価値のない男 価値のある男

文字数 2,673文字

【月曜日】
 家を出る。隣の奴はいるだろうか、いやいないだろう。
自分と年はそう変わらない、優しそうな、それでいて厚かましいやつだった。具体的に何を話していたかは覚えていないが、「昇進」、「同僚」、「飲み会」、そんな単語が楽しげに飛び出てきていた気がする。充実しているのだろう。社会にしっかり、くっきりと足跡を残して、力強く歩いている姿が頭に浮かぶ。
 すると自分はどうだろう。足跡はおろか、匂いも影も残っているかすら怪しい。あとから来た人は私が歩いた跡が分かるだろうか。昔ながらの幽霊が、三角のなにかを頭にのせて、手を前にだらりと下げて浮かんでいる。前にも後ろにも進まず、恨めしそうに浮かんでいるだけ。その顔はおそらく私だろう。
 またネガティブな考えに陥っていることに気づいて、慌てて考えるのをやめる。人と関わるとこうなる。比較ばかりして、自分をどんどん小さくしてしまう。

ゴミ捨て場の扉を開く。真っ暗闇の中、センサーに反応して明かりがパッと点いた。いつも通り、ゴミを決められた場所に投げ入れていく。この時ばかりは何も考えなくてよい。

ガチャ。ドアノブが回る音。ギシ。扉が開く音。人との接触を告げる音に、ピタと体がこわばる。色黒の腕、適当なようで汚らしさは微塵も感じさせないラフな服装。優しそうな顔。彼は笑顔で私に狙いをすませた。

「おや、こんばんは。」

仕方なく返す。

「…こんばんは。」
「ゴミ出しの時間が被るなんて珍しいですね。」
「ええ、まあ。じゃあ…」
「そうだ!この前の話ですが――」

また話始めた。適当に相槌をうつが、話は依然全く入ってこない。こんなに興味のない顔をしている相手によく話し続けられるなと半ば感心する。流れは全く分からないが、ところどころ幸せな単語がチクチクと心を刺激する。

「デート」「結婚」「子供」
 
 すべて自分にとって別世界の言葉の数々が、耳から入って胃に落ちていく。一生消化できないまま、ずっとお腹を圧迫し続けるのだろうか。いつか消化してくれる日が来るのか。話を聞いているだけなのに胸やけがする。

「――。それで、せっかくですから家で話しませんか?」

とんでもない。
「いやあ、また…。へへへ。」

どっちつかずな、自分でも気持ちの悪い返事をして、そそくさとゴミ捨て場を後にする。階段を上り、部屋に入り、布団に入る。気づけば胃に残ったいくつかの幸せな言葉は、「独身」や「孤独」といった言葉になり、その重みは私の存在をより小さく惨めにしていく。
1週間、自分は何をしていたのか。来週はどうしようか。

【金曜日】
 考える。向こうの部屋にいる男、自分、何が違うのだろう。彼には仕事がある。友達がいる。きっと恋人もいる。自分はどうだろうか。何もない自分には価値があるのだろうか。

「価値」「生きている意味」

 思えば小さいころからこれが知りたかった。なぜこの世に生を授かったのか。考えても答えが出ないのは分かっている。それでも自分の価値を知りたくて仕方がなく、ついに去年、爆発した。仕事に行かず、友達にも合わず、家族にも連絡をしない。ただ家に引きこもって、そうしていれば会社から電話が、友達からメッセージが、家族が会いに来て、そして温かい言葉をかけて私の存在を肯定してくれる。そんな願望があった。

誰からもまだ連絡はない。唯一あった父親のメッセージは、

「お金が欲しければ留守番電話にメッセージを残しておきなさい。」

それだけだった。そうしてまだまだ連絡はない。

 きっと彼がいなくなったら、会社からはたくさんの連絡が入って、友達が、恋人が家に訪ねてきて心配そうな声で呼びかけてくれるのだろう。捜索届が出されて、パトカーがこの辺りを走り回るのだろう。何人もの人を動かすだけの価値が彼にはあるのだろう。

 自分の価値が地に落ちた今、自分はもうどうでもいい。ただ、周りがどうなのかを知りたい。存在価値のある男とない男、その差がどれだけのものなのかが知りたくてたまらない。
自分は嫌なことは先に済ませてしまいたいタイプだ。好奇心も例外ではない。

【月曜日】
 僕はゴミを捨てに家を出る。ゴミが溜まるのが気になって仕方ない。正直なところ毎日捨てに行きたいぐらいだ。今日も期待して扉を開けるが、あの男はいない。ゴミを捨てずにしばらくぼーっと突っ立って待つ。こうして待っていれば、あの細くて白い弱り切った腕が扉から覗いて出てくる気がした。
 ふっと照明が落ちる。センサーは人がいないと判断したようだ。慌てて自分の存在を示すために、わざとらしく素早く動くと、照明も慌てたように点灯した
諦めてゴミを捨てる。すべて捨てきって、それでも何か捨て忘れがあるような気がしてならない。

「誰かと話したいな…。」

そんな心の声が口から漏れた気がする。明日は火曜日。ゴミの日ではない。

【月曜日】
 扉の音が聞こえない。あの男が出た少し後に自分が出ようかと思ったが、一晩中待っても何も聞こえなかった。機会を逃した。また来週だ。

【月曜日】
 ゴミ捨て場の扉を開ける。あの男は当然そこに立っていた。またなんという偶然だろうか。なんともない顔をして挨拶をする。

「こんばんは。またまた会いましたね。」

男は黙って返事をしない。僕を見ているようで、それで見ていないようで、僕の向こうの扉を透視しているように思える。構わず話始める。

「それで前の話、覚えてますか。聞いてくださいよ、実は――」

いつも通り、ゴミを捨てに来ただけ。そこで男は急にぽつりと話した。

「すみません。本当に申し訳ないのですが、背中を見せていただけますか?」

つい反射で返事をする。
「ええ、なぜ?」

男は暫く黙った後、言い訳をするような口調で早口で言う。
「実は背中に虫がいて。よければとりますよ。ですから。」

そうぼそぼそと言いながら近づいてくる。
手が触れる位置まで近づいて、男は目を合わせないように顔を向け、はっきりと言った。

「とりますから、うしろをむいてください。」

気持ちが悪い。ただ従わないともっと気持ち悪い。
 なぜか僕は素直に言う通り後ろを向いた。虫なんていないのは分かっている。それでも、この男と正面から向き合うのは気持ち悪く、気の毒だった。
 男に背中を向けてすぐ、覚悟を決めて目をつぶった。男二人は、前ならえをするように並んで微動だにしない。僕の背中は震えていただろうか。

 ずいぶん長い時間そうして、目を閉じるのにも疲れて、おずおずと目を開けた瞬間、センサーは照明を落とした。視界に暗闇が広がり、静電気を大きくしたような音が聞こえて、そうして僕の意識も落ちた。
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