回想Ⅱ

文字数 4,232文字

「お、おの、己何しとんねんこんな所で!!」
 椅子に座り漬物を口にくわえつつ、何食わぬ顔で見返す永久。
「何て、飯食っとるだけや」
「見れば分かる!みんな、みんな己のこと心配して捜しとる時に、何を呑気に、飯食うてるてお前!?」
「やかましいわ。飯時くらい静かにしとき」
「この姉弟ものごっつ嫌いやわ。ものごっつ、ものごっつ……」
「どこ行ってたんトワちゃん!さとさんも温子さんも、トワちゃんのことすごく心配して」
「誰も心配してなんて頼んでないわ。それに実の娘に手を上げるオカンが悪い。元はと言えば全部アンタが悪い。以上」
「弟。このねーちゃん殴ってええか?」
「ワイ、さとさんと温子さんに知らせてくるわ」
「己の脚じゃ夜が明けてまうで。俺が行く。……永久。己、覚えときぃや」
 喜一が台所を出ようとしたその時、三人は同時に窓を見た。
「なんや今の?」
「銃声や」
 ツンとしていた永久の表情が一瞬で凍り付く。椅子から立ち上がり、窓に駆け寄る。耳をそばだてる三人。暗闇の彼方で、犬が激しく吠え猛っているのが聞こえる。

ダーン!

「またや」
「熊出る言う噂、ホンマだったんか」
「早く、皆に山を降りるように言わんと!喜一さん、早う皆を呼びに行って」
「アホぬかせ!んなことできるかいな!今行ったら、かえって足手まといになる!せ、せや!大人に任せといたらええんや!どの道帰ってくるやろ!」
「せやかて、ほっとけるかいな!喜一さん、銀さんのこと心配やないんか!?」
「俺かて心配や!けどな、ここで己の面倒見るのが、温子はんに言われた俺の役目や!」
「……トワちゃん?どこ?」
「は?」
 二人は台所を見渡すが、そこに既に永久の姿はなかった。
「あんのドアホ。行きよった」
「喜一。せっかく見つかったトワちゃん、もう一度居なくなってみ?ただ怒られるだけじゃ済まへんで?」
 常はそう言うと、ヨロヨロと玄関の方に向かって行った。
「あぁ!もう!勝手にしぃ!!」
 台所で独り佇む喜一。髪の毛をグシャリと引っ掴み頭を抱える。手がジトリと汗ばむ。呼吸が荒くなる。胃がムカムカして吐き気を催す。パイプ椅子に座りながら、しばらくそうしていたが、一通り思案した後、喜一は立ち上がった。
「あの姉弟。ホンマ、ごっつ、ムカつくわ」

 おぼつかない足取りで山の入り口を目指す常。自分の身体の鈍さを今日ほど恨めしく思ったことはなかった。
(こんくらいの距離歩くのに、どんだけ時間かかるんや。ホンマ嫌いやわこの身体。ワイ、一体どうなっとるん?心臓が動いてないてどゆこと?“痛い”ってどういう感じなん?身体中から出てくるこの臭いはなんや?何でワイは、さとさんや温子さんやトワちゃんとは違うんやろ。何で?何でやの神様?な……。なんや?今一瞬、違う匂いが……)
 常はふと立ち止まり、匂いのする方角を探す。
(森の中から、なんや知らんけどええ臭いがするな)
 きゅらきゅらと金属の軋む音に気が付き、常は振り返った。丸い小さな光がこちらに向かってきている。それは常の脇で歩みを止めた。
「まだこないな所におったん?乗れや。……あまり抱きつくなよ」
「結局来たんかいな」
「しゃあないやろ。己の面倒見るのが、俺の務めや」
 常は微笑みながら自転車の荷台に跨る。
「ほいじゃ。いくで」
「なぁ喜一。何か匂わへん?」
「臭うで。己のくっさい臭いがプンプンや」
 再びきゅらきゅらという音を立てながら、自転車は暗闇の中を走り始めた。
「……抱きつくなと言うとるに」


 茂みの中に身を隠しながら、男たちは捕食者の出方を伺っていた。
「傷はどうや、伊助」
「完全には血が止まらん。少しずつ染み出して来よる」
「早く診療所行かな」
「あとは任せたで、兄貴」
「伊助さん。伊助さんのお兄さん。みんな。ホンマにすまんかった。うちの娘のせいで、ホンマ堪忍」
「弁解は後でたっぷり聞いてやる牧師さん。今はこの状況をどう切り抜けるかだ」
「熊は一度襲った獲物をまた襲う習性がある。一たび人間の味を覚えたら忘れへん。今日、確実に仕留めるんや。雨宮さん、頼んだで」
「……。」
「男たちで伊助と温子さんを囲みゆっくり山を下りる。背中は見せずに。後退や。雨宮さんら猟友会がしんがりで」
「温子、立てるか?」
 温子は返事をしない。身体がプルプル小刻みに震えている。
「永久……永久……」
 樹吉は「大丈夫や」と繰り返しながら、温子の両腕をさすった。
「奴は?」
「暗ろうてよう見えんが、息づかいと草の擦れる音がする。30m以内には居るで」
「しっかし、この人数で囲んで、数発タマ受けても退かんとは、肝の据わったやっちゃ」
「冬籠りの前に食いもん探してたんやろ。あのデカさや。ちょっとやそっと食っただけじゃ満足せぇへんぞ」
 ふと雨宮の犬が顔を上げる。
「来たか」
「なぁ、銀はん。なんや臭わへん?」
「!!静かに。……ちょっと耳すましてみぃ?」

「オトンー!オカンー!!どこーっ!?」
「!!!!!!!」
「永久の声や!?」

 一同の間に戦慄が走る。熊はブォーウ!ブォーウ!という雄叫びを上げながら走り始めた。
「最悪や!」
「ヒシャ!カク!!」
 雨宮の合図で2頭の犬が全速力で熊を追う。
「撃つ!明かりを!!」
 全員が立ち上がり、懐中電灯で対象を探す。光が一点に集まった時、“それ”が物凄いスピードで、獲物との距離を縮めていくのが見て取れた。
「今や!」
 3丁の猟銃から一斉に放たれる弾丸。森中に発砲音がこだまする。

ダーン!
ダーン!
ダーン!!
ダーン!!
ダーン!!!
ダーン!!!

「なんて奴や!まだ走っとる!」
「雨宮さん!」
「…………。」
 雨宮は狙いを澄まして引き金を引いた。放たれた弾丸は頭部に命中するが、熊は断末魔の咆哮と共にその場でブンブンと暴れ狂い、近くにいた小さな獲物を丸太のような腕で無残にも吹き飛ばして、ついに地面に突っ伏した。
「きゃあああああああ!!永久ぁぁぁぁぁぁ!アアアアアアアアア!嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼!亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜!!」
 絶叫が森中に響き渡り、温子は気を失った。つかさず樹吉が温子を受け止める。
 一同は凍り付いたように茫然となりその場に立ち尽くす。
「嘘やろ……永久。永久。永久。永久」
 温子を銀に任せて樹吉はゆっくりと近づき、それはやがて駆け足となる。
「そんなんあらへん。嘘や。嘘やろ、な?永久!……永久!!どこや永久!どこや!!永久!永久ぁぁぁぁ!!」
 樹吉の懐中電灯が虚しく空を斬る。村人たちもゆっくりと集まり、永久“だったもの”を探した。が、それはどこにも見つからなかった。
「永久が……おらん?」
「どういうことや」
「ワイは見たで。熊が……その、腕で……」
「ワイもや」
「オレも」
「何を探してん?」
 全員の瞳が一人の少女に集まる。
「……アンタ誰や」
「佐藤永久」
 誰もが言葉を失った。虫のさざめき、風のそよぐ音が妙に大きく聞こえる。
「何で生きとる?」
「冗談キツイわぁ、おっちゃん。人がせっかく心配して来たというに」
「永久!!」
 樹吉がガバリと永久に覆いかぶさり、天高く抱き上げる。
「痛いでオトン!髭が痛い!!止め!止めてーな!な、なんで泣いとる。泣くことないやろ。嫌やわ恥ずかしい。ちょっと、堪忍したってや!誰か!止めて!オトンを……なんやみんな、どうしたん!?アホみたいなツラして。おかしいでホンマ」
「そんなはずはない!」
 雨宮がピシャリと言う。
「儂は見た。永久。お前が熊に殺されるところを確かに見た」
「そのことなんやけどな、雨宮さん」
 銀が口を開く。
「あの時、永久ちゃんの声を聞いて慌ててみんな立ち上がったやろ。熊にライト当てて。でもそん時誰も、永久ちゃんをしかと確認しなかったんじゃないやろか?つまりや。声を最初に聞いたがばっかりに、木か何かを永久ちゃんと勘違いしたんや、みんな。一種の先入観や」
「……。」
「みんな気が動転して、同じ幻覚を見たんや」
「そうは思わん」
「雨宮さん」
「では聞くが、熊は“何に向かって”走り出した?木か?突然木を喰いたくなったのか?」
「それは……何やろな?」
「いきなりワイらが出てきたさかい、驚いたんやないの?」
「熊が走り始めたのは、儂らが立ち上がる前だ」
「……。」
「……。」
 樹吉は永久をようやく地面に降ろし、快活な声で一同に呼びかける。
「ま、まぁ皆さん。もうええやろ。永久がこうして、戻ってきたんや。真相はなんやよう分からんけど、とりあえず一件落着や」
「親父!」
「喜一!?お前何でここにおんねん?樹吉さん家行っとったんやないんか?」
 喜一は息を切らして銀のもとにやってくる。
「常が……ハァ……いなくなった!」
「なんやと?」
 再び空気が張りつめる。
「永久ちゃん追って、一緒に森に入ったんやけど。自転車降りてしばらくしたら『なんやええ臭いする』言うて、勝手に一人で行ってしもてん!痛ってー!!」
 銀は喜一の頭に拳骨を振り下ろす。
「アホ!!何で一緒について行かんかったんや!」
「永久の次は常かいな。エライ人騒がせな家族やわ」
「すんまへん。申し開きのしようもありまへん」
「まさかさっき熊にやられた子どもて……」
「それはない。この辺りみんな捜したやろ。あの一撃は即死もんや」
「まぁ熊は退治したことやし、そんなに遠くには行ってへんやろ。ちょっと呼びかけたらすぐに出てくるはずや。ワイは先に弟を診療所に連れて行きたい」
「そや!伊助や!」
「伊助は……どこにおんねん?」
「伊助?」


「確かこの辺だったはずや」
「あぁ。おるやん。向こうに頭が見えとる。伊助。そこにおったんかいな。もう隠れんでもええで。熊は退治したし、永久ちゃんも見つかったで。おい、伊助」
「なんや、寝とんかいな。伊助!起きろ!伊助!い……」


目の前の光景は――。
その場に居合わせた全ての村人に、
生涯に渡る心の傷を残した。

その日、一人の青年が亡くなり、
一人の少年が、行方不明となった。

事件は解決の陽を浴びないまま、

時は20XX年を迎える。

終末の足音。

悪夢の時代の到来である。


―――0章 とある未解決事件の記憶 終
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