1 俺が俺

文字数 4,710文字

 俺は時々、とてつもない力を手に入れたような気分になるんだ。最高に気持ちのいい確信が芽生えた瞬間、それはくるりと背を向けて、俺の身体から出て行く。
 俺は間抜けだ。失敗することが運命づけられていたんだ。こんなふうに中途半端に扱われるのが板についているんだ。せめてどん底まで突き落としてくれよと、泣き付きたくなるほど、三回に二回はため息を吐く人生。
 すべては身体を鍛え始めたからだ。あの時からすでに、勘違いが始まっていたんだ。
 筋肉は使えば強くなる。
 その単純さが俺には良かったんだ。
 いや、単純だったのは俺の頭だ。ただ、見栄えがいいだけの筋肉だった。それを使おうとして、俺は俺でしかないという事実を思い知らされる羽目になったんだ。
 ガタン。
 ドアの下、配給口からシュッとトレイが差し入れられた。
 たっぷりのローストビーフとブロッコリー。そして豆のスープ。
 泣けてくる。
 こんな捕虜の扱いがあっていいのか? それとも、俺は捕虜ですらないのか?
 俺は盗みを企んだ人間だぞ? 事情も聞かずに、ただただ閉じ込めるなんてことがあるのか? 一週間はたっているはすなのに。そろそろなんらかのアクションがあってもいいだろう? こういう時は締め上げて、洗いざらい情報を吐かせるものじゃないのか?
 軽い口約束でここまで来てしまった。そうだよ。俺は依頼主の名前もろくに覚えていないんだ。賢い連中からすれば、俺の顔にはでかでかと大馬鹿者だと書いてあるんだろう。
 ここはいったいなんなんだ。
 独房というよりも、安いホテルの部屋みたいだ。小さくとも、新そうなベッドは誰のものにもならないとばかりにそっけない。綺麗だった浴室とトイレは使うそばからくすんでいく。その足元で、自分で掃除をしろよと言いたげに、洗剤たちがこちらを見上げていた。洗面所の隅には、これで十分だろうと、シーツとタオルの替えがつっこまれている。窓はないし、ドアはどう頑張っても開きそうにない。浴室乾燥機を見つけた時は少しあがった。そして、そんな俺を突き放すように、至る所で監視カメラが俺の無様な姿を見張っている。異様な数の多さが、ここはお前の部屋ではないと告げていたんだ。
 外の情報はまったく入ってこない。夜になると勝手に消灯し、朝になると勝手に点灯する。時計がないので、本当に夜に消えて朝についているかどうかは知りようもなかった。
 楽しみは食事くらいだ。たまにデザートがあるのがたまらないんだ。
 最初は怖くてたまらなかった。だから俺は必死に筋トレをした。俺には他にできることがなかったから。鍛えるだけで強くなれる気がしていたんだ。ぶちのめしてやるとやたらめったら拳を突き出しては、精一杯威嚇をして、夜も座ったまま寝た。
 今では横になって寝ている。筋トレは続けている。部屋の外へのアピールはもうやめた。
 どうせ俺にはわからないんだから。
 俺は今までに、何かを自分で選んだことがあったのか。思い返してみても、いつも他人に勧められて、その気になって、なんとなく続けてはとんでもない失敗をして、俺は無力だったんだと思い出す。
 俺にはわからない。
 あれはいったいどういうつもりなんだ。
 この狭い部屋の中には、巨大なテディベアがいる。
 こいつも囚われの身だっていうのか?
 部屋の隅に押し込んでも押し込んでも、生活スペースを半分近くも自分のものにする凶悪な熊だ。床を使おうとすると、頭突きとエルボーで奪い返しにくるしち面倒臭いくさい獣だ。馬鹿でかくて破滅的に座りが悪いのがすべての元凶なんだ。こいつの生みの親は、人を襲わせる腹づもりだったに違いないんだ。何度あいつにスープを奪われたことか。
 ソファー代わりにローストビーフを食べていると、生意気そうなギラギラした目でこちらを挑発してくる。まるで俺の肉だと言いたげに、圧をかけてくるのだから嫌になる。
 筋トレをしていればベッドの上でふてぶてしく監督し、サンドバック代わりにしても、ちっともきかねえと言わんばかりに、もこもこの身体を見せつけてくる。おかげでぜんぜんトレーニングにならないんだ。
 あっという間に平らげ、トレイに乗っられた新品の歯ブラシで歯を磨く。俺は熊をベッドに置き、床に腹這いになった。掃除で使い込んだ古い歯ブラシもトレイに乗っけて、配給口から外に出した。微かに足音が聞こえて、黒い手袋がトレイを掴んだ。俺は素早く手を伸ばしてトレイを掴むと、声をかけた。
「待ってくれ! 教えてくれよ! 俺をどうするつもりなんだ! なあ!」
 ドアの向こうは薄暗い。
 俺は渾身の力でトレイを握り、持っていこうとする相手に抵抗した。
 ガシャン。
 相手はぱっと手を離すと、踵を返した。
 必死で呼び止めたけれど、相手は行ってしまったんだ。
 俺は手を引っ込めた。反抗しても相手は譲歩しないし、罰を与えるつもりもないらしい。なしのつぶてだ。どれだけボールを投げても、遠くでボールが落ちる音が聞こえるだけなんだ。
 がっかりして仰向けになると、足がベッドに当たった。
 ぼふんと熊が降ってくる。俺に覆いかぶさって、にやにやと俺の失敗を笑っている。
 俺は熊を両手で突き上げ、蹴り飛ばした。壁を使って再び襲い掛かる熊。
「この野郎!」
 頭にきた俺は馬乗りになって何度もパンチをめり込ませた。
「なんなんだよ!」
 何発も何発もパンチを浴びせる。
 へこむ度にもこっと形を取り戻す。どこか遠くへ投げ飛ばせたらどんなに気持ちがいいだろう。壁に囲まれて、怒りのやり場なんてどこにもないんだ。
 俺は配給口に熊の頭を突っ込んだ。目一杯押し潰して、熊を押し込んでいく。頭は入った。しかし、丸々とした肩で詰まってしまう。
 もうなにもかも嫌になって、俺はベッドに倒れ込んだ。背中の下から熊の足をひっっぱり出してはねのけた。
 少しして、バコンと音がしたかと思うと、熊の足が震えた。
 びくっとなった俺が身体を起こすと、毛並みの乱れた顔を胴体にめり込ませた熊が、不機嫌そうに見上げていた。外から押し戻されたようだ。
 ちょっとだけ胸の空く思いがした。
「偉そうにしているくせに、お前も出してもらえないんだな」
 ぐぐぐっとわずかに身体を震わせたかと思うと、バヨンと動体を波打たせて、ボスンと両足を俺に振り下ろしてきた。
『出してもらえねえんじゃねえ』
 とでもいっているかのようなで、反抗的な態度は相変わらずだ。
 俺はもっと、嫌味を言ってやりたくなった。この熊風情なら、俺の頭でも勝てる気がしたんだ。
「どうせ、どこにももらい手がないんだろ」
 足を払い除けて、ベッドにこないように身体の向きを変えさせた。
 熊は横目で俺をみている。
『ここにいろ』
 ふと、その言葉が俺の頭に蘇った。
 ズキッと胸に痛みが走る。
 もうあの頃の俺じゃないんだ。今の俺にはたくましい筋肉がある。
『みせかけだろ』
 ずっしりと重い、もやもやしたものが俺の中に入ってきた。
『虚飾を剥ぎ取ってやるよ』
「……うるさい」
 俺はベッドを降りて、熊をベッドの上にどかすと、スクワットを始めた。
「絶対にお前よりも早く脱出してやる」

 筋トレをやりすぎて、どうにも尻の座りが悪かった。座り直すたびに、熊がもぞもぞと動く。
 チキンソテーを食べている間中ずっと、熊の威高な視線が俺をとらえてはなさなかった。
『痩せロバ』
「俺はそんな名前じゃない」
『俺の名前も熊じゃねえぜ』
 俺はまじまじと熊の顔を見た。
 円な目は小さく、ひびの入った左目は、親しみを感じるにはあまりにも冷たい色をしていた。俺が小さい頃に大事にしていたテリーとは似ても似つかない野性的な面構えなんだ。
 俺の名はキングだ、とでも言い出しそうな大きな口。いや、周りが俺のことをキングと呼ぶようになったのさ、とでも自慢しそうな口だ。野良犬同然から、街を支配するギャングにまでのし上がったんだぜ。そんな風に語り出しそうだ。都会のギャングがなわばりを奪いにきた時は、片っ端から半殺しにして、かなりの無茶をしたなと、いかにも大口を叩きそうじゃないか。
 抗争に敗れて今に至るーーといったところか。
『俺が負けるわけがねえ』
 と、昔の武勇伝を懐かしんでは、いつまでも悔しがっているんだ。
 すると熊は、全然違うとかんかんになって怒り始めた。
『俺は奴らの本拠地に乗り込んで、壊滅寸前にまで追い込んでやったんだ』
「じゃあ、なんでこんなところにいるんだよ」
『ロイスの野郎が裏切ったんだ! ちくちょうめ! 俺を警察に売りやがった!』
 因縁の相手だ。可愛がっていた子分が、裏で乗っ取りを画策し、まんまと罠にはめられちまったんだ。奴は市長にまで成り上がり、警察と通じてやりたい放題。しかし、市民はギャングを街から一掃した英雄と讃えるーー。
『あの野郎は俺の街を泥舟に変えちまったんだ! はした金のために、あいつは警察の言いなりになって街を殺してやがる』
「ギャングがはびこる街だって同じだろ」
 熊は目ん玉ひんむいて声を荒げた。
『わかっちゃいねえな。あの街は俺が一から作り上げた街だ。よそから金が集まるように鍛え上げた街だぜ。今じゃ市民の金を吸い上げるだけの貧弱な街になっちまった。あとはどんどん貧しくなるだけだ』
「でもーー」
 ぐわっと歯茎を見せる熊。
『でもじゃねえ。周りから分捕ってでも金を回せ。常に新しい流れを用意しろ。一生食っていける方法なんかねえ。陳腐なルーティーンにしちまったとたんに、金は逃げていく。いいか、チビ助。本当に強いのは壊す野郎だぜ。なんであろうと、そうと決めたらぶち壊す、嵐のような男だ。その後ろを凡人どもが勝手に整理するんだ。そうでもしねえ限り、奴らはゴミであろうと捨てようとしないからな』
 俺は顔をしかめた。
「乱暴だなあ」
 熊は皮肉たっぷりにため息を吐いた。
『じゃあなにか、おめえは足し算だけして暮らすのか? 男の仕事っていうのはな、ゼロを一にすることを言うんだ。難しいことじゃねえ。どんな馬鹿にだって出来ることなんだぜ』
「ゼロを一に?」
『先ずは捨てろ。それからだ。その無用の長物を根こそぎ削ぎ落とせ。お前に筋肉はいらねえ』
 突きつけられた手から距離を取りつつ、俺は言い返した。
「いやだ」
『いいかげん気付けや。どう見たって一人前じゃねえだろうが。その飯の三分の二は俺のもんなんだよ』
「確かに多いけど……」
 言われてみれば、毎回腹がいっぱいだ。納得しかけた俺は、はっとなって言い返した。
「削ぎ落とさなくちゃいけないのはそっちの方がだぞ。部屋が狭くてしょうがないんだ」
『チビ助。俺のことはキングと呼べ。どか食いを止めねえのなら、肥えたお前を俺が食うことになるぜ』
「お前の指図は受けないからな」
『外の奴らの言いなりになるってのか』
「俺は言いなりになんかならない」
『現になっているじゃねえか。あいつらが定めた生活にどっぷりつかってるじゃねえか。俺には見えるぜ。チビ助、壊すんだよ。てめえの持ってるもん全部壊して、あいつらに吠え面をかかせてやれ』
 熊はふふんと鼻を鳴らした。
 キングと呼ぶのはなんだか悔しかった。いつの間にかチビ助呼ばわりされているのもしゃくだ。
 たしか、俺はテリーの父親を伝説のギャング、ビック・ジョーとしていたな。その頃見ていたアニメのストーリーそのままに。
 どうやら俺は淋しくてしょうがないらしい。懐かしさと惨めさを感じながら、俺はソテーを一切れ持ち上げた。
「ジョー。可哀想だから一切れやるよ」
『俺はな、ステーキは牛しか食わねえんだよ』
「はあ?」
 こいつは世界一可愛くないテディベアに違いないんだ。きっと。
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登場人物紹介

筋肉が自分を守ってくれると信じてひたすら筋トレをしている。

騙されて捉えられてしまった。

ジョー

思い出のテディベアがリンクしたイマジナリーフレンド。

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