回想Ⅰ

文字数 7,024文字

(なんで。なんで誰も分かってくれへんのや。なんでや。なんで)

(誰かが叫びよる。何か大声で。なんも分からへん。なんも)

(頭の中で響きよる。こだま)

(今どの辺やろ)

 鬱蒼とした森の中。男は息を切らせ、緩やかな坂をヒタヒタと登っていく。足元はおぼつかない。

(身体が重い。よう動かれへん)

(胸が苦しい。ヘヘッ。苦しいて?んなアホな。苦しいハズないやろ。ちゃうねん。体が苦しいんやない。苦しいのはもっと、別の)

 不意に足を取られる。よろけたはずみで男は大木に頭をぶつけた。グシャリという音が鳴る。身体が大地にへばりつく。丘の上。体液が地面を赤黒く染める。喉元をかすめる乾いた呼吸音。冷たい風が、容赦なく男の背中に押し入ってくる。

(さとさんの服、破けてもうた。ワイの一帳羅、破けてもうた)

『そんな!ええんです!気を遣わんといてください!ホンマ、ええって』
『ワイがあげる言うとるやろ。素直にもらっとき。二十歳の祝いや!』
『よう似合うとる!男前や!ワイの次にな!!わっはっはっは』

 かつてスーツだった布きれの下に、ただれた青白い肌が露わになっていた。

(ほとんど裸やな。ヘヘッ。ええねん。……あれは確か、ヨブ記や)

『私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。』

(いいや。ワイは脱がへん。これだけは、絶対脱がへんで)

 男は胸ポケットを手探りする。そこにあるはずの物がしっかり収まっていることを確認すると、拳を握りしめ渾身の力を込めた。しかしまるで釘で打ち付けられているかのように、大地は男を離さなかった。

(何がアカンかったのやろ。全部オトンの言う通りにしたで。なんでこないな目に遭わんといかんの。えげつないわぁ)

(せやけどワイ、ホンマ言う通りにできたんやろか。ホンマは何も役に立たんと。ワイは、何を……)

(アカン。もう、よう思い出されへん。脳が“のう”なった。ヘヘッ)

 うつ伏せになりながら、男は顔だけ横に向ける。ぼやけた視界の向こうに一生懸命焦点を合わせると、そこには、一粒のどんぐりが落ちていた。

「どんぐりや」

 ぽつり、ぽつりと降る小粒の雨。うなだれる灰色の雲。風がゴォと吹く。赤や黄色が落ちてくる。

「枯れ葉、ワイを隠してくれ。その手ぇで、ワイを覆ってくれ」

 声は空しく辺りに響く。どんぐりは風に煽られ、丘の下へとコロコロと転がり始めた。

「どんぐりコロコロどんぶりこや!行け!ずっと遠くへ!振り返らんと!そのまま行ったれ!」

「いたぞ!あそこだ!」

 鋭い叫び声と共に、鎌やシャベルを持った男たちがワラワラと集まってきた。

「さとさん!温子さん!天のオトン!今行くでぇ!待っとき!ワイが今、帰るでぇ!!」

 ガクガクと震える膝をかろうじて持ち上げ、男はヨロヨロと丘を下る。

「どんぐり……コロコロ……どんぐり……コロコロ……どんぐり……どんぐり……」



「どんぐりコロコロどんぶりこ お池にハマってサァ大変 ドジョウが出て来て コンニチハ ぼっちゃん一緒に 遊びまショウ」
「遊ばへんで」
 枝でどんぐりを転がすのを止め、少年はふと顔を上げる。そこには腰に手を当て、吊り上がったどんぐりのような目を剥いた少女が立っていた。白いブラウスに赤いワンピース。栗色の髪を赤いゴムでおさげにしている。唇を尖らせて少年を見下ろしていた。
「誰もアンタとは遊ばへん」
青白い顔をした少年は顔をプィと横に向け、ボソボソとつぶやく。
「あん?何言うたん?」
「トワちゃんに言ったんやない。歌ってただけや」
 少女はピンク色の靴で少年の膝を蹴り上げる。短パンから露出した少年の膝の皮が一枚剥ける。少年は地面に倒れるが、呻きもせず少女をにらみつける。
「なんやのその目ぇは!?」
 踏みつける足をなんとか避けようと少年はヨロヨロ動くが、少女はスルリと先回りすると。また何度も踏みつけた。
「避けてみぃ!ほら、ほら」
「やめて、やめてぇな」
「止めん!!」
 力を込めた足でひとしきり踏み終えると、少女は肩を上下させて吐き捨てるように言う。
「アンタのせいで、アンタのせいで誰も遊びに来ぃひん!今日フミちゃんに言われてん!『トワちゃんとこの弟、気色悪うてな。遊びたいけど止めとくわ』て。ほいたらウチがフミちゃんち行くわ言うたら、男子に言われてん。『ビョーキうつるから止めときフミ』て。何やのソレ!アンタのせいや!アンタのせいで何もかもブチ壊しや!!」
 ピンクの靴が横たわる少年の身体にガスガスと入る。
「教会かて一向に新しい人来ぃひんやないの。オトンもオカンもよぅ頑張っとるわ。アンタが足引っ張ってんのになぁ!どない、して、くれ、まんの!?」
「永久(とわ)!!」
 少女はビクリとして振り返る。家の前に女が一人立っていた。後ろ髪を一本に束ね、白いエプロンを着ている。腰に手を当て、目を見開いている。
「じょ、冗談やないのオカン。ちょっと遊んどっただけヤァ。なぁ?」
 永久はブラウスの袖にスッと手を引っ込めると、そのまま少年の頭をグリグリと撫でた。女はズンズンと永久の元に歩み寄り、その頬を平手打ちした。顔を少年とは反対に向ける永久。その目にジワジワ浮かぶものを、少年は背後から見て取った。
「常(とこ)に謝り」
 永久は頬に右手を当て、黙り込む。
「永久!!」
「嫌いや」
「みんな大嫌いや!!」
 永久は顔を伏せ全力で走り出し、裏山の方へ駆けていった。
「あの」
「ごめんな、常」
 女は常をゆっくり立たせると、力いっぱい抱きしめた。女からはとても良い香りがした。柔らかな抱擁は、鈍い常の頭を殊更ぼーっとさせた。常は恥ずかしくなり、次にひどく慌てた。赤くなるはずのない顔を赤くし、かくはずのない汗をかいた。自分の身体が周囲にどんな臭いを放っているか、自分でよく理解しているのだ。
「なんや苦しいわ、温子(あつこ)さん」
「聞こえへんわ」
「あの、苦しいですわ」
「ん~?全然聞こえへんナァ」
「……苦しいわ、オカン」
 女の腕から力が抜ける。顔はニッコリと微笑み、常の目を覗き込んでいた。常はうつむき目をそらす。
「よろしい。ご飯食べよ」
 温子は常の頬にポンポンと触れると立ち上がり、手を引いた。
「トワちゃんは」
「気にせんとき。腹すけば帰ってくるわ」
 常は裏山の方を見た。オレンジの光に照らされてはいるものの、森の入り口は既に暗かった。陽は今にも落ちようとしていた。


「帰っとらんやて!?」
 台所で温子が素っ頓狂な声を上げる。
「ほんまかいな」
「部屋とか便所見たけどいなかった」
 普段から青白い顔を一層青白くさせて、常は答える。
「もう陽もとっぷり暮れたのに。何考えとんのやあの子は。アンタどないしよ?」
 話しかけられたのは髭面の大男だ。ただでさえ狭い台所が、彼のせいで一層狭くなる。
「山に入った言うとったな。温子。連絡網使こて、皆に祈ってもらってや。その次は雨宮さんや。犬と……猟銃。持ってくるように伝えといてくれ」
「猟銃てアンタ」
「万が一や。この秋はもう3度も目撃されとる。先週も本城さんとこの畑荒らされたばかりや。用心するに越したことはない。ワイは今から銀とこ行ってくるで。捜索隊組んでくれるはずや。集合次第山に入る」
「ワイは」
 震える声で常は尋ねる。しかし父親はニカッと笑い、常の髪の毛をわしゃわしゃした。
「お前は、よう神様に祈っとき。オカンを守るんやで。約束やぞ」
 常は強くうなずく。
「ええ子や。ほな、行ってくるわ」
 樹吉(ききち)が台所から姿消すと、常は一気に心細くなった。母は早速、教会の緊急連絡網が書かれた電話帳を片手に、電話機のダイヤルを回している。常はヨロヨロとした足取りで部屋に戻り、姉のいない布団と机を交互に眺めた。
「ワイのせいや。どないしよ、どないしよ」
 常は布団に顔をうずめ、手を組み神に祈った。
(イエス様、助けてください!トワちゃんをお守りください!)

 30分ほど経って、装備を整えた村人が教会の前に集まってきた。樹吉が声を張り上げる。
「夜遅くにすんまへん。皆さん、ほんまにおおきに。娘のことでご迷惑をおかけします」
「エライことになったなぁ樹吉はん。ワテら喜んで手ぇ貸すさかい」
「御託はいい。行くぞ」
 髪を短く剃り上げた年配の男が、猟銃を片手に犬を駆り立てる。銃を持った男がもう2人、ワンワンと声をあげ走り始める2頭の猟犬。その後に、ヘッドライトや懐中電灯を点けた男衆が、大きい鉈(なた)を腰に下げゾロゾロと続く。熊除けの鈴がキンキンとやけに大きく聞こえる。
「ほんまおおきに!」
 出発しようとする樹吉の袖を、温子がしかと掴んだ。
「アンタ、ウチも行くわ。永久が山に入ったの、ウチのせいやもん」
「お前はここで常と居れ。山で奴が現れんとも限らん。男でも太刀打ちできひん相手や」
「でも」
「ええか、絶対来るんやないぞ。絶対や」

 シンと静まり返った台所。山の方を窓から眺めながら温子は手を組み、立ち尽くしていた。山からは時折チラチラと、男たちの光が漏れ出ている。常は錆びた脚の長い椅子座り、白いテーブルを眺めた。テーブルには永久のために用意されたご飯とみそ汁、大根の漬物、鯖の味噌煮がラップに包まれていた。
「温子さん」
 温子は答えない。
「オカン」
「なんや?」
「トワちゃん無事やろか」
「無事や。無事に決まっとる」
「せやな」
 再び沈黙が流れる。常は自分の心臓が素早く鼓動しているかのように感じられたが、実際に手を当てても何も感じなかった。
「アカン」
「えっ」
「アカンわ」
「何がアカンの?」
 温子は掛けてあった紫色のジャンパーを羽織ると、赤い懐中電灯に単一電池を入れ始めた。そして永久の分のジャンパーも腕に掛ける。
「オカン?」
「やっぱりウチも行ってくる。あの子に何かあったら、ウチのせいや」
「ほいたらワイも行く」
「アンタはここに残っとき!!」
 温子は珍しく常に声を張り上げた。常の眼をしっかり見据えている。しかし今夜は常も負けていない。
「ワイ、さとさんにオカンを守るように言われてん!オカンを守る約束をした!オカンと一緒に行く!」
「ダメや」
「なんでアカンの!?」
「永久だけやのうて、アンタまで危険にさらすことになる」
「ワイは大丈夫や!知っとるやろ、ワイ……」
「足手まといや!」
「エッ」
 温子は背を向け、顔だけ少し常に向けながら言い放つ。声が僅かに震えている。
「常は足手まといや」
「何やの、ソレ」
「常は早う動けへん。トロトロついてくるだけや。そんなん待ってたら、永久は亡うなってしまう」
「オカン」
「悪いな」
 温子は足早に家を出ていった。窓から、温子の懐中電灯が駆け足で遠のいていくのが見える。

『オトンもオカンもよぅ頑張っとるわ。アンタが足引っ張ってんのになぁ!』
『足手まといや!』
 常の頭の中で、永久と母の言葉がグルグル回る。
「そんなん。……そんなん最初から知っとるわ」


「永久ーっ!」
「永久ちゃーん!!」
「どこだー!?返事してくれーっ!!」
 闇に包まれた山の中で、男衆の声がこだまする。しかしそれに返事が応えることはなかった。
「温子!」
「アンタ!どないやの」
「なんで来た!?絶対来るな言うたやろ!」
「どうでもええ!永久が大事や!ウチがあの子の母親なんや!つべこべ言わんと黙っとき」
「黙っとき言うても」
 銀が樹吉の肩に手をのせる。
「樹吉はん。無駄や。あんたの負け」
 樹吉は大きくため息をつき、頭をポリポリかく。
「で、どないやの?」
「何も手がかりは見つからへん。永久のらしき物も何も無しや。それよりお前、常はどうしたん?」
「家に置いてきたわ。ちょっとゴネたけど、大丈夫や。さっき喜一君にウチと代わるように言ってきたから。彼なら安心やろ。色々と」
「あれで度胸があれば完璧なんやけどな。……離れるなよ、温子」
「分かっとるわ」
 そう言いつつも、温子はグングン森の中へと入っていく。樹吉は苦笑いして温子の後を追った。


 布団の上で物思いにふけりながら、常は家族の帰りを待つ。
(ワイ、温子さんにもさとさんにも、迷惑かけてばっかりや。トワちゃんにも嫌われておるようやし。トワちゃん……正直トワちゃんは好かん。いじわるばっかりしよる。けど、全部ワイのせいやもんな。亡うなるのは、いじわるをされるより嫌や)

ガタン

「トワちゃん!?」
 玄関先の物音に、常は体を起こす。彼なりのスピードで急いで玄関に向かうが、そこには誰もいなかった。

(おかしいな。確かに物音がしたんやけど)

キイィィ

 今度は物置の方で扉を開く音がする。

(なんや、何もんや)
「トワちゃん?おるの?温子さん?さとさん?」
 沈黙。
「誰やそこにおるのは?」
 常はゆっくりと(元々ゆっくりではあるのだが)音がした方に近づく。
「誰や?」

ガラガラ

 玄関の扉が勢いよく開いた。跳び上がる常。そこには見慣れた男が立っていた。毛先のクルリと曲がった髪。ひょろりと痩せこけ、頬骨が浮き出ている顔にそばかす。常に負けず劣らずの青白い肌。眉間にしわを寄せた青年が、高校の制服を着て立っている。
「はっ、なんや喜一か」
「なんやとはなんや。あと“さん”付けんかいボケ」
 常はフッと力が抜け、床に座り込む。
「物音がしたもんでワイてっきり、熊でも入ってきたかと思うたわ」
「悪かったな。熊じゃのうて」
「何しとんねん?」
「相変わらず舐め腐っとんな己。俺と話す時だけ明らかに態度違うやろ?なんで?なんでなん?」
「聞いてるのはこっちや。トワちゃん捜し放っぽってここで、何しとんねん?」
「“仕方なく”や。ホンマは俺も捜すの手伝いたかったんやで?せやけど、己のオカンにどうしてもと頼まれて。ここで断るのは漢やない。仕方なく、己のために来てやったというこっちゃ」
「ワイは独りでも大丈夫や」
「嘘こけ。オカンがおらんと何もできんくせに。それよりな、己の身体臭うで。外まで臭うとる。これじゃ熊に居場所知らせとるようなもんや。知ってるか?熊は腐った肉も食うんやで。つまり己は俺よりも狙われやすいというこっちゃ」
「人が気にしとることを、ようもぬけぬけと。もう分かったわ。出て行ってくれへん?」
「あぁ、言われんでも出て行くわ、こんな臭い耶蘇教会」

ガタン

「……。」
「……。」
「ほいたら、俺は帰るで」
「ちょ、ちょっと待ってーな!さっきからした物音、喜一じゃないんか?」
「俺は今入ってきたばかりや」
「じゃあ、台所に誰がおんねん?」
「知るかアホ。ワイは勉強で忙しい」
「分かった謝る!謝るよってに!堪忍!堪忍したってや!喜一さん!せめて台所だけ覗いていってくれ!」
「嫌や!絶対嫌や!」
「熊だったらどうすんねん!?」
「己一人食われればええやろ!ワイは帰る!」
「あー、ええのんかソレで」
「……何や、その思わせブリな言い方は」
「桃子ネェさんに言ったってええねんで?喜一さんは小学4年生の男の子を見殺しにしよった、氷のように冷たい男やってこと」
「なっ、なんでここで桃子が出てくんねん!?」
「このまま桃子ネェさんの家行って、ぶちまけたるわ!喜一さんにいじめられました。ワイは死ぬとこやったんですって。ヘヘッ」
「あぁぁ!もう!!地獄に落ちるでこのクソガキ!それでも神父の子かいな!」
「神父やあらへん。うちはプロテスタントやさかい“牧師”や。それに、神父は結婚せぇへん」
「どうでもええわアホ!まったく、どういう教育しとるんや己のオトンとオカン。……入るで」
 喜一は悪態をつきながら靴を脱ぎ、ズカズカと歩を進めるが、台所に近づくにつれ、少しずつ歩みが遅くなる。振り返ると常が神妙な面持ちでこちらを見ている。
「己は来んのか?」
「ワイ、足遅いよってに。熊だったら逃げられへん」
「熊の走る速度は少なくとも時速40kmや。どの道、走っても逃げられへん」
「……。」
「まったく。どんなクソガキじゃ。……いくで」
 唾をゴクリと飲み込み、喜一は台所の敷居を跨ぐ。ゆっくり、ゆっくりと中を覗いて見ると。そこには思いもよらぬ生き物がいた。


「樹吉さん、言いにくいんやけど。今夜は諦めよう。何の手がかりもない。また明日、村中の皆かき集めて捜しに来るさかい」
「おおきに銀。みんなは……えぇ。帰って休んでくれ。ワイと温子はまだ捜すわ」
「これだけ呼びかけておらんちゅうことは、もっとずっと奥まで入ったいうことや。迷ってしもたんやろ。そこまでこの夜に入ることはできん。あんたらの気持ちは分かる。でもこの暗さじゃ、ここまでが限界や」
 温子は樹吉の手を握る。樹吉も握り返す。暗澹とした森は吸い込まれそうなほど口を大きく広げ、二人を底なし沼に招いているようだった。
「終いだ。帰るぞ」
 雨宮の声に一同が動き始めたその時、背後の闇が、ヌラリと動いた。
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