第3話
文字数 1,440文字
――梅乃との会話から数日。
琴子は今日も遊郭の雑用をテキパキとこなしていた。
打掛 を手桶の中でもみ洗いし、石鹸をつけて丁寧に汚れを落としていく。
……今朝楼主に打 たれ、転んだ拍子にできた手の傷がズキズキと染みるけれど、いつものこと。
すべての衣類を洗い終え、裏庭に干そうと服で山積みになった籠を持って外に出かける。
すると、通りの向かいの路地裏に、黒い何かが居るのをを見つけた。
思わず視線を向けて凝視すると、それは人のような形をしていて全く動く気配がない。
それどころかぐったりと座り込んでいるようにさえ見える。
――近づいて襲われる可能性。はたまた既に亡くなっている可能性。
どんな可能性も捨てきれなかったが、どうしてもそれが気がかりな琴子は遊郭の人間に見られていないことを確認し、籠を置いて危険を承知で駆け寄った。
壁に手をつけ、恐る恐る顔を覗かせる。
「……!」
するとそこには、黒の外套を羽織った黒髪の若い男が項垂 れ座り込んでいた。
尖った耳先を見るに、彼が人間ではなく妖であることが分かる。
肩を上下させ、きちんと呼吸をしていることにひとまず安堵した。
外傷などはないか、近くで様子を見ようと足を一歩踏み出した、そのとき。
「――誰だ」
項垂れていたはずの男は一瞬にして短刀を抜き、琴子の眼前に突きつけた。
刃を掠めた頬から血がにじみ出る。
「誰だと聞いている」
「……っ」
男の鋭い眼差しが、琴子を射抜く。
凍てついた血のように赤いその瞳は、以前梅乃が話していた『死神』を彷彿とさせた。
突如として突きつけられた死の恐怖に、思わず足が震える。
呼吸も自然と浅くなり、額からは冷や汗が流れた。
――安易に近づくべきではなかった。
そう思ったのも束の間。
琴子は気づく。その男の様子が普通では無いことに。
生気を失ったような青白い肌。額には脂汗をかいており、痛みに耐えるように僅かに顔を顰 めている。
深く傷を負ったのだろう、左腕からは多量の血を流していた。
事情は分からない。この男が誰なのかも知らない。
それでもこのまま放ってはおけないと感じた琴子は、唇をきゅっと結び、ゆっくりと地面に膝をついた。
「……」
少女の一挙一動に警戒し、短刀を突きつけたまま様子を伺う男。
それに構わず着物の袂に手を伸ばし、一枚の質素な手ぬぐいを取り出した。
「……なんのつもりだ」
訝しむ男に、自分の左腕を指差して意思を伝える。
すると男は意図を理解したのか、驚いたように目を見張った。
腕など持ち上げようものなら短刀で切られるかと覚悟したが、意外にも男は何もしてこない。
琴子は丁寧に男の腕に手ぬぐいを巻き、傷だらけの手で力いっぱいに引き絞った。
「お前……」
いつ殺されてもおかしくないこの状況。
男にとって、彼女の行動はとても理解できないものだった。
無事手当を終えた琴子はホッと息をつく。
この怪我にしてはあまりにお粗末な処置だが、今はこれが精一杯だ。
そのまま立ち上がり男に手早く一礼すると、恐怖にすくむ足でその場から逃げるように立ち去った。
「……」
その後ろ姿を男は茫然と見つめる。
――思い出されるのは彼女の状態だった。
着物はボロボロで所々ほつれ、そこから覗く手足はひどくやせ細り、そのうえ無数の打ち身と擦り傷をつくっていた。
誰がどう見ても健全な生活を送っているとは思えない。
「……」
脳裏に蘇る、古い記憶。
男はわずかな苛立ちを覚えながら、手ぬぐいで縛られた腕を強く握りしめた。
琴子は今日も遊郭の雑用をテキパキとこなしていた。
……今朝楼主に
すべての衣類を洗い終え、裏庭に干そうと服で山積みになった籠を持って外に出かける。
すると、通りの向かいの路地裏に、黒い何かが居るのをを見つけた。
思わず視線を向けて凝視すると、それは人のような形をしていて全く動く気配がない。
それどころかぐったりと座り込んでいるようにさえ見える。
――近づいて襲われる可能性。はたまた既に亡くなっている可能性。
どんな可能性も捨てきれなかったが、どうしてもそれが気がかりな琴子は遊郭の人間に見られていないことを確認し、籠を置いて危険を承知で駆け寄った。
壁に手をつけ、恐る恐る顔を覗かせる。
「……!」
するとそこには、黒の外套を羽織った黒髪の若い男が
尖った耳先を見るに、彼が人間ではなく妖であることが分かる。
肩を上下させ、きちんと呼吸をしていることにひとまず安堵した。
外傷などはないか、近くで様子を見ようと足を一歩踏み出した、そのとき。
「――誰だ」
項垂れていたはずの男は一瞬にして短刀を抜き、琴子の眼前に突きつけた。
刃を掠めた頬から血がにじみ出る。
「誰だと聞いている」
「……っ」
男の鋭い眼差しが、琴子を射抜く。
凍てついた血のように赤いその瞳は、以前梅乃が話していた『死神』を彷彿とさせた。
突如として突きつけられた死の恐怖に、思わず足が震える。
呼吸も自然と浅くなり、額からは冷や汗が流れた。
――安易に近づくべきではなかった。
そう思ったのも束の間。
琴子は気づく。その男の様子が普通では無いことに。
生気を失ったような青白い肌。額には脂汗をかいており、痛みに耐えるように僅かに顔を
深く傷を負ったのだろう、左腕からは多量の血を流していた。
事情は分からない。この男が誰なのかも知らない。
それでもこのまま放ってはおけないと感じた琴子は、唇をきゅっと結び、ゆっくりと地面に膝をついた。
「……」
少女の一挙一動に警戒し、短刀を突きつけたまま様子を伺う男。
それに構わず着物の袂に手を伸ばし、一枚の質素な手ぬぐいを取り出した。
「……なんのつもりだ」
訝しむ男に、自分の左腕を指差して意思を伝える。
すると男は意図を理解したのか、驚いたように目を見張った。
腕など持ち上げようものなら短刀で切られるかと覚悟したが、意外にも男は何もしてこない。
琴子は丁寧に男の腕に手ぬぐいを巻き、傷だらけの手で力いっぱいに引き絞った。
「お前……」
いつ殺されてもおかしくないこの状況。
男にとって、彼女の行動はとても理解できないものだった。
無事手当を終えた琴子はホッと息をつく。
この怪我にしてはあまりにお粗末な処置だが、今はこれが精一杯だ。
そのまま立ち上がり男に手早く一礼すると、恐怖にすくむ足でその場から逃げるように立ち去った。
「……」
その後ろ姿を男は茫然と見つめる。
――思い出されるのは彼女の状態だった。
着物はボロボロで所々ほつれ、そこから覗く手足はひどくやせ細り、そのうえ無数の打ち身と擦り傷をつくっていた。
誰がどう見ても健全な生活を送っているとは思えない。
「……」
脳裏に蘇る、古い記憶。
男はわずかな苛立ちを覚えながら、手ぬぐいで縛られた腕を強く握りしめた。