後家の色香

文字数 2,160文字

 引っ越し屋のトラックが荷物を運び入れていた。どうやら隣に誰かが越してきたらしい。

 数時間後、チャイムが鳴る。ご丁寧に挨拶までしてくれるみたいだ。どんな人だろう。きれいな女の人だといいなあ。
 そう思いつつ扉を開けると、そこには人間大のクモがいた。あまりの衝撃に固まっていると、そのバカでかいクモはすまなそうに言った。

「やっぱり、驚かせてしまいますよね」

自覚はあるらしい。

「隣の102号室に越してきた蜘蛛田です。決して人にはご迷惑をおかけしませんので、よろしくお願いいたします」

ペコリと頭部を下げ、脚に提げた袋を手渡してくる。クモに名字がある上に何のひねりもない名字に驚いたが、とりあえず袋をあらためる。

「それ、ちょうちょの詰め合わせです。近くで売っていたので」

昆虫標本だ。食用じゃないし人はそもそもちょうちょを食べない。あとタオルも入っている。

「私お裁縫が得意なので、自作のタオルを」

そら、糸を使う作業は大得意でしょうね。

 とりあえずよろしくお願いして扉を締め、標本をゴミ箱に投げ捨てる。タオルは実用的なのでもらっておくことにした。
 しかし、あんな大きなクモが隣りにいて生活できるのだろうか。心配しつつ、その日の生活を終えた。


 私の考えとは裏腹に、翌日から蜘蛛田さんは活躍し始めた。

「あら、ありがとう。助かるわぁ」

声がするので起きてみると、2階に住む高橋さんが蜘蛛田さんに感謝の言葉を述べていた。何でも蜘蛛田さんが数分で、このアパートのGやネズミを全部追い出したらしい。高橋さんの感謝の言葉に、照れてるのか頭部を一番前の脚でさする蜘蛛田さん。そんな二人を見て、何か腑に落ちないものを感じながら部屋に戻った。


 2週間が経った。
 蜘蛛田さんはすっかりアパートの人気者となっていた。

 Gやネズミの駆除の上手さ、その上裁縫が得意、さらに快活で社交的。これが、人気者にならないわけがない。

 だが私は、彼女とはつかず離れずの位置を保っていた。もちろんアパートから害虫害獣が消えたことは評価してるし、彼女のおかげで雰囲気が明るくなったのも確かだ。だが、やっぱり腑に落ちない。みんな彼女の外見に違和感はないのだろうか。もちろん外見で差別をするのは良くない、それは重々承知している。しかし人間と同じ大きさの異形の存在が、そこらをうろついているのだ。もっと危機感を持ったほうがいいんじゃないだろうか。


 そんな事を考えていたら、回覧板が届いた。次に届けるのは、当然隣の蜘蛛田さん宅。私は憂鬱な気持ちでつっかけに足を入れた。


「あら、久井さん」
蜘蛛田さんは、いつも通り快活だ。後ろには、大量の小グモが興味深々でこちらを見ている。

 私は回覧板を届けにきた旨を告げ、それを蜘蛛田さんに手渡す。

「ありがとうございます」

蜘蛛田さんはその回覧板を脇において言う。

「せっかくですから、少し上がっていって」

私が断ると、蜘蛛田さんは私の腕を脚2本使って引き止める。

「ね。少しぐらいいいでしょう」


 仕方なく部屋に上がると、彼女はお茶とお菓子を持ってくる。そして、先日の引っ越し挨拶の際に渡した標本の件を侘びた。

「すみません。人間は昆虫を食べないのを失念してました。まだまだこの生活は不慣れで……」
「いえ、蜘蛛田さんは評判も良いし、頑張っていらっしゃいますよ」
「ありがとうございます」

彼女がそう言い終えた瞬間、ふすまが少し開いて小グモたちの一人あたり8個の眼がのぞく。

「こら。あっちで遊んでなさい」

再びふすまがピシャリと閉められる。

「ごめんなさい。夫を亡くして片親なものですから、しつけが行き届かなくて……」
「子どもはわんぱくなぐらいがいいですよ」
「……久井さんは、お優しいんですね」

蜘蛛田さんはそう言うと、茶碗をつかむ私の手に自分の脚を1本すっと重ねる。うなだれる頭部、荒い呼吸、7本の脚は急にしなを作ったような角度になる。どことなく、部屋の雰囲気も変わったような感じだ。
 私は心底嫌な気持ちになり、すぐに引き上げようとした……つもりだった。


 だが。
 丸っこくてクリクリした眼。細くてスラリとした脚なのに、剛毛が生えているギャップ。人間の女よりキュッと引き締まったウエスト。そのウエストが際立たせる、大きくて魅惑的なお尻。
 あの眼と見つめ合い、8本の脚にしっかりと抱きすくめられ、あの体と存分に愛し合いたい……。


 思わず脚を握り返そうとした瞬間、あることを思い出す。

『クモのメスは、交尾後にオスを食べてしまう』

さっき、蜘蛛田さんは夫を亡くしていると言った。つまり……。

 私は一気に血の気が引いた。そして、ゆっくりと茶碗から手を離して引っこめる。蜘蛛田さんは一瞬残念そうな顔をした後、いつもの快活さを取り戻した。

「そろそろ、失礼します」
「そうですか。回覧板、ありがとうございました」

私は逃げるように自宅に戻った。


 まだ心臓がドキドキしている。
 これは恋なのか。それとも、死への恐怖なのか。どちらにしても私は、蜘蛛田さんの魅力に気づいてしまった。クモの巣にかかった虫のように。
 きっと近いうち、彼女に手を出してしまうだろう。死と引き換えにしても良い、という覚悟さえできてしまえば。

 彼女との最初で最後の交尾を夢想しながら、私は蜘蛛田さんの側の壁を熱っぽい目で見つめた。
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