていた。俺は本当はこんなことをしているべきではないのだ、と。

 もっともそれだけが理由ではあるまい、と木村は常々思っていた。Mはたしかに昔から空想的ではあったものの、必ずしも自殺しそうなタイプではなかったからだ。いつも自分に自信を持っているように見えたし、それは彼を(うらや)ましくさせたものだった。女の子にももてた。少なくとも高校生の間は、ということだが。

 彼が変わったのは、大学を卒業したあとのことだった。たまに会ったときには、その塞ぎ込んだ表情が木村を心配させた。彼自身は、それほど深く何かを考え込んだりはしない。測量の仕事と、あとはちょっとした将来の計画。週末何をするのか。何を食べるのか。せいぜいそれくらいだ。彼は何かに(とら)われているのだ、と木村は思った。

 もっともそれが何であるのかはよく分からなかった。おそらく死に近いところにある何かではあったのだが・・・。一度作品を読ませてほしい、と頼んだことがある。それは彼が死ぬ数カ月前のことだった。Mは少し考えていたあと、それを断った。

「たぶん君は読まない方がいいと思うんだ」と彼は言った。「理解できない、とかじゃない。でもきっと面白いとは思わないぜ。これは生き方の違いなんだ」

「生き方の違い」とちょっと傷つきながら木村は言った。「それはつまり理解できない、ということじゃないのか?」

「まあ正確にいえばそうなるのかもしれない」とMは認めた。そして頭を掻いた。「なんというのかな、そんなにキャッチーな話じゃないんだ。暗いというか」

「どんな風に?」

「どんな風にって・・・。大抵主人公は何かに悩んでいる。何に、かは俺にもよく分からない。でもその原因は、人生に本当に必要なものが欠けている、ということだ」

「それは具体的にどういったものなのかな?」

「具体的にはいえないものなんだ」と彼は言った。そして首を振った。「やっぱりやめよう。俺は君と話をするのが好きだが、かといって作品を読んでほしいわけじゃないんだ。測量士K。君はおとなしく測量をやっていなさい」

「いわれなくてもやるさ。でもときどき、自分が同じところをグルグル回っているだけなんじゃないか、って思うこともある」

「本当に? 君が?」

「まあたまにね」

「それで、どうするんだ?」

「どうもしない。ただ毎日測量をするだけだよ」

 Mはニヤリと笑って、彼の肩を叩いた。「そうこなくっちゃ。現代の伊能(いのう)忠敬(ただたか)

「そんなに立派なもんじゃないけどね」

「いやいや」


 彼は死ぬ数日前に、木村に電話をかけてきた。

「もしもし」

「もしもし、Kか」

「そうですよ。だって俺の電話だからね」

「君は相変わらず測量をやっているのか?」

「相変わらずね。そっちは?」

「相変わらず書いているよ。誰も読まない文章を」

「そのうちうまくいくさ。俺は本当にそう思っている」

「まあ、そんなことはどうでもいいんだ。俺のことなんて。問題は君のことだ」

「俺のこと?」

「そうだ。君のことだ」

「それはつまり・・・?」

「なあ、これは本気でいっているんだが」

「うん」

「俺の妹を嫁にもらうつもりはないか?」

 木村は言葉を失ってしまった。妹を?

「もしもし、聞いているか?」

「聞いているよ。でもまさかそんなことを・・・」

「なにもおかしくないだろう」とMは言った。「俺は君を信頼しているんだよ。そして妹のことも心配だ。彼女は・・・ちょっと不安定なところがある。でも良い子なんだ。ただ少し現世に馴染めないところを持っている」

「現世って」

「まあそれは俺とおんなじだ。でも俺よりずっとまともな人間だぜ。今すぐ、ってわけじゃないからさ。ちょっと頭の片隅にでも置いといてくれよ」

「それが今日電話してきた理由?」

「まあとりあえずはな」

 その後ひとしきり沈黙が続いた。彼がじっと何かを考えている様子が伝わってきた。

「もしもし」と木村は言った。

「もしもし。悪いな、急に黙り込んで」

「本当は何か別の話があるんじゃないのか?」

「いや、別に大したことじゃない・・・。なあ測量士K」

「なんだよ」

「君は城に行きたいと思ったことはあるか?」

「例のカフカの城か? どうして俺がそんなところに」

「そうだよな。君は現実的な人間だものな。でも俺はこれから城に行くよ」

「でも誰も辿り着けないんだろ?」

「カフカは結核で死んだんだ。もしもう少しでも長生きしていたら、あるいはKは城に辿り着いたかもしれない」

「そこで測量をするのか」

「もちろん」

 沈黙。

「なあ、さっきの君の妹の話だけど・・・」

「いや、そのことはなかったことにしてくれ。もういいや。悪かった。急に変な話をして。全部忘れてくれ。とにかくいいたかったのは、俺が君のことを信頼しているってことだ。君くらい実直な人間はほかにはいない」

「アドルフ・アイヒマンも自らの仕事に実直に取り組んだぜ」

「でも君は測量をしているのであって、ユダヤ人を殺しているわけではない」

「まあ」

「そこが大事なところだ」


 二人はそこで会話を切り上げた。お互いにもう少し話すことがあるような気もしたが、その場では適切な言葉が頭に浮かんでこなかったのだ。電話を切ったあとの静けさは特別なものだった。夜の空気が部屋の中にまで入り込んでいた。その透明な冷気を吸い込みながら、木村は思った。

、と。


 その数日後に、Mは死んだ。Mの両親が、木村の両親にそれを伝え、その情報が木村に伝わった。初めてそのことを知ったとき、驚きよりもむしろ一種の安堵感がやって来たことを覚えている。彼はこれ以上苦しまなくてもいいのだ、と思ったのだ。Mは明らかに何かの(ふち)に生きていた。それはあるいは生と死とを隔てる境界線のようなものだったのかもしれない。彼はその奥に何かを探し求めていた。何か普通の人間が手にすることのできないものだ。あるいは彼はあまりにもそこに深入りした結果、こちらの世界に戻ってくることができなかったのかもしれない、と木村は思った。そういえば彼は「城に行く」と言っていたな。もしかしたら彼の魂は、本当にその中へと入り込んだのかもしれない。どこか遠くにある城の・・・。


 Mが妹を嫁にもらってくれ、と言ったことを、木村は彼女本人に長く話さないでいた。というのもそれはあまりにもパーソナルな話だったからだし、どれだけ彼が本気だったのかもよく分からなかったからだ。当時木村はまさか彼女と本当に結婚することになるなんて思ってもいなかった。実際彼女の顔だってはっきりとは思い出せなかったくらいなのだから。でも今はこうして一緒に暮らしている。それだけでなく、二人の子どももいるのだ。人生とは不思議なものだよな、と彼は思った。何がどうなるのか、予想というものがつかない。

 もっとも結婚してからは、特に問題もなく日々は過ぎていった。妻はときどき塞ぎ込むことはあったにせよ、基本的には家事と育児に精を出していた。これはこれで悪くない生活だな、と彼は思った。

 そんなときある夢を見た。それは非常に悪い夢だった。彼は本能的にそれを感じ取った。夢の中で木村はある現場の測量をしていた。道路脇に三脚を立て、いつものように測量を開始する。車が何台も猛スピードで目の前を通り過ぎていった。ヒュン、という風を切る音がすぐそこで聞こえた。いくらか冷や汗が流れたものの――あと少しで()かれるところだった――これは仕事なのだからきちんとやり遂げなければならない。そしてそのあとは暖かい、家族のいる家へと戻るのだ・・・。

 と、そのとき車に混じって奇妙な生き物がやって来たことを知る。それは馬人間だった。身体は馬で、頭だけが人間だ。そしてその頭とは、かつて死んだ友人のMだった。

「やあ、久しぶりじゃないか」と彼は言っていた。

「ずいぶん変わったな」とその姿を見て、木村は言った。「まるで別人みたいだ」

「まあ」とMは言って、尻尾を(むち)のようにしならせた。(ひづめ)をアスファルトにぶつけ、カチンという音を出した。「あそこにいるといろんなことが起こるからな」

「それは城のことか?」

「そうだよ。城のことだ」

「とすると、君は無事に城の内部に入り込めたんだ」

「まあね」と彼は言って、一度ヒヒンと鳴いた。その鳴き声はほとんど本物の馬と変わりがないものだった。

「君はそこで何を得たんだ?」と木村は訊いた。

「俺がそこで何を得たのか」とMは言った。そして背後を見た。どうやらそこから何かがやって来ようとしているみたいだった。急カーブになっている道路なのだが、ちょうど左側が山になっていて、何があるのかまったく見えない。ちなみに車はもう一切やって来なかった。あたりは静寂に包まれている。

 と、そのとき何かが走って来るような音が聞こえた。ド、ド、ド、ド、ド、という音。あるいはMの仲間の、別の馬人間たちがやって来るのかもしれない。それについて訊ねようとしたとき、目の前のMの頭が消えていることに気付いた。そこにいたのは、ただの頭のない馬だった。首の根元から上がない。木村はその奥を覗き込んだ。

「なあ、どうしたんだ? 何があったんだ?」と言いながら。

 でもその奥には何もなかった。首のない馬の内部には、単なる空白が存在していた。Mが城の中で得たのは、この程度のものだったのだろうか?

 そのときまたド、ド、ド、ド、ド、という足音が聞こえた。その何かはすぐ近くまでやって来ているようだった。木村は息を呑んで、道がカーブし始めているところを見ていた。もうすぐだ、と彼は思った。もうすぐ何がやって来るのか分かるのだ、と。

 と、そのとき、首のない馬がどうと倒れた。そしてそのはずみで、中に入っていた空白が外に飛び出した。彼はただそれを見ていた。こぼれ出した空白は、やがて道路を溶かしていった。その下にあった地面がむき出しになり、やがてはそれも溶けた。

、と彼は思った。

 ド、ド、ド、ド、ド、という音が三度(みたび)鳴った。それはこれまでにも増して大きな音だった。しかし今やって来たところで、おそらくこの道を通ることはできまい、と彼は思った。なにしろこんな風に、ズタズタに寸断されてしまっているのだから。

 そのとき彼はあることを悟った。心の底から悟った。それはこういうことだった。

 



 彼は全身に汗を流しながらその光景を眺めていた。そこに広がっているのは、いわば真実の光景だった。彼には本能的にそれが分かった。もはや平穏な日常生活は戻ってこないだろう、と彼は思った。なぜならその音の正体がやって来た瞬間、俺は失われるはずだからだ。そう決められているのだ。俺は一瞬で(ちり)と化すに違いない。しかしそのやって来たものもまた、溶けた地面の底に沈む。そう決められているのだ。その運命を逃れる(すべ)はもうない。なぜならこれが真実だからだ。

 彼はまるで足に根が生えたように動けなくなっていた。倒れた馬からは、どくどくと空白が流れ続けていた。それはありとあらゆるものを溶かし去っていった。道だけでなく、山もまた徐々に浸食されていった。空もまた消えつつあった。だとしたら、と彼は思った。生きることの意味は、一体どこにあるのだろう、と。

 ついに足音の正体がやって来たとき、彼は(なか)ば死にかけていた。空白は彼自身をも浸食し始めていたのだ。それでもしっかりと目を開けてそれを見ていた。なにしろ測量士なのだ。現実から目を逸らすわけにはいかない。ド、ド、ド、ド、ド、という音が鳴った。これまでで一番大きな音だった。彼は自分の中の何かが死んだことを知った。ある意味ではMがそれを持っていったのだ。彼にはそれが分かった。しかしごく一部、死なずに生き残っているものがあった。それが何なのか見極めている途中に、目が覚めた。妻がひどく青ざめた顔で彼のことを見ていた。どうした、と彼は言おうとした。どうしてそんな心配そうな顔で見ているんだ、と。でも声は出なかった。声はMが持っていってしまったのだ。彼はまだ頭の奥で例の音を聞いていた。ド、ド、ド、ド、ド、という何かがやって来る音。三十八歳か、と彼は思った。俺はあと何年生きなければならないのだろう?

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