第10話 蛇足話 大人の葛藤

文字数 11,924文字

 その重い扉を開いた途端、むせかえるような匂いが襲って来た。
 血の匂いや悲鳴奇声には随分慣れたが、これは全く初めての事だ。
 一面に倒れる、人の塊。
 そのどれもが死人の上に、かなり腐敗していた。
 充満するその匂いは、エンを絶望させるに十分なものだった。
 この中に、生きている者は、いない。
 ましてや、自分が探しているのは、今年八歳になったはずの、小さな子供だ。
 三年以上前に連れ去られたならば、もっと幼かったはずだ、こんな場所で生きていられるはずがない。
 見目が良い子供だったと聞いているから、酷い境遇に陥ってはいないだろうと、楽観していたのが悔やまれた。
 踵を返し、そこを後にしようとしたエンに、掠れた声がすがって来た。
「お、お待ちください。どうか、お助け下さい……」
「あの方に、どうかお取次ぎを。我々を、ここから出してくださいっっ」
 耳を疑って振り返った男は、ゆっくりと身を起こす男達に気付いた。
 半ば這いつくばる様に歩み寄り、男たちはエンの足下で慈悲を乞う。
「こんな所、永くいては狂っちまう……どうか、お助け下さい。早く、ここから出してください」
「村で、静かに生きさせてください」
「……」
 目を細めたまま黙るエンを仰ぎ見、何を勘違いしたのか一人の男が手にしていた物を、前に差し出した。
「今度こそ、こいつに許しを乞わせます。どうか、お取次ぎを……」
 言いながら、男はその塊を攫み、床に押し付けた。
「早く命乞いしろっ。オレたちまで、死んじまうだろうがっっ」
 その、肉の塊にしか見えないそれを見下ろし、エンは思わず目を凝らした。
 薄暗いからそう見えたのではない、死体に埋もれそのまま放って置かれたせいで、いや、この男たちの恐怖と鬱憤を全面で受け続けたせいで、人にあるまじき容姿にまで、落ちてしまっていたのだ。
 枯れ木の様な小さな体つきは、子供と見える。
 目を見開く男の前で、その塊は小さく身じろぎしたが、顔を上げる力までは、残っていない様だった。
「お願いいたします、どうか、あの方に……」
「あの方と言うのが、どの方なのかは知らないが……」
 エンは、せり上がる感情を隠しながら、穏やかに男を遮った。
 仰ぎ見るその男たちを見下ろし、言い切った。
「死人をこのまま、外に放逐するなんて、出来るはずがないだろう」
 自分の師、ジャックは死人を操る。
 だが、こんな傷んだ死体になるまで操るのは、冒涜と考えている人だ。
「死人? そんなひどい事を良くも……」
 傷ついて嘆く男たちは、一様に顔かたちが分からない程に腐敗しており、その匂いも鼻に突く。
「くそっ、お前のせいだぞっ。こんな謂われのない事を言われるのは、我慢ならんっ」
「お前じゃあ、話にならんっ、ここの城主を呼べえっ」
 突如襲い掛かった男の頭を、エンは右手で攫み、内心辟易しながらも言い切った。
「この城には、もう誰も残らない」
 生き延びるのは、何も知らない下働きの者たちだけだ。
 静かに言いながら、軽く力を入れると、攫んだ頭は潰れた。
 骨まで脆くなる程、すでに痛んでいたのだ。
 顔を顰めながら、エンは小さな塊を足蹴にした男を殴りつける。
「大体、静かに村で生きるなんて、生前のお前たちには無理だっただろう? だからこそ、ここにいるんだ。それは、覚えていないのか?」
 カスミを筆頭にしていた自分がいる群れは、この城の所業と、そこに集った荒くれ者達の事も、きちんと調べていた。
「その中でもお前たちは、女子供しかいない所帯の家に付け火して、死人まで出したそうだな。助ける事が出来たとしても、それはお断りだ」
 言い切ったエンは、蹲るように倒れたままの子供の傍に膝をついた。
 二人の男を呆気なく沈めた男を、他の死人たちは遠巻きに怯えた目で見つめている。
 子供の体は、触るのを躊躇う程に、ボロボロだった。
 肌の色も髪の色も全く分からない程だったが、瞼を開いて力なく男を見たその目の色は、間違いなくジャックと同じ色だ。
 よく生きていた、そう感激してもいいのだろうか?
 ここから助け出しても、この扱いの後では、永く生きられないのではないのか?
 エンは、ここに来て初めて、そんな不安を抱いた。
 こんな場所に長く閉じ込められ、死体と共に暮らしていたも同然で、その死体から、どんな病を貰っているかも、分からない。
 助かるかは分からない上に、自分がここを出す事で、他の者にまで病を蔓延させてしまう事には、ならないだろうか。
 ここで一思いに楽にしてやり、ここの死人たちと共に火にかけるか、一縷の望みをかけて連れて行き、精一杯看病してみるか、迷った。
 躊躇った挙句、後者を選んだのは、ジャックに嘘の知らせを持って行きたくなかったからだ。
 自分の上着で子供を包みこみ、抱き上げて立ち上がると、男たちがすがって来るのを全て振りほどき、扉の外に出た。
 その近くで動いていた老人に頷いて見せると、大きな老人は頷き返してそれとなくその扉に近づいていく。
 それを見届けてから、エンは悲鳴と狂乱が混じるその場から、静かに立ち去った。
 その子供が、本当にとんでもない見目をしているとエンが気づくのは、随分と遅かった。
 数十日の間、重湯と薬を飲ませ、病の元を殺す覚悟で何度も体を洗いながら、その後に焼酎をこすりつけていたのだが、子供が自分で重湯を飲み込むようになり、目に入った焼酎に顔を顰めるようになるまで、その容姿に関心を覚えなかったのだ。
 世話をしている子供に見惚れる事はなかったが、一抹の不安を覚えた。
 これから祖父さんとの対面があるが、その後の事は、慎重に考えなければならないと、もしもの場合は、自分が盾になり守っていこうと、そう心に決めた。
 だから、セイの容姿や中身に惚れて、崇拝しているという訳では、決してない。
 言ってみれば、子を思う親、もしくは孫を思う婆さんのような気持ちで、あの若者の事は気にかけていた。
 寿命で往生したかもしれないとしんみりとしたり、生きていると分かってほっとすることもしたが、それだけのつもりだった。
 だからこそ、自分が信じられない。
 なぜ最近、幻覚だの幻聴だのが、自分の身に起きているのだろう。

 初めにそれを相談したのは、ゼツだ。
 国の中央に近い山間にいた仲間たちと合流してからこっち、自分がおかしくなったと感じたエンは真顔で、医療に詳しくなった男に話していた。
「雑用してくれる子が、増えただろう?」
「ええ。ここに残していたのは、殆どそういう役割の人たちですから、あなたも楽になったでしょう?」
「ああ……楽、ではあるな」
 自分がやろうとすることを、代わりにやってくれる者が、何人かいる。
 薪を割ったり、洗濯をしてくれたり、大助かりなのだが……。
「時々な、その雑用の子らの混じって、セイが動いているのが、見えるんだ」
「は?」
「楽しそうに話している声も、時々聞こえてくる。オレは、頭がおかしくなったのかな?」
 切実な悩みに、ゼツは唾を飲み込んで、慎重に答えてくれた。
「楽しそうなセイの声、と感じる時点で、思い込みだと断じられるんですが」
「だよな……おかしいな、オレはロン程、執着しているつもりは、無いんだが……」
 深く唸り、試しに訊いてみた。
「似た容姿の子は、いるのか? 髪色が似てるとか、顔立ちが似てるとか……声が、そっくりとか」
「そうですね……顔かたちは、オレもよく分からないですが、声が似ている子なら、いるかも知れません」
 声は似ていても、感情をこめないセイの声と聞き違う程病んではいないゼツは、首を傾げながら答えた。
 そうだよなと頷き、エンも思い込みはやめようと思い決め、目の端に移る姿や声も気にかけないように努力していたのだが、ある時、ロンが真剣に切り出した。
「ねえ、セイちゃん、まだ来てない、わよね?」
 もし来ているとしたら、エンには声がかかっているだろうと考えてなのか、ロンはまずそんな切り出し方で、当代の頭領に声をかけた。
「来てませんよ。来てたら、こんなにのんびりとはしてません」
「そう、よね。あの子が来てたら、大騒ぎよね」
 頷く男に、その場にいた者達が首を傾げた。
 セイと別れた後、暫くは動けない程に落ち込んでいたが、気を取り直してすぐに残して来た仲間たちと合流した。
 いずれまた、あの子と再会できると、思ってはいる。
 しかし。
「そこまで気に病むほど、セイと一緒にいたかったのか、あんた」
「そう、なのかしら?」
 そこまでではないつもりなのだけどと、ロンも困惑している。
 ジュラが呆れて首を振り、ゼツはエンを一瞥して首を傾げる。
「……先日、気になったので、それとなく周りの連中に訊いてみたんですが、何人か、似通った髪色の子は、いる様です」
「そうなのか? 見目の方は?」
「西洋の子は、大体色白で、見目もいいですから」
 そのせいではとゼツは言い切り、ロンも頷いた。
「なるほど、そうよね。もし紛れていたら、いくら何でも、気づくわよね」
「そうですよ。あれだけ変わった子ですよ、近くにいるなら、目立って仕方がないでしょう」
 エンも大きく頷き、その話はここで収まった。

 その後、別な諍いの果てに、その話が蒸し返された。
 諍いの元の話を持って来たのは、何故か最近、別な場所に入り浸っていたオキだ。
「……仲間の中に、不穏な動きがある」
 短く切り出されたその内容は、ありきたりな群れの頭をめぐる諍いだ。
 四代目の頭がいる事は、群れ全体に知れ渡っていたが、それが誰かを知る者は、あまりいなかったようだ。
 最近まで二手に分かれていた上に、その前はロンと共に群れを仕切っていたから仕方ないが、この頃本来の頭の事が明るみになり、不満に思う者が現れたらしい。
「それは、まあ、見ただけでは、お前が非力にしか見えないから、仕方ないだろうが……」
 オキは小さく鼻を鳴らし、続けた。
「お前が出かける時に連れて行った二人がいなければ、お前は引きずり落とせると、考えているらしい」
「無理もないわね」
 近くで聞いていたロンは、いつもの笑いのまま頷いた。
「今の子たちは、あなたの父親の事も知らないもの。後ろ盾が見も知らない男の上に、ろくな力も持たないのにって、考えてるんじゃない?」
「まあ、本当にろくな力じゃ、ないんですけどね」
 エンも笑いながら頷く。
 時々見える死相も、木々に好かれる気質も、こんな稼業では役に立たない。
 だからこそ、腕力をつけているのだが、それもないように見えるのだろう。
 周りが派手すぎるのも、考え物だ。
「そいつらの考える二人と言うのは、ジュラとジュリの事か? そう簡単に、あの二人をどうこう出来るかな?」
 エンが首を傾げる。
 あの二人は、昔から小さな生き物を体に住まわせている。
 己の身を守らせる代わりに、生きるための食餌を与え続けているのだが、その餌のやり方は、どちらかというとジュリの方が有名だ。
 ジュラの方は、刀に形を変えるように躾けているから分かりにくいだけで、同じような生き物を有しているのだが、その事実に気付かずとも、その剣の腕は恐れられるに充分なものだ。
「油断しなければ、大丈夫よね。でも、万が一のために、気にかけてはおきましょう」
「油断云々の話じゃ、ないんだが」
 その力のほどを知る二人が、そう話を収めかかるのを、切り出したオキが遮った。
「どういう意味?」
「そいつら、あんたらが覚えているか分からんほどに、下っ端の奴らだ。己の力もわきまえているようでな、完全な搦め手で事を画策しているようだ」
 エンの周りにいる者たちの事や、その周りの者の身の上、悩みなどまで探り、それを利用して挑むつもりだと、オキは告げた。
「で、最近、奴らはジュリのすぐ近くにまで、刺客を迫らせることが出来ている」
 目を見開く二人はまだ、そこまで大事とは思っていない。
 オキは溜息を吐きながら、その刺客の話をした。
「そいつも、別に刺客になる気はないとは思うが、どうやら形見の組み紐を、どこかに手離したらしい。最近、親しくしている倭国の教師の連れ合いが、徐々に呪いでそいつの身を縛っているようだ」
 誰の事だと考え、ロンは眉を寄せた。
 セイの形見であった組み紐を渡されている者で、誰かの教えを乞おうと考える者は、一人だけだ。
 しかも、ジュリが弟の様に可愛がり、万が一襲われても手にかけようとは考えない相手だ。
「……分かりやすい、仲の良さですからね。どうしますか?」
 別方向から同じ人物を思い浮かべたエンは、一応ロンに伺いを立てる。
 襲われて反撃するのは躊躇うだろうが、その攻撃を真っ向から受ける程、ジュリは弱くない。
 大勢でその場に行って、逆に邪魔になるのもなんだろう。
 少し考えたロンは、小さく頷いてから言った。
「その、教師と連れ合いさんの顔だけでも、見ておきましょうか」
 素性が分からない者を相手に、何を画策してもうまく行かないのは当然だから、まずはこっそりとその連中の顔を拝もうと決め、二人は教えられた辺りに足を向けたのだが……少し、遅かった。
 森の奥のある場所で、見知った男が普段は手にしないはずの大ぶりの剣を振り上げ、ジュリに襲い掛かっていたのだ。
「あ」
 息を呑んだロンの傍で、エンはつい声を上げてしまったが、ジュリが無事だとすぐに気づいた。
 ゼツは、呪いに少しだけ強い。
 だからこそ、己の意思に反した動きが許せず、体を傷つける事でその動きを封じた。
 それで呪いは解けたようだが、別な襲撃が続いた。
 二人を離れたところで見ていた東洋の女が、突然獣へと変わったのだ。
 これはまずいとエンが動き、ロンは別な方を見てそちらに動く。
 獣が何故か動きを止めて身を離した時に、その背後を取った。

 意外に動きが早かった。
 いや、不穏な空気は随分前からあったはずで、今の時期に動くと言うのはむしろ遅い方だろう。
 何せ、その時は理由を知らなかったが、群れが二手に別れる前から、彼らは何かを企み、仕掛けているようだったから、戻って来た時もそんな不穏な空気のまま、同じように生活しているのが意外で、慎重というよりも臆病な奴らだったのだろうと、セイは虎と二人の男女の間に入った時、思った。
 本当は、左腕を口に差し込んで、完全に牙の上下がかみ合うのを阻もうと思ったが、ゼツの腕は太く、それでは牙が肉に食い込んでしまうのが目に見えてしまい、つっかえ棒替わりに腕を立てる事にしたのだが、腕が短いせいか牙に刺さってしまった。
 これは、深く刺さったなと考えながら、大きな虎を猫の様に首根っこを攫んで捕まえている男を見た。
 混乱して暴れる虎をものともせず、そのまま立ち尽くして自分を見る男の目は、驚きで見開かれている。
 足下に座るゼツとジュリも、妙に静かに自分を見上げていた。
 少し離れて立つロンまで、自分を見て固まっているのを見て、セイは微笑んで見せた。
 何故か顔を引き攣らせる面々に構わず、若者は言った。
「お頭さん達が来たなら、もういいですね。じゃあ、私はこれで」
 踵を返して、その場を離れる若者を追ってくる者はいなかったが、離れた先で待っていた者はいた。
「……まさか、本当に気づかずにいたとはな」
 オキが、遠目に見える面々を見ながら、呆れたように呟く。
 生き死にが分からない時ならまだしも、主が健在と知れた今ならば、群れに紛れて馴染んでいる若者を見つけるのは、簡単だった。
 簡単ではあったが、驚かなかったわけではないと、オキは声を大にして言いたいが、それを本人に言う事はないだろう。
 今言わなければならない事は、一つだ。
「怪我を、見せろ」
「あんたは、例の奴の方を、見ててくれ。起きてから、どうするか決める。少し眠れば、傷は塞がると、言っただろ」
 すれ違いざまに、途切れ途切れの声で言い、若者は身を潜めている場所へと歩き続ける。
 そこで傷を焼き塞ぎ、傷がいえるまでは眠ってしまう心算でいる。
 その背を見送り、オキは苦い溜息を吐いた。
 奴らが見たセイを、白昼夢と思ってくれればいいのだが、あそこまではっきりと姿を現してしまっては、それは難しいだろう。
 この辺りを山狩りされたら、すぐに見つかってしまうかもしれない、という不安もあるが、それより……。
「オレを捕まえて吐かせる方が、手っ取り早いと考えそうだな……」
 男は背筋に走った寒気で身震いし、黒猫の姿に戻る。
 ここに残るより、頼まれた見張りをやっていた方が、まだましだと考えたオキは、すぐに動き始めた。

 倭国育ちではあるが、生まれが同じなのかは分からないと、その女は言った。
 物心ついた時にはすでに女郎街におり、そこで厳しく躾けられた。
「……初めて男を取るって時に、変な心持になってね、足抜けしちゃったんだよ」
 追っ手を振り切り、山の中に入って走り回っている内に、体が大きな獣へと変わっていた。
 水鏡でその姿を見て、自分はこの国の女ではなかったと知った。
「きっと大陸か、それより海に近い国の生まれなんだろうね。二親とも、同じような獣だったんだ、きっと」
 連れ合いの男と会ったのは、その後だ。
「……こいつが住み着いた山がある、村の猟師だった」
 大きな獣が住み着いてしまい、村の者たちは怯えていた。
「冬に備えて取ろうとしていた木の実や、小さな獲物が、大きな生き物に食い荒らされていたから、どんな化け物が住み着いたんだと、村の奴らは山に入れなくなってしまって、オレの所に話を持って来た」
 落ち武者の末裔で、爪はじきにあっていた男だが、獲物を持って行けば物々交換をしてもらえていたから、自然にその頼みを受けた。
 弓矢と鉄砲を携えて山に入った男は、その獲物を見つけた時、仰天して腰を抜かした。
 それは当然だった、この国にはいないはずの虎が、取ったばかりの柿にかぶりついていたのだ。
「本当は、干し柿の方が好きなんだ。甘くてほっぺが落ちそうになるの」
 そんな事を言った獣が人形を取った姿に、男は一目ぼれしてしまった。
「……つまり、こういう事?」
 そこまで話を聞いたロンが、話に割り込んだ。
 話のおかしさに、どこから斬り込めばいいのか悩みながらの、切り出しだ。
「あなた、人を手にかけて食べた事、ないの?」
「そんな不味そうな物、進んで食べる程、まだ困ってないよっ」
「じゃあ、何で、ジュリは食おうとしたんだっ?」
 ジュラが目を据わらせて問うと、女は居心地悪そうに身じろぎして答えた。
「だって、可愛い狼を、色香でそそのかして侍らせてると、思ってたんだ」
「……」
 ジュリはおっとりと微笑み、首を傾げた。
「色香?」
「あんた、いつも、頭と側近たちに囲まれて、ちやほやされてるから、裏切られて見ればいいんだと、ちょっとやっかんでたんだよ」
 それが駄目だったから、脅かすつもりで襲い掛かったと言う女の言葉に、ジュリは首を傾げたまま訊き返した。
「……私が、ちやほやされているの? されてるかしら?」
 メルとジュラが、小さく唸った。
 床に正座している女が、頭を落として小さく謝った。
「御免。されてるどころか、あの狼の方が、あんたに守られてるんだね」
「そうよ、あの子、弱っちいの」
 ゼツがいない時で、本当に良かったと、男たちは同時に考えた。
 惚れている女に、弱っちいと言い切られるのは、流石に辛い。
「お前さんは確か、時々獣を売りに来ているな」
 エンが男の方に話しを振ると、女の隣に正座した猟師らしい男は頷いた。
「あんたらの稼業は、うすうす分かっていたが、獲物を売るだけなら、そんな事係わりないだろ?」
「ならどうして、ゼツに呪いを仕掛けた?」
「それは……オレじゃない」
 男は眉を寄せて答え、女もうんうんと頷いた。
「この人は、その類のことは出来ないよ。じゃあ誰って訊かれても、答えられないけど」
「どうして?」
 女の傍で、呪いにかかっていたのは確かだとジュリが目を細めるのに、困った顔になった女は、言葉を選びながら言った。
「私たちがあんた達とつかず離れずし始めたのは、五年くらい前からだよ。その間、余り係わりのない私たちに、愚痴を吐いた奴はごまんといる。この数か月は、あの狼坊やたちと近い所にいたから、逆にそれが聞こえなくなったくらいだよ」
 呪い云々の話を出した者も、少なからずいると言われ、その場の面々は顔を見合わせる。
 ただの内輪の諍いなのだが、その内輪の者が多すぎて、首謀者がはっきりとしない。
「……まあ、聞いた話を真っすぐ聞いてしまったオレたちが、少しうかつだっただけだが……お前さん、自分の連れ合いを手にかけようとしていたんだよな?」
 口封じでないのなら、どうしてと目で問われ、男は女を一瞥して言いにくそうに答えた。
「元々、人を襲うようになったら、オレの手でと、そう考えてたんだよ」
 ましてや、相手はあらゆる獣を平然と捌く奴らだから、そいつらの手に落ちるくらいなら、自分の手で死なせる気だったと言う男に、女は潤んだ目を向けた。
「あんた……」
「……もちろん、お前を一人で死なせやしない。すぐに後を追う気だった」
「もうっ、そんなことしても、私は嬉しくないのにっ」
 袖で男をポカポカと殴りながら、女は甘えた声で言いつのっている。
 それを見ながら、ジュラがぽつりと言う。
「あれ、ここって、拷問の場じゃなかったか?」
「……ああ、少なくとも、花街ではない」
 どうも、何も知らないこの二人を、これ以上留め置く理由はない様だ。
 二人はすぐに解放され、群れに姿を現すことは、二度となかった。
 残された面々は、大きく唸る。
「困ったわね」
 昼間の出来事は、あの二人が起こしたものだった。
 一難去ったのだから、それでよしとしたいのは山々だが、引っかかることが多すぎて、安心できなかった。
「ゼツと親しい奴が、他にもいたのかな?」
 ゼツが呪いにかかりやすくなる程、気安くなった者がいるのなら、そいつが一番疑わしい。
 そう言った男に、ジュリもおっとりと頷いた。
「目が覚めたら、明日にでも聞いてみるわ」
 話はそれからだとまとまったのだが、何とも言えない空気が、そこに残ったままだった。
「ど、どうした?」
 その妙な感覚に顔を引き攣らせ、メルはロンの顔を覗きこんだ。
「ねえ、メルちゃん」
「な、何だ?」
 いつもより硬い声で名を呼ばれどもる女に、ロンは躊躇いながら尋ねた。
「あなたは、白昼夢って、見た事ある?」
「は?」
「何言ってるんだ? あんたらしくない」
 ジュラが呆れて笑うが、妹と友人も、妙な顔で答えを待つのを見て目を丸くした。
「おかしい事を聞いているのは、承知の上なんだけど……その白昼夢の出来事が同じで、複数の人間に起こるかどうか、ちょっと気になったのよ」
「それは、聞いたことないな……」
 メルは、話が見えないながらも、正直に答えた。
「そう……」
「よく分からないんだか、まさか、白昼夢で、あんたを含んだ三人が、セイを見たとでも言うのか?」
「……ゼツを入れて、四人よ」
 ジュラがついつい笑いながら言う軽口に、ジュリが溜息を吐いて返した。
「へ?」
「だから、四人が、昼間、あの子を見たの」
 ジュラとメルは珍しく顔を見合わせてから、呆れたように言った。
「それは、白昼夢じゃないだろう」
「多分あの子、どこかに潜んでるんだ」
「でも、いつ探しても、見当たらないのよっ? どうして?」
 悲痛な声で言う男を珍しそうに見やりながら、ジュラはゆっくりと答えた。
「そりゃあ、見つからないように、潜んでるからだろ」
「どうして?」
「いや、どうしてって……」
 エンに真剣に訊かれ、ジュラはほとほと呆れていた。
 友人が可愛がっていた先代の事は、見目が麗しいだけが理由ではなく、敬意も好意も持っているが、感情を大袈裟に傾ける程ではない。
 だから、この件でだけ言うと、一番冷静を保てる男だった。
「姿を見せたら、あんたら全員、大袈裟に騒ぐからだろう?」
 何でそこでそんなに驚く、という位に、三人がはっとした顔になった。
「一度諦めた人が現れたから、無理はないとは思うが、それこそ一度離れたんだから、それだけ成長もしてるだろう、あまり思いつめるな」
 こういう説教は柄じゃないのだが、ジュラが真顔で三人に言い含めると、珍しく神妙な顔でロンが頷いた。
「そうね、御免なさい。気づかずに、変な思いつめ方してたみたいね」
 エンも溜息を吐いて言う。
「そうだ、何らかの理由で、こちらに気付かれたくないから、声を掛けないだけだったんだろう。変な事を考えてしまった」
 まさか、あんな顔が出来るようになっているとは、夢にも思っていなかったから、白昼夢を見たと思い込もうとしていた。
 そう言う男に、その微笑みを目の当たりにした二人も、大きく頷いた。
「あそこまで姿を見せたんだから、探られる事は承知の上でしょう。ちょっと念入りに探してみようかしら」
 実は今までも、それとなく探していたがその気配を手繰れなかったロンは、もう少し本腰を入れようと心に誓う。
 今日起こった事の首謀者を、探さなくてもいいのかと呆れるジュラの傍で、メルは気づいた。
「あれ、オキは?」
「……ん?」
 そう言えばと辺りを見回すと、エンも思い出して辺りを見回す。
「そう言えば、あいつがあの二人の話を持って来たんだ」
「へえ」
「あの二人の顔を見ようと思って、あの場に一緒に行ったはずなんだけど……」
 騒ぎに紛れて、オキの事は有耶無耶になっていた。
 騒ぎが収まっても、現れないと言う事は……。
 群れの頂点に立つ二人が、無言で目を交わした。

 呪いがかかっていたのは、二人の獣だった。
 一人は姿を変えられない狼男の子供、もう一人は猟師を連れ合いにした女の獣。
 ゼツの方は自覚があって、すぐに己で目覚めようと動いたが、女の方は気づいていなかった。
 僅かな女としての妬みと呪いが混じり、狂気が分かりにくくなっていたのだ。
「……あの子のお蔭で、助かったが……大丈夫だったのか?」
 無事、生還してきた夫婦の、男の方がオキに尋ねる。
 ゼツの腕をかみ砕く勢いで襲い掛かった女だが、その寸前で正気に戻された。
 女はやっかみで我を忘れかけたと思っていたから、正直にエン達にそう言ったが、男の方は気づいていた。
「肉を殆ど食わない割に、牙が立派だったな。一晩経っても起きて来ない」
 短く答えるオキに、女が溜息を吐いた。
「魚は大好物なんだ。木をかじるのも好きだし……」
「お前、本当に虎か?」
 つい言ってしまってから、それどころではないと気を取り直して、真顔になった。
「助かったなら、早くここを離れろ。いいか、二度と、あいつらに近づくな」
「……獲物を、買ってもらいたいんだが……」
「他を当たれっ。いいか、あいつらが本当のことを知ったら、この程度では済まない。本当に、その女が食卓の上に乗っても、不思議じゃない」
 強く遮られ、男は女を捕まえたエンの言葉を思い出し、青くなった。
「まさか、本当に出来る人なのかっ?」
「だからこそ、上に収まってるんだっ」
 焦る心を抑えながら、オキは説得していた。
 小さな嘘をついた自分は、あの若者に仕えているから嫌がらせで済むが、こいつらは違う。
 しかも、女の方はセイを傷つけてしまった。
 今はまだ、自分の頭を疑っているようで、目くじら立てて探している気配はないが、奴らがセイの気配に気づき、今の状態に気づいたら……その状態にした者が近くにいたら、逃がすことも説得も難しくなる。
 男は青い顔のまま、辺りを見回した。
「……そんな奴を、傀儡にしようとしてるのか、あいつ」
「だから、頭が足りないんだろう。慎重というか臆病と言うか、調べた割に、肝心な事は分かっていない。そこが、大きくなれない理由だろうな」
「奴の事を明るみにする手伝いは、しなくてもいいのか?」
 男の気遣いの混じる申し出だが、オキは苦い顔で首を振った。
「あの分では、あいつが目を覚ます方が遅くなる。奴がエン達に見つかった時、お前たちがまだいたら、もうお前たちも助からんぞ」
 男が呪いをかける力がないのは、すぐに分かるだろう。
 二人を解き放ったと言う事は、傀儡として操られたと考えてくれたからだと思われる。
 あの連中がこれから探すのは、操っていた奴と仲間たちだ。
 エンやメルは不得手だが、ロンとジュリジュラ兄妹は、探索に長けているから、探し始めたらすぐに奴らに行きつくだろう。
 二年前にはすでに、不満に思って集い始めていた連中が、たったの二日で潰されることになりそうだ。
「あんた、心配してくれてるの? どうして?」
「大きさは違うが似た獣の妖しに、久し振りに会ったからな。こんな事で死なせたくないし、何よりお前たちは、あいつに他の奴らと同じように接してくれてただろ」
 セイは、倭国の話を聞かせて貰えた礼だと言っていた。
 その意を、オキは汲んでいるだけだった。
 二人を送り出し、オキは見張っている者の様子をそっと伺った。
 その本人に目立った動きはないが、周りの者は落ち着きがなかった。
 知った顔の者達が、頭たちに連れていかれた事に驚き、慌てているようだ。
 すぐにでも頭たちの手が伸びそうな気配だったが、予想に反して翌日になってもそれはなかった。
「?」
 不思議に思いながらも見張りを続けるオキに、ロンから呼び出しがあったのは、そのすぐ後だった。
 そうくるか。
 覚悟はしていたが、目下の諍いを治めてからになると、高をくくっていたオキは、思わず空を仰いだ。
 場合によっては数日、空が拝めないかも知れないと、暫く立ち尽くしたまま上を見上げ続けていた。
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