白い光景

文字数 2,895文字

 雪が降り積もっている。
 関東一帯を覆う低気圧のせいで、昨日の夜から降り始めたらしい。僕は窓際に座り、休みの日だから酒でも飲もうかと考えながら、白く濁った空から降る雪を眺めていた。
「気になるの?」
 部屋の奥のほうから、彼女が尋ねてきたので、僕は「何が?」と聞き返した。
「この前応募した、文学賞の事よ」
「ああ、あれね」
 僕は何をつまらない事を聞いているんだという態度を少しだけ覗かせて、そう答えた。
「俺の場合、受賞するしないは別問題だよ」
 僕はそう続けると、窓際から離れて炬燵に手足を突っ込んだ。冷え固まった手足の先が、ゆっくりと温まって解れてくる。
「何というか、今の俺はまっさらな気分なんだ。プラスでもマイナスでもない。宙ぶらりんな状態とでも言うのかな」
「じゃあ、これからプラスになる事をすればいいじゃない」
 僕の言葉に、彼女はそう答える。普段と変わらない受け答えが、僕の宙ぶらりんな心をさらに宙ぶらりんにさせる。昔ならこの気持ちを表現するのに詩の一篇でも書くことが出来たのだが、今の僕には出来そうにも無い。自分の内側にも外側にも、刺激になるような事がまったく無いのだ。こんな状態では、文字通りの雑文書きを自認している僕にとっては非常に辛い状況だ。創作の泉が枯れたような気がして酷く不安になる。
「プラスになる事って、何か無いかな」
 僕は化粧台で髪のセットをしている彼女に向って、助けを求めるように呟く。だが彼女は目の色を一つも変えることなく、さっきと同じ口調で答える。
「自分がしたい事を、飽きずにコツコツ続けるしか無いんじゃない?」
 彼女の言葉を聞いて、またそれかよと胸の中で毒づく。僕は酒を飲みたい衝動を抑えながら、再び窓の外を見た。
「僕が子供だったら、外で遊ぶのに」
「コクトーの『恐るべき子供達』みたいに?」
 僕の何気なく呟いた言葉に、彼女が答える。
「気を病んでいるときに、気を病んでいる内容の小説の名前を出さないでくれよ」
 僕が反論すると彼女は何も言わずに髪のセットを終えた。そして化粧台から立ち上がると、ハンガーに掛けてあるダウンジャケット手に取った。
「それじゃ、仕事に行ってくるから、貴方はこの部屋で留守番しててね」
 彼女の保護者気取りの言葉に僕は「ああ」と返し、そのまま枕を座布団にして横になった。

 僕が炬燵で横になり軽く眠ると雪は何時の間にか霙に変わっていた。何だ霙かよという失意の感想を抱きながら僕は炬燵から起き上がり、テレビの電源を付けた。民放もNHも似たり寄ったりの内容でつまらないと感じた僕はテレビの電源を落としてまた横になった。
 もっと雪が降ってくれれば、外に出歩いて創作のネタを拾えたのに。と僕はそう毒づいた。だが心理的に憔悴しきった今の僕に、雪の日からどれだけの小説のインスピレーションを得られるだろうか。きっと取り留めの無い散文になって、文字通り空中で散ってしまうような作品になるだけだ。と僕は思った。

 雪の日に一人己をもてあそび、産み落とされるはただの憎しみ

 僕に出来た事といえば、今の自分の状況を呪って産み落とされた稚拙な短歌だけだ。こんなものに文学的価値なんて無い。僕は自分で作った作品をそう評価した。
 今思えば僕の作り出してきた小説を初めとする文学作品は、この短歌のような物ばかりだ。耐え難いフラストレーションや精神的な孤独を癒す。あるいは吐露したくて文学作品を生み出してきたのだ。僕の文学作品には、常にマイナスの思考がバックグランドにある。そんなウジウジして幸福も感動も無い作品に誰が評価を下すのだろうか―きっと何かの講座で取り上げられた時には良い評価を貰うだろうが、何かの雑誌に掲載するほどの価値は無い。きっとそういう物だ。
 そんな〝僕はナイーヴで傷つきやすい、哀れな文学青年〟を気取っていると時計の針は何時の間にか十一時半を指していた。喉の渇きを覚えた僕は炬燵から一旦這い出ると、冷蔵庫に向かい、扉を開けて中で冷えている飲むヨーグルト手に取った。そしてパックのまま直接飲むと、三分の一ほど飲んだ。そうして飲むヨーグルトを冷蔵庫に戻すと、僕は炬燵にまた横になった。直接飲んだ事を知ったら、彼女はどんな表情をするだろう?きっと嫌な顔をするだろうが、僕と彼女はお互いに同じベッドの中で寝て、互いに交わる間柄だ。ある意味もっと不潔なことをしているのだから、その程度のことで怒ったりすることは無いだろう。
 またぼんやりしていると、時計の針は十二時近くを指した。僕は炬燵から起き上がって戸棚に向かい、箸と茶碗を手に取ると炊飯器に保温してあるご飯を盛って、冷蔵庫の奥にある引き割り納豆と芥子の入ったチューブを手に取った。納豆のパックを空けて付属のたれと芥子を入れ、そこに市販の芥子チューブを少し入れた。大辛になった引き割り納豆を混ぜてご飯に掛けると、頂きますも言わずに口の中へと掻き込んだ。食べ終えた食器を洗って伏せるとまた僕は手持ち無沙汰になった。
 手持ち無沙汰なのなら、厚着をして外をうろついてみようか?と言う考えが僕の頭の中をよぎった。だが雪も霙に変わり、街が雪化粧していない時にうろついてどうするのだ。ただ寒いだけじゃないか。と言う考えが浮かんできてかき消した。また手持ち無沙汰に戻った僕はため息を漏らして横になった。
 こういう時は何もしないのが一番なのかもしれない。そう考えると、次第に睡魔と言う魔物が僕を襲ってきて、瞼の上を重くさせた。だがそれに逆らって目を見開き、視線を窓の外に向けると、霙は雨になってしまっていた。
「積もる気持ちも水に流れる。か」
 僕はそう一言漏らして瞼を閉じようとした、しかし薄っすら雪化粧をした町を歩いてみたい。という気持ちが僕にだんだん芽生え始めた。腹ごなしに少し歩こう。僕は決心するとコートとマフラーに手を伸ばし、それを身に付けた。
 長靴を履き傘を手に外に出ると、霙は雨に変わっていた。ただ町をうろつくだけではつまらないと感じた僕は、大通りの近くにある庭園を目指した。
 入り口で入場券を買って庭園の門をくぐると、庭園は美しく雪化粧していた。乳白色に少し灰色を混ぜた空と、粉砂糖のような雪に覆われた庭園の芝の白さのコントラストは、鬱屈していた僕の世界に銀色の光を差し込み、僕の中にある凝り固まった何かを解してくれるような気がした。さらに奥の方へ進んでゆくと、その銀色の世界に池の深い黒さが合わさって、中国の古い水墨画のような、無駄の無い世界をそこに作り出していた。僕は池の辺に立ち尽くすと、周囲を見回して遠くから聞こえてくる電車の音に耳を澄ました。
 無駄の無い世界に、遠くから聞こえてくる都会の騒音。これが今僕の立っている世界なのだなと思うと、僕は拗ねていた心が静まっていくのを感じた。辛いことがあったら、美しいと感じた物に触れれば良い。そう僕は思った。
                                      (了)


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