チームメート
文字数 4,596文字
女子プロ野球チーム・横浜レッドシューズは苦戦していた。
春季リーグはあと一歩のところで優勝を逃し、今戦っている秋季リーグでも現在4チーム中の3位。
女子プロ野球はまだまだマイナーなプロスポーツ、観客動員数は伸び悩みTV中継も少ないのが実情だ、秋季も優勝を逃すとチームは女王決定シリーズに出られない、注目を集める数少ない試合に出場できないのは人気面だけでなく、経営的にも痛手となる。
昨シーズンは春季、秋季とも優勝で年間優勝を果たした、チームとして人気が上がって来ただけに今年も優勝してその人気を確固たるものにしておきたいと言う思惑もある。
昨シーズンとの大きな違いはエースを失ったこと。
絶対的エースだった石川雅美が男子のプロにドラフトされて移籍したのだ。
彼女は新人ながらシーズン後半には湘南シーガルズのセットアッパーに定着し、日本シリーズ最終戦で勝ち星を挙げるなどの活躍を見せ、女子野球への認識は随分と改まった、その意味において彼女を男子プロの世界へ送り出したことに後悔などない。
もちろん雅美を失うことは大きな損失には違いないが、チームとしては女子プロ野球発展のために必要だと考えて移籍を許したのであり、雅美を欠いても優勝できるだけの力があると踏んでの決断だった。
だが、雅美に続く二番手、今季からのエースと目していたピッチャーが春季リーグ戦途中けがで離脱し、秋季に入っても調子が上がって来ないのは誤算だった。
そして、主に2番・セカンドで出場していたベテランの山田花純の引退も痛手だった。
花純は打率こそ2割5分そこそこだったが、野球を良く知る小技の利く選手で、由紀の駿足を最大限に生かす役割を担っていたのだが、結婚を機に引退してしまったのだ。
30歳とまだまだできる年齢だったが、結婚相手との交際は長く、結婚後はすぐにでも子供が欲しい、と言う希望を持っていたので引き留めるわけにも行かなかった。
そう言うわけで、投手力の低下が予想以上となり、いぶし銀のベテランも失った、その結果が3位と言う順位なのだ。
とは言え、今シーズンにかけて補強しなかったわけではない。
トレードやFAでの補強こそしなかったが、有望な新人は何人か加わった。
その筆頭となるはずだったのが坂口蘭だ。
蘭は大型の外野手、タイプとしては中距離打者だがライナーで外野席に叩き込むパワーを備え、駿足、好守、強肩と四拍子揃ったホープ、背番号1を与えたことからも期待度が大きいことが伺えると言うものだ。
春季の滑り出しではベンチスタートだったが、代打で結果を残して中盤からは3番に据えられた、蘭は本来センターの選手、しかしレッドシューズにはジャパンでも一番を打つセンターでキャプテンの川中由紀がいて、レフトとライトも4,5番を打つ中心打者、それゆえ蘭はファーストに起用されたのだが、元々のファーストは主に6番を打っていた山崎椿と言う勝負強い選手、力の差はそう大きくはないのだ。
そして、蘭がチーム内に不協和音をもたらしたことも看過できない。
高校時代から注目を集めていた蘭は、自信家で歯に衣を着せない言動が目立つのだ。
ファースト守備に関して、定位置を追われたにもかかわらず椿がアドバイスしてやってもそれを実践しようとはしない、本来のセンターにこだわりを持っているのだ。
守備練習でもそれは現れる、ファーストの守備練習では手を抜いて難しいゴロに飛びつこうとはせず、ショートバウンドの送球はしばしば後ろに逸らしてしまう、記録上は悪送球になるので『私のせいじゃない』とばかりに涼しい顔なのだ。
だがセンターの守備練習となると目の色が変わる、打球カンの良さ、球際の強さでは由紀に一歩譲るものの、由紀の弱点が肩の弱さであることを強調するかのように、強肩をことさらにひけらかそうとするのだ。
バッティングでも自己中心的な態度が出る。
ノーアウト、ワンアウトで三塁に由紀がいるようなケースでは外野フライはもちろん、ボテボテの内野ゴロでも得点できる可能性が高いのだが、そんな場面でも強振して三振、と言うケースが目立つし、4番に繋ごうと言う意図がほとんど感じられず自分のバットで決めようとする、自分の成績を犠牲にしても勝利に貢献しようと言う気持ちが見られないのだ。
守備に関しても内野陣からは嫌われている。
それでもこれからのレッドシューズを背負って立つ逸材であることは間違いない、由紀はキャプテンとしてチームメートをなだめ、蘭にも苦言を呈するのだが、あまり真摯に聞いているようにも見えない。
そこで、監督と由紀はかねてから検討し、準備して来たプランを実行に移すことを決断した。
【1番・セカンド 川中由紀】
そのアナウンスが球場に流れるとどよめきが起きた。
由紀と言えばジャパンでも不動の【1番・センター】だ、それがセカンドとは? そもそも小学校時代からずっと由紀はセンターを守って来たし、肩の弱さを差し引いても由紀の守備はしばしばチームを救って来ていた、そもそも由紀の美技を見ることもファンの楽しみの一つだったのだ。
だが、このコンバートは由紀自身の発案によるものだった。
引退した花純の後に入ったセカンドは、高校時代は3番・ショートを務めていた選手、守備に関してはあまり問題はないが、バッティングではプロのスピードにまだ付いて行けず、2割そこそこの打率しか残せていない、高校ではクリーンアップだったこともあって小技もあまり上手くない、彼女はむしろ2~3年後のショートとして大きく育てたい選手なのだ。
坂口椿の勝負強いバッティングと信頼度の高い守備も惜しい、だとすれば自分がセカンドに回るのが一番良いのではないか。
由紀はそう考え、密かにセカンドの練習を積んで来たのだ。
元々スピードに乗るのが早いタイプだし、打球カンはむしろ内野でこそ光る、肩の弱さもセカンドならば比較的問題がない。
だが、グラブさばきには少々苦労した、外野とは大きく違うからだ。
しかしサンダース、サンダーガールス、サンダーレディースと一貫して指導してもらっていた小川光弘監督は元々社会人野球でセカンドを守っていた、春季リーグと秋季リーグの間のオフ、由紀は彼の教えを請い、高校生以上を対象としたサンダーレディースに混じって練習し、持ち前の俊敏さと野球センスを発揮してめきめきと上達していたのだ。
そして【3番・センター 坂口蘭】【6番・ファースト 山﨑椿】がアナウンスされると、レッドシューズファンの心は踊った、なんとなくちぐはぐだったレッドシューズは消えて強いレッドシューズが戻って来るのではないかと……。
その試合の先発は復調の兆しを見せていた新エースの寺島菫、5回1失点の好投を見せて復活を印象付け、組み直した打線も繋がって快勝を収めると、その試合を節目にしてレッドシューズは上昇気流に乗り、秋季リーグを逆転で制した。
そして迎えた女王決定シリーズ、対戦成績を1勝1敗とした最終戦、6回裏を終了してレッドシューズは2-0とリードして最終回の守備に散った。
だが3連投となったクローザーの石山皐が捕まり、ワンアウト一、三塁のピンチを招いてしまう。
ここで相手5番打者が放ったのはこすったような当たりの浅いセンターフライ。
センターの蘭は打球に対してやや後ろに構え、助走をつけてのバックホーム体勢を取る、三塁ランナーは駿足の2番打者、タッチアップの体勢を取ってホームを狙う構えだ。
(由紀さんとの差を見せつけてやるわ、レッドシューズのセンターはあたしよ)
この試合、レッドシューズの2点は蘭のタイムリーツーベースによるもの、その上最後のアウトを自分のバックホームで取れば文句なしのヒロイン、シリーズのMVPすら見えて来る。
だが、蘭はボールを弾いて後ろに逸らしてしまった、出来るだけ素早くバックホームしようと気が急いてボールから目を切ってしまったのだ。
(しまった!)
転々と転がるボールを追う内に三塁ランナーは悠々ホームイン、蘭がボールに追いついた時には一塁走者も三塁を回り、バッターランナーも二塁に到達しようとしていた。
鮮やかなバックホームでゲームセットどころかこの土壇場で同点にされ、更に逆転の走者まで許してしまったのだ。
すくんだように立ち尽くす蘭を見てレッドシューズの監督は動いた。
「センター、坂口に代えて川中」
呆然とベンチに戻って来た蘭に声をかける選手はいなかった、蘭もベンチに座り込むと頭を抱えた……が、乾いた金属音にハッとして顔を上げた。
相手の6番が放った打球は左中間を襲うライナー、抜ければ逆転され、更にワンアウト二塁のピンチが続く。
(何てこと……あたしがしでかしたエラーって……)
野球にミスはつきものではある、しかし自分がやってしまったのは功名心に駆られた末のエラーだ、三塁ランナーを返されてもまだ2-1、ツーアウト一塁なら逃げ切れる可能性は高かったはず……。
だが、その時、蘭の目に赤いユニフォームが飛び込んで来た、普通なら間違いなく抜けて行く打球だが由紀が一直線に打球を追っているのだ、だが、由紀をもってしても捕れるか捕れないか微妙なタイミング。
(お願い! 捕って!)
蘭は野球を始めて以来、初めてチームメートの活躍を祈った、自分以外の選手の活躍を。
何とか追いついた由紀がジャンピングキャッチを試みる、ボールはグラブの中に吸い込まれて行った。
そして、芝生の上に倒れ込んだ由紀は腹ばいのまま駆け寄って来たレフトにボールをトス、レフトはすかさず三塁へボールを全力送球。
打球は左中間へ飛んだが、キャッチした由紀が倒れ込むのを見越して二塁ランナーがタッチアップから三塁を狙っていたのだ、レフトからサードへの送球はギリギリのタイミング……。
『アウト!』
サードのグラブにボールが収まっているのを確認した塁審の右手が上がった、連携プレーによる捕殺! レッドシューズは逆転のピンチを脱した。
「由紀さん!」
仲間とタッチをかわしながらベンチに戻って来た由紀に蘭が声をかけるが、胸が一杯になり後の言葉が続かない、しかも7回の裏の先頭バッターは由紀、由紀は蘭に笑顔を見せるとネクストバッターサークルへ向かう。
「ありがとうございます」
由紀の背中に蘭が帽子を取って深々と頭を下げた。
その姿を見て、ベンチ内に笑みが広がって行った……。
由紀が三遊間への内野安打で出塁するとすかさず盗塁、2番がバントで由紀を三塁へと送り、蘭と代わってセカンドに入ったベテランがそつなく外野フライ。
由紀がホームを駆け抜けるのを見守った主審は両手を広げ、更に右の掌を高く掲げて宣言した。
「セーフ! ゲーム・セット!」
由紀を中心に歓喜の輪が広がって行く中、蘭はベンチから出られないでいた。
その背中をポンと叩いた者がいる。
ヘッドコーチの浅野淑子だ、145センチの淑子は175センチの蘭を見上げるように言った。
「さあ、あたしたちも輪に加わりましょう、チームメートでしょ?」
その暖かな微笑を見下ろして、蘭の顔にもようやく笑みが浮かんだ。
「はい!」
背の高い背番号1と背の低い背番号10は笑顔を交わし合いながら、その中心で由紀が宙に舞っている輪に加わって行った……。
春季リーグはあと一歩のところで優勝を逃し、今戦っている秋季リーグでも現在4チーム中の3位。
女子プロ野球はまだまだマイナーなプロスポーツ、観客動員数は伸び悩みTV中継も少ないのが実情だ、秋季も優勝を逃すとチームは女王決定シリーズに出られない、注目を集める数少ない試合に出場できないのは人気面だけでなく、経営的にも痛手となる。
昨シーズンは春季、秋季とも優勝で年間優勝を果たした、チームとして人気が上がって来ただけに今年も優勝してその人気を確固たるものにしておきたいと言う思惑もある。
昨シーズンとの大きな違いはエースを失ったこと。
絶対的エースだった石川雅美が男子のプロにドラフトされて移籍したのだ。
彼女は新人ながらシーズン後半には湘南シーガルズのセットアッパーに定着し、日本シリーズ最終戦で勝ち星を挙げるなどの活躍を見せ、女子野球への認識は随分と改まった、その意味において彼女を男子プロの世界へ送り出したことに後悔などない。
もちろん雅美を失うことは大きな損失には違いないが、チームとしては女子プロ野球発展のために必要だと考えて移籍を許したのであり、雅美を欠いても優勝できるだけの力があると踏んでの決断だった。
だが、雅美に続く二番手、今季からのエースと目していたピッチャーが春季リーグ戦途中けがで離脱し、秋季に入っても調子が上がって来ないのは誤算だった。
そして、主に2番・セカンドで出場していたベテランの山田花純の引退も痛手だった。
花純は打率こそ2割5分そこそこだったが、野球を良く知る小技の利く選手で、由紀の駿足を最大限に生かす役割を担っていたのだが、結婚を機に引退してしまったのだ。
30歳とまだまだできる年齢だったが、結婚相手との交際は長く、結婚後はすぐにでも子供が欲しい、と言う希望を持っていたので引き留めるわけにも行かなかった。
そう言うわけで、投手力の低下が予想以上となり、いぶし銀のベテランも失った、その結果が3位と言う順位なのだ。
とは言え、今シーズンにかけて補強しなかったわけではない。
トレードやFAでの補強こそしなかったが、有望な新人は何人か加わった。
その筆頭となるはずだったのが坂口蘭だ。
蘭は大型の外野手、タイプとしては中距離打者だがライナーで外野席に叩き込むパワーを備え、駿足、好守、強肩と四拍子揃ったホープ、背番号1を与えたことからも期待度が大きいことが伺えると言うものだ。
春季の滑り出しではベンチスタートだったが、代打で結果を残して中盤からは3番に据えられた、蘭は本来センターの選手、しかしレッドシューズにはジャパンでも一番を打つセンターでキャプテンの川中由紀がいて、レフトとライトも4,5番を打つ中心打者、それゆえ蘭はファーストに起用されたのだが、元々のファーストは主に6番を打っていた山崎椿と言う勝負強い選手、力の差はそう大きくはないのだ。
そして、蘭がチーム内に不協和音をもたらしたことも看過できない。
高校時代から注目を集めていた蘭は、自信家で歯に衣を着せない言動が目立つのだ。
ファースト守備に関して、定位置を追われたにもかかわらず椿がアドバイスしてやってもそれを実践しようとはしない、本来のセンターにこだわりを持っているのだ。
守備練習でもそれは現れる、ファーストの守備練習では手を抜いて難しいゴロに飛びつこうとはせず、ショートバウンドの送球はしばしば後ろに逸らしてしまう、記録上は悪送球になるので『私のせいじゃない』とばかりに涼しい顔なのだ。
だがセンターの守備練習となると目の色が変わる、打球カンの良さ、球際の強さでは由紀に一歩譲るものの、由紀の弱点が肩の弱さであることを強調するかのように、強肩をことさらにひけらかそうとするのだ。
バッティングでも自己中心的な態度が出る。
ノーアウト、ワンアウトで三塁に由紀がいるようなケースでは外野フライはもちろん、ボテボテの内野ゴロでも得点できる可能性が高いのだが、そんな場面でも強振して三振、と言うケースが目立つし、4番に繋ごうと言う意図がほとんど感じられず自分のバットで決めようとする、自分の成績を犠牲にしても勝利に貢献しようと言う気持ちが見られないのだ。
守備に関しても内野陣からは嫌われている。
それでもこれからのレッドシューズを背負って立つ逸材であることは間違いない、由紀はキャプテンとしてチームメートをなだめ、蘭にも苦言を呈するのだが、あまり真摯に聞いているようにも見えない。
そこで、監督と由紀はかねてから検討し、準備して来たプランを実行に移すことを決断した。
【1番・セカンド 川中由紀】
そのアナウンスが球場に流れるとどよめきが起きた。
由紀と言えばジャパンでも不動の【1番・センター】だ、それがセカンドとは? そもそも小学校時代からずっと由紀はセンターを守って来たし、肩の弱さを差し引いても由紀の守備はしばしばチームを救って来ていた、そもそも由紀の美技を見ることもファンの楽しみの一つだったのだ。
だが、このコンバートは由紀自身の発案によるものだった。
引退した花純の後に入ったセカンドは、高校時代は3番・ショートを務めていた選手、守備に関してはあまり問題はないが、バッティングではプロのスピードにまだ付いて行けず、2割そこそこの打率しか残せていない、高校ではクリーンアップだったこともあって小技もあまり上手くない、彼女はむしろ2~3年後のショートとして大きく育てたい選手なのだ。
坂口椿の勝負強いバッティングと信頼度の高い守備も惜しい、だとすれば自分がセカンドに回るのが一番良いのではないか。
由紀はそう考え、密かにセカンドの練習を積んで来たのだ。
元々スピードに乗るのが早いタイプだし、打球カンはむしろ内野でこそ光る、肩の弱さもセカンドならば比較的問題がない。
だが、グラブさばきには少々苦労した、外野とは大きく違うからだ。
しかしサンダース、サンダーガールス、サンダーレディースと一貫して指導してもらっていた小川光弘監督は元々社会人野球でセカンドを守っていた、春季リーグと秋季リーグの間のオフ、由紀は彼の教えを請い、高校生以上を対象としたサンダーレディースに混じって練習し、持ち前の俊敏さと野球センスを発揮してめきめきと上達していたのだ。
そして【3番・センター 坂口蘭】【6番・ファースト 山﨑椿】がアナウンスされると、レッドシューズファンの心は踊った、なんとなくちぐはぐだったレッドシューズは消えて強いレッドシューズが戻って来るのではないかと……。
その試合の先発は復調の兆しを見せていた新エースの寺島菫、5回1失点の好投を見せて復活を印象付け、組み直した打線も繋がって快勝を収めると、その試合を節目にしてレッドシューズは上昇気流に乗り、秋季リーグを逆転で制した。
そして迎えた女王決定シリーズ、対戦成績を1勝1敗とした最終戦、6回裏を終了してレッドシューズは2-0とリードして最終回の守備に散った。
だが3連投となったクローザーの石山皐が捕まり、ワンアウト一、三塁のピンチを招いてしまう。
ここで相手5番打者が放ったのはこすったような当たりの浅いセンターフライ。
センターの蘭は打球に対してやや後ろに構え、助走をつけてのバックホーム体勢を取る、三塁ランナーは駿足の2番打者、タッチアップの体勢を取ってホームを狙う構えだ。
(由紀さんとの差を見せつけてやるわ、レッドシューズのセンターはあたしよ)
この試合、レッドシューズの2点は蘭のタイムリーツーベースによるもの、その上最後のアウトを自分のバックホームで取れば文句なしのヒロイン、シリーズのMVPすら見えて来る。
だが、蘭はボールを弾いて後ろに逸らしてしまった、出来るだけ素早くバックホームしようと気が急いてボールから目を切ってしまったのだ。
(しまった!)
転々と転がるボールを追う内に三塁ランナーは悠々ホームイン、蘭がボールに追いついた時には一塁走者も三塁を回り、バッターランナーも二塁に到達しようとしていた。
鮮やかなバックホームでゲームセットどころかこの土壇場で同点にされ、更に逆転の走者まで許してしまったのだ。
すくんだように立ち尽くす蘭を見てレッドシューズの監督は動いた。
「センター、坂口に代えて川中」
呆然とベンチに戻って来た蘭に声をかける選手はいなかった、蘭もベンチに座り込むと頭を抱えた……が、乾いた金属音にハッとして顔を上げた。
相手の6番が放った打球は左中間を襲うライナー、抜ければ逆転され、更にワンアウト二塁のピンチが続く。
(何てこと……あたしがしでかしたエラーって……)
野球にミスはつきものではある、しかし自分がやってしまったのは功名心に駆られた末のエラーだ、三塁ランナーを返されてもまだ2-1、ツーアウト一塁なら逃げ切れる可能性は高かったはず……。
だが、その時、蘭の目に赤いユニフォームが飛び込んで来た、普通なら間違いなく抜けて行く打球だが由紀が一直線に打球を追っているのだ、だが、由紀をもってしても捕れるか捕れないか微妙なタイミング。
(お願い! 捕って!)
蘭は野球を始めて以来、初めてチームメートの活躍を祈った、自分以外の選手の活躍を。
何とか追いついた由紀がジャンピングキャッチを試みる、ボールはグラブの中に吸い込まれて行った。
そして、芝生の上に倒れ込んだ由紀は腹ばいのまま駆け寄って来たレフトにボールをトス、レフトはすかさず三塁へボールを全力送球。
打球は左中間へ飛んだが、キャッチした由紀が倒れ込むのを見越して二塁ランナーがタッチアップから三塁を狙っていたのだ、レフトからサードへの送球はギリギリのタイミング……。
『アウト!』
サードのグラブにボールが収まっているのを確認した塁審の右手が上がった、連携プレーによる捕殺! レッドシューズは逆転のピンチを脱した。
「由紀さん!」
仲間とタッチをかわしながらベンチに戻って来た由紀に蘭が声をかけるが、胸が一杯になり後の言葉が続かない、しかも7回の裏の先頭バッターは由紀、由紀は蘭に笑顔を見せるとネクストバッターサークルへ向かう。
「ありがとうございます」
由紀の背中に蘭が帽子を取って深々と頭を下げた。
その姿を見て、ベンチ内に笑みが広がって行った……。
由紀が三遊間への内野安打で出塁するとすかさず盗塁、2番がバントで由紀を三塁へと送り、蘭と代わってセカンドに入ったベテランがそつなく外野フライ。
由紀がホームを駆け抜けるのを見守った主審は両手を広げ、更に右の掌を高く掲げて宣言した。
「セーフ! ゲーム・セット!」
由紀を中心に歓喜の輪が広がって行く中、蘭はベンチから出られないでいた。
その背中をポンと叩いた者がいる。
ヘッドコーチの浅野淑子だ、145センチの淑子は175センチの蘭を見上げるように言った。
「さあ、あたしたちも輪に加わりましょう、チームメートでしょ?」
その暖かな微笑を見下ろして、蘭の顔にもようやく笑みが浮かんだ。
「はい!」
背の高い背番号1と背の低い背番号10は笑顔を交わし合いながら、その中心で由紀が宙に舞っている輪に加わって行った……。