『姑獲鳥の夏』書評論

文字数 4,214文字

「この世には不思議なことなど何もないのだよ、関口君」

 けだし名言である。
 主人公の一人・京極堂こと中禅寺秋彦は、本作のわりと早い段階で、この名台詞を口にしている。それは事件のクライマックスであるとか、捜査を開始している段階であるとか、事件の核心に触れるところであるとかではない。いきなり何の変哲もない場面で使用されているのだ。
 これに対して小説家・関口巽は「この言葉は京極堂の口癖である。いや、座右の銘といっても良い」と述べている。この証言が間違っていない証拠に、京極堂の名言は本作のみならず、シリーズを通して、何度も顔をのぞかせる。そして、不思議なことはありえないとばかり、なにも不可能なことなどないかのように、当事者たちにしっかりと説明を施して、ちゃんと事件を解決に導いているのだ。京極堂は警察や探偵などではなく、あくまで古本屋の店主で、宮司にして陰陽師で、憑物落としの拝み屋なのに、である。もっとも、そこもまた彼の魅力の一つだといえよう。
 では、探偵や警察が登場しないのかといえば、そうではない。私立探偵の榎木津礼二郎や東京警視庁捜査一課所属の木場修太郎刑事といった個性的なわき役たちが、物語の中でこれでもかと光を放っている。本作の、またこのシリーズの売りのひとつは、それら多種多様な登場人物のいきいきとした描写、また、多くのキャラが登場もするにもかかわらず、それでいてまったくごちゃごちゃした感じがないところでもあろう。

 そして、そんなアクの強いキャラたちの中で、ひときわ異彩を放っているのが、本人いわく「凡人」であるところの関口巽である。
 百鬼夜行シリーズと呼ばれているこのシリーズは、別名「京極堂シリーズ」とも呼ばれている。そのシリーズの別名からも、キャラクターの立ち位置からも、京極堂こと中禅寺秋彦が主人公の一人であることは、まぎれもない事実だ。しかし、私個人としては、もう一人の主人公は、他でもない、この関口という人物であると感じている。

 この作品の中に、関口ほど魅力的な人物はいない。
 こうも言い切ってしまうと、「お前は本当にこの本を読んだのか?」と疑問を呈されるかもしれない。
 だが、本作を何度も読み返した私をして、そういわせる魅力が関口にはあるのだ。
 自ら「凡人」と称し、周りから小ばかにされ、おどおどと挙動不審な彼は、本来であれば魅力的とは対極に位置している存在だろう。
 しかし、彼が困っていると、周りはつい手を差し伸べたくなるのだ。その証拠に京極堂は本作の中でこう語っている。
「君はあの日、夜中の十一時ぐらいにまるで何かに取り憑かれでもしたかのような顔でふらっと寮に戻ると、それから半月の間、部屋に閉じ籠ったまま誰とも口を利かなかったんだぜ。飯も喰わないから、僕と榎木津が心配して毎日喰い物を差し入れてやったんだ。代返もしてやったじゃないか。よもや忘れたとはいわせない」
 また、関口自身も次のように述懐している。
「私は学徒出陣ということで一応将校の階級を貰い、小隊を率いていた。一方木場は叩き上げの職業軍人だったから、キャリアはあったが階級は私よりも下であった。つまり木場は私の部下だった訳だ。こういった場合、大抵実戦経験の浅い上官はいびられることになるのだが、どうした訳か木場は何かと私を先導し、且つ支えてくれたのだった」
 関口に対していつも皮肉を言っている京極堂も、関口のことを「猿」と呼んでいる榎木津も、「へっぽこ文士」呼ばわりしている木場も、関口のことをほおってはおけないのだ。

 京極堂のことをホームズに、関口のことをワトソンに例える評論をしばしば見かけることがある。これはこれで間違ってはいない。なかなかに的を射た意見だとも思う。
 しかし、個人的には「ドラえもんとのび太」の関係に例える方が、よりしっくりくる。のび太はジャイアンやスネ夫によくいじめられる。しずかちゃんはそれをたしなめてはくれるものの、のび太に対しても辛辣な言葉を吐くことがある。結果、ドラえもんに泣きつくが、ドラえもんもしばしば突き放す。
 だが、結局ドラえもんにしても、しずかちゃんにしても、ジャイアンにしても、スネ夫にしても、のび太のことをほおっておけないのだ。
 アニメ『ドラえもん』の主人公は誰なのか?
 この問いに対しては、多くの人が「タイトルどおり、ドラえもんだろう」と答えるのではないだろうか。しかし、私はやはりのび太であろうと考える。
 『ドラえもん』という作品は、ドラえもんがのび太の元を訪れたことで、話がスタートする。のび太がなんらかの事件や問題を巻き起こし、それをドラえもんが対処するというのが本筋だ。ドラえもん抜きにしても『ドラえもん』は成立しないが、のび太を抜きにしても成立はしない。中には『ドラえもん』の代わりにドラミちゃんで成立する話もあるので、私は「のび太が主人公。もしくは、のび太とドラえもんがダブル主人公である」という説を述べるのである。

 そして、同じことが本作にもいえるのである。
 京極堂もたしかに魅力的なキャラクターである。だが、その魅力を最大限に引き出しているのは、誰あろう、関口なのだ。ドラえもんのそばにいるのが出木杉くんやしずかちゃんであったら、ドラえもんの魅力はあそこまで引き出せない。ジャイアンやスネ夫でも役者不足だ。あのドラえもんの魅力は、のび太だからこそ引き出せるのだ。
 個性的な榎木津や木場の魅力も、関口という存在によって引き出されている。彼はそんなアクの強いキャラクターたちから「ほおっておけない」と思われている。私も含め読者が、そんな彼のことを「ほおっておけない」とばかり、ついつい目で追ってしまうのは当然のことなのだ。

 その彼が初めて事件に巻き込まれたのが、本作『姑獲鳥の夏』である。
 そもそも姑獲鳥とは、中国や日本の古書に語られている、古くからいる妖怪の名前であるが、私はこのタイトルを見たとき、「妖怪がどうミステリーにかかわってくるのだろう?」と疑問視しないではいられなかった。
 しかし、その疑問や懸念は、次の一文で瞬く間に氷解することとなった。

 下半身は血で真っ赤に染まっている。
 ぞっとする程、
 美しかった。
 これはこの世のものではない。それは、
 姑獲鳥だった。

 そう、怖気を震うほどの美しさを持つ妖怪・姑獲鳥が、この本の中には描かれていたのだ。
 私はこのシーンを目の当たりにした瞬間、文字通り、ぞっとしてしまった。これぞまさに「作者の思う壺」というやつだったであろう。
 だが、その作者の意図をわかっていても、なお、ぞっとさせるものがそこにはあった。
「姑獲鳥という妖怪の姿を、よもやこのような形で表現しうるとは!」
 私は驚きとともに、その流麗たる言葉の巧みさに魅せられないではいられなかった。

 そもそも私が初めて姑獲鳥と出会ったのはいつだったろうか?
 おそらくは小学生のころだったかと思う。当時、アニメ『ゲゲゲの鬼太郎』の第三期を放映中でもあり、ブラウン管の中にその姿を見出したのだった。
 そこに描かれていた姑獲鳥は、耳のある大きな怪鳥の姿を有していた。ギョロッとした大きな目が特徴的ではあったが、それ以上はさして記憶に留めるほどのインパクトはなかった。しいてあげれば、おねしょをした子どもを自分の子として連れ去るということぐらい。このへんのエピソードをとってみても、他の妖怪に比べれば、とりわけ凶悪というほどでもなかった。おかげで私の印象といえば「ああ、その大きな体で子どもをかっさらう、巨大な鳥の妖怪なのだな」というぐらいでしかなかった。
 しかも、その大きさも、『千夜一夜物語(アラビアンナイト)』の中のシンドバッドの話に登場する「ロック鳥」の方がよほど大きいわけで、そう考えると、妖怪としての印象が薄くなりがちなのも止むを得ないところだった。
 しかし、そんな他の妖怪に比べ若干印象が薄くなりがちな姑獲鳥を、京極夏彦は大胆な手法で、ありありと描き出してみせた。これはまさしく脅威だった。
 また、京極夏彦は先人・水木しげるに敬意を払って、極力その妖怪の設定を活かすようにしていると耳にしたことがある。たしかに姑獲鳥にしても、「赤子をさらう妖怪」というポイントを上手く活かしきっている。これも見事の一語に尽きよう。
 本作へのこういう楽しみ方は、少々妖怪学や民俗学に親しんだ上でしかできないものかもしれないが、もしそういうものに興味がある人は、そんな一風変わった観点からも楽しんでいただければ幸いである。

 最後に一つ、これだけは言っておきたいということがある。
 京極夏彦の文章は難解である。
 少々乱暴な物言いかもしれないが、よもこの暴論に異論をはさむ者もまずいまい。
 かくいう京極ファンの私とて、その著書を読む時には「いざ!」と少々身構えてしまうものだ。
 なら、なぜファンでいるのか?
 それは京極夏彦の作品が売れている理由、また京極夏彦自身がデビュー以来売れっ子作家で居続けているわけと、根っこは同じことであろう。
 要は、単純に「おもしろい」のである。
 たしかに京極作品はいずれをとっても、一見難解でとっつきにくいように思えるが、読めば読むほど、作りこまれたその世界観に、流れるような言葉の波に、ぐいぐいと引き込まれ、気が付いたときにはすっかりその虜となってしまうのだ。

 また、それでいて実は時代考証もかなり緻密に行われいることがわかる。
 この作品の中には、多くの古書の名前が登場するが──そもそも百鬼夜行シリーズ自体、主人公の一人・中禅寺秋彦が古書肆を営んでいるのだから、当然といえば当然だが──そのいずれの本も当時の日本で読めないものなど、一つもないのだ。あれほど難解な文章を、思わず取り込まれてしまうほどの流麗な言葉で紡いでおきながら、かつ、同時に繊細なまでの時代考証までやってのけようとは!

 妖怪の観点や時代考証の観点など、少々斜に構えた視点からでも楽しめる作品なぞ、そうありはしない。
 まっすぐな気持ちで読むもよし、変わった観点から観察するもよし、できればいろんな視点でこの作品に親しんでいただければと思う次第である。
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