第2話 恋や冒険や魔法やロボットの話

文字数 4,418文字

 鳥子はいつも図書館にいる。

 図書館はこのマンションの頂上にある。
 そこだけはエレベーターとつながっていない。

 五十階のエレベーター横には、非常階段とは別にもう一つ階段があって、図書館へはその階段を上って行く。

 図書館は吹き抜けの二階建てで、上の階の窓は全てステンドグラスがはめ込まれている。
 ステンドグラスの作る光の色が引き立つよう、図書館の中は照明を全部つけても薄暗い。
 そして各テーブルには手元を照らす用の小さなスタンドライトが置かれていた。

 上の階のステンドグラスの中でも一際大きい、女神の描かれたステンドグラス。
 そのガラス作品の前に鳥子の特等席がある。

 鳥子はいつもそのガラスを背にして座っていて、やはり今日も鳥子はそこにいた。
 鳥子はテーブルに置いた漫画を真上から覗き込むようにして読んでいた。

「おかえり。学校どうだった?」
 と鳥子は漫画から目を離さずに言った。

「ただいま。どうだった、じゃないよ。学校来なよ」
「やだやだ、学校行きたくない」

 鳥子はふざけて駄々をこね、体を揺らした。
 僕が冷ややかな視線を向け続けると、
「冗談です」
 と鳥子はかしこまった声で言った。

 僕は鳥子の向かいに座る。

 鳥子の後ろにある女神のステンドグラスはよく見ると妙な背景をしている。
 咲いている花は、しわの線が書かれている服らしきガラスや手のひらのガラスを花の形に配置したものだった。
 空には途中から始まって途中で終わる文章が混ざっている。

 背景に使われているガラスは、かつて別のステンドグラス作品に使われていたガラスだ。
 破損してしまった作品のパーツを寄せ集めて、背景の振りをさせているのだった。

 鳥子は軽はずみな感じのする声に転じて、
「でもさ、でもさ。一日くらい学校休んでも問題ないじゃん。大丈夫」
 と言った。

 確かに授業はあまり進まなかったし、特別な行事があったわけでもない。
 でも鳥子のずる休みは今学期三度目で、習慣化するのはよくないと、母親の肩代わりをしている僕は思っていた。

「そんなふうに勢い任せで行動して、結局後悔するのが鳥子じゃんか」
「まあね」

 鳥子は屈託なくうなずく。

 幼い頃から鳥子は直感で行動しては失敗していた。
 中学の修学旅行の自由時間でも、グループの計画をあらかじめ決めていたのに思いつきで計画を変えたら迷子になって、ろくに観光ができなかったということがあった。

 当人も自分の欠点をよくわかっているのだが、どうしても同じことを繰り返してしまうみたいだった。

「それで、なにかあった? 学校で」

「強いて言うなら、英語の羽山先生が授業中ずっとしゃっくりが止まらなくて、なにを言っているのか全然わからなかったことくらいかな」
 と僕が言うと、鳥子は泣き出しそうなくらい傷ついた顔をした。

「学校行けばよかった」
「しゃっくりのためだけに? 酷い授業だったよ」

 だが鳥子はこくこくとうなずいて、行きたかった意を示す。

「だってそんな変な授業、二度と受けられないよ。一生の宝物だよ」
「一生って、大袈裟な」

 羽山先生のしゃっくり授業は、先生には悪いけれど結構面白かった。
 だけど大したことでもないと僕は思う。

「でもさあ、たぶん今年一番笑える事件だよ、それ」
 と鳥子は言った。
 それには僕も同意した。

「下手したら、ここ三年で一番かも」
「そうかなあ」

 この三年間で一番面白いことがそれなんて、寂しすぎると僕は思った。
 だけどめちゃくちゃ笑えた出来事を思い出そうとしてみても、そんなざっくりとした命令ではこの頭はなんの映像もよこしてくれなかった。

 きっとなんかあるだろう。

 無理に思い起こそうとするのをやめて、僕はテーブルに積み重ねられた漫画に手を伸ばす。

 古いガラスが緑色に変えたほのかな光を漫画の表紙は浴びていた。
 一番上にあった一冊をスタンドライトの光に引き寄せる。

 本を開くと、薄明かりの中に沈んでいた物語が静かに熱を取り戻す。

 素晴らしい人生は魔法と区別がつかない。
 略して、すばまほ。

 僕の母が描いた漫画だ。
 鳥子はこれを何百回と繰り返し読んでいる。

 母の漫画に限らず、この図書館に納められている漫画や小説の全てを鳥子は何度も繰り返し読んでいる。

 僕たちが生まれてからこの図書館には一冊も本が増えていなかった。
 古い本ばかりだ。

 だけど恋も冒険も魔法も、高性能のロボットも、全てがこの図書館の中にあった。

「すばまほ」もまた恋や冒険や魔法やロボットの話だった。

 主人公のミミは高校生。
 東京で生まれ、東京で育ったミミはテクノロジーに囲まれて生きてきた。

 家の中も、地下も、ビルの上もテクノロジーに覆われていた。

 科学は次々と謎を解き明かす。
 新しい知識や技術が、世界を人間好みに安定させる。
 私たちが理解できないことや、私たちがコントロールできないことは、日に日に減っていく。

 近い将来、東京から幽霊はいなくなる。

 そう思っていたミミが通う高校に、ある日クオリアという青年が現れる。
 それも、空から吹っ飛んできて窓を突き破るという、謎の多すぎる現れ方で。

 青年は言った。

「飛び方を間違えたんだ」

 この出会いがミミを東京の外に放り出す。
 テクノロジーの釘がまだ刺さっていない世界をミミは旅することになる。

 ミミとクオリアの出会いのシーンを読んでいると唐突に鳥子が、
「この世界には、不思議で楽しいことがたくさんある。俺と一緒にそれを見に行こう」
 と漫画のセリフを言った。

 それはクオリアがミミに言ったセリフだった。
 だけど僕の読んでいるページはまだその場面になっていなかった。

 僕は溜め息をつき、確かここらへんだったかなとページをめくり、ミミのセリフを読んだ。

「私はあなたみたいに飛んだりできない。自転車と電車で行ける所が私の世界。どんなに世界が広くたって、どんなに不思議で楽しいことがあったって、行けない世界なんて存在していないのと同じことだよ」

 するとクオリアはふっと笑う。
 教室の窓を開ける。

 先日彼がガラスを割った窓だ。
 新しいガラスがはめられた窓を開けると、教室内に風が押し寄せてミミの机の上のプリントを吹き飛ばし、ノートを閉じた。

 クオリアはミミの手を取り、窓から体を出す。

「飛べるさ」

 そしてクオリアはミミを引っ張って窓の外に飛び出した。
 するりと抜けるように、ミミまで校舎の外に飛び出してしまう。

 ミミは自分の体が浮いて、空を飛んでいるように感じた。
 なにも特別なところのない、ありきたりな空がやけに澄んでいるように見えた。

 見えた途端にミミとクオリアは落下する。

 クオリアは仰向けに、ミミはうつ伏せに落ちた。
 三階からアスファルトの通路に落ちたミミは、
「いたぁい!」
 と叫んだ。

「大丈夫か?」
「全然大丈夫じゃない。あ、でも怪我はしてないみたい」
「それはよかった」

 クオリアは仰向けになったまま得意げな顔をしてミミを見る。

「ほらな、不思議なことは起きるだろ? 俺たち、三階から落ちたんだぜ。それなのに怪我の一つもしていない」

「こんなの」

 そりゃあ珍しいかもしれないけれど、不思議なことじゃない。

 ミミはそう反論しようとしたけれども、先にクオリアが優しげに、
「飛ぶのは簡単なことなんだ。もし本当に飛びたくなった時は、そのことを思い出して」
 と言うのだった。

「簡単って、飛べてないんですけど」
「でも君は怪我を一切せずに落ちることができた。君はまだ、君が飛ぶのはとても簡単なことなんだって信じ切れていないだけなのさ」

「本当に」

 ミミは小さく呟く。
 そして一コマ分の間を置いて決意し、今度ははっきりとした声でクオリアに問う。

「本当に私は飛べるの?」

 そう言ってるじゃないか、とクオリアは笑う。
 そうしてミミの旅が始まった。

 そこまでのセリフを読み終わると、鳥子はほっと息を吐いて背もたれに寄りかかった。
 鳥子はセリフを丸暗記していた。

「この先も覚えてるの?」
「そこから先は、うろ覚え」

 鳥子は疲れたように首を傾げた。
 うろ覚えでも、一応は頭の中に入っているらしいことに僕は感心する。

「でもよく覚えたね」
「何度も読んでるからね。せっかくだから暗記してみようと思って。やってみたら意外とできた」

「その暗記力を勉強にいかせば、テストももっといい点取れるのに」

 鳥子は一瞬固まって、そして顔を覆った。

「そう言われてみれば、そうだぁ。漫画のセリフ覚えたからなんだって言うんだ」
「いや、愉快な特技ではあるよ。少しは自慢できる」
「歩む人生を間違えた」

 今度は机に突っ伏す。
 そして机を手のひらでぺたぺたと叩く。
 鳥子は後悔の念を様々な手法で表現しようとしているみたいだった。
 そのうち逆立ちしたり、人がまばらな駅前で路上ライブをしたりするのかも、と僕は思った。
 そんなこと絶対しないだろうけど、そうしている鳥子の姿を想像した。

「取り返しのつかないミスでもないでしょう。今から勉強頑張れば?」

 こんな一声で勉強してくれたら保護者代理としては楽なんだけど、とほのかに期待する。

 でも鳥子は、
「できないよ」
 と言った。

「もう私の頭の中は漫画でいっぱいで、新しい知識を入れるのは無理っぽい」
「そんなことないよ」

 僕はくすっと笑い、鳥子を励ました。
 だけど鳥子は、できるできないとは別の話をする。

「でも、どうしても漫画の世界の方がきらきらして見えちゃうんだよ」
 と鳥子は言った。

 その気持ちはよくわかる。
 僕も学校の勉強に興味はない。
 勉強だけじゃない。
 この世の色々なこと、特に自分たちの将来に僕は希望を持てないでいた。

 冷静に考えれば、僕たちの人生において一番特別なことはこの城の存在だった。
 タワーマンションのてっぺんで生まれ育つことは間違いなく希少な経験だ。
 だけど僕たちがここにいるのは、僕たちの母がこの城を建てたからだった。
 僕たちはたまたまここに生まれただけだった。
 つまり本当に特別なのは僕たちの人生じゃなくて、僕たちの母の人生こそが特別なのだ。

 そして僕たち自身は、とりわけ語るほどの物語をこれまで経験していなかった。
 この先にもきっとないだろう。

 この図書館の本棚には、美しい物語がいくらでもある。
 だけど僕たちの人生は美しい物語ではなかった。
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