2  Domo arigato, Mr. Roboto,

文字数 6,516文字

2  Domo arigato, Mr. Roboto,
 ロボット開発の際、キリスト教神学を背景にして、ローマ=カトリック教会は人間型ロボット開発を非難する。ただ、キリスト教以前のローマ時代、アポロニオスは、アルゴ探検隊の物語で、神の神殿を防衛する青銅の巨人ロボットであるタロスを描いている。このロボットは体内に溶岩のような物質が詰められており、その力で機械が動く設定になっている。手塚は、「十字架島」(一九五八)において示している通り、タイプによっては、場面に応じて、変身する機能を持ったロボットをも考えている。

 人間型ロボット開発の推進の原動力には「鉄腕アトム」があることは確かである。手塚はその場合の解答も用意している。『鉄腕アトム』は「光と影の際だった対照、断続性、表現されないものを暗示する力、背景を供えた特性、意味の多様さと解釈の必要、世界史的な要求、歴史の展開に関する概念の形成、問題性への深化」(E・アウエルバッハ『ミメーシス』)を備え、旧約聖書的である。手塚は、キリスト教神学に対して、積極的な転倒を行っている。ロボット法に「ロボットは作った人間を父と呼ばなくてはならない」という条文がある。これはキリスト教神学を思わせる。ロボットは、そのため、つねに父殺しと直面せざるをえないが、手塚はそもそも人間が違法に生まれてきたと主張する。

 「一億年まえの犯罪」(一九六七)において、人類の誕生が宇宙人による気まぐれな猿の改造から起こったと設定している。これは宇宙法の違反という犯罪にあたる。超能力を持った四人の少年犯罪者の破壊行為に、一億年後に地球を訪れた宇宙の犯罪者は愕然とする。原罪は人間にあるのではなく、それをつくった側にあると転倒されている。あるいは、宇宙法をゼウスと考えるとすると、宇宙人はプロメテウスとなり、ニーチェ的なユダヤ=キリスト教批判である。しかし、この宇宙人はプロメテウスと違い、姑息である。姑息な宇宙人によって生まれた人間はあまりに創造主に似ている。手塚はニーチェ的でありながらも、二十世紀の人間としてそれをさらに読み替える。人間はニヒリズムにさえ置かれていない。犯罪者は人類の抹殺という証拠隠滅を実行しようとするが、アトムの助けを借りた四人の犯罪少年によって阻止され、失敗し、液体に変身した宇宙人は牛に飲まれてしまい、その娘は星に帰ることを諦め、海に暮らす。

 この宇宙人たちは液体に変身することができる。こうした性質を持つ宇宙人が人間の生命を翻弄するという話は手塚の生命感と深くつながり、キリスト教神学とニーチェの転倒を秘めている。

 手塚は、『対談 ヒゲオヤジ氏の生と性』の中で、次のような夢を述懐している。

 僕は宝塚に住んでいたんですが、学校の帰り道にちょっと淋しい沼があって、そこを通って家に帰るんです。小学校とか中学校のころそこを通る夢をよく見ました。沼地の横で得体の知れないものがブルブルふるえながらぼくを待っている。それをつかまえて自分の家へ連れてくる。逃げ出すと困るから雨戸を閉めて、ふすまを閉めて絶対に出られないようにして、ぼくと物体が向いあったところでたいてい夢がさめてしまう。(略)
 女にもなるし、男にもなるし、化け物にもなる。(略)
 常に動いている楽しさみたいなものがある。動いているのが生きているのだという実感があるわけです。(略)で自分はどうかというと常にパッシブでそれを見て感じるとか受け入れるとかいう形で、それを見ているだけなんですが、相手は何かの形で次々に流動しているんです。

 生命体は体内のほとんどが液体によって構成されているが、液体は非線形・複雑系であり、解析しにくい。固体は非常に狭い範囲でわずかに振動する程度なので解析するのはたやすいし、気体の場合は、ニュートン力学に統計力学を加えれば、可能である。液体はつかみどころがない。「自由のイメージは、自分勝手に一人で飛んでいける気体かもしれない。時々他の分子にぶつかったりするが、基本はやはり一人で飛んでいくほうだ。ところが、ぼくの中の自由のイメージは液体なのだ。時代とか社会とかがっちりした構造の間を、現実という液体が流れていく。液体というのは面白いもので、必ず隣に分子がいる。気体と違って、自分一人ではない。しかもそれが常に入れ替わる。隣は必ずいるが、いつも同じ相手ではない。そんな中で岩にぶつかって渦ができたり、滝として流れ落ちたり、結構いろんなドラマが生まれる。それが〈液体の自由〉のイメージだ」(森毅『「自由人」は液体のように』)。キリスト教神学は「固体」であり、ニーチェはvogelfrei、すなわち「気体の自由」を提唱したが、手塚は「液体の自由」を唱える。手塚にとって、生命の誕生、あるいは人間の誕生はこの「液体の自由」の結果である。手塚はキリスト教と同時にニーチェも転倒している。

 旧約聖書はユダヤ教においてתורה(律法)と呼ばれているが、手塚は歴史と法を書き記す。ロボットを描く際に、歴史と法律を設定するというのは、マンガ家では、手塚以外いない。この歴史と法への意識のために、手塚はマンガの文法を整理できたのであり、晩年に至るまで、壮大な長編マンガを描いている。

 手塚は、「アトム誕生」(一九七五)において、ロボットの開発史を次のように記している。

一九七四 原子力による超小型電子計算機の発明
一九七八 アパッチ出身のC・ワークッチャア博士が最初の電子脳を開発
一九八二 日本の猿間根博士がそれを改良して、初めて人間型ロボットに搭載。
同じ頃、ジェームズ・ダルトンがプラスティックから人造皮膚を発明
一九八七 試行錯誤の末、人並みのロボット開発
その後、各国ともロボット技術を隠すようになり、輸出規制が強化。
二〇〇三 日本では、科学省を通じてロボットを年間5000体を生産

 また、ロボット法には、「青騎士」(一九六五-六六)によると、次のような条文がある。

ロボットは人間をしあわせにするために生まれたものである。
ロボットは人をきずつけたり、殺したりできない。
ロボットは作った人間を父と呼ばなくてはならない。
ロボットは何でも作れるが、お金だけは作ってはいけない。
ロボットは海外へ無断で出かけてはならない。
男のロボット、女のロボットはたがいに入れかわってはいけない。
無断で自分の顔をかえたり別のロボットになったりしてはいけない。
おとなに作られたロボットが子どもになったりしてはいけない。
人間が分解したロボットを別のロボットが組み立ててはならない。
ロボットは人間の家や道具を壊してはいけない。

 近代の立憲主義は権力の暴走を抑止し、個人の権利を保障する。けれども、このロボット法はロボットに義務のみを課している。ロボットには権利が認められておらず、人間と平等ではない。権利は尊厳の法的承認である。人間はロボットに尊厳を認めていないのだから、それは道具の域を出ていない。

 人間と同等の権利を保障したロボット法は、「青騎士」の後に描かれた「アトム今昔物語」によると、次のような経緯で成立する。ケープ・アストロイドから打ち上げられたロケットのフォボスツールは、ウィルス大の小さな宇宙人に接触し、乗組員が宇宙人に寄生される。ロケットは太平洋上の無人島に着陸し、コルネット少佐は亡くなったが、リーマス大佐は姿が変わったものの、生き残り、宇宙人とこの島で共生することを決意する。合衆国政府は極秘にアトムを派遣し、島を調査させる。島から一切出ない代わりに地球で暮らさせて欲しいと大佐はアトムを通じて申し出るが、政府は断り、島を核攻撃する。アトムの力で寸前のところで、大佐と宇宙人は助かる。宇宙をさまようことにした大佐と宇宙人は、そのお礼に、各国政府に圧力をかけ、ロボットが人間と対等の権利を有することを認めさせる。アトムは、このロボット法の施行に基づき、サーカスから解放され、お茶の水博士の元に引きとられる。

 ロボットに関する法律としては、アイザック・アシモフが『われはロボット(I, Robot)』(一九五〇の中で、 二〇五八年の「ロボット工学ハンドブック」第56版からの引用として示した次の「ロボット工学三原則(Three Laws of Ronotics)」がよく知られている。

第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。

 この三原則には、原文を読む限り、現代法において当然の公共の福祉の観点が抜け落ちている。日本語ではわかりにくいが、英語ではこの「人間」が不定冠詞のついた”a human being”となっている。科学技術において実用的であるか否かはその制御性にある。手塚治虫と違い、この法がロボットの権利保障ではなく、人間の幸福のためのテクノロジーの制御を目的にしている。しかし、人類全体ではなくて個別の人間に対する行動が優先されるとすれば、直接的な関係のない人たちをロボットは無視してよいことになる。公共の福祉を二の次にして振る舞うロボットが登場しては、人間の幸福も脅かされてしまい、法律の趣旨にも反する。アシモフも、それに気づき、後に複数形の”human beings”に修正している。

Domo arigato, Mr. Roboto,
Mata ah-oo hima de
Domo arigato, Mr. Roboto,
Himitsu wo shiri tai

You're wondering who I am-machine or mannequin
With parts made in Japan, I am the modren man

I've got a secret I've been hiding under my skin
My heart is human, my blood is boiling, my brain I.B.M.
So if you see me acting strangely, don't be surprised
I'm just a man who needed someone, and somewhere to hide
To keep me alive-just keep me alive
Somewhere to hide to keep me alive

I'm not a robot without emotions-I'm not what you see
I've come to help you with your problems, so we can be free
I'm not a hero, I'm not a saviour, forget what you know
I'm just a man whose circumstances went beyond his control
Beyond my control-we all need control
I need control-we all need control

I am the modren man, who hides behind a mask
So no one else can see my true identity

Domo arigato, Mr. Roboto, domo...domo
Domo arigato, Mr. Roboto, domo...domo
Domo arigato, Mr. Roboto, domo...domo
Thank you very much, Mr. Roboto
For doing the jobs that nobody wants to
And thank you very much, Mr. Roboto
For helping me escape just when I needed to
Thank you-thank you, thank you
I want to thank you, please, thank you

The problem's plain to see: too much technology
Machines to save our lives. Machines dehumanize.

The time has come at last
To throw away this mask
So everyone can see
My true identity...
I'm Kilroy! Kilroy! Kilroy! Kilroy!
(Styx ”Mr. Roboto”)

 ロボット法の成立過程は、多種多用な比喩として読むことができる。神による律法の伝達とも、あるいはGHQによる占領政策とも、政府が市場を抑えつけようとした結果、逆に、市場から鉄槌を食らわされた寓話とも読めるだろう。いずれにしても、手塚はロボットの権利を扱っており、共生という視点を無視することができない。つまり、手塚にとって、法は共生のための契約であり、ユダヤ教的な律法の概念が変更されている。

 サーカスの団長の病室の戸棚で、アトムが「奇妙な果実」として描かれているように、この作品では、ロボットはアフロ・アメリカンの比喩である。 「アトム」という名前は、売り飛ばされたサーカスで、つけられている。合衆国においては、ロボット法成立以前でも、ロボットが市民権を取ることができる。市民権を取得したロボットのベイリーは、人間によって、虐殺されるが、彼らが罪にとわれることはない。ロボットに公民権がないためだ。これは、ロボット解放史において、「ベイリーの悲劇」と呼ばれている。

 アトムはベイリーの悲劇に立ち会っている。天馬博士は、アトムをつくる際、予算が下りなかったため、須井柄という裕福な日系アメリカ人から、一日だけアトムを貸すことを条件に、資金提供を受ける。須井柄はロボット解放運動の活動家であり、頭部以外をすべて機械に交換している。彼はアトムをベイリーのボディー・ガードにしようとしたのだが、アトムは守りきれない。須井柄はロボットの権利を保障する法律の必要性を実感する。彼がロボット解放運動に向ったのは、ヘレンという女性ロボットを愛したからだ。愛し合っているのに、二人の結婚を教会も受けつけてくれない。先の宇宙人の圧力をきっかけにして実現したロボット解放宣言が発表された直後、須井柄はヘレンと結婚するために自動車で教会に向う途中、爆弾テロにあい、ヘレンとともに、命を落とす。

 手塚の認識は、『鉄腕アトム』では顕著であるが、概して、アメリカ的である。『キャプテンKen』(一九六〇)では、火星人をネイティヴ・アメリカンに見立てて描いている。『鉄腕アトム』のロボットたちはデモを行い、裁判や議会を通じて、権利を守り、獲得する。これはアメリカでよく見られる光景である。アメリカでは、すべてが政治的・経済的問題となり得る。実際、ロボット法はロボットの権利を保障するだけでなく、数多くの規制を明記している。「マッド・マシーン」(一九五八)の中で、初のロボット代議士コルトがすべてのロボットを休めさせなければならない「機械の日」を制定している。ロボットであることは政治的・経済的である。そもそも「ロボット(robot)」の語源は、チェコ語で「労働」を意味する”robota”に由来する。労働が政治的・経済的問題であるとすれば、ロボットもそうならざるをえない。
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