停電の奇跡

文字数 1,316文字

 失恋したなぐさみに、僕はその日の夜遅く、改装したての老舗の映画館へ行った。割引の利くレイトショーが目当てだった。

 繁華街の一角に建つ、僕ははじめて来る小さな映画館だったが、客足はまずまずといったところ。外観はとても古いがフロアは清潔で、内装は真新しい。
 失恋したので、発券したタイトルは失恋映画だった。照明が落ちて間もなく上映が始まり、僕はスクリーンに集中した。
 そのうち、突然スクリーンの映像が消えた。少ししても回復しない。異変を察知した周囲のまばらな観客がややざわめきを始め、連れとささやき合ったりスマートフォンをいじくったりしている。
 どうも停電らしい――。その旨を伝えるアナウンスが流れ、復旧まで少々お待ちくださいと言われる。僕は椅子に深々と座り直す。
 そのとき、暗闇から肩をたたかれた。
 「はい?」
 答えた僕のすぐ背後で、男の太い声がした。
 「すみません。あの、あなたの足もとかそのへんに、マッチが落ちていませんか」
 「マッチですか?」
 「ええ、はい。箱ごと落としてしまって」
 「分かりました。ちょっと……待ってくださいね……」
 僕は言われるがまま自分の席の足もとを見たが、暗すぎて分からない。スマートフォンの灯りを頼りにさがしてみるが、見つからない。
 「ご苦労おかけして……」
 座席の下へ身をかがめる僕の頭上から、男が言った。
 「どうも、煙草を吸いたかったので」
 「はあ」
 「『敷島』をね。ちょっと奮発しまして。エヘヘ、いいでしょう」
 「はあ……シキシマ?」
 戦艦みたいな名前だと思った。僕はごくたまにしか吸わないが、そんな銘柄ははじめて聞いた。
 「よろしければ、あなたも一本。いや、ここはずいぶん綺麗な小屋で」
 「はあ……? そうですね、改装したばかりみたいで……あの、マッチですけど、このへんには――」
 ぱっと照明がついた。僕は身を戻し、後ろを振り向いた。
 だれもいない。
 一瞬の思考停止のあと、僕は気づいた。
 僕は最後列の席を選んで座っていたのだった。だから、僕の後ろに座席のあるはずはない。
 無人の通路と壁を茫然と見つめ、さらに僕は気づいた。
 マッチ箱。だが今どき、マッチを使って煙草を吸う人間がいるだろうか?
 そこで僕はさらに気づく。今さらのように思い当たる。
 館内は「禁煙」なのだった。そう。上映中の喫煙は「かたくおことわり」されている。
 だがさっきの声、あの男は――果たしてそのことを知っていたのか? まず、そんな口調だったか?
 僕は立ち上がると、停電復旧のアナウンスを耳から耳へと流しながら脇目もふらず外へ出た。
 血の気が引いていた。

 往来へ出ると、スマートフォンで男の言っていた「シキシマ」を検索した。
 『敷島。かつて日本で売られていた煙草の銘柄。明治37年販売開始、昭和18年製造終了。製造廃止の理由として、太平洋戦争の戦局悪化にともない……』
 僕は最後まで読まず画面を消し、背後を振り向いた。電飾が輝いている。出てきたばかりの映画館の看板が、大きく視界へ飛び込んだ。
 『✕✕劇場 皆様とともに一世紀 創業大正11年』
 ここはずいぶん綺麗な小屋で――。
 男の野太い声が、僕の耳に燦然とよみがえった。
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