文字数 2,587文字

 あれさえ部屋になければ、ありふれた日曜の朝だ。夜通し点けっ放しのテレビの中では、自民党と民主党の若手議員が、相も変わらず罵り合っている。
 腹が減って死にそうだ。冷蔵庫の中には、もう何もない。胃袋は空っぽで情けない程なのに、膀胱が破裂しそうな程、小便がしたい。
 僕は意を決して布団から這い出した。あれを見ないようにしながらトイレに駆け込み、大量の小便を放出した。そして、あれを見ないようにしながら部屋に戻って財布を掴み、小走りで部屋を出てコンビニに向かった。
 おにぎり二つと鶏の唐揚げ、コカコーラを買ってレジに立つ。目の周りに白いメイクをしたやる気のない店員に金を払う時になって、しまったと呟いた。コンビニになんて来ずに、その辺のラーメン屋か牛丼屋に行けば良かった。コンビニで食べ物を買うと言う事は、即ち、あれのすぐそばで物を食べる事になる。
 自動ドアの外は、灼熱の世界だ。公園かどこかで食べる手もあったが、自分の首から下を見てやめる事にした。元は白かったが黒いシャツと一緒に洗濯して薄灰色に変色してしまったヨレヨレのTシャツに、膝の出たスウェットパンツを鋏でちょん切った短パン。不健康になりそうなヌルヌルの健康サンダル。頭を触ると寝癖で斜めに髪が立っていて、掌が脂に塗れた。この格好で炎天下、公園に行って一人でおにぎりを食っていたら、どう見ても浮浪者にしか見えないだろう。
 仕方ない。部屋に帰ってご飯を食べ、シャワーを浴びて服を着替え、今日は何処かに出掛けよう。その何処かはきっと、パチンコ屋だ。クレジットカードでキャッシングした金の返済と週末の風俗で減った夏のボーナスを、一気に元に戻してやる。
 日光を浴びた所為か、少し勇気が湧いて来た。骨なんかにいちいちビビっていたら、フライドチキンも骨付きカルビも食えない。あれはあと二、三ヶ月して熱りが冷めた頃、適当な手紙を付けて送り返そう。

 そう決めて部屋に戻ったものの、おにぎりが不味い。黒光りした骨壺の前に置いた唐揚げが、お供え物に見えて来た。
 僕は味のないおにぎりと唐揚げをコーラで流し込み、骨壺から逃げるようにシャワーを浴びた。浴びながら浴槽にお湯を溜め、垢だらけの湯船に浸かった。そのまま歯を磨き、髭を剃った。濡れたままの体で部屋に戻って、飲み残したコーラを一気飲みする。
 ヒュー
 口笛の音がする筈はない。隙間風が吹いたのだろうと窓を見たが、鍵はちゃんと閉まっているし、木の陰も揺れていない。鳥でも鳴いたか。そう思ってまたペットボトルに口を付けたその時、強烈な視線を、剥き出しの股間に感じた。
 あれが、見ている。
「はは、そんな馬鹿な……」
 片手で納まるちんちんを、両手で隠した。後ろ向きの横歩きで着替えを取りに行き、玄関で体を拭いてパンツを穿いた。洗い立てのTシャツを被り、七分丈のショートパンツを穿いて部屋に戻り、財布を掴む。
 気の所為に決まっている。物に視線を感じるなんて、どうかしている。
 兎に角、あれがある部屋に、これ以上いたくなかった。骨壺から目を逸らしたまま、また玄関に向かう。そのまま外に出ようとして、携帯電話を忘れた事に気が付いた。充電コードを繋いだ電話が、テレビの前に転がっている。休日に電話なんてかかってきた試しがないのに、携帯がないと何故か落ち着かない。僕はまた、横歩きで部屋に戻り、携帯電話に手を伸ばした。昨日テーブルの上に置いた筈のメモが、何故か携帯の横に落ちている。墓の住所。埼玉。
「一時間半ぐらいかな……」
 行く気もないのに呟いた。僕が家を出て向かう先は、新宿歌舞伎町のパチンコ屋だ。
 充電ケーブルを外し、電話をポケットに突っ込んだ。何となく息を止めて、骨壺の前を通り過ぎる。問題を先送りにするのは、僕の悪い癖だ。
 半畳程の玄関で、スニーカーを履く。ドアを開け、下駄箱の上の鍵束を掴んだ時、心臓が止まりそうになった。
 背後から物音がしたからだ。
 身を乗り出して、そっと部屋の中を覗き込む。あり得ない事に、倒れた骨壺がテーブルから落ち、そのままごろごろと畳の上を転がって来る。
「嘘だろ、はは」
 上手く笑えない。玉袋が縮んで、きんたまが体に減り込みそうだ。僕はスニーカーを脱ぎ、部屋の中に戻った。骨壺を拾って元の場所に戻し、正座した。きつく目を閉じ両手を擦り合わせる。
 すいません。すいません。今度やります今日は無理ですもうちょっと待って下さい。
 心の中で唱え、そっと目を開ける。幽霊も妖怪もUFOも火星人もいない。ずっとそう思って来た僕が、目の前の壷に死ぬ程ビビっている。骨壺は当然無言で、ただのモノにしか見えない。
「阿呆らしい……」
 ヨシユキにバレないように口の中で呟いてみた。静かな部屋に耐えられない。一刻も早く、パチンコ屋のノイズに包まれたい。
「じゃあ、すいません今日は行きます」
 今度は声に出して言い、僕はまた玄関に向かった。三歩歩いて振り返る。骨壺はピクリともせず、天板の真ん中に立っている。当たり前だ。動く訳がない。目線をそれに固定したまま、手探りでスニーカーを引き寄せ、足先を滑らせる。後ろ手にドアをそっと開けると、背後から、男の声がした。
「NHKでーす」
 外を覗くと、二軒となりの部屋に、NHKの集金が来ている。僕は音を発てないように、そっとドアを閉め、鍵をかけ、玄関口に座り込んで息を殺した。
 最悪だ。
 それから十分くらいだろうか、集金のおっさんが僕の部屋をしつこくノックし諦めて去って行くまで、冷房を止めて蒸し風呂みたいになった部屋の中で、僕はずっと石になっていた。前からはNHKの、後ろからはヨシユキの気配に挟まれ、押しつぶされそうになりながら。
 パンツまで汗でぐっしょりになった。立ち上がって床を見ると、尻の形に濡れている。
「分かったよ……」骨壺を振り返って言った。「まだやるって決まったわけじゃないからな。取り敢えず行って様子みてみるだけだからな」
 骨壺が転がったのは、きっと僕が乱暴にドアを開けたからで、NHKのおっさんが来たのも偶然に決まっている。霊魂を信じない無宗教の僕は、そう自分に言い聞かせながらリュックサックに骨壺を入れ、住所を書いたメモを持って外に出た。
 駅に向かって国道を歩くと、数十メートル先の歩道の上に十トントラックがひっくり返って燃えていた。
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