夏-2

文字数 899文字

 ぼくらを痛めつけ、苦しめているものが何なのか、ふと考える。それは例えば、酒の席で喉をかぽっと鳴らし笑い転げては咳き込む、おそらく同年代であろう学生らの姿であったり、新宿駅前で惰性で誰かの歌のカバーを喉を枯らさない程度の熱量で叫び続ける中年の姿であったり、綺麗に思われる言葉を並べるばかりの中身のない文章を書きつづけるぼく自身の姿であったりするのだろうか。些細な不快感ばかりにぼくらは余りに敏感で、そのくせ、ささやかな幸福には鈍感で、だから、だから……
 大学図書館の窓から見える、木々は無音の風に揺らされて、照り付ける夏の陽光が葉の緑に反射しては目に痛くて、課題のレポートも、執筆も、読書も、そのどれもが進みそうになく、ぼくはただただ彼女が受けている、三限の『フランス文学史』講義が終わるのを待っていた。
「そんなに怖い顔して外を見て、木が憎いんだねぇ」にゃはは、と無邪気に、図書館だから控えめに。彼女は、白のワンピースがよく似合う。
 あぁ、彼女の声だ。いつも通りの、明るく、可愛らしい、彼女の声だ。好かった、元気な声で、本当に、好かった。
 大学生活が始まって、もう三か月と少しが経つけれど、二か月目を過ぎた頃から彼女の表情や声にはどこか翳りが見えはじめ、彼女が言うには、ぼくのせいではないとのことだけれど、であれば何が、どんな事情が、彼女を痛めつけ、苦しめているのだろう。
 木々が風に揺らされている音や、飲みにでも行こうとでも話しているのだろう、講堂からでてくる学生らの明るい声音は、図書館を満たしている静寂の内でも容易に想像が出来、そして何か、彼女の、いや、ぼくらの中で、些細ではあるけれど決して失してはならない何かが壊れゆく、そんな音もぼくには聞こえた、ような気がした。
「今日はカレー作って欲しいなぁーお店で食べるより、好きな味なんだよー」図書館を出るなり彼女が言った。カナカナカナとひぐらしが、ギィーチョンチョンとキリギリスが鳴いていて、夏が過ぎてしまえば彼女も一緒に居なくなってしまうような、そんな淋しさに突然襲われて、ぼくはうまく返事ができないままに頷いて、彼女の手をそっと握りかえした。
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