第1話 捨てられた、わたし

文字数 2,117文字

 深い、深い水の底。(あぶく)が顔の上を吹き、ごぼごぼと息が漏れていく。冷たさなどはもはや感じず、ただ自分の意識がなくなるのを待つ。

 わたしはまた人に捨てられた。大きく三角の耳に、尖った鼻。大きな尻尾に、大きすぎる緑の目。犬とも狐とも、ましてや猫とも呼び難い異形(いぎょう)の姿は、愛されることなどない。自分でも、己が何という生き物なのか、わからない。どこから来たのかも、わからない。自分に関する過去の記憶がないのだ。でも、こうして水の中に沈んでいると、何かを思い出せる気がした。しかし、もう時間の問題だ。わたしはこの水の中で死ぬのだろう。

 民家に寝床や餌を求めて迷い込んでは、追い払われる。それを恐れ、自然界に身を置いたところで、異形のわたしはどこにも馴染めない。いっそ、死んでしまいたい。そう願ったこともあった。けれど、食べ物もろくに食えず、この弱った歯では自らの舌を嚙み切ることすらできない。生きながら死んでいるようなものだ。だから、この川で死んでしまうのが一番いい。どこにいたって、誰といたって、馴染めもせず、愛されることも叶わぬのだから。

 薄れゆく意識の中、わたしは男の声を聴いた。ジャブジャブと、水の中を駆け寄る足音。そっと、体を掬い上げられていく感覚。息ができた。だけど、どうしてだろう。死に損ねたことに、涙が溢れてしまう。
わたしを拾い上げた男は、わたしの濡れた体を外套に包み、温めるようにして抱えた。

「大丈夫かい。さぞ苦しかったろうに。しっかり毛を乾かして、温めた牛の乳でも飲ませてやろうね」
 優しく温かい言葉が聞こえる。男の外套の中からちらりと見えた川の水面には、男が被っていたのであろう帽子が浮かんでいる。わたしを見つけ、駆け寄ろうとしたときに落ちたのだろうか。そんなに必死になって、助けるような命ではないというのに。

 わたしが水に濡れているからか、大きな耳は水の重みで垂れ下がり、尻尾も水気を含んで重たい。ますます、異形さが増しているはずのわたしに、この男は微笑みかけてくる。人に優しく微笑みかけられることに慣れないわたしは怖くなって、外套の中でガタガタと震えてしまう。

「わたしが怖いかい。だけど、怯えなくていいんだよ。わたしはおまえに危害を加えたりしない」
 ぎゅっと抱き締められ、そっと毛を撫でられると、次第に震えがおさまり、その代わりに安心感からか睡魔に見舞われてしまった。

 目が覚めると、暖かい部屋の中にいた。何だか体が熱っぽい。このとき、わたしは初めて、人間と同じように風邪というものを引いたのだろうかと思った。重くだるい頭を持ち上げれば、すっかり体は乾いているし、寒くはなかった。むしろ、少し暖かすぎるくらいだ。この部屋は広く、古い本や書類の山などがたくさん積まれている。わたしが寝かされていたのは、濃紺の座布団の上で、近くでは薪ストーブのようなものが焚かれている。

「古い文献にも、この子のような生き物は書かれていないしなあ……」
 あの男の声がしたのは、本や書類の積まれた机の奥からだった。どうやらここは、男の部屋のようだ。
じっと、その様子を眺めていれば、わたしの視線に気づいたようで、男が書類の山からひょこっと顔を出し、「よかった」と喜びながら近づいてきた。

「驚いた。一週間も眠り続けたから、もうだめかと思っていたんだ。でも、本当によかった」
 答えもしないわたしに、男は喋りかけ続ける。
 本当のことを言うと、わたしは言葉を話せる。異形のなりではあるが、言葉を話せることは、わたし自身が気に入る唯一のことだった。けれど、言葉を交わす人は慎重に選ばねばならない。
初めて人と言葉を交わしたとき、様々な物珍しさから、その人はわたしを家に上げてくれた。嬉しかった。だけど待っていたのは見せ物として扱われるだけの日々だった。それでも、わたしは、わたしを拾ってくれたその人の助けになれるならばと思っていた。だが次第に、その人はわたしに餌をくれなくなった。寝床も、寒く暗い蔵の隅に追いやられた。飢餓状態で瘦せこけたわたしは、更に異形さが増していただろう。その人は異形で言葉を話すわたしを気味悪がり、やがては追い出した。わたしはまた、あてもなくさまようことになった。それから、人間と会話をしようとは思わなくなったのだ。

「これから、おまえの名前はシマだよ」
男がにこやかに話しかけてくる。シマ? 頭の中に疑問符が浮かぶ。なぜ、シマなのだろう。わたしの訊きたいことを悟ったように、男はまた喋り出す。

「ほら、おまえの尻尾には縞模様があるだろう? それがとっても愛らしいから、シマと呼びたいんだ」
 ――わたしが何も話さずとも、男は毎日語りかけてきた。餌とは呼ばない食事を与えてくれて、寝るときはいつも、濃紺の座布団の上。恐ろしいくらい快適で、幸せだったので、逆に怖くなって逃げ出そうかと考えたこともある。だけど、男は懲りずにわたしに優しく接した。この男は嫌というほどお喋りなので、わかったこともある。男の名は敬一郎(けいいちろう)。わたしと友になりたいと言うのだ。おかしな人間もいるものだと、わたしには珍しく思えて、しばらく敬一郎の家に厄介になることを決めた。
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